列王記に入る
月の第四の主の日には、原則として旧約聖書からみ言葉に聞いております。先月は召天者記念礼拝が行われたので、9月以来ということになります。その9月の時に、サムエル記下の最後の第24章を読みました。それをもってサムエル記を終わり、今回からは、次の列王記に入ります。列王記は、英語の聖書では単純に「キングス」、つまり「王たち」となっています。ダビデ以後のイスラエル王国、それは途中で北王国イスラエルと南王国ユダとに分裂していくのですが、それぞれの王様たちの事跡を語っていくのがこの列王記です。本日はその最初として第3章を読みます。ダビデの後を継いで王となったソロモンのこと、そしてそのソロモンの大変優れた裁きのことが語られているところです。「ソロモンの知恵」という言葉が慣用句となるほどに、ソロモン王は知恵に富んだ、英邁な王様であり、彼の治世がイスラエル王国の最盛期となったのです。
王位継承
さてこのソロモンがダビデの後を継いで王となったわけですが、その継承は決してすんなりと平和の内になされたのではなかったということが、列王記上第1、2章を読むとわかります。ソロモンは勿論ダビデの子ですが、その母は、あの、元ウリヤの妻であったバト・シェバです。ダビデが見初め、部下だった夫ウリヤを陰謀によって戦死させて自分の妻にした女性です。彼らの間に生まれた最初の子、道ならぬ関係のもとに身ごもられた子は育たずに死んでしまいましたが、その後に生まれたソロモンは、主なる神様に愛されてすくすくと育ったのです。しかしソロモンはダビデの長男ではありません。彼の上に兄たちがいるのです。ダビデの長男はアムノンという人でした。彼はある出来事のために弟アブサロムに殺されました。そしてそのアブサロムは父ダビデに対して反乱を起こし、滅びてしまいました。その次の息子はアドニヤという人でした。列王記上第1章には、このアドニヤが、ダビデに代って王となろうとしたことが記されています。最年長の息子が父の跡を継ぐということからすれば、それは当然のことであるとも言えます。しかしこの頃はまだ、そのように年長順に王位を継承するというルールが確立していたわけではありません。どこの王国でも、王が死ぬと息子たちの間で熾烈な後継者争いが起こり、それに勝利した者が次の王になる、ということが繰り返されていたのです。この場合にはダビデはまだ生きていますが、もう体力も気力もすっかり衰えてしまっている、その中で、ダビデの宮廷にもそういう争いが起ったのです。このことは今に始まったことではありません。以前に申しましたが、アブサロムが兄アムノンを殺した事件も、妹タマルを陵辱されたという個人的な恨みもさることながら、むしろそれを口実に自分の王位継承の邪魔者を取り除くという意図があったように思われます。そしてそういう思いがさらに昂じて、あの反乱を起こしたのです。つまりダビデの晩年は、息子たちの後継者争いに翻弄され続けた日々であったとも言えるのです。
アドニヤが王となろうとした、その陰謀はダビデの家臣たちを巻き込んだ勢力争いの様相を呈していきます。1章7節にあるように、アドニヤはツェルヤの子ヨアブと祭司アビアタルを自分の支持者として得たのです。ヨアブはダビデの軍司令官、祭司アビアタルはダビデがサウル王に追われて逃げていた時代からの腹心です。この二人がアドニヤ擁立に向けて動きました。それに対して、8節にあるように、祭司ツァドク、ヨヤダの子ベナヤ、預言者ナタンなどの人々はそれに組みせず、ソロモンを擁立しようとします。その中でも中心人物は預言者ナタンです。彼はダビデがウリヤの妻バト・シェバを陰謀によって自分の妻とした時、その罪を厳しく指摘し、ダビデの悔い改めを引き出した人です。そのナタンが今度はバト・シェバの息子ソロモンをダビデの後継者とするための中心人物として動いたのです。彼はバト・シェバを訪ね、ただちにダビデ王のもとに行ってアドニヤが王となろうとしていることを告げ、ソロモンをこそ次の王として指名してくれるように願うように言います。このナタンと、彼に後押しされたバト・シェバの働きかけによって、ダビデはソロモンを王とすることを宣言し、ソロモンに油を注いで王として即位させることを命じます。この経過の中で、列王記上1章には、ダビデが既に以前にバト・シェバに、ソロモンを自分の次の王とすると誓っていた、ということが語られています。しかしそれは個人的な話で、そのことを家臣たち全員に公に示してはいなかったのです。このダビデの意向が公に明らかにされることによって、アドニヤではなく、ソロモンがイスラエルの王として即位したのです。
