富山鹿島町教会

礼拝説教

「主よ、憐れみたまえ」
詩編 第57編1〜12節
マタイによる福音書 第20章29〜34節

目の見えない人の癒し
 礼拝においてマタイによる福音書を読み進めてまいりまして、20章の終わりに来ました。次の21章には、主イエスがエルサレムに入られた時のことが語られています。それは、主イエスの地上のご生涯の最後の一週間、捕えられ、十字架につけられていく、いわゆる「受難週」が始まるということです。本日の箇所は、その受難週が始まる前の最後の話なのです。マタイ、マルコ、ルカ福音書はほぼ共通して、このエルサレム入城前、つまり受難週前の最後のところに、目の見えなかった人の癒しの出来事を語っています。ルカだけは、さらに二つの話をこの後に挿入していますが、だいたいの流れは同じです。また最も古い、マタイも下敷きにしたとされるマルコ福音書では、この人の名前も記されています。「ティマイの子バルティマイ」というのです。しかしルカでは「ある盲人」となっており、このマタイでは、同じく名前は語られずに、「二人の盲人」と人数が二人になっています。そういう違いはあるにせよ、主イエスの、エルサレムに向けての、つまりご自分でも予告しておられた受難、十字架の死に向けての最後の歩みの途上で、目の見えなかった人が癒されたことを、三つの福音書は共通して語っているのです。

必死の叫び
 「一行がエリコの町を出ると」とあります。エリコは、エルサレムに上る旅路の最後の宿場です。主イエスと弟子たちの一行はそこを出て、いよいよエルサレムへと進んで行こうとしていたのです。「大勢の群衆がイエスに従った」とあります。多くの人々が、主イエスの一行について来た。主イエスの教えやみ業に感銘を受け、この方こそ来るべきメシア、救い主なのではないか、という期待を抱いている、あるいはもっと漠然と、この方についていけば何かいいことがあるのではと思う、そういう人々が主イエスの一行の後をぞろぞろとついて来たのです。「そのとき、二人の盲人が道端に座っていた」。道端に座っていた、それは物乞いをしていたということでしょう。エリコの町に出入りする人々から施しを受けることで、彼らは生活していた。当時の社会では、目の見えない人はそのようにして生きるしかなかったのです。その二人の盲人が、主イエスがお通りだと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びました。大勢の人々が通っていく、その中のどこに主イエスがおられるのかわからない彼らは、ひたすら大声で、叫び続けたのです。「群衆は叱りつけて黙らせようとした」。その群衆とは、「主イエスに従った」とある人々です。主イエスと関係のない人々ではありません。主イエスに感銘を受け、期待し、ついていこうとしている人々です。しかしその人々が、主イエスの憐れみを切に求めて叫ぶ彼らを黙らせようとしたのです。その中には、ひょっとしたら主イエスの弟子たちも入っていたかもしれません。「今先生は大事な働きをするためにエルサレムに向っているところなんだ。おまえたちに構っている暇はない、邪魔をするな」、そういう思いが弟子たちにもあったことは確かでしょう。弟子たちも含めて、誰もこの盲人たちの叫びを受け止めようとはしなかったのです。しかし彼らは、主イエスに自分たちの声をなんとか聞き取ってもらいたいという必死の思いで叫び続けました。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」。

叫びを聞き取る主イエス
 主イエスだけが、彼らのこの叫びを受け止めたのです。主イエスは立ち止まり、二人を呼び、そして彼らの願い通りに、その目を開き、見えるようにして下さいました。誰も相手にしなかった彼らに、主イエスだけは、恵みのみ手を差し伸べて下さったのです。そこに、主イエスという方の本質が、あるいは特徴が示されています。私たちが無視したり見過ごしたり聞き逃してしまう、救いを求める叫びを、主イエスは敏感に聞き取り、それに反応して下さるのです。
 けれども、もしも私たちがここから、主イエスは救いを求める人の叫びを敏感に受け止めて下さる、だから私たちも、自分の周りにいる助けを求める人の声に敏感にならなければならない、そういう声を無視したり聞き逃してしまわないようにしなければならない、という教訓を導き出すとしたら、そのこと自体は間違ったことではありませんけれども、それはマタイがここで語ろうとしていることとは全くかけ離れていると言わなければならないでしょう。この話はそういうことを語っているのではありません。もしそうならば、この話は、主イエスはエリコの町を出ると、二人の盲人が道端に座っているのを見て、彼らのところに歩み寄り、癒して下さった、という話であるべきです。目が見えずに物乞いをして生活しなければならない彼らの心の中に、声には出なくても、救いを求める思い、苦しみ悲しみがあることは明らかです。その声にならない叫びを聞き取ってこそ、人々の苦しみに対して本当に敏感であると言えるのであって、あのような叫びを彼らにあげさせたこと自体、主イエスもまだ本当には敏感と言えない、ということにもなるのです。この話のポイントはだから、主イエスが人々の苦しみにどれだけ敏感だったかということではありません。彼ら二人の盲人が、主イエスに向かって、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。人々に叱りつけられても、やかましい、邪魔だ、黙っていろとののしられても、ひるまずに叫び続けた。そこに、この話の第一の大切なポイントがあるのです。彼らがこの叫びをあげなければ、主イエスはそこを通り過ぎていかれただけで、彼らの癒しはなかったのです。

