富山鹿島町教会

冬期総員礼拝説教

「神と隣人を愛する」
申命記 第10章12〜22節
マタイによる福音書 第22章34〜40節

最も重要な掟
 礼拝において、マタイによる福音書を読み進めて参りまして、本日、この冬期総員礼拝に読む箇所として、22章34節以下が与えられました。ここには、神様がその民イスラエルにお与えになった掟、律法の中で、最も重要なものは何かについての、主イエスの教えが語られています。神様の民として、神様を信じ、従って生きる者が、最も大切にすべきことは何か、がここに教えられているのです。冬期総員礼拝においてこの箇所を読むのはまことに相応しいことであると思います。
 最も重要な掟は二つある、と主イエスはお語りになりました。第一は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、第二は、「隣人を自分のように愛しなさい」です。これらはいずれも、括弧に入れられていることからわかるように、旧約聖書の引用です。第一の掟は、申命記6章5節、第二の掟はレビ記19章18節です。いずれも、章の数字さえ覚えれば、節はそこから1を引いた数ですから覚えやすいので、記憶しておいたらよいでしょう。内容的には、第一は、神様を愛すること、第二は、隣人を愛すること、と要約することができます。その二つが、律法の中で最も大事な、要となる教えだ、いや、40節には、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」とあります。「律法と預言者」、これは、当時のユダヤ人たちにとっての「聖書」の全体を指す言葉です。私たちの言い方では「旧約聖書」となりますが、その全体が、この二つの掟に基づいている。この「基づいている」は前の口語訳聖書では「かかっている」と訳されていました。もとの言葉もまさに「ぶら下がる」という意味です。旧約聖書の教え全体が、この二つの掟にぶら下がっている、これがなければ下に落ちてしまう。そのように、旧約聖書全体を支えるような教えがこの二つなのだと主イエスは言われたのです。

旧約聖書と新約聖書
 律法とは、旧約聖書に記されている、神様がご自分の民とされたイスラエルにお与えになった掟です。その中心がこの二つの教えであるわけですが、私たちは、律法に従って生きることによって神様の救いにあずかる、という信仰に生きているわけではありません。私たちは、旧約聖書のみでなく、新約聖書をも含めて「聖書」と言い、そこに示されている信仰に生きています。新約聖書には、イエス・キリストによる救いが語られています。私たちの信じる救いは、律法の掟を守ることによってではなく、この救い主イエス・キリストによって与えられるのです。ここのところをきちんとつかんでおかないと、キリスト教ではなくてユダヤ教になってしまいます。たとえば旧約聖書の律法には、いろいろな祭りを行なうように神様がイスラエルにお命じになっているところがあります。またそこで、どのような動物を犠牲として献げよ、ということも語られています。私たちはそういうことを全くしていません。そういう意味では、律法を守っていない、行なっていないのです。それでは神様がそのことを「けしからん」とお怒りになって私たちを滅ぼされるかというと、そういうことはありません。神様は、その独り子、イエス・キリストを私たちの救い主として遣わして下さり、主イエスによる救いを確立して下さったのです。律法を守ることによって神様の民として歩み、その救いにあずかる、という時代は主イエス・キリストによって終わったのです。私たちが生きているのは、旧約聖書の時代ではなく、新約聖書の時代なのです。それでは旧約聖書はもういらない、捨ててしまってもよいものなのかというと、そうではありません。主イエスは、この福音書の第5章17節で、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われました。主イエスの教えは、旧約聖書を廃止し、もういらないと捨ててしまって別のものを立てるのではなくて、むしろそれを完成させるものなのです。完成させる、ということには、前のものを受け継ぎ、引き継ぐという面と、それを変え、新しくするという両面があります。旧約聖書の律法を受け継ぎつつ、しかしそれをそのままではなく、新しい、完成されたものとするのが主イエスの教えです。その旧約と新約、律法と主イエスの教えを結び付けているのが、本日のところの二つの教えなのです。祭りや犠牲についての教えだとか、あるいは本日の箇所の直前のところに出てきていた結婚についての掟であるとか、そういうものはもはや捨て去られてよい、しかしこの二つの掟だけは、いつまでも有効であり続けるのです。それどころか、主イエス・キリストによる救いにおいて、その救いにあずかる神の民の生活の根本に、この二つのことがますますはっきりと位置づけられ、完成されていくのです。

