主イエスの到来を待つ
アドベントの第二週を迎えました。先週の説教において申しましたように、アドベントは、二千年前、ベツレヘムの馬小屋で生れ、この世に、わたしたちのもとに来て下さった主イエス・キリストのご降誕を覚え、その到来を感謝しつつ、今は復活して天に昇り、父なる神の右に座しておられる主イエスが、生きている者と既に死んだ者の全てを裁き、私たちの救いを完成して下さるためにもう一度来られる、その第二の到来、再臨を待ち望む信仰を整えていく時です。このアドベントに、マタイ福音書の第21章を読むことは意味深いことだと先週申しました。ここには、主イエスがそのご生涯の最後にエルサレムに来られたこと、そこで、主イエスを迎えた人々との間に起ったことが語られているのです。主イエスが来られる、到来される、その主イエスを迎えるとはどういうことか、そこで私たちに何が問われるのかが、ここに示されているのです。先週のところ、18節以下には、主イエスがいちじくの木に実を探し求めたけれども実はなかった、それでその木は主イエスの一言でたちまち枯れてしまったということが語られていました。それは、主イエスが今来られたとしたら、お迎えする私たちは、主イエスが求めておられるような実を実らせているか、という問いです。主イエスの到来を覚え、それを待つというのは、このような問いかけを受け、それによって自らを省みることなのです。クリスマスに備えていく私たちの歩みもそのようなものでなければならないでしょう。主イエスの到来を覚え、それを待つことは、サンタクロースが来ることを待つのとは根本的に違うことなのです。
祭司長、長老たちの問い
さて本日の23節以下にあるのは、エルサレムに到来された主イエスを迎えたある人々と主イエスとの対話です。ある人々とは、「祭司長や民の長老たち」です。舞台は神殿の境内です。その神殿の責任者である祭司長たちと民の長老たちは、イスラエルの民の指導者たちです。彼らが、エルサレムに、神殿に来られた主イエスに、厳しい口調で一つの問いを突きつけたのです。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」。「このようなこと」というのは、直接には、主イエスがこの神殿に来られてなさったこと、つまり12節以下に語られていた、売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されたという、いわゆる「宮潔め」と呼ばれる行為のことでしょう。主イエスの側から言えばそれは「宮潔め」ですが、彼らにすれば、自分たちが責任を持って管理している神殿の秩序を乱す行為です。「突然やってきて神殿を荒らすとは何事か。何の権利があってそんなことをするのか」と彼らが思ったのは不思議ではありません。彼らのこの問いは、主イエスによる「宮潔め」と密接に結びついているのです。しかし、マタイ福音書はそこで、別のことをも意識しているようです。23節に「イエスが神殿の境内に入って教えておられると」とあります。マルコ福音書の同じ箇所を読んでみると、「イエスが神殿の境内を歩いておられると」となっているのです。マタイはマルコを下敷きにしつつ、「歩いておられると」を「教えておられると」に変えているのです。そこに、マタイの思いが反映していると言えると思います。マタイはこの祭司長たちの問いを、「宮潔め」だけに関わるものとしてではなく、主イエスが人々に教えておられることの全体に関わるものとして意識しているのです。彼らは主イエスの教えとみ業の全体について、「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と問うている、それがマタイにおけるこの問いの持つ意味です。
主イエスに問う者
さてこのようにここには、到来された主イエスに対して、「いったいどんな権威があってこんなことをしたり、あんなことを教えたりするのか」と問うている、それは質問をすると言うよりも、詰問している人々の姿が描かれています。到来される主イエスは、私たちに問いかけてこられる方だ、主イエスをお迎えする私たちはその問いを覚え、自らを省みなければならないと先ほど申しましたが、ここには逆に主イエスに向かって問いかけ、答えを迫っていく人間のあり方が語られているのです。そしてそれは実は、私たちがいつもしていることなのではないでしょうか。私たちは、主イエスからの、神様からの問いかけを受けて自らを省みることよりも、主イエスに対して、神様に対して、あるいは聖書に対して、教会に対して、仲間の信仰者たちに対して、問いを投げかける、場合によっては詰問する、そういうことばかりをしているのではないでしょうか。神様のこと、イエス・キリストのこと、救いのことはどうもよくわからない、もっとはっきりわかるように、自分に納得できるように示して欲しい、そういう説明がちゃんとなされて、納得できたら信じてもいい、信じさせたいなら、まず自分を納得させてくれ、という思いを私たちは誰でも持っています。