「何をしてほしいのか」
 彼らは主イエスに向ってひたすら叫び続けました。その叫びを聞いて主イエスは、立ち止まって、彼らを呼び、「何をしてほしいのか」と問われたのです。これは考えてみればおかしな問いです。主イエスはこれまでに多くの、病気の人、体の不自由な人を癒してこられました。そして今、目が見えなくて物乞いをしている人が、「主よ、憐れんでください」と叫び求めているのです。その彼らに「何をしてほしいのか」などと問うことは、それこそ鈍感極まりないことだとも思えます。「この目を癒していただきたい、見えるようになりたい」と彼らが願っていることは明らかなのです。しかし主イエスは敢えて、「何をしてほしいのか」と彼らに問われます。ここに、この話の第二の大事なポイントがあるのです。

「イエスに従った」
 「主よ、目を開けていただきたいのです」と彼らは答えました。当然のことです。主イエスはこの願いを受けて、彼らの目に触れ、見えなかった目を見えるようにして下さいました。彼らが切に願い求めていた癒しの奇跡が起ったのです。彼らの喜びはいかばかりだったでしょうか。そしてその喜びの中で彼らはどうしたか。ここには一言、「イエスに従った」とあります。これが、この話の第三の大事なポイントです。願い通りに目を開かれた彼らは、主イエスに従っていった、エルサレムへと歩まれる主イエスについていったのです。この第三のポイントから振り返って見るときに、主イエスのあの「何をしてほしいのか」という問いが俄然大きな意味を持ってきます。彼らは主イエスに何をしてほしかったのでしょうか。彼らが求めていたことは何だったのでしょうか。目が見えるようになりたいと彼らが願っているのは当たり前だと申しました。目が見えるようになれば、物乞いをして生活をしなくてもよくなる、自分の力で働いて生活の糧を得ることができるようになる、そうすれば、家庭を持つこともできるようになる、人々とも普通に付き合うことができるようになる…、彼らはずっとそういう願いを心に抱き続けてきたでしょうし、主イエスがお通りだと聞いて、「わたしたちを憐れんでください」と叫んだ時にも、主イエスのみ前に呼ばれて「何をしてほしいのか」と問われた時にも、そういう思い、願いをもって「主よ、目を開けていただきたいのです」と言ったのだと思います。しかし、主イエスによってその願いがかなえられ、いよいよ目が開かれて見えるようになった時、彼らが思ったことは、「ああこれで人並みの人生が歩める、仕事をし、家庭を持ち、好きなことをして生きることができる」ということではなかったのです。自分の目を開けて下さった、暗闇から解放し、光を与え、本当に生き生きと人間らしく生きる道を開いて下さった、その主イエスと共にいたい、この方についていきたい、従っていきたいという思いが、他のどの思いよりも強く彼らの内に湧きあがってきたのです。これは、「こんなに大きな救い、恵みを与えて下さったのだから、それに感謝し、応答していくのが当然だ、恵みへの感謝として主イエスに従っていくべきだ」という思いとは違うと思います。彼らを動かしたのは、「恵みに感謝しなければ」という義務感ではありません。彼らは自分の一番したいことをしたのです。誰から求められてでもなく、良心がとがめるからでもなく、心から喜んで主イエスに従ったのです。つまり、主イエスの癒しのみ業によって、彼らの願い求めていることが変わったのです。いやそれは、変わったように見えるけれども、実は、彼らが本当に求めていたことは何だったのかが明らかになったということなのではないでしょうか。目が見えるようになれば、あのこともこのこともできる、人並みの生活ができる、だから目を開かれたい、と彼らは思っていました。それが自分たちの心からの願いなのだと思っていたのです。しかし、主イエス・キリストのみ前に呼ばれ、「何をしてほしいのか」と問われ、願いの通りに目を開かれた時、彼らは、自分たちが本当に求めていたのは、この方との出会いだったのだということに気づいたのです。はっきり意識してはいなかったけれども、彼らが本当に求めていたのは、自分たちの苦しみを本当にわかって下さり、救いを与えて下さるこの主イエス・キリストと共に歩むこと、主イエスという、本当に従っていくに足る、恵みと憐れみに満ちた主を得ることだったのです。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」という彼らの叫びには、彼らの心に秘められたそういう願い求めが現われていると言えるでしょう。単に「目を見えるようにして下さい」と願っているのではないのです。彼らは、「憐れみの主」を求めていたのです。主イエスは、「何をしてほしいのか」と敢えて問うことによって、彼らの心の奥底にあるこの真実な願い求めを呼び覚まそうとしておられるのです。