律法的な読み方
 旧約聖書と新約聖書の関係、あるいは律法と主イエスの教えの関係という少しめんどうなことに話が及びましたが、このことを最初に申しましたのは、私たちが本日の箇所の「最も重要な掟」を読む時に、ともすればこれを、旧約聖書的に、律法的に受け止めてしまうことが起るからです。つまり、神様が私たちに命じておられる最も重要な掟はこれであり、これを守り行うことによって救いが得られる、という受け止め方です。これは、旧約聖書的、律法的な読み方であって、新約聖書的な、主イエスの教えの読み方としては正しくありません。このような読み方をしていくところに何が起るかというと、簡単に言えば、私たちがこれらの教えによって暗い気持ちになり、落ち込んでしまう、ということが起るのです。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、これが第一の掟です。全身全霊をもって、神様を愛せよと命じられています。しかしそんなふうに心や精神や思いの全てを傾けて神様を愛している、と私たちは言えるでしょうか。勿論神様を愛していないわけではない、だからこうして礼拝に来ているのです。しかし私たちの心には、神様以外の様々なものへの愛もあります。心の全てが神様への愛に満たされている、というわけではない。私たちはよく、礼拝の始めに、「私たちは一週間、神様のことを忘れて生きてきました」などと懺悔の祈りをすることがありますが、もしそうなら、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神様を愛しているとは言えないのです。そんなことで、神様の救いにあずかれるのでしょうか。自分のようにいいかげんな信仰では、とうていこの第一の掟を満たすことはできないと、暗い気持ちになるのです。
 「隣人を自分のように愛しなさい」、これが第二の掟です。口語訳では、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」となっていました。こちらの方が意味がはっきりしており、はるかによい訳だと思います。しかし私たちはそこにはっきりと言われているように、自分を愛するように隣人を愛しているでしょうか。自分のことがまず第一で、人のことは二の次、三の次になる、ということは誰でも経験していることではないでしょうか。「自分を愛するように」と言われているのだから、自分のことを愛してはいけないわけではないのだ、自分自身を大切にすることができなければ、人のことも大切にできない、ということはよく語られます。しかし、そう言って自分を大切にするのはよいとして、それと同じように人を大切にしているかというと、どうもそうではないというのが私たちの現実ではないだろうか。神様を愛することにおいても中途半端である私たちは、隣人を愛することにおいても中途半端で、この二つの掟を守り行なっているとはとても言えない、こんなことではだめだ、と暗い気持ちになるのです。

人間のみじめさ
 そういう読み方は間違っている、と申しました。しかしそういう読み方にも意味はあります。「ハイデルベルク信仰問答」は、その問四で、神の律法は我々に何を要求するのか、という問いに対して本日の箇所の二つの掟をあげ、そして問五では、「あなたは、これらの全部を、完全に守ることができますか」という問いに対して「できません。なぜならば、生まれつき、神と隣り人とを憎む傾向にあるからであります」と答えています。そしてこれらの問答を中心とする第一部は「人間のみじめさについて」となっているのです。つまりこれらの二つの掟が神様から与えられることによって、それを守り行なうことができない私たちの姿が浮き彫りになるのです。先ほどは、神様をも隣人をも中途半端にしか愛せないと申しましたが、ここでは、私たちには、生れつき、神と隣人を憎む傾向にあると指摘されています。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神様を愛していないのは、実は神様を憎んでいるということなのです。自分を愛するのと同じように隣人を愛さないのは、実は隣人を憎んでいるということなのです。自分の中には、神様と隣人に対するそういう憎しみの心がある、この二つの掟はそのことを私たちに明らかに示すのです。そしてそれが、私たちのどうしようもない惨めさです。この二つの掟が、私たちの惨めさをはっきりさせる働きをしているということは確かにあるのです。
 そのことは別の角度からも見つめることができます。主イエスがこの教えを語られたのは、あるファリサイ派の律法の専門家の問いに答えてでした。彼は「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねたのです。これは一見、真摯な問いです。しかし35節にはこの問いが、「イエスを試そうとして」なされたことが語られています。イエスのことをテストしてやろう、という思いがそこにはあるのです。それは、彼らファリサイ派の人々が、この問いの答えをちゃんと知っているということです。「律法の中でどの掟が最も重要か」ということは当時よく議論されていたことであり、あの二つの掟が最も重要だということも、主イエスが最初に言われたわけではなくて、当時の律法学者たちの間でそのように語られていたのです。ですから彼らは正解を知っており、主イエスがその正解をちゃんと答えることができるかどうかを試そうとしているのです。そのような彼らを支配しているのは、神様の律法への真剣な思いでもなければ、神様と隣人を誠実に愛して生きようという思いでもありません。あるのは主イエスへの敵意、憎しみのみです。「神を愛し、隣人を愛しなさい」という愛の命令をも、憎しみのために利用しているのです。愛の戒めを語りながら、憎しみに生きている、それが彼らの姿です。主イエスはその彼らの憎しみによる問いに対して、彼らがよく知っている正解を答えていかれます。神を愛し、隣人を愛することこそ、律法の中心だ、それは、あなたがたはその神と隣人への愛に生きているのか、という逆の問いかけです。そしてこの問いによって、彼らの、愛を語りながら憎しみに生きている醜い、そしてみじめな姿が明らかにされているのです。同じことが私たちについても言えるでしょう。主イエスのこの教えは、私たちがいかに、神と隣人への愛から遠く生きているかということを明らかにするのです。

