富山鹿島町教会

礼拝説教

「偽善者の不幸」
イザヤ書 第66章1〜2節
マタイによる福音書 第23章13〜24節

偽善の本質
 本日の説教の題を「偽善者の不幸」としました。本日与えられている聖書の箇所、マタイ福音書第23章13節以下には、主イエス・キリストが、律法学者たちとファリサイ派の人々に対して、「あなたたち偽善者は不幸だ」と繰り返し言っておられることが語られています。主イエスは律法学者、ファリサイ派の人々のことを「偽善者」と呼び、厳しく批判されたのです。そういう批判は既に、先々週に読んだ12節までのところに語られていました。そこには「偽善者」という言葉は出てきていませんでしたが、内容的には、主イエスは彼らの偽善を批判されたのだということを、先々週の説教において申しました。そのことの鍵となる言葉が、5節の、「そのすることは、すべて人に見せるためである」です。「人に見せるため」、それが「偽善」の本質なのです。主イエスはそのことを既に、5〜7章のいわゆる「山上の説教」において語っておられました。先々週も読みましたが、6章に、偽善者たちが、「見てもらおうとして、人の前で」、施しをしたり、祈ったり、断食をすることが指摘されていたのです。「人に見せるため」に良い事をする、それによって、自分が立派な人、善い人、神様に熱心に仕え従っている者であることを人に認めてもらおうとする、それが偽善ということです。偽善という日本語は、自分を善い者だと偽るという意味ですが、それは人に対してそう見せる、実際はそうでないのに、人の前では善い者であるふりをするということですから、「人に見せるため」ということが偽善の本質であることは私たちもよくわかるのです。

偽善者の姿?
 けれども、本日の13節以下で、主イエスが繰り返し、「あなたたち偽善者は不幸だ」と言って示していかれた律法学者やファリサイ派の人々の姿、それは「人に見せるために善いことをする」というのとはだいぶ違うことのように思えます。13節には、「人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」とあります。15節には「改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまう」とあります。16節には「『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う」とあります。あるいは23節には「薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている」とあります。これらのことはいずれも、「人の前で自分を善く見せようとしている」ということとは違うのではないでしょうか。「そのすることは、すべて人に見せるためである」という5節のみ言葉と本日の箇所に並べられている姿とがどう結びつくのかということが、ここで主イエスが「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」と言っておられることの意味を知るための鍵となるのです。

天の国を閉ざす
 まず13節について考えたいと思います。律法学者やファリサイ派の人々が、天の国を閉ざしている、と言われています。自分もそこに入ろうとしないし、入ろうとする人がいても邪魔をして入らせないのです。天の国というのは、どこかにある場所のことではないし、死んだ後行く天国のことでもありません。天の国とは、神様のご支配ということです。人が神様のご支配の下に生きる、それが天の国です。ですから私たちはこの地上を生きるこの人生の中で、天の国に生き始めることができるし、また、死んだら自動的に天の国に行く、というものではないのです。その天の国を閉ざし、自分も入ろうとしないし、人も入らせない、それは、神様のご支配の下で生きようとしないし、人がそのように生きることを妨げるということです。律法学者やファリサイ派の人々はそういうことをしていると主イエスは言っておられるのです。しかし律法学者やファリサイ派の人々は、神様の掟、律法を熱心に学び、それに従って生きようとしていた人々です。つまり神様のご命令に従って、そのご支配の下に生きようとしているのです。また人々にも、律法に従う生活の仕方を教えることによって、人々も神様のご支配の下に生きる者としようとしていたのです。ですから天の国に生きている者がいるとすればそれは真っ先に彼らだし、彼らの教えを受けることによって天の国に入ることができる、というのが当時の人々の思いでした。その彼らが天の国を閉ざしているとはどういうことなのでしょうか。