聖書の内容や教会の教えに対しても、ここがわからない、あそこがおかしいのではないか、という疑問を持ちます。あるいは教会の活動や信仰者の生き方についても、こんなことでいいのか、教会なら、もっとあんなこと、こんなこともするべきではないのか、信仰者ですなどと言いながらこんな生活をしていてよいのか、という批判の思いを抱くこともあります。これらに共通していることは、自分は問う者であり、神様であれ、主イエスであれ、教会であれ、信仰者であれ、その問いに答えるべき者だということです。自分は答えを要求する者であり、その答えを判定して、「これならいいだろう」と思えばそれを受け入れる。つまりそこでは私たちは、神様に対しても教会に対しても、また信仰者に対しても、学生の解答を採点して合格か不合格を決める教師のような意識でいるのです。この祭司長や長老たちはまさにそのような思いで、主イエスに問いました。神様の独り子であられ、まことの救い主であられる主イエス・キリストに向かって、このような態度をとることはまことに不遜なことであり、けしからんと言うよりもむしろこっけいなことです。しかしそのような不遜な、こっけいなことを、まさに私たちはいつもしているのではないでしょうか。
権威を問う
彼らの問いの中心は、主イエスの権威です。主イエスは本当に権威ある方なのか、ということが問題なのです。私たちにおいてもそれは同じでしょう。権威というのは、本当に力があり、力と同時に正しさがあり、それゆえに誰もがその前に頭をたれ、従わずにはおれないものです。ある国語辞典で「権威」という言葉をひいてみたら、「他を追随させるに足る、その方面でのずば抜けた知識・判断力・実力」とありました。要するに本当に従っていくに足る存在であるということです。主イエス・キリストはそのような方であるのか、それが私たちにとっての最も大事な問題です。そのことがはっきりすれば、後の細かいいろいろな疑問は吹き飛んでしまうか、あるいは自然に答えが得られていくのです。ですから、「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」という彼らの問いは、私たちにとっても切実な問いなのです。
主イエスからの問い
この問いに対して、主イエスは逆に一つの問いをもってお答えになりました。ここに、大事なことが示されています。それは、私たちが主イエスにいろいろなことを問うていく時に、逆に主イエスからの問いかけを受けるのだということです。主イエスと私たちの関係は、私たちが教師で、主イエスがその試験を受け、問いへの答えを求められる生徒のようなものではありません。それはむしろ逆です。主イエスこそ、私たちに問いかけてこられる方なのです。答えなければならないのはむしろ私たちです。信仰というのは、主イエスにいろいろな問いを投げかけて、その答えが満足のいくものだったら信じる、というものではありません。むしろ私たちは、主イエスから問われているのです。そのことに気づくことが信仰です。自分は主イエスからの問いかけの中にいる、そしてそれに答えつつ生きるところにこそ、本当に人間らしい、そして真実な慰めと支えのある人生があることを知っているのが信仰者なのです。礼拝において、聖書の説き明かしである説教を聞くことの中で、自分が主イエスから問われているという経験をしていない信仰者はいないでしょう。到来される主イエスをお迎えするアドベントの信仰とはまさに、この主イエスからの問いかけの中に身を置くことに他ならないのです。
ヨハネの洗礼
主イエスが彼らに問われたのは、「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」ということでした。主イエスが人々に福音を宣べ伝え始める前に現われ、荒れ野で、人々の罪を厳しく指摘し、悔い改めを求め、悔い改めの徴としての洗礼を授けていた洗礼者ヨハネです。彼の働きは何の権威によるものだったか、天から、つまり神様からの権威によるのか、人から、つまり人間であるヨハネが勝手にしていたことで、本当に権威あることではなかったのか、そのことについての彼らの見解を主イエスは求めたのです。これは彼らには痛いところを突かれる質問でした。何故なら彼らはヨハネのことを無視してきたからです。神殿の祭儀を重んじない、そして民の指導者たちにも従わないヨハネの独自な活動は彼らには目障りなものであり、真剣にとりあげるようなものではなかったのです。ですから彼らにとってヨハネの洗礼の位置づけは決まっています。そなものは天からではない、ただの人間の勝手な業だというのが彼らの思いです。しかし、彼らを取り巻いている多くの民衆はそうは思っていませんでした。彼らはヨハネを神様から遣わされた真実な預言者と信じ、ぞくぞくとヨハネのもとに行って悔い改めの洗礼を受けたのです。またヨハネはヘロデ王を批判して投獄され、獄中で首を切られて死にました。そのこともまた、権力に屈することなく正しい主張をして殉教した預言者としてヨハネを尊敬する機運を盛り上げていました。そのような人々の前で、「ヨハネの洗礼など人間の勝手な業で神様とは関係ない」などと言えば、群衆の怒りをかい、殺されてしまわないまでも、人々の支持を失うことになるのは目に見えているのです。それで彼らは「分からない」と答えました。すると主イエスも、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と答えられたのです。