しかし事はそれで一件落着とはいきませんでした。ダビデが生きている間は一応平穏が保たれていましたが、いよいよダビデが死ぬと、なりを潜めていた動きが表面化してきます。そのことが第2章に語られています。アドニヤは、自分が王になるという願いを捨ててはいませんでした。彼はダビデ王の最後の側女だったアビシャグを自分の妻としたいと願い出ます。それは一見、ほれ込んだ美しい女を妻としたいというだけのことのように見えますが、実はそこには、父王の後宮、ハーレムを受け継ぐという意味が込められているのです。それは、あのアブサロムが反乱を起こしてしたことでした。このことによってアドニヤは、自分こそ父ダビデの後を継ぐ者だと主張する口実を得ようとしたのです。ソロモンはその思いを見抜き、自分の腹心であるヨヤダの子ベナヤを送ってアドニヤを殺させます。そしてこのことから始まって、ソロモンによる、彼の王位を危うくする危険人物の排除が始まります。アドニヤ擁立に動いた祭司アビアタルが追放され、軍司令官ヨアブが殺されます。要するにソロモンによる反対派の粛清です。そういうことを経て、2章の終わりのところに、「こうして王国はソロモンの手によって揺るぎないものとなった」と語られているのです。本日の第3章に入る前にこのようなことが語られていたことを私たちは知っておく必要があります。ダビデからソロモンへの王位継承においては、このような血なまぐさい争いや粛清があり、人間の思惑のぶつかり合い、権謀術数がうず巻いていたのです。
ソロモンの願い
この2章までの記述と、本日の第3章に語られているソロモン王の姿とはかなり隔たりがあるように感じられます。第3章にあるのは、ソロモンが主なる神様を愛し、その祭壇に一千頭もの焼き尽くす献げ物をささげて礼拝をしたことです。そしてその夜、主が彼の夢枕に現れ、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われました。ソロモンはそれに対して、「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう」と答えました。民の訴えを聞き分け、正しい裁きを行うことが王としての大事な務めの一つです。その務めを正しく適切に果すことのできる知恵をこそ、ソロモンは求めたのです。その願いは主なる神様のお喜びになるものでした。自分が長生きすることや、豊かな富を得ること、敵を打ち破ることなどを求めるのではなく、民の訴えを正しく聞き分ける知恵を求める、それは、自分を王として立てて下さった主なる神の前で、謙遜にその務めを果そうとする姿です。自分のことよりもまず、国民のこと、民が幸せになることを求めようとする姿です。その謙遜な願いを主は喜び、こう約束されたのです。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう」。民の訴えを正しく聞き分ける知恵を求めたソロモンに、神様は、彼の求めなかった富と栄光、そして長寿をも与えると約束して下さいました。後に「ソロモンの栄華」と呼ばれるようになる繁栄は、この神様の祝福によってもたらされたのです。
このソロモンの願いとそこに与えられた神様の祝福は、私たちに、民の指導者たる者に本当に求められている資質とは何かを教えています。それは自分の誉れや豊かさを求めるのではなく、民の声をしっかりと聞き分けること、そして正しい、公平な裁きを行うこと、つまり人と人との間の様々な事柄を、一方に偏ることなく公平に聞き取り、客観性を持った判断ができることです。その時の気分や、感情的な好き嫌い、自分の気に入るかどうかで物事を判断してしまうのでなく、そういう自分の思いを括弧に入れて、外から別の目でもう一度見ることができる、そういう冷静さこそが、王たる者、指導者たる者には求められるのです。このような知恵をこそソロモンは求めたのです。それに対して神様はその知恵のみでなく、栄光と富と長寿をも与えると約束して下さったのです。
神のご計画
この3章に語られている、民を正しく治めるための知恵を謙遜に求めるソロモンと、2章までの、敵対者たちを粛清して権力を固めていったソロモン、いったいどちらが本当の姿なのでしょうか。それは、どちらもソロモンの真実の姿なのだと思います。少なくとも聖書がそのように語っていることは確かです。列王記は、3章のみを語ってソロモンを美化しようともしていないし、1、2章の、血みどろの後継者争いの勝利者としてのみソロモンを描くこともしていないのです。食うか食われるかの、生き馬の目を抜くようなこの社会の現実の中で、自らの権力の確立のために争い、権謀術数の限りを尽くしていくソロモンも、神様の前で、自分の栄光よりも正しい裁きを行う知恵をこそ願い求めるソロモンも、同じ一人の人です。一人の人がこの両方の面を共に持っているのです。そしてそれが、私たち人間のありのままの姿なのではないでしょうか。