富山鹿島町教会

クリスマス記念礼拝説教

「独り子を賜う神」
イザヤ書 第9章1〜6節
マタイによる福音書 第21章33〜46節

クリスマスを迎えて
 教会の玄関のアドベントクランツの四本のろうそくの全てに火が灯りました。本日はクリスマスの記念礼拝です。私たちは十二月の始めから、毎週一本ずつ火を灯すろうそくの数を増やしながら、クリスマスに向けて備えるアドベントの時を歩んできました。主イエス・キリストの到来を覚え、それを待ち望む心を整えてきたのです。そしていよいよ今週がクリスマスです。本日、主イエスのご降誕を祝うクリスマス礼拝を守り、24日の晩にはキャンドル・サービスをもってクリスマスの恵みにあずかるのです。
 このアドベントの期間、礼拝において、マタイによる福音書の第21章を続けて読んできました。ここには、主イエスがそのご生涯の最後にエルサレムに来られたこと、その到来された主イエスを迎えた人々との間に起ったことが語られています。主イエスがこの世に来られ、それを私たちが迎える、そのことを覚えて歩むアドベントに読むのにふさわしい箇所です。本日のクリスマス記念礼拝においても、その21章の終わりのところを読みたいと思います。ここには、主イエスがこの世に来られた、そのクリスマスの出来事の持つ意味が、主イエスご自身の口によって語られているのです。マタイ福音書を順番に読んできて、今日この箇所にさしかかったことは、神様の導きであると感じています。
 さてここには、主イエスがお語りになった一つのたとえ話が記されています。「ぶどう園と農夫のたとえ」と呼ばれているものです。このたとえ話が語られた相手は誰でしょうか。23節からの続きであることからすればそれは、エルサレム神殿の祭司長や民の長老たちです。しかし本日の箇所の45節には、「祭司長たちやファリサイ派の人々」とあります。いずれにしてもこの人々は、ユダヤ人たちの指導者であり、エルサレム神殿の祭儀を司っている人々です。その人々に対して、主イエスはこのたとえ話を語られたのです。彼らは、エルサレムに来られた主イエスをどのように迎えたのでしょうか。実は彼らは主イエスを迎えなかったのです。21章の始めのところに、エルサレムに入られた主イエスを人々が歓呼の声で迎えたことが語られていますが、彼ら祭司長、長老、ファリサイ派の人々はその中にはいません。彼らは、主イエスの到来を喜んでいないのです。むしろ迷惑に思っているのです。そして、多くの人々が喜んで主イエスを迎えているのを苦々しい思いで見つめているのです。そして主イエスが神殿の境内に入り、そこで彼らの許可を得て商売をしていた人々を追い出したのを見ると、「何の権威でこんなことをするのか」と問い詰めました。「おまえにこんなことをする権利はないはずだ」ということです。そのように彼らイスラエルの指導者たちは、主イエスを迎えようとせず、むしろ抹殺してしまいたいと思っているのです。その彼らに対して主イエスはこの「ぶどう園と農夫のたとえ」を語られたのです。