変えられることを拒む
この問答は、一面においては、悪意ある、主イエスを詰問し批判しようとする問いに対して、主イエスが逆に一つの問いを投げかけることによって、巧妙に彼らの問いを回避なさった、言葉尻をとらえられるのを防いだ、ということです。しかしこの話を、「イエス様、お見事」と拍手して終わりにすることはできません。ここには私たちの信仰において非常に大事なことが示されているのです。彼らは、「何の権威でこんなことをするのか」と主イエスを詰問し、答えを迫りました。それは主イエスがもし「神の権威でしている」と答えたら、「ただの人間が神の権威を語るなど神への冒涜だ」ということで逮捕することができるし、それを恐れて主イエスが「自分の権威だ」と言えば、主イエスを神からの救い主と期待している人々が失望し、離れていく、だからどっちに転んでも主イエスを抹殺できるという思いからでした。つまり彼らの言葉は、主イエスの権威を問う問いの形をとってはいますが、そこにある思いは、主イエスの権威など絶対に認めないという頑なな思いなのです。主イエスはそれに対して逆にあの問いを投げかけることによって彼らの罠を逃れたわけですが、しかしあの問いかけによって白日のもとに明らかにされたことがあります。それは、彼らがひたすら、今の自分の地位や立場を守ろうとしているということです。そのために都合の悪い問いには答えない、「分からない」と言って逃げているのです。そのことはもう少し一般的に言えば、変わることを拒んでいるということです。今の自分のままでいることに固執しているのです。新しくなることを拒否しているのです。それが彼らの本質であることが、主イエスのあの問いによって明らかになっています。そしてそれは裏返して言えば、主イエスの問いかけを受けるというのは、私たちが新しくなること、変えられることを求められることだということです。信仰とは、主イエスの問いかけの下に身を置いて生きることだと申しました。それこそが、到来する主イエスを迎えるアドベントの信仰だとも申しました。それはさらに言えば、主イエスからの問いかけを受けて、私たちが新しくされていくこと、変えられていくこと、自分の思いに固執するのでなく、主イエスによって示される新しいことを受け入れていくことなのです。そしてそれこそが、主イエスの権威を認めるということです。権威とは、本当に従っていくに足る力だと申しました。つまり本当の権威にふれる時に、私たちは、その権威を持った方に従っていく者となるのです。従っていくということは、自分がもはや自分の主人ではなくなるということです。その方によって自分が変えられていくこと、新しくされていくことです。本当の権威は、私たちを新しくする力、造り変える力なのです。主イエスの権威を問うことは、この権威の下に身を置き、それに従うという思いなしには無意味なことです。私たちはこの祭司長たちや長老たちのように、主イエスを罠にはめて陥れようとか、抹殺しようとしているわけではありません。しかし、自分が変えられること、新しくされることを拒否しながら、主イエスの権威を問題にしているなら、それは結局、彼らが主イエスを抹殺しようとしてその権威を問うたのと同じことになってしまうのです。
悔い改めを拒む
もう一つの大事なことは、主イエスが、ヨハネの洗礼について彼らに問われたことです。それは単に彼らが答えることのできない問題を選んで用いられたということではありません。ヨハネは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語ったのです。つまり、人々の罪を指摘し、あなたがたは罪を悔いて神に立ち帰らなければならないと告げたのです。彼が授けていた洗礼はその悔い改めの徴でした。そのヨハネの活動が、天からのものか、人からのものかと主イエスは問われたのです。ということはこれは、「あなたがたは自分が悔い改めなければならない罪人であることを認めるのか、それとも認めないのか」ということです。主イエスが私たちに問うてこられるのはまさにこのことなのです。私たちはこの問いの前に立たされます。祭司長たちは、人々の手前、「分からない」と答えました。しかしヨハネを無視した彼らの思いにおいては、この問いへの答えは明確に否です。彼らは、自分が悔い改めなければならない罪人であるとは思っていないのです。だから、変えられること、新しくされることを拒んでいるのです。ですから先ほどの、変えられること、新しくされることを拒む彼らの姿というのは、言い換えれば、悔い改めを拒む、自分が罪人であることを否定するということなのです。私たちが、主イエスによって変えられること、新しくされることを拒む時に働いているのも同じ思いです。自分は罪人などではない、赦されなければならないような者ではない、このままでよいのだ、と思っているから、変えられることを拒むのです。そしてそこから出て来るのは、変わらなければならないのはむしろ周囲の人々だ、という思いです。さらには神ご自身が、私が納得できるように変るべきなのだ、という思いです。自分が問うばかりで、神様から、主イエスから問われることのない歩みというのは、このような思いの中で生じてくるのです。