「3章だけ」のような、ある意味で理想的で欠点のないような人間はいません。誰でもみんな、1、2章のようなどろどろとした、醜い、また血なまぐさいところを持っているし、またそういうものと全く無縁に生きようとしたら、この世を生きることはできません。そして私たちはそのようなこの世の現実の中で、しかしただ権力闘争にのみ生きているのではありません。自分に与えられている地位や役割を、主なる神様が与えて下さったものとして感謝して受け、その使命をみ心に従って正しく適切に果たしていくために努力し、そのための知恵を求めつつ歩むということもまた、私たちが日々していることなのです。そして大事なことは、このような両方の面を持っている私たち人間を、神様がそのご計画の中で用いて下さるということです。ダビデからソロモンへのイスラエルの王位の継承は、単に人間の権力の継承ではありません。神様がダビデを選び、王として立て、彼によってご自分の民イスラエルを導き、守り、養って下さる、その神様の祝福の継承です。神様の救いのご計画の進展と言ってもよいでしょう。そのことが、醜く血なまぐさいこのような人間の権力争いを通してなされていくのです。それは、神様が、人間の罪や欲望をもご計画の中に置き、支配しておられ、それらを通して救いのみ心を行って下さるということです。ダビデとバト・シェバの間に生まれたソロモンに王位が継承されていくということに、そのことがまさに典型的に表れていると言えます。あの預言者ナタンがバト・シェバと共にソロモンを王とするために力を尽くしたのは、そのような神様のみ心とみ業を見つめていたからなのではないでしょうか。神様はソロモンを特別に愛されたのです。彼が王になったのは、根本的には、ダビデが指名したからでも、ナタンたちが上手に工作をしたからでもなく、神様が彼を王としてお立てになったからです。それは人間の通常の順序やルールからは外れたことでしたが、神様の選びはそうだったのです。
知恵を求める心
そして神様に愛され、選ばれたソロモンは、この3章にあるように、神様のみ心に従って正しく民を治めるための知恵を求めました。それはソロモンがもともとそのように謙遜で信仰深い人だったというよりも、神様に選ばれ、王として立てられていくことの中で、そのような、本当に求めるべきものを求める心を与えられていったということでしょう。ソロモンの知恵は、神様がその恵みによって彼に求めさせてくださり、そして神様がイスラエルの民の幸福のために彼に与えて下さったものだったのです。従ってそれは、私たちにも与えられるものです。私たちも神様から、本当に求めるべき知恵を願い求める思いを与えられるのです。ソロモンは、「わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません」と言っています。また、「僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです」とも言っています。つまり、自分に負わされている務め、使命は大きすぎてとても担えそうにない、ということです。自分はそのように知恵も力も足りない者だと言っているのです。そしてだから神様に、務めを正しく果すための知恵を与えて下さいと祈り求めているのです。ソロモンの知恵はその願いに答えて与えられました。そのように求める心をソロモンに与えて下さった神様は、私たちにも同じように、知恵を求める心を与えて下さり、そしてそれを適えて下さるのです。
ソロモンの裁き
ソロモンに与えられた知恵の実例として語られているのが、16節以下の、二人の遊女たちへの裁きの話です。これと同じような話を私たちは、大岡越前守の「大岡裁き」の話として知っています。おそらくあの大岡裁きの話は、このソロモンの裁きの話が伝えられていって生まれたのだろうと思うのですが、正確なところはわかりません。二人の遊女が共に住んでおり、同じ時期に子を生んだが、片方の赤ん坊は死んでしまった、残った赤ん坊を二人が共に自分の子だと主張して譲らない、という事件です。ソロモンは、双方が共にこの子は自分の子だと主張するのを聞くと、剣を持って来させ、子供を二つに裂いて双方に半分ずつ与えよと言います。それを聞くと本物の母親の方は、「この子を殺さないであの人にあげてください」と言いますが、もう一人の方は、「二つに裂いて分けてください」と言います。それによってソロモンは、どちらがこの子の本当の母親であるかを見分け、彼女に子供を渡すように命じたのです。お見事!さすがは神様に与えられた知恵に満ちたソロモン王、と喝采したくなる話です。勿論そのように読んでよい話なのですが、しかし私たちは今日、この話を読む時に、もう少しいろいろなことを考えさせられるように思います。