ぶどう園と農夫のたとえ
 「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た」。これがこのたとえ話の設定です。当時のぶどう園というのは、ぶどうの実を出荷するためのものではありません。採れたぶどうからぶどう酒を造り、それを売るのです。「搾り場」というのはそのぶどう酒を作るための施設です。垣をめぐらすのはぶどうの実を狙ってやってくる動物を防ぐため、「見張りのやぐら」も、そのようなぶどう畑を荒らす獣や泥棒を見張るためのものです。主人は、これらの設備を全て整えた上で、それを農夫たちに貸して旅に出たのです。この主人が神様、ぶどう園はイスラエルの民、そして農夫たちが、その指導者である祭司長、長老、ファリサイ派の人々のことだと言えるでしょう。このたとえ話は、神様とイスラエルの民とその指導者たちとの関係を表しているのです。
 収穫の時期になって主人は、自分の取り分を受けとるために僕を遣わします。このぶどう園は主人のものであり、そこに投資してぶどう園としての設備を整えたのはこの主人です。実際に働いてぶどうを育て、ぶどう酒を造ったのは農夫たちであるにしても、そこから生み出された製品なり、それを売って得られた利益なりのある部分を主人に納めるのは当然のことです。ところが農夫たちは、この当然の要求のために遣わされた僕たちの、「一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した」のです。主人はさらに大勢の僕たちを遣わしましたが、同じ目に遭わされました。そこで主人は最後に、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と言って、息子を送りました。ところが農夫たちは、息子を見ると、「これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう」と言って、息子をぶどう園の外にほうり出して殺してしまったのです。主人が最初に送った僕たち、それは旧約聖書に出て来る預言者たちのことです。また、先ごろ現れて悔い改めの洗礼を授け、主イエスの道備えをした洗礼者ヨハネもその僕の一人です。そして主人が最後に遣わした息子、それは言うまでもなく、神様の独り子主イエス・キリストです。主イエスがこの世にお生まれになった、つまり今私たちがお祝いしているクリスマスの出来事とは、このように、神様が、ご自分の独り子をこの世に遣わされたということだったのです。しかしここには、その神様から遣わされた独り子主イエスがどうなってしまうかが語られています。農夫たちは、その息子をすらも殺してしまうのです。このたとえ話が語られたのは、既に主イエスのご生涯の最後の一週間、いわゆる受難週に入ってからです。この週の内に主イエスは彼ら祭司長、長老、ファリサイ派の人々によって捕えられ、ローマ総督ピラトに引き渡され、十字架につけられて殺されるのです。ぶどう園の外にほうり出して殺してしまう、というのは、この十字架の死を言い表しています。クリスマスにこの世に来られた主イエスは、結局十字架につけられて殺されるのです。
 このたとえ話は、主イエスの問いによって終わっています。「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか」。彼らはこの問いに答えてこう言います。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」。僕たちを殺し、息子をも殺したとしても、主人は生きているのです。そのままですむはずはない、この極悪非道な農夫たちは必ず滅ぼされずにはいない、そしてぶどう園はもっとまともな農夫たちの手に委ねられていく、それが、彼らも認める世の常識です。主イエスはそのことを確認した上で、43節でこう言われるのです。「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」。「あなたたちは神の国をとりあげられる」、つまりあなたたちこそ、この農夫たちなのだということを主イエスは示されたのです。彼らはそこで初めて、45節にあるように、「イエスが自分たちのことを言っておられると気づき」ました。あの極悪非道な農夫たちとは、洗礼者ヨハネが悔い改めを求めても無視し、今また主イエスを拒否して亡き者としようとしている彼ら自身のことだったのです。彼らは、自分たちに対して、「そんなやつはひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は他の人に与えられるべきだ」という判決を下したことになるのです。それに気づいた彼らはかんかんになって怒りましたが、群衆の手前、主イエスに手をかけることはできませんでした。

命と人生の主人
 このようにこのたとえ話は、主イエスを受け入れようとしない祭司長、長老、ファリサイ派の人々のことを皮肉っている話です。しかしそれだけでこの話を済ましてしまうわけにはいかないのです。もう一度このたとえ話の設定に戻って考えてみたいと思います。ここで主人が全ての設備を整えて農夫たちにぶどう園を貸し与えている、それはそのまま、私たちの人生にあてはまるのではないでしょうか。私たちは、自分の人生を自分の能力と努力で築き上げていると思っているかもしれません。しかし人間の人生において、私たちの能力や努力の占める割合というのはそんなに大きくはないのではないでしょうか。私たちはそれぞれ、生まれた時に与えられたいろいろな条件の下で生きています。自分の体がそもそもそうです。どのような体をもって生きるか、男であるか女であるか、健康で頑強な体か、病弱な体か、あるいは生まれつきの障害がある場合もあります。それらの条件を、私たちは自分で決めることはできません。それは全て神様から与えられたものです。その条件の中で私たちは生きているのです。様々な能力もそうです。あるいはどういう家庭に生まれ育ったかという環境もそうです。私たちの人生は、それらの、自分の努力ではどうにもならない様々な条件に制約されています。そういう条件の中で私たちは勿論、努力をするし、それによって変わってくることも多々あります。あの農夫たちだって、なまけていたら収穫を得ることはできないのです。しかし、人生の基本的な設備と言うか条件は、神様から与えられているものです。そもそも私たちの命そのものが、自分で得たものではない、神様から与えられたものなのです。そうであるならば私たちは、命を与え、人生の条件を整えて下さった神様に、収穫の分け前を渡さなければなりません。それは、収入のある部分を献金するというようなことよりも前に先ず、自分の命や人生が神様から与えられたものであることを覚えて生きることです。つまりこの農夫たちで言えば、このぶどう園は自分たちのものではなくて、主人のものであり、主人が整えてくれ、雇ってくれたからここで働くことができ、収穫をあげることができている、ということを意識することです。それをちゃんと意識し、感謝しているならば、主人から遣わされた僕たちをあのようにないがしろにすることはないはずなのです。ところが彼らは、その僕たちを殺し、ついには主人の息子までも殺してしまいました。それは彼らが言っているように、彼の相続財産つまりこのぶどう園を自分たちのものにしてしまおうということです。彼らは、このぶどう園が主人のものであり、主人に分け前を渡さなければならないことがいやなのです。私たちの人生にあてはめて言うならば、命を与え、人生の条件を整えて下さった神様の存在を認めないのです。そして、自分の人生は自分のものだ、誰の指図も受けずに自分の思い通りに生きるのだ、そこで得られたものは全て自分が自由にするのだ、と思っているのです。それが、この農夫たちの姿です。だとすればこれは、私たち一人一人の姿であると言わなければならないのではないでしょうか。このたとえが自分たちのことを言っていると気づくべきなのは、私たちでもあるのです。