主イエスの権威
主イエスの権威を認めるというのはそれゆえに、自分が悔い改めなければならない罪人であることを認めることです。主イエスご自身も、ヨハネと全く同じく、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って伝道を始められたとマタイ福音書は語っています。罪の悔い改めを求める教えはヨハネも主イエスも共通しているのです。神殿の境内で主イエスが教えておられたのも、この教えなのです。マタイは「宮潔め」のみ業だけでなく、この主イエスの教えを意識しつつここを語っているのです。そして、主イエスの教えの権威を問うならば、自分自身が、悔い改めなければならない罪人であることを認めるのか否かを問われるのだということを語っているのです。
主イエス・キリストの権威は、私たちの罪を指摘し、悔い改めを求める権威です。主イエスは私たちに、あなたがたは神様の前で罪人だと宣言し、その赦しを願うことを求めるのです。しかしその権威は、居丈高に私たちを断罪し、裁いて立ち上がることができなくしてしまうようなものではありません。主イエスは、私たちの罪を問い、悔い改めを求めるだけの方ではなかったのです。主イエスは、そのように問うて明らかにした私たちの罪を、全てご自分の上に背負って下さいました。そして、その罪の報いとしての死を引き受けて下さったのです。主イエスがエルサレムに来られたのはそのためでした。既に主イエスの地上のご生涯の最後の一週間、いわゆる受難週が始まっているのです。主イエスはこの週の内に捕えられ、十字架にかけられて殺されるのです。それは、私たちの身代わりとしての死、私たち全ての者の罪を引き受けて、赦しを与えて下さるための犠牲としての死でした。つまり主イエスは、私たちの罪を指摘し、悔い改めを求めるだけでなく、その罪の赦しのための道を開き、どうしようもない罪人である私たちが、父なる神様の子供とされて、その恵みの内に新しくされ、造り替えられて生きることができるようにして下さったのです。そこに、洗礼者ヨハネと主イエスの違いがあります。「悔い改めよ。天の国は近づいた」という教えは、主イエスにおいては、その十字架の死による罪の赦しの恵みの中に置かれているのです。そこに主イエスの権威があります。それは私たちを力で抑えつけるような「権力」ではありません。心ならずも従わざるを得ないような力ではないのです。そうではなくてそれは、私たちが心から喜んで従っていくに足る、神様の恵みの実力です。「他を追随させるに足るずば抜けた実力」が権威の意味であると申しました。主イエスにはそのような実力が、しかも神様の恵みの実力があるのです。
問う者から問われる者へ
私たちは、主イエスに対して、神様に対して、問いかけてばかりいる者です。納得のいく、満足できる答えが得られれば信じることができる、と思いがちな者です。しかしそのような姿勢で神様に、主イエスにいくら問い掛けていっても、私たちの納得できる、満足できる答えはいつまでも返ってこないのです。むしろそこで私たちは主イエスから逆に問いかけられます。問う者から、問われる者への転換を求められるのです。しかしそこにこそ、私たちが本当に神様の恵みにふれるチャンスがあります。あの祭司長、長老たちのように、主イエスからの問いかけを避けて、「分からない」と言っていくなら、それは本当は分からないのではなくて、答えたくない、自分が変えられたくないということであるわけですが、それではいつまでたっても主イエスの本当の権威と出会うことはできないのです。しかし私たちが、主イエスからの、「あなたは悔い改めなければならない罪人ではないのか」という問いかけを真剣に受け止め、罪の赦しを神様に願い求めていくならば、私たちはそこで、罪の赦しの恵みの権威を豊かに持っておられる主イエス・キリストと出会うことができるのです。主イエスにおける、神様の恵みの実力にふれることができるのです。
アドベントの信仰とは、来りたもう主イエスからの問いかけの中に身を置くことです。そこにおいてこそ私たちは、私たちの真実な救い主としての主イエスの権威を体験することができます。この権威の下で生きることにこそ、本当の慰めと支えと喜びがあるのです。迎えるクリスマス、本当に従っていくに足る権威ある方である主イエス・キリストを、心からの喜びをもってお迎えする時でありたいのです。
牧師 藤 掛 順 一
[2002年12月8日]
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