この話は、「子供を殺さないで相手に渡してください」と言った人が本物の母親で、「裂いて分けてください」と言った方は偽者だという前提で語られています。常識的に考えればその通りだと思います。しかしこのことは、どちらがこの子の本当の母親であるかを客観的に判断する根拠ではありません。それを客観的に判定することは今日は簡単です。DNA鑑定をすればよいのです。キム・ヘギョンさんが横田めぐみさんの娘であることを証明したあれです。生物学的な親子関係はそういうことで証明できます。そしてその結果は、必ずしも、「子供を殺さないで」と言った人の方が本当の母親だという常識とは一致しないかもしれない、というのが、私たちが今日体験していることではないでしょうか。「母親なら自分の子供はかわいい、その子が殺されるぐらいなら他人に取られた方がまだましだと思う」という常識が、今は音を立ててくずれていっている、そういう現象を私たちは沢山耳にしています。そしてまた逆に、自分の本当の子供ではない子供を引き取って大切に育てているという人も沢山いるのです。だから今日は、生物学的な母親が、「裂いて分けてください」と言い、そうでない人が「その子を殺さないで」と言うということだっていくらでもあり得る、そういう時代です。本当の母親はどちらか、ということを見分けるという意味では、もうこのようなやり方は通用しない、DNA鑑定をするしかない、というのが今の時代なのです。そうなるとこのソロモンの裁きはもう意味を失うのかというと、そうではありません。むしろこのような時代だからこそ、この裁きは別の、新しい意味を持ってくると思うのです。それは、この裁きによって、本当にこの子の母親となって育てていくのに相応しい人はどちらか、ということが明らかになるということです。この子供が本当に幸せな育てられ方をしていくのは、何かあったら「この子を裂いて分けてください」と言う人のもとではなくて、「この子を殺さないであの人にあげて」と言う人のもとでこそでしょう。ソロモンの裁きは、実はそのことをこそ明らかにしているのです。その意味で、これは現代の科学の進歩が生み出したDNA鑑定以上に、本当に知恵ある裁きだったのです。この話は、本当の知恵とは何か、また私たちがどのような知恵をこそ神様に祈り求めていくべきなのかを考えさせてくれる話だと言うことができます。本当の知恵とは、人を本当に生かし、支え、神様の祝福の下で生きることを可能にするものなのです。
ソロモンにまさる者
さて本日は、共に読まれる新約聖書の箇所として、マタイによる福音書第12章38節以下を選びました。ここに、本日の説教の題である「ソロモンの知恵」という言葉が出て来るのです。南の国の女王が、ソロモンの知恵を聞くために、はるばる地の果てからやって来たということが語られています。それは、いわゆる「シェバの女王」の話で、列王記上の第10章にあります。ソロモンの知恵は当時の全世界の評判となり、はるか遠くの国の女王様までもが、その知恵の言葉を聞くためにやって来たのです。その出来事を思い起こしつつ、主イエス・キリストがここで言っておられるのは、「ここに、ソロモンにまさるものがある」ということです。「ソロモンの知恵にまさるまことの知恵」、それは、主イエス・キリストご自身のことです。主イエスにこそ、あのソロモンにまさる知恵がある。それは主イエスがそれほどに知恵深い方だということに留まりません。主イエスにおいて、あの、人を本当に生かし、支え、神様の祝福の下で生きることを可能にする知恵が具体化しているのです。主イエスは、私たちの罪を全て背負い、身代わりになって十字架にかかって死んで下さるためにこの世に来て下さった神様の独り子です。自分を犠牲にすることによって子供を生かそうとしたあの母親こそが本当にあの子供を愛している、母親たるに相応しい人だったように、主イエスはご自分の命を犠牲にして私たちを真実に愛して下さった方なのです。この主イエスのもとで、主イエスと共に生きるようになることにこそ、私たちが本当に神様の子供として愛され、祝福のうちに生かされ、支えられていく道があります。私たちにその道を示し、その道を歩むことができるようにして下さる方こそ、ソロモンの知恵にまさるまことの知恵ある方なのです。私たちは、このソロモンにまさる知恵である主イエス・キリストのもとに導かれ、主イエスと共に生きる恵みを与えられています。そしてこの主イエスに、本当の知恵を与えて下さいと祈り求めつつ歩むのです。この主イエスから与えられる知恵によって、私たちも、人を本当に生かし、支え、神様の祝福の下で生きることを可能にする知恵の言葉を語る者となりたいのです。
牧師 藤 掛 順 一
[2002年11月24日]
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