神の目と人の目
 そこで考えなければならないのは、先々週も申しましたが、「人に見せるため」ということの中に隠されているより深い思いです。「人に見せるため」というのは、人からの評価、誉れ、人に褒めてもらうことを求めている、ということです。そこには、神様からの評価、誉れ、神様が褒めて下さり、認めて下さることよりも、人からの評価、誉れの方を求めるという思いがあります。神様が見ていて下さり、評価して下さる、認めて下さる、それだけでは満足できないのです。神様は目に見えない方です。ですから神様からの評価、誉も目には見えません。神様が喜んでいて下さり、よくやったと褒めて下さる、そのことは誰の目にも明らかな仕方では現れてこないのです。それだけでは不満だ、という思いが私たちの中には起ってきます。そこに、人からの評価、誉れ、人に褒めてもらうことを求める思いが生まれるのです。それは目に見えるものです。確かめることができるものです。人が自分をどれくらい評価し、褒めてくれるか、ということで安心することができるのです。そういう人からの目に見える評価を求めていくときに、私たちは、神様のまなざし、神様が自分をどう見ておられるか、ということよりも、人の目、人が自分をどう見て、どう評価しているか、ということを中心として、そればかりを気にして生きる者となってしまうのです。神様のまなざしよりも、人の目を気にして生きる、そこから偽善が生まれます。人に自分をよく見せようとして、人に見せるために善いことをする、それは要するに人の目、人の評価を最大の関心事として生きているということなのです。そしてそれは、言い換えれば、神様の前で生きているのではなくて、人の前で生きているということです。神様の前で、神様に従う者として生きるのではなくて、人間の前で、人間の与える評価を第一にして生きているのです。それは、神様のご支配の下にいないということです。つまり天の国に生きてはいないのです。天の国に入るのではなく、人間の国、人間の支配、評価の下にいるのです。彼らが、天の国を閉ざしているというのはそういうことです。神様のご支配の下に、神様のまなざしの中で、神様からの評価を第一にして生きるという天の国に、自分も入ろうとはしないし、人も入らせようとしないのです。彼らは、神様の掟、律法を守ることに熱心です。そういう意味では神様に仕えているように見えます。しかし実は、彼らが求めているのは、神様にしっかり仕えていると人に思われることであり、そのことが人々の目に見えるような生活なのです。彼らが人々に教えているのもそういう生活です。本当に神様の前で、神様のまなざしの中で、神様が喜んで下さることを求めて生きることではなくて、どうすれば神様の掟をきちんと守っていると人に見られる生活ができるか、そういうことを彼らは教えているのです。

地獄の子
 15節の、「改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまう」というのもそれと同じことを言っていると言えるでしょう。この改宗者というのは、もともとユダヤ人でない異邦人が、イスラエルの神様を信じるようになり、律法を守る者となることによって、神の民であるイスラエルに加えられた、そういう者のことです。彼らはそういう改宗者を作り出すために、熱心に伝道をしているのです。イスラエルの神様こそまことの神様だから、この神様を信じ、律法を守る者になりなさいと語っているのです。そのような伝道によって改宗した人々は彼らから何を学ぶのか。それは、真実に神様の前で生きることではなくて、律法をいかに守って清く正しい生活をするか、です。神様のみ前で、そのまなざしの中で生きることではなくて、清く正しく立派な生活をすること、そのように人に評価されるような生き方をすることを求める人々が生まれていくのです。それは、天の国の子ではなく、地獄の子の再生産だと主イエスは言っておられるのです。

神殿と黄金、祭壇と供え物
 16節には、彼らが、「神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない」と教えていると言われています。また18節には、それと同じようなこととして、彼らが「祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない」と教えているとあります。こういう教えがおかしいということは、誰が見ても分かります。いくらなんでも、彼ら律法学者やファリサイ派の人々がそのように教えていたわけではないでしょう。しかし主イエスがここで言っておられるのは、彼らの偽善の姿は結局こういうことを言っているのと同じことだ、ということです。この二つのことにおいて見つめられているのは、神殿と神殿の黄金、祭壇とその上の供え物、そのどちらがより尊いのか、ということです。「黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか」、「供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか」と言われています。エルサレムの神殿は、白壁の上に黄金の飾りの輝く壮麗なものだったようです。またその内部、聖所の壁は全て黄金で覆われていたとあります。神殿は黄金で光輝いていたのです。しかしその黄金が本当に尊いのは、それが神殿に使われているからです。神様を礼拝する場である神殿に用いられているからこそ、それらの黄金はよりいっそう尊いものとなっているのです。供え物と祭壇の関係も同じです。供え物のたとえば牛や羊は、それだけなら一頭の家畜であり、あるいは人間の食料の一部です。しかしそれが祭壇にささげられることによって、それは神様のものとなり、人間の神様への礼拝を成り立たせるものとなり、また神様からの、罪の赦しの恵みを象徴するものとなるのです。このように、神殿とその黄金、祭壇と供え物を比べれば、それぞれ前者の方がより尊いものであることは明らかなのです。ところが彼らは、神殿にかけて誓うよりも、その黄金にかけて誓う方が重い、祭壇にかけて誓うよりも、供え物にかけて誓う方が重いと言っている、つまり、どちらがより尊いかということにおいて、全く反対の、間違ったことを教えているというのです。それは、先ほど申しましたように、彼らが実際にそう教えているということではありません。このことも、先ほどの二つと同じように、神様の前で、そのまなざしの下に生きることと、人の前で、人の目を気にして生きることとの対比として語られているのです。神殿の黄金と祭壇の上の供え物、それは、人間が整え、供えるものです。それは人の目によく見えるし、また、見比べることのできるものです。黄金に光輝く神殿は誰の目にもよく見えるものだし、供え物は、この人が捧げた供え物とあの人が捧げた供え物とを見比べてどちらが立派だと言うことができるのです。そのように、黄金や供え物は人に見せるための、人の目の前でなされる善い業を象徴していると言うことができます。それに対して神殿や祭壇は、黄金や供え物を本当に意味あるものとしている、神様ご自身を象徴しています。黄金は、神様を礼拝する場である神殿に用いられて初めて本当にすばらしい価値を持つのだし、供え物は祭壇において神様に捧げられて、神様への礼拝に用いられることによって、そのもともとの価値をはるかに超えたすばらしい価値を得るのです。そのように人間の善い業も、神様の前で、神様のまなざしの下で、神様への奉仕としてなされる時にこそ、本当に意味あるものとなるのです。ところが彼らは、神様の前で、神様への奉仕としてよい業をすることよりも、人の前で、人に見せようとして善い業をすることを好んでいる。神様に見ていただくよりも、人に見てもらって、褒めてもらうことを喜びとしている、それは、神殿よりも神殿の黄金を、祭壇よりもその上の供え物の方を尊いものとしているのと同じではないか、と主イエスは言っておられるのです。