憐れみの主を求めて
 そのように見てくるならば、彼らのあの叫びは、決して彼らだけの問題ではないことがわかります。「主よ、私たちを憐れんでください」という願いは、私たち一人一人の心の中にもあるのです。私たちも、それぞれ様々な悩みや苦しみ悲しみをかかえて生きています。この盲人たちが「目を開けてほしい」と願ったように、私たちもそれらの様々な問題、苦しみの解決、救いを願い求めます。けれども私たちが本当に求めているもの、意識はしていなくても、実は私たちにとっての本当の問題は、憐れみに満ちた主を見失っているということなのではないでしょうか。本当に従っていくべき、また従っていくに足る主人を得ていないということなのではないでしょうか。20章の始めのところにあった「ぶどう園の労働者のたとえ」を思い起こしてみるならば、次から次へと人々を雇い入れて彼ら全てに必要な一デナリオンを与えようとしているあの気前のよい、恵みに満ちた主人と出会うことができていないために、町の広場で何もせずに所在なくたむろしているしかない、それが私たちの苦しみの現実なのではないでしょうか。私たちにとって本当に必要なのは、あの主人と出会うことなのです。あの主人のぶどう園に雇い入れられることなのです。この二人の盲人はこの出来事によって、まさにあのぶどう園の主人である主イエスと出会ったのです。そして主イエスのぶどう園で働く者となったのです。彼らがイエスに従っていったというのはそういうことです。同じことが私たちにも起る。様々な悩みや苦しみ悲しみをかかえている私たちが、恵みと憐れみに満ちた主イエスという主人と出会い、主イエスに従う者、主イエスと共に歩む者とされるのです。そこにこそ、私たちが本当の慰めと支えと守りの内に生き、そして死んでいく道があるのです。