「わたしの息子なら」
 このたとえは、この農夫たちのところに、主人が、つまり神様が、その息子を遣わしたことを語っています。私たちのところに、神様はその独り子を遣わされたのです。それが、主イエス・キリストの誕生、クリスマスの出来事です。しかしそうであるなら、私たちはこの主イエスの誕生をただ喜び、祝っているわけにはいかないのです。神様の独り子主イエスは何のために遣わされたのか。それは神様が私たちに、あなたがたの命は、人生は、わたしが与え、整えたものだ、そのことを覚え、わたしをあなたがたの主人として受け入れよ、ということを告げるためです。神様は、私たちが神様を神様として信じ、敬うことを求めておられるのです。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」という言葉にその思いが表されています。クリスマスは、私たちが神様から、「あなたはわたしの息子を敬ってくれるのか」という問いかけを受ける時なのです。
 神様が私たちに求めておられるのは、その独り子イエス・キリストを敬うことです。この主人は、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と言っているのであって、「わたしの息子になら収穫を渡してくれるだろう」と言っているのではないことに注目したいのです。主人にとって問題なのは、収穫の分け前ではありません。彼らが自分を主人と認め、息子を敬ってくれることを求めているのです。神様が私たちに求めておられるのも、お金や物ではありません。私たちが神様を、自分に命と人生を与えて下さった方として信じ、感謝し、その独り子イエス・キリストを敬うことです。造り主なる神様と、造られたものである私たちの間に、そういう正しい関係が結ばれることをこそ、神様は求めておられるのです。しかし現実に私たちがしていることは、このたとえ話のように、私たちがこのぶどう園を、つまり自分の命と人生を、自分のものにしようとすることであり、そのために、神様が遣わされた独り子を拒み、信じて敬うことなく抹殺してしまうことなのではないでしょうか。祭司長、長老たち、ファリサイ派の人々が、主イエスを十字架につけていったのと同じことを、私たちもしているのです。クリスマスを喜ばしく華やかに祝いつつ、主イエスを十字架につけて殺してしまうようなことを私たちはしてしまうのです。

