富山鹿島町教会

礼拝説教

2003年元旦礼拝
「天の故郷を熱望しつつ」
ヘブライ人への手紙 第11章1〜16節

飯野兄の死を覚えつつ
 主の2003年を迎えました。今年の元旦礼拝は、私たちにとって特別な時となりました。一昨日、30日の夜に、私たちの教会員であり、先日のクリスマス礼拝を共に守った飯野純吉さんが天に召されたのです。本日の夕方、ここで前夜式が行われ、明日午後、お葬式が行われます。そのことを覚えつつ、私たちはこの元旦礼拝を守っているのです。一昨日の夜中に、ご葬儀のための打ち合わせをしながら、私は、もしかしたら本日の元旦礼拝は、ここに飯野さんのご遺体をお迎えして共に守ることになるかもしれないと思い、また、そうなったらいいなと思いました。結局それは実現しませんでしたが、もしそうなっていたら、それは私たちにとってすばらしい体験となったと思います。飯野さんは、元旦礼拝に出席することを楽しみにしておられ、礼拝後に、壮年会の作るぜんざいを食べることも楽しみしておられたそうですから、その飯野さんを偲ぶよい時となっただろう、ということだけではありません。新しい年を迎えるその最初の日に、人生の終わり、死を覚え、見つめることはとても大切なことだからです。本日の礼拝において読む箇所として、ヘブライ人への手紙第11章を選びました。これは私が自由に選ばせていただいた箇所ですが、ここを選ぶことによって皆さんとご一緒に見つめ、考えたかったことはまさにそのことなのです。ヘブライ人への手紙第11章には、旧約聖書に出て来る、多くの信仰の先達たちのことが語られ、見つめられています。本日読まれた所だけでも、アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラの名前があげられています。そしてこの手紙の著者がそれらの人々の名前をあげることによって語ろうとしているのは、13節の、「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」ということです。信仰を抱いてこの世を生き、そして信仰を抱いて死んでいった、その多くの先達たちのことを見つめようと言っているのです。そのことによって、神様を信じるとはどういうことか、信仰をもって生きるとはどういうことかが分かってくるのです。このみ言葉をご一緒に読むことによって、この世の人生の終わり、死を見つめつつ、信仰をもって新しい年を生きる勇気と力を与えられたい、というのが私の願いでした。そうしたら、こういう言い方はいけないかもしれませんが、まさにぴったりのタイミングで、飯野さんが天に召されたのです。そのことによって今日私たちは、ここに並んでいる旧約聖書の人々と並んで、飯野純吉さんという、よく知っている、とても身近な人を覚えることができるのです。飯野さんもまた、信仰を抱いて生き、信仰を抱いて死んだ、私たちの先達です。その死を覚え、ご遺体を迎えることはできませんでしたが、それと同じ思いで、この元旦礼拝を守りたいと思います。

信仰を抱いて死んだ
 「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」と聖書は語っています。しかしどうして、「死にました」と言うのでしょうか。「この人たちは皆、信仰を抱いて生きました。私たちもその模範に従って、信仰を抱いて生きていこう」と言うのではいけないのでしょうか。実はそこに、ここでヘブライ人への手紙が語っていることのポイントがあります。ここは、「信仰を抱いて生きた」ではだめなのです。「信仰を抱いて死にました」と言っていることに意味があるのです。そのことによって聖書が教えていることは、第一には、信仰というのは、生きている間だけのことではない、ということです。この世を生きる私たちの何十年かの人生、その間を、神様を信じて、それによって支えや慰めを与えられて歩めればそれでよい、というものではないのです。これは私たちがしばしば陥る信仰の上での間違いなのではないでしょうか。神様を信じる信仰においても、結局この世の人生のことしか考えていない、ということが起るのです。今のこの人生において、悲しみや苦しみから救われ、精神的にもまた物質的にも恵みを与えられて、そこそこに幸せで平安な人生を送りたい、そのために神様を信じ、信仰を持つ、ということが私たちにもあるのではないでしょうか。そのような信仰においては、「生きる」ことにしか目が行きません。「死ぬ」ことを見つめることができないのです。死からは、できるだけ目をそらしていくのです。人間は必ずいつか死ぬものだということは、誰でも知っている事実ですが、世間の多くの人々はそのことに目をつぶり、できるだけ見ないように、考えないようにして生きています。しかし信仰者だって、同じことになり得るのです。神様の救いや恵みや慰めを、この世を生きるその人生における救いや恵みや慰めとしてしか見つめないなら同じことです。そしてそうなると、新年早々から死についての説教などしなくてもよいだろう、とか、元旦礼拝に遺体を迎えるなど、「縁起でもない」とまでは言わないとしても、せっかくの祝いの席に相応しくない、などということになるのです。そういう思いがもし少しでもあるならば、本日のこのみ言葉によってそれを正されていきたいと思います。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」。そのことは、決して消極的な、悲しい、不幸なこととして語られているのではないのです。「信仰を抱いていたけれども結局は死んでしまった。信じていても何にもならなかった」、ということではないのです。ハイデルベルク信仰問答の有名な問一が教えているように、私たちの信仰は、生きている時だけの慰めなのではなくて、「生きている時も死ぬ時も」、ただ一つの慰めなのです。

