富山鹿島町教会

礼拝説教

「生きている者の神」
詩編 第27編1〜14節
マタイによる福音書 第22章23〜33節

死んだらどうなるか
 人は死んだらどうなるか。これは私たちが最も知りたいと思う謎の一つです。人類はそのことについていろいろと考えをめぐらし、いろいろな説を立ててきました。しかしこれが正解、と誰もがはっきり納得できる説明は得られていません。おそらく永遠にその答えは得られないでしょう。死は、人間にとって永遠に未知の領域として残り続けるでしょう。
 聖書はこのことについてどう言っているのでしょうか。実は聖書も、死んだ後のことについて、「こうだ」というはっきりとしたことを語ってはいないのです。聖書をよく読んでも、死んだらこうなる、ということを明確に知ることはできません。このことを私たちは、「聖書もこの点においては不十分なのだ」と考えてはなりません。私たちが毎週の礼拝で告白している信仰告白には、「聖書は聖霊によりて、神につき、救いにつきて、全き知識を我らに与うる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり」とあります。これが私たちの信仰なのです。そうであるならば、聖書にはっきりと語られていないことは、聖書が不十分なのではなくて、神様が私たちに、そのことは知らなくてよい、と言っておられるということです。聖書にはっきりと語られていないことは、信仰において、救いについて、知る必要のないことです。あるいは知ることが許されていない、人間の領分を越えたことです。そのことについては、「はっきりとはわからない」ということを受け入れ、神様に委ねることが、正しい信仰の姿勢であると言えるでしょう。

ファリサイ派とサドカイ派
 しかしそうは言っても、「死んだらどうなるか」ということは私たちが切実に知りたいことです。少しでもその真実に迫りたいというのは、当然の思いです。主イエスの当時のユダヤの人々もその真理を熱心に追い求めていました。その結果、二つの対立する説が生まれていたのです。一つは、人は死んでも魂が残り、神様が定めておられる時に、復活して、新しい体を与えられるのだという説です。これは、先週のところで主イエスを陥れようとしたファリサイ派と呼ばれる人々の主張していたことでした。それに対して、サドカイ派と呼ばれる人々は、そのような死後の命や復活などはない、と言っていたのです。このサドカイ派とはどのような人々かについての説明はここでは省きます。そういうことは聖書事典でも読んでいただけばわかりますし、最も簡単には、新共同訳聖書の後ろの付録の「用語解説」にも簡単な説明があります。本日の箇所を読む上で必要なことは、彼らが、肉体の復活ということを否定していたということです。そのサドカイ派の人々が、主イエスに質問をしたことがここに語られています。これは質問の形をとっていますけれども、要するに彼らが、復活などない、という自分たちの主張の正しさを主イエスに認めさせるために仕掛けてきたものです。ファリサイとサドカイの対立に主イエスが巻き込まれた形ですが、しかしそのことによって、私たちにとっても大切な教えがここに語られることになったのです。

復活はあるかないか
 ファリサイ派もサドカイ派も共に、聖書を根拠として自説を展開していました。その聖書というのは、私たちの言う「旧約聖書」です。それでどうしてこういう主張の違いが生じるのかというと、ファリサイ派は旧約の中でも比較的新しく書かれた書物や、またユダヤ人たちの間で言い伝えられてきた教えを受け入れていたのに対して、サドカイ派は、最初の五つの書、創世記から申命記までの、いわゆる「モーセ五書」、別の言い方をすれば「律法」の部分だけを基準としており、そこに書かれていないことは受け入れないという姿勢だったのです。確かに、モーセ五書には、死んだ者が復活するということは直接語られていません。そういうことは、後期の書物、たとえばダニエル書などになって出て来ることなのです。そういうことから、どちらも旧約聖書に基づきながらも、ファリサイ派とサドカイ派の論争が生じたのでした。この論争において、サドカイ派がしばしば持ち出した話が、本日のところで彼らが主イエスに問うたことだったようです。この問いは、律法にある「ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の後継ぎをもうけねばならない」という結婚の規定に基づいています。これは、家系を絶やさないための掟であるわけですが、彼らはそこに極端な例を持ち出します。七人の兄弟が次々に一人の女性と結婚し、皆子をもうけずに死んだというのです。さてもし死者が復活した場合、この女性は誰の妻になるのか、というのが彼らの問いです。この問いによって彼らが言おうとしているのは、死人の復活などということを言っていると、こういうおかしなことになって困るではないか、だから、復活などあり得ないのだ、ということです。サドカイ派とファリサイ派はいつもこういうことで論争をしていたのです。