新約聖書的読み方
 けれども、それで終わってしまったら、これらのみ言葉の読み方として不十分だと言わなければなりません。主イエスは先ほど申しましたように、この二つの掟を通して、律法を完成させると言っておられるのです。主イエスの救いにあずかる者たちにおいて、この二つの掟がよりはっきりと位置づけられ、それが信仰者の生活の土台となると言っておられるのです。そのことが見えてきて、私たちが、自分のみじめさに暗く落ち込んでしまうことから解放されて、明るく生き生きと、神様と隣人を愛して生きる者となっていくことこそ、主イエスがこの教えを語られた目的なのです。そのことに目を開かれていく読み方こそ、新約聖書的な、主イエスの教えの読み方なのです。
 しかしそのような読み方はどうすればできるのでしょうか。この二つの掟を、神様の律法として、これを行なっていくのだという固い決意をして、神様と隣人を愛することができるように努力していく、ということによってそれは可能になるのでしょうか。そうではないでしょう。そのように努力していくことは勿論大切なことでしょうが、しかしそれによって私たちが、明るく生き生きと、神様と隣人を愛して生きる者となれるかというと、むしろそうではなく、自分のみじめさをますます思い知らされていくということになるのです。あるいは逆に、自分の努力とその成果を誇り、それによって人を裁いていくようになることもあります。「あの人は神様を十分に愛していない、あの人は隣人への愛が足りない」、そんな思いにとらえられてしまうなら、それは結局この律法学者たちと同じように、愛の教えによって人への憎しみを募らせていくようなことになってしまいます。そこにあるのは神様と隣人への真実の愛ではなくて、神様の掟を努力して守っている自分への誇りなのです。自分の決意や努力によって、神様と隣人を愛する者となろうとすることによって、本当に明るく生き生きと、神様と隣人を愛して生きることはできないというのが、罪人である私たちの真実であり、そこに私たちのみじめさがあるのです。

キリストが語られた
 それではどうすればいいのか、その答えは、この箇所のみ言葉をどう読むか、と考えていても得られないでしょう。私たちは、このみ言葉をどう読むか、ではなく、このみ言葉を語られた主イエス・キリストご自身に目を向けていかなければなりません。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」という二つの教えは、そこに語られている内容が大切であるというだけではなく、それを主イエス・キリストが語られたということが、はるかに重要なのです。言い換えれば、旧約聖書の言葉の引用であるこれらの教えは、主イエスがそれをお語りになったことによって、新しい意味を持つものとなったのです。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、それは確かに申命記の言葉です。しかしそれを語られた主イエスは、神様が、私たちのための救い主としてこの世に遣わして下さった独り子です。そしてその主イエスは、私たちの罪をすべて背負って十字架にかかって死んで下さる方なのです。その十字架の死への最後の一週間の歩みの中にこの話はあるのです。つまりそこには、神様が、心や精神や思いのみでなく、独り子の命まで尽くして、私たちを愛して下さっているという事実があるのです。「あなたの神である主」という言葉があります。これは確かに申命記の言葉そのものです。しかし主イエスがそれを語られた時、それは、神様が独り子主イエスによって私たちの神となって下さったという恵みを示すものとなったのです。独り子である主イエスのみが、もともと神様を「父よ」と呼ぶことができるただ一人の方です。しかし主イエスによってその恵みが私たちにも与えられ、私たちも「天の父なる神様」と呼び、祈ることができるようになったのです。神様は主イエスによって私たちの父となって下さったのです。私たちはこのように神様に愛されているのです。その神様を私たちも愛して生きる、それが主イエスの救いにあずかって生きることなのです。「隣人を自分のように愛しなさい」、これもレビ記の言葉です。しかし主イエスがそれを語られた時、それは主イエスご自身が私たちのためにして下さったことでもあるのです。私たちはここで、ルカ福音書10章のあの「善いサマリア人」の話を思い起こすことができます。強盗に襲われて倒れている人を、同胞であり、神様に仕える人である祭司やレビ人は見て見ぬふりをして通り過ぎて行ったが、ユダヤ人の憎む敵であったはずのサマリア人が介抱してくれた、そのサマリア人の姿こそ、主イエス・キリストのお姿です。主イエスは、生れつき神様と隣人を憎む傾向にある、つまり神様の敵であった私たちを愛して、その私たちのために命をささげて下さったのです。私たちはこの主イエスの愛を受けている者です。主イエスが私たちの隣人となり、愛して下さったのです。そのように主イエスに、隣人として愛されている私たちが、自分の隣人たちをも愛していく、それが主イエスの救いにあずかって生きる者の姿なのです。主イエスはあの「善いサマリア人」の話の終わりに、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。「隣人を自分のように愛しなさい」という教えは、それと同じことを言っているのです。