信仰と偽善
 このことは、神様への奉仕としてなされるのでない善い業、信仰によって行われるのでない善い業は無意味だ、ということではありません。どんな思いでなされようと、善い業は善い業であって、それなりに意味も価値もあるものです。けれども、神様の前で、神様のまなざしの下でなされるのでない善い業は、人の目に支配された、人に見せるためのものとなっていき、そこには自分の働きを誇る思いや、人の働きと自分の働きとを見比べて優越感を覚えたり劣等感に苦しんだりすることが起るのです。「人に見せるため」という偽善には、この優越感と劣等感がいつもついてまわります。そしてそういう偽善に陥るのは、信仰をもって生きていない人だけではない。律法学者やファリサイ派の人々は、神様の律法に熱心に従って生きていたのです。いっしょうけんめい信仰に生きようとしていたのです。そういうところでこそ、この偽善が起る。いっしょうけんめい信仰に生きようとしている者が、神様の前で、神様のまなざしの下で生きるのではなくて、実はいっしょうけんめい信仰に生きようとしている自分の姿を人に見せようとして、神様のまなざしではなく人の目の前で生きてしまっているということが起るのです。その時、信仰における善い業だったはずのことが、偽善になってしまうのです。そしてそれが偽善になっていく時に何が起るか。それは、その業が本当に隣人を生かすものにならない、ということが起るのです。そのことが、23節において見つめられています。

隣人を愛すること
 23節には、「薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている」とあります。薄荷、いのんど、茴香、それらは香辛料、薬味です。収入の十分の一を神様に捧げる、という律法に従って、彼らは、そういう細かい小さなものまで、手に入ったものの十分の一を捧げているのです。しかし、そういうことをしながら、「正義、慈悲、誠実」はないがしろにしている。それらは全て、隣人との関係におけるあり方です。それらを一言で言えば、隣人を真実に愛することと言えるでしょう。それが、「律法の中で最も重要な」ことだと主イエスは言っておられます。それは22章34節以下に語られていた、律法の中で最も重要な掟は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」ということと、「隣人を自分のように愛しなさい」ということの二つだという教えと重なり合うことです。隣人を真実に愛するために必要な、正義、それは口語訳聖書では「公平」となっていました、正しい裁きを行なうという意味です。そして慈悲、誠実、これらのことの方が、いろいろなものの十分の一を捧げることよりもはるかに大切な、根本的なことなのです。ところがそれがないがしろにされている。なぜそういうことが起るかといえば、彼らの思いが、「人に自分の善い行いを見せる」ということを根本としており、要するに根本的には全てが自分のためだからです。「人に見せるため」という偽善においても、たとえば施しをする、というような、人のための、人に仕えるようなことがなされます。けれどもその根本的な動機が「自分のため」であり、「人に評価されること、褒められること」を求めてなされているなら、その働きは相手を真実に生かすものとはならないでしょう。