死後の世界はあるかないか
 この論争は、私たちにはピンと来ません。死んだ後どうなるかということが、私たちの関心です。ところがここでは、復活があるかないかという話になっています。それより前にまず、死んだら人間どうなるのかということをはっきりさせないといけないのでは、と私たちは思うのです。しかし実はそこに、この論争の重大なポイントがあるのです。この論争というのは、つきつめて言えば、死後の世界があるかないか、ということです。ファリサイ派は、死んでも人間の存在は何らかの形で続いていくと考えています。しかしサドカイ派は、死んだ後などはもうない、生きている間だけが全てなのだと言っているのです。何故ならサドカイ派が持ち出したあの問題は、復活したら起ってくる問題というだけではないからです。死んだ後、魂が天国に行く、そこでも同じことが起るのです。それは私たちも感じることではないでしょうか。たとえば、地上の人生において、妻や夫と死に別れて再婚するということがあります。さあ魂が天国に行った時にどうなるのでしょうか。私たちは、天国で愛する者と再会するという希望を抱いています。愛する者の死において、そのことが大きな慰めとなり希望となることは確かです。しかしたとえば再婚した人はどうなのか。愛する二人の妻あるいは夫と再会するのか。そこでその二人の間に喧嘩が起ることはないとしても、天国ではその人は二人の妻あるいは夫を持つ身となるのか。これは肉体の復活ということを考えなくても、けっこう問題です。死後の世界、死んだ後も存在が続いていくと考えると、そういうことが起ってくるのです。だからサドカイ派は、そんなものはないと言っているのです。当時のユダヤ人たちは、サドカイ派もファリサイ派も共に、人間を、魂と肉体とに分けてしまう考え方をしていません。魂と肉体とは切り離すことのできないものであり、神様の造られた人間は本来それを共に備えているものなのです。だから、魂だけが天国でいつまでも安らかに暮らすという発想はありません。魂が存続するならば、たとえすぐにではなくても、神様は必ずそこに肉体をも与えて下さる、それがファリサイ派の主張する復活です。それを否定するサドカイ派は、そもそも魂の存続を否定しているのです。死んだらそれでおしまいで、死後の世界などないと言っているのです。この論争はつきつめていえばそういうことになるのです。

主イエスの教え
 主イエスは、このサドカイ派の主張に対して、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」と言われました。サドカイ派の主張を退け、あなたがたは間違っていると言われたのです。それでは主イエスはファリサイ派の立場に立っておられるということでしょうか。ファリサイ派は、先週読んだように、主イエスと厳しく対立し、罠にかけて陥れて破滅させようとしています。そのように基本的には厳しく対立しているが、この復活の問題については、両者は一致している、ということでしょうか。そうではありません。「聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」のは、サドカイ派だけでなく、ファリサイ派も同じなのです。そしてそれは、「愛する者と天国で再会する」という希望を抱いている私たちも同じなのです。そのことが、30節の主イエスのお言葉によって示されていくのです。