独り子を賜う神
 この農夫たちに対して、主人はどうするだろうか、と主イエスは彼らに問いました。そんなやつらはひどい目に遭わされて殺されるべきだ、と彼らは答えました。そうなのです。そのようにひどい、極悪非道なことを彼らは、そして私たちはしているのです。私たちは、世の常識からするなら、ひどい目に遭わされて殺されなければならない者なのです。けれども、神様はそうはなさいません。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し」と言っているのは彼らであって、主イエスではないのです。神様の思いは、そのような人間の常識とは全く違うものだったのです。神様の思いはどこにあったか。それは、この主人が、この農夫たちのもとに自分の息子を遣わしたということに示されています。既に何人もの僕たちが殺されているのです。彼らが主人を主人として敬っていないこと、当然の取り分を渡す気がないことは明らかです。そんなところに大切な息子を遣わすなんて、私たちなら絶対にしないでしょう。このたとえ話を読んで感じるのは、この主人があまりにもお人好しの馬鹿だということです。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」なんて、そんなことがこの悪い農夫たちに通用するはずがないことは目に見えているではないですか。ところがこの主人は、殺されることが目に見えていながら、大切な息子を遣わすのです。そのように神様は、その独り子を、罪人である私たちのもとに遣わして下さったのです。私たちが、そう簡単に自分の人生を神様に明け渡して、神様を信じ敬うものとなるはずがないことは目に見えているのに、むしろ主イエスを拒み、抹殺し、十字架につけてしまうことは明らかなのに、その私たちの真ん中に、独り子を、十字架につけるために遣わして下さったのです。私たちが祝っているクリスマスとは、そういうことが起った時です。主イエスを十字架につけて殺す罪人である私たちに、神様はその独り子を与えて下さったのです。そこに、神様のみ心があったのです。
救いの道を開くために
 そしてそれは、私たちのための救いの道を開いて下さるためでした。そのことが、42節で主イエスが引用された聖書のみ言葉に示されています。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」。家を建てる専門家が、こんな石は役に立たない、いらないと言って捨ててしまった石、それはイスラエルの指導者である祭司長、長老たち、ファリサイ派の人々が、主イエスを拒み、こんな者は救い主などであるはずがないとして十字架につけて殺したことと重なります。しかしそのように拒否され、捨てられた石である主イエスが、「隅の親石」になったのです。それは建物の肝心要の石、この石がなければ、建物全体が崩れてしまう、そういう最も大切な石です。家を建てる者たちが捨てた石がそのように建物になくてはならない石になった。それはたまたま偶然にそうなったのではありません。「これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」とあるように、神様がそうなさったのです。家を建てる者たちが捨ててしまった石を、神様は用いて、新しい家をお建てになったのです。それは人間の目には不思議な、常識を超えたことです。しかし神様はその全能のみ力によってそういう不思議なことをして下さった。十字架につけられて殺された主イエスが復活させられ、その主イエスのもとに、新しい神の民である教会が結集されていったのはそういう神様の不思議なみ業です。この、主イエスの十字架の死と復活による救いへの道を開くために、神様は独り子主イエスをこの世に遣わされたのです。

わたしの息子なら敬ってくれるだろう
 このたとえ話の主人は、あまりにもお人好しの馬鹿に見えます。神様が、クリスマスに、私たちのために独り子を遣わして下さったこともそうなのです。私たちは、神様の独り子を素直に受け入れて信じ、敬い、神様を自分の人生の主人として認めるような者ではないのです。その私たちにところに来れば、神様の独り子だろうと抹殺され、十字架の死に追いやられることは目に見えているのです。しかし神様は、その私たちのところに、独り子イエス・キリストを遣わして下さったのです。私たちはクリスマスを楽しく祝いならが、その主イエスを拒み、自分の人生の主人が神様であることを拒み、主イエスを繰り返し十字架にかけ続けている者です。しかし神様の独り子であられる主イエスが、そのことを敢えてご自分の身に引き受け、十字架の死を引き受けて下さったことによって、私たちの罪が赦される道が開かれたのです。クリスマスに神様が独り子を遣わして下さったのはそのためだったのです。クリスマスをお祝いするというのは、この神様の大いなる恵みのみ心を覚えることです。そして、その恵みの中で私たちは、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」という神様の期待に、もう一度新しく応える者となっていくのです。この後一人の兄弟が洗礼を受け、一人の幼な子が幼児洗礼を受けます。洗礼を受けるというのは、神様が私たち罪人のもとへと遣わして下さった独り子イエス・キリストを受け入れ、敬う者となり、神様こそ自分の命と人生の主人であられることを認めて、その神様み手に自らの人生を委ねることです。独り子を私たちに与えて下さった神様は、その私たちの人生を受け止め、主イエス・キリストを隅の親石とする恵みの家である教会の一員として、豊かにはぐくみ、養って下さるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年12月22日]

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