約束されたもの
 信仰は生きている時だけの問題ではない。それは、死んでも魂が残り、神様のみもとに行って平安を与えられる…、ということを見つめさせようということではありません。ここで「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」と言われているのは、その人たちは天国で幸せに暮している、ということを言うためではなくて、13節後半の「約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」ということを語るためなのです。「約束されたものを手に入れなかった」、これがここでの第二のポイントです。「約束されたもの」というのは、神様が与えると約束して下さった救いの完成です。私たちが罪と死の力から解放され、また一切の苦しみや悲しみから解き放たれて、神の子として、もはや死ぬことのない永遠の命を生きる者とされることです。私たちの信仰の先達たちは、そういう救いの完成を手に入れることなく、皆死んでいったのです。私たちの死というのはそのようにいつも、救いの完成への途上における死です。救いがすっかり完成されて、それから死を迎えるなどということはないのです。この世における働きとか、なすべきことにおいては、あるいは、全てをやり遂げて、もう何も思い残すことはない、という中で死を迎えることもあり得るかもしれません。それはとても稀なことで、たいていの場合には、いろいろとやり残したこと、心残りなことがある方が多いわけですが、たとえその稀な、恵まれたケースであったとしても、救いの完成を手に入れた上で死ぬということはできないのです。それゆえに、死は誰にとっても、恐れや苦しみの伴うものです。「約束されたもの」をまだ手に入れていない状態で、つまり一切の悩みや苦しみ、痛みや悲しみから解放されてはいない中で、私たちは死を迎えることになるからです。死にはそのような苦しみが伴うことを、私たちは侮ってはなりません。自分は死ぬことなど平気だというのは、本当に死に直面していない者の傲慢だと言わなければならないでしょう。

喜びの声をあげつつ
 しかしここには、そのように約束されたものを手に入れることなく生涯を終えていった人々が、喜びの声をあげつつ生きたことが見つめられています。約束されたものを手に入れてしまうことなく、死によって中断されてしまう人生を、なお喜びの声をあげつつ生きる、そのことを可能にしたのが、彼らの抱いていた信仰なのです。その信仰とは、1節に語られているように、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」です。神様が約束して下さった救いの完成、それはまだ手に入れることのできていないもの、望んでいるけれどもまだ目に見えるものとはなっていないものです。しかし彼らは、今手に入れているわけではないその救いの恵みを、神様の約束のみ言葉によってはるかに望み見て、喜びの声をあげつつ生きたのです。ここに名前をあげられている人で言えば、例えばノアは、洪水を起こして全ての者を滅ぼすという神様のみ言葉を信じて、海もなにもない丘の上に大きな箱舟を造ったのです。あるいはアブラハムは、あなたを祝福の源とするという神様の約束を信じて、行き先を知らずに旅立ったのです。また、アブラハムの妻サラも、子供を産めないままに年をとり、もうそのような望みは絶たれたと思っていたけれども、神様のみ力によって、子供を与えられたのです。11節の後半には、それは「約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです」とあります。神様は真実な方であり、約束なさったことを必ず果たされる、そう信じるがゆえに、その約束のみ言葉のみで、まだ与えられていない、手に入れることができていない恵みをはるかに望み見て喜びに生きる、それが、この信仰の先達たちが私たちに示している模範なのです。「信仰は生きている間だけのことではない」というのはこのことと関係しています。つまり私たちの信仰は、この世を生きている間に神様の恵みを受けるためにあるのではなくて、この世においてはまだ与えられていない、手に入れることができていない約束を望み見て喜ぶためにあるのです。勿論私たちはこの世の人生においても、神様からいろいろな恵みをいただき、導きを受けます。生きている間には神様の恵みはない、などということではありません。しかし、最も中心的な、救いの完成は、この世を生きている間には与えられないのです。それは約束のみ言葉としてのみ示されるのです。その約束の実現は、肉体の死を経た後に与えられるのです。それゆえに、「信仰を抱いて生きる」ことのみでなく、「信仰を抱いて死ぬ」ことに大きな意味があるのです。それによって、神様の救いの約束の実現に、大きく一歩近づくことができるからです。この世の人生における幸福や恵みのみを見つめ、求めている限り、このことはわかりません。そこにおいては、死ぬことは「信仰を抱いていたが結局死んでしまう」という消極的なことでしかないし、恵みや祝福が失われることでしかないのです。しかしこの世の人生では手に入れてしまうことのできない救いの完成を神様が約束して下さっていることを信じて歩む者にとっては、その約束が生きることを支える喜びであり、死ぬこともまた、その約束の実現への前進となるのです。