めとることも嫁ぐこともない
 「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と主イエスは言われました。復活は確かにある、と主イエスは言われたのです。ということは、人間の存在は死んでしまえばそれで終わりではない、まだその先があるのだ、ということです。その点においては、ファリサイ派と同じであると言えるでしょう。しかし主イエスはそこで、復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになると言われました。そこに主イエスの教えの大事なポイントがあるのです。「めとることも嫁ぐこともなく」、つまり、地上における結婚の関係が、復活においてはもうなくなるというのです。復活においてはということは、先ほど申しましたことからすれば、天国においてはと言い換えてもよいわけです。死後の存在においてはということです。そうするとこれは、ある人にとってはとても寂しい、悲しい教えになります。天国で、愛する人と、夫婦として再会することを希望としているのに、もうそこでは赤の他人ですよ言われてしまう。そんなのひどい、と思うのです。しかしまたある人にとっては、これは「やっと解放される」という喜びの教えかもしれません。天国に行ってまであの人と夫婦でいなければならないなら、天国も私にとっては地獄だ、という思いだってあり得るのです。これと同じようなことを語っている、こういう笑い話があります。カール・バルトという、二十世紀最大の神学者と言われる人に、ある、夫を失った未亡人が何度も尋ねたのです。「先生、私は天国で、愛する夫と再会できますね」。バルトは「できます」と答えました。しかし彼女は一度で満足せず、何度も何度も同じことを尋ねてきたのです。あまりしつこいので辟易したバルトはついにこう答えました。「あなたは、あなたの愛する人と天国で再会します。しかしそうでない人とも再会します」。天国に行けば愛する人と再会できるとすれば、愛していない人、憎らしい、顔も見たくないと思っている人とだって再会することになる。この笑い話は、私たちが天国というものをいかに身勝手に考えているかということを示しています。そしてその身勝手さの中心にあるのは、死後の世界、天国あるいは復活を、今のこの世の生活の延長としてとらえるということです。しかもそこで、自分にとってよいこと、嬉しいこと、願っていることだけが延長していくことを求め、嫌なこと、つらいことは延長してほしくないと思っているのです。「めとることも嫁ぐこともない」という教えを寂しいと感じたり解放と感じたりというのはそういう思いから来ることです。しかし主イエスが「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」と言われたのは、死後の歩みや復活を、この世の人生の延長として考えてはならない、ということです。この世における結婚の関係が、そのまま死後の、復活の歩みに持ち込まれるのではないのです。それは結婚だけではありません。私たちがこの世の人生において体験している、良いものも悪いものも含めたあらゆる人間関係、あるいは私たちが与えられている様々な賜物や重荷、賜物とは、私たちが与えられているよいもの、健康や才能などの全てですし、重荷というのは肉体や心の病気であったり障害であったり、いろいろな悩み苦しみの全てですが、それらのものが、そのまま死後の歩み、復活の体に延長されていくのではないのです。それらのものは、肉体の死において終わるのです。ところが私たちはどうしても、死んだ後のことを、この世の人生の延長で考えようとします。愛する人と再会する、というふうに考えようとします。私たちはそういうふうにしか考えることができないのです。最初に申しましたように、死後の世界のことは、私たちにははっきりと知ることができません。だから、今知っているこの世の歩みから類推して、その延長上に考えることしか私たちにはできないのです。しかし主イエスは、それは聖書も神の力も知らないから生じる思い違いだと言われます。聖書と、そこに語られている神様の力を本当に知るならば、死後のこと、復活の命のことを、そのように地上の人生からの類推で、この世の生活の延長として考えることはなくなると言われるのです。

神の力
 それでは、聖書は、神様の力について、どのように語っているのでしょうか。そのことが31節以下に語られているのです。「死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という神様のみ言葉が引用されています。この言葉が、復活とか、死後の命とどう関係するのか、すぐにはわかりません。しかし主イエスはそこに、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」という説明を加えておられます。このことによって示されているのは、神様が、アブラハム、イサク、ヤコブというイスラエルの民の先祖たち一人一人の名を呼んで、彼らの神として、彼らと共に歩んで下さったということです。そのように神様が名前を呼び、あなたは私の民だ、わたしはあなたの神だと言って下さる、その時にこそ、その人は本当に生きることができるのです。神様はそのようにして、私たち一人一人を生かして下さっているのです。そこに、神様の力があります。神様は、この世界の全てを無から創り、今も保っておられる、そういう力ある方ですが、その神様が、そのお力をもって私たちの名を呼び、私たちを今この時にここに生かして下さっているのです。私たちが今生きているというのはそういうことです。私たちの命は決して、たまたま自然の成り行きでここにあるのではありません。神様が私たちの名を呼んで、命を与えて下さっているから、私たちのこの人生があるのです。そしてそのことは、死んだ後の歩みにおいても同じです。死んでしまえばそれで終わりではない、まだその先の歩みがある、それもまた、自然の成り行きでそうなるのではありません。肉体は滅びるものだが、魂は滅びることのないものだから死後も存在し続けるのではないのです。私たちに死後の命があるとしたら、それは、そこにおいても神様が、私たちの名を呼んで下さるからです。「死んだ者の神ではなく、生きている者の神だ」と宣言して下さった神様が、死においても私たちの名を呼び、あなたは私の民、私はあなたの神だと言って下さることによって、私たちは死んだ後もなお自分が自分としてあり続けることを信じることができるし、神様が新しい体を与えて下さる復活の希望に生きることができるのです。