私たちが偽善者
 このように、ここに並べられている律法学者、ファリサイ派の人々の姿は、一見、偽善とは関係のないもののように見えますけれども、実は全て、「人に見せるため」という偽善に基づくものなのです。神様の前で、神様のまなざしの下で生きるのではなく、人の前で、人の目を気にして、人からの評価、誉を求めて生きるところに、このような姿が生まれるのです。そしてそれは、彼ら律法学者、ファリサイ派の人々だけの特別なことではありません。私たちは皆、日々、このような偽善に生きているのではないでしょうか。私たちも、天の国、神様のご支配の下で生きることを求めずに、自分もそこに入ろうとしないし、入ろうとする人をも入らせないで、お互いに人の目の前で右往左往する生活を送っているのではないでしょうか。私たちも、神殿よりも目に見える黄金を、祭壇よりも見比べることのできる供え物を尊び、目に見えるところで誇り合ったり、人と自分を見比べて一喜一憂しているのではないでしょうか。また私たちも、人に見えるところで神様に仕え、礼拝をささげることに熱心であっても、本当に隣人を自分のように愛することができていない、要するに信仰も自分のため、自分が平穏に、慰めと支えを受けて生きていくためだけのことになっていて、神様が本当に求めておられる隣人への愛をないがしろにしているのではないでしょうか。「あなたたち偽善者は不幸だ」と主イエスは言われた。その「不幸」とはまさに私たちのことではないのか、と思わずにはおれないのです。

偽善者の「不幸」
 「あなたたち偽善者は不幸だ」と主イエスは言われました。その「不幸だ」という言葉は、呪いの言葉ではありません。同じ言葉は既に11章21節において、悔い改めようとしないガリラヤの町々に対して語られていました。その時にも申しましたが、この「不幸だ」という言葉は、「ああ」とか「おお」というような、嘆き悲しみの間投詞です。口語訳聖書は「あなたがたはわざわいである」と訳していました。それは「呪われよ」というようなニュアンスの強い訳です。新共同訳はそれを「不幸だ」と訳した。それは日本語としてはいささかこなれていない訳ですが、そのように訳したのは、この言葉の持っている、嘆き悲しみの面を出そうとしてのことでしょう。主イエスは、彼らの偽善の姿、神様の前で、神様のまなざしの下に生きるのでなく、人の前で、人の目を気にしつつ生きているその有様を見て、深く悲しんでおられるのです。それは不幸なことだと彼らのために嘆いておられるのです。私たちに対しても同じです。私たちは、どうしても、目に見える人間からの評価、誉れを求めてしまう。目に見えない神様からの評価だけでは満足できないで、人の評価を求め、人に認められることを願い、それによって有頂天になったりぺしゃんこになったりすることを繰り返しながら生きています。そして「人に見せるため」という偽善に陥ってしまうのです。そのような私たちのことを、主イエス・キリストは、悲しみと嘆きをもって見つめておられるのです。そこには主イエスの私たちに対する深い憐れみと同情があります。その憐れみと同情によって主イエスは、私たちのために、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。繰り返し偽善に陥っていく私たちを見つめる主イエスのまなざしは、決して、「おまえたち偽善者は呪われて滅び去れ」という断罪のまなざしではありません。主イエスは深い嘆きと悲しみをもって、そして憐れみと同情をもって、私たちのことをいつも見つめていて下さるのです。

偽善からの解放
 この主イエスのまなざしの中で生きることが私たちの信仰です。そしてこの主イエスのまなざしの中で生きる時に、人の目、人の評価を気にして生きる偽善から解放されるのです。人の目を気にする偽善からの解放は、ただ、人の目を気にするのはやめて、神様の評価のみを求め、神様が見ていて下さることを覚えて歩もうと決意することによっては得られません。その神様がどういう目で私たちを見ておられるのか、ということがわからなければ、私たちはやはり不安なのです。どうしても人の評価が欲しくなるのです。神様は私たちのことをどのような目で見ておられるのか。それが、主イエス・キリストにおいて示されています。主イエスの、深い嘆きと悲しみと憐れみのまなざし、私たちのために十字架の死を引き受けて下さったそのまなざしこそ、神様が私たちを見つめておられる目なのです。神様は、その独り子を、罪と偽善にまみれた私たちのためにこの世に遣わし、その十字架の死によって私たちを赦し、新しく生かして下さる、そういう恵みのまなざしをもって私たちを見つめ、主イエスの十字架の贖いを通して私たちを受け入れて下さっているのです。この神様の恵みのご支配、それが天の国です。私たちは、主イエスによる神様の恵みのまなざしの中で、天の国を生き始めるのです。人に見せようとして無理をし、いつも人との比較の中で自分の居場所を探しているような地獄の子から、神様の恵みのまなざしの中で生きる天の国の子へと新しくされるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2003年3月2日]

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