故郷はどこか
 信仰を抱いて死ぬことにこのような意味を見出す時に、私たちの歩みには大きな転換が起ることがここで見つめられています。そのことが、自分の故郷はどこか、という言い方で語られているのです。信仰を抱いて死んだ先達たちは、「自分たちは地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」とあります。また次の14節には、「このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです」ともあります。信仰を抱いて生きることによって、私たちの故郷が変わるのです。生まれつきの私たちは、この地上を故郷として生きています。地上におけるこの人生こそが、私たちが本来生きる場であり、それ以外に生きられる所はないと思っています。だから死ぬことは、その故郷を、生きるべき場を失うこと、奪われることだと感じるのです。しかし、神様と出会い、その救いの約束をいただき、信仰を抱いて生きるようになった者は、その神様の約束が実現し、罪と死、あらゆる苦しみ悲しみから解放され、神の子として永遠の命に生きる者とされる、その救いの完成こそが、自分の故郷であり、自分が本当に生かされる場であり、帰るべき所であることを知るのです。そして今のこの地上の人生は、よそ者としての、仮住まいの歩みであることに気づくのです。そしてこの仮住まいの人生の中で、本当の故郷、天の故郷を熱望しつつ生きる者となるのです。その時、死は、天の故郷への旅立ちとなります。自分が神様の祝福の内に本当に生かされる所へ向けての、一歩前進となるのです。ですから自分の故郷はどこか、ということにおけるこの違いはとても大きいのです。それによって、死ぬことが、故郷の喪失、無理やりにふるさとから引き離されること、つまり死の力によって拉致されてしまうようなこととなるか、それとも、自分を本当に温かく迎え、祝福の内に養い守ってくれる父なる神様のみもとに帰ることとなるか、そういう違いが生じるのです。

仮住まいの者として
 信仰を抱いて生きる時に、この世におけるこの人生は、よそ者としての、仮住まいの歩みとなります。それはこの人生に対して無責任になったり、それをないがしろにすることではありません。むしろ私たちは、父なる神様によって、天の故郷から、それぞれのこの世の人生へと、使命を与えられて派遣されているのです。その使命をしっかりと果すことが私たちの人生の課題です。そしてその使命を果していくことは、この世の事柄に埋没してしまうのでなく、そこから自由である時にこそできるのです。それが、よそ者、仮住まいの者の利点です。何のしがらみもなく、自由に事に当れるのです。この世の会社などの働きにおいても、そういうことがあるでしょう。地元の人だから出来る、地元の人にしか出来ない働きというのもあると同時に、地元の人には出来ない、よそから来た人が地元のいろいろな事情にとらわれずに自由に発想することによって初めて出来る働きというものもあるのです。私たち信仰者は、そのような、故郷を別に持つ者としての、この世の目に見える現実に捕われない発想でこの世の事柄に関わっていくことができるし、それが使命であると言えるでしょう。3節には、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」とあります。このことをしっかり覚えつつ、この世の目に見える事柄に関わっていくことが私たち信仰者の使命なのです。

キリストによる約束
 私たちは、神様が与えて下さった約束を信じて、約束された救いの完成を望み見て喜びの声をあげつつ歩みます。それが私たちの信仰です。そしてこの約束は、決して虚しい口約束や空手形ではありません。神様がこの約束を与えて下さったのは、その独り子イエス・キリストによってです。神様はみ子をこの世に遣わし、その主イエスが私たちの全ての罪を背負って十字架の苦しみと死とを引き受けて下さることによって、この約束を与えて下さったのです。罪と死からの解放、また全ての苦しみ悲しみからの解放、そして神の子とされ、もはや死ぬことのない命を生きる者とされること、それらは全て、主イエス・キリストにおいて実現し、また主イエスが私たちの先駆けとして受けて下さったことです。主イエス・キリストによって、私たちは神様の約束が真実であることを確信することができます。望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する信仰は、主イエス・キリストによってこそ与えられるのです。この主イエス・キリストと共に生きるから、私たちは、地上の人生において、約束の実現を望み見て喜びの声をあげることができるのです。そしてこの主イエス・キリストが私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さったがゆえに、私たちは、死においても孤独ではないのです。そこにおいても、主イエス・キリストの恵みのみ手に自分の身を委ねることができるのです。飯野純吉さんも、主イエス・キリストを礼拝しつつ、喜びの声をあげつつこの世を歩まれました。そしてその信仰を抱いて天に召されていったのです。ヘブライ人への手紙は第11章において、多くの信仰の先達たちの名前をあげた上で、次の12章の冒頭でこう語ります。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」。飯野純吉さんは、この、おびただしい証人の群れの一人に加えられたのです。信仰を抱いて死んだ飯野さんを覚えつつ迎えたこの2003年、天の故郷を望み見つつ、それぞれに与えられている人生を、喜びの声をあげて主イエスの父なる神様を讃美しつつ、忍耐強く走り抜いていきたいのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2003年1月1日]

メッセージ へもどる。