神の愛の中で
 二つの、最も重要な掟は、それをお語りになったのが主イエス・キリストであるということによって、単なる掟、律法とは違う意味を持つものとなりました。単なる律法であれば、それは私たちが努力して守り行なっていくべき努力目標であり、それを実行できているかいないかが問題になるのです。そして実行できれば、それによって神様の恵み、救いを獲得できるし、実行できなければダメです。しかし主イエス・キリストがお語りになったこの教えはそういうものではありません。私たちが神様と隣人を愛することができるか否かという前に、既に神様が、独り子主イエス・キリストによって、私たちを徹底的に愛していて下さるのです。私たちの隣人となって下さっているのです。そこに、もうすでに神様の恵みと救いがあるのです。私たちは、この二つの掟を実行することによって救いを得るのでもなければ、これを実行できないから救われないのでもありません。そういう意味では、あのハイデルベルク信仰問答が示しているように、私たちは、これらの掟を行なうことができない、つまり救われようのない、みじめな罪人なのです。しかし神様はその私たちのために、独り子主イエスを遣わして、その十字架の死と復活によって、罪の赦しと、新しい命の約束を与えて下さったのです。みじめな罪人である私たちを救いにあずからせて下さったのです。この神様の愛を受けて、みじめな罪人として暗く落ち込んでいく思いから解放されて、明るく生き生きと、神様を愛し、隣人を愛して生きる者となる、それが私たちに与えられている信仰の生活です。それは神様の愛に感謝し、それに応えようとする生活なのです。ハイデルベルク信仰問答も、「人間のみじめさについて」の第一部から、第二部「人間の救いについて」を経て、第三部では「感謝について」を語っていきます。その感謝の生活を導くのが、本日も共に唱えた「十戒」と、私たちの祈りの基本である「主の祈り」です。「十戒」も「主の祈り」も、前半と後半に分けられます。そして前半には神様との関係についてのこと、後半には隣人との関係についてのことが語られているのです。つまり十戒と主の祈りによって導かれる生活とは、神様を愛し、隣人を愛して生きる生活であると言うことができます。本日のところに教えられている二つの最も重要な掟は、そのように、主イエス・キリストによる救いへの感謝の生活へと実を結んでいくのです。そのようにして、これらの律法の教えは主イエスによって完成されていくのです。
 私たちは、主イエスがお語り下さった、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」という二つの教えを行いつつ歩みます。それをすることによって救いを得るためでもなければ、それをしないと救われないからでもありません。主イエス・キリストが、私たちを徹底的に愛し抜いて、救いを与えて下さっているから、それをすることができるのです。そこにおいては、どれくらいできたかとか、もう十分だろうか、まだ足りないだろうか、というようなことは問題ではありません。また、あの人はできているかいないか、あの人の愛は十分か不足か、ということも問題ではありません。神様と隣人を愛することにおいて、得点がいくらということはないし、何点なら合格とか不合格ということもないのです。また、自分を愛することと隣人を愛することの関係もそうです。自分を愛することと、隣人を愛することと、どちらが多いだろうか、ということで悩む必要はないのです。主イエスの教えは、隣人よりも自分の方を多く愛してはいけない、ということではありません。主イエスが、この自分を、命を投げ出して愛して下さったのです。自分という人間は、こんなにダメな、とりえのない、力のない者だけれども、神様が、主イエスが、「あなたは私にとって大切な者だ」と言って下さっているのです。だから私たちは、自分を大いに愛し、大切にして生きることができるのです。そしてさらに、神様が同じように大切に思い、愛して下さっている隣人を愛し、大切にしていくことができるのです。本日の箇所の二つの教えは、主イエス・キリストがそれを語って下さったことによって、私たちを縛りつける厳しい戒めではなく、神様の愛の中で喜んで、明るく、生き生きと、積極的に愛に生きるための道しるべとなっているのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2003年2月2日]

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