よりよい、完成された関係
 神様の力を信じるとは、このことを信じることです。そしてそれを信じるなら、私たちはもはや、死んだ後のことを、今のこの人生から類推し、その延長としてとらえなくてもよいのです。今のこの人生は、そこにおける全ての人間関係は、夫婦、親子の関係を含めて、よい関係も悪い関係も、私たちの死によって終わるのです。そこにおいて与えられている賜物も重荷も、全て終わるのです。そして神様は私たちに、新しい歩みを与えて下さるのです。それは、この地上における歩みよりももっとすばらしいものです。そのことが、「天使のようになる」というみ言葉によって示されています。天使も、神様に造られたもの、被造物です。しかし人間以上のもの、人間が持っている様々な制約や罪から解放された存在であり、神様により近く仕えるものです。神様は私たちをそのような新しい者にして下さるのです。そのときには、私たちが地上で与えられていた関係も、よりよい、完成されたものとなるのです。そういう意味で私たちは、神様のみもとで、愛する者と再会するという希望を抱くことが許されています。しかしそれは、憎らしい人とも再会する、というような、この世の歩みの延長としての再会ではありません。神様によって新しく造られた者として、地上における関係とは違う、よりよい、完成されたものとしての再会です。ですからそこでは、再婚した人は二人の妻や夫を持つことになるのかというようなことに頭を悩ませる必要はないのです。「めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」というのは、そのように、地上における関係を越えた、よりすばらしい関係が与えられるということなのです。

知るべきことは示されている
 死んだらどうなるか、それを私たちははっきりと、見てきたように知ることは許されていません。しかし私たちには、聖書に語られている神様の力が示されています。それは、天地の全てをお創りになり、私たちの名を呼んで命を与えて下さった力です。また、神様に背いて罪を犯している私たちを救って下さるために、独り子イエス・キリストを遣わし、その十字架の死によって私たちの罪を贖い、復活によって新しい命を約束して下さったその力です。この神様の力を示されているから、それで十分なのです。それ以上のことを知る必要がないのです。聖書は、死んだらどうなるということをはっきり語らない、それは、神様が私たちに、そのことは知らなくてよいと言っておられるということだと申しました。それは、神様が私たちを、死後のことがよくわからない不安の内に閉じ込めておこうとしておられるということではありません。私たちが知るべきこと、真実の支えと慰めを与えらて、この世を生き、そして死んでいくのに十分なことが、既に示されているのです。私たちが生きているときも、死においても、そして死んだ後も、主イエス・キリストの父なる神様が私たちの名を呼び、あなたはわたしの民、わたしはあなたの神だ、わたしが名を呼んだ者は生きるのだ、わたしは死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだと宣言して下さっている、ということがそれです。私たちはその神様に信頼して、死んだ後のことの全てを、神様にお委ねするのです。

体の復活
 そしてさらにもう一つのことを覚えたいと思います。神様がそのように私たちの名を呼び、生かして下さる、その恵みが、死んだ後にも与えられることを信じるならば、私たちは、その神様が私たちに、新しい体、復活の体を与えて下さることをも信じることができるのです。使徒信条も、ニカイア信条も、「身体のよみがえり」「死人のよみがえり」を信じると告白しています。私たちは肉体の復活を信じているのです。死んで、魂が天国に行って、神様のもとで安らぎを得る、それが私たちの歩みの終わりではありません。世の終わりに、神様は私たちに、新しい体、復活の体を与えて下さるのです。それがどんな体かということは、この世の体からの類推、延長で考えることはできません。だからこの復活の体について、それは何歳ぐらいの体なのかとか、生きている間に障害があったり、弱さがあったりしたら、復活してからもそうなのかとか、そういうことを考えることは意味がないのです。神様が与えて下さる新しい命において、この世の人間関係がよりより、完成されたものとして与えられるように、復活の体も、今のこの体よりもよりよい、完成された体です。それがどのようなものかは、私たちは知らなくてよい。神様が、無からこの世界を、私たちをお造りになった、その全能の力で、私たちの思いを越えて、すばらしい復活の体を与えて下さるのです。主イエス・キリストが肉体をもって復活されたことが、そのことの保証です。キリストの復活にあずかり、私たちも復活の体を与えられて永遠の命を生きる者とされる、そこに私たちの究極の希望があるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2003年1月19日]

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