栄光と憐れみ
 主イエス・キリストの憐れみをひたすら叫び求め、その主イエスの憐れみにすがり、主イエスにつき従って生きる、そこにこそ、私たちの救いがあります。憐れみを求めるなどということは好かん、憐れみなどいらない、人に憐れまれるほど落ちぶれてはいない、と思う人がいるとすれば、それは自分自身のことがわかっていない、見えていないということでしょう。私たちはみんな、この二人の盲人と同じなのではないでしょうか。見るべきものが見えていないのです。自分がどれほど罪と汚れに満ちた者であるか、神様を侮り、畏れず、ないがしろにしているか、そして隣人をどれほど傷つけ、悲しませ、苦しめているか、そういうことに気づかないのです。実際に目が見えず、そのために物乞いをして生きなければならなかったこの二人の方が、自分の惨めさ、悲惨さをよりはっきりと知っていたと言えるでしょう。私たちの方が彼らよりマシだということは全くないのです。ところが私たちは、主イエスの憐れみを求めるよりも、栄光を求めます。憐れみを求めるべき自分を自覚するよりも、自分は少しはマシな者だと思いたがり、そしてもっとマシな者になろうとします。信仰をもそのための手段にしてしまいます。本日の箇所の直前の、先週も読んだ20節以下にあるのはそういう話です。主イエスの弟子であった、ゼベダイの二人の息子たち、つまりヤコブとヨハネが、他の弟子たちをさしおいて、主イエスの栄光に共にあずかる者となれるように願ったのです。実際にそれを願ったのは彼らの母ですが、彼らも同席していたのであり、彼ら自身の願いでもあったのです。彼らが「お願いがあるのですが」と言ってきた時、主イエスは、「何が望みか」とおっしゃいました。ここには、本日の箇所における「何をしてほしいのか」と同じ言葉が用いられています。つまりここには、主イエスに「あなたがたの願いは何か」と問われた二組の人々の話が並べられているのです。マタイが、盲人の数を二人にしているのは、あのゼベダイの子らヤコブとヨハネの二人と数を合わせ、二つの話を対にするためだったのではないかとも思われます。どちらも、主イエスにお願いをし、「何が願いか」と問われています。そして主イエスの弟子、信仰者であった者たちは栄光を求め、道端の物乞いだった盲人たちは憐れみを求めたのです。どちらが適切な求めだったのかは明らかです。私たちが主イエスに願い求めていくべきことは、栄光ではなくて、憐れみなのです。「より栄光ある者にして下さい」と願うのではなくて、「主よ、憐れんでください」と願うことこそが本当の信仰なのです。さらに言うならば、主イエスに従っていけば何かいいことがある、自分がよりマシな者になり、より栄光ある歩みができると思っていたのが、あの群衆たちです。主イエスに従うこと、つまり信仰をそのように自分がより善い者となり、より栄光を得るためのこととして捉えている者たちは、あの盲人たちを叱りつけて黙らせようとするのです。主イエスの憐れみを切に求める叫びを抑えつけ、妨げる者となってしまうのです。

主イエスの憐れみ
 私たちの信仰とは、主イエス・キリストの憐れみをひたすらに願い求めていくことです。その願いに応えて、主イエスは救いを与えて下さいます。この盲人たちが見えるようになった、その場面の書き方には、マタイと、他のマルコ、ルカとでは違いがあります。マルコとルカには、「あなたの信仰があなたを救った」という主イエスのお言葉があるのです。しかしマタイにはそれがありません。その代わりにマタイにあってマルコとルカにないのは、「イエスが深く憐れんで」という言葉です。マルコとルカが、ひたすら主イエスの憐れみを求める盲人の信仰を見つめ、その信仰による救いを語っているのに対して、マタイは、主イエスの憐れみによる救いを強調しているのです。私たちの信仰とは、主イエスの憐れみをひたすら願い求めることです。その憐れみを求める私たちの祈り願いに対して、主イエスは深い憐れみをもって応えて下さいます。「深く憐れみ」と訳されている言葉は、盲人たちが「憐れんで下さい」と願っているその「憐れむ」とは違う言葉です。「憐れんで下さい」の方は、普通に「かわいそうに思う」という意味で使われる言葉です。しかし主イエスが「深く憐れむ」、それは、もともとは内臓という意味の言葉から来ており、内臓がゆり動かされるような憐れみ、もっと日本語的に言えば、はらわたがよじれるような憐れみを意味しています。それは主イエスの私たちへの憐れみを表す特別な言葉です。昨晩、東京神学大学の山内眞学長の講演会が富山で持たれましたが、その講演の中で先生は、マタイ、マルコ、ルカ福音書における主イエスのお姿を表す最も中心的な言葉として、この「深く憐れむ」をあげられました。主イエスは、「憐れみの主」なのです。私たちの信仰とは、この主イエス・キリストの憐れみをひたすら願い求めることです。その願いに、主イエスは、深い憐れみ、特別な憐れみをもって応えて下さるのです。それは、私たちの罪を背負って十字架にかかり、苦しみの内に死んで下さるという憐れみです。今主イエスは、エルサレムへ向けて、その憐れみの道を歩んでおられるのです。その道の途上で、憐れみを求める二人の人を癒し、ご自身の憐れみの内に置いて下さったのです。これも山内先生の講演の言葉ですが、主イエスの憐れみの行為である病人の癒し、つまり彼らが目を開かれたことは、主の十字架における根源的な癒し、つまり罪からの救いのしるしなのです。その癒しを受けた彼らは、主イエスに従っていった。それは、この主イエスの憐れみの内に留まり、そこで生きる者となったということです。それは何も特別なことではありません。主イエスの憐れみの下で生きることこそが救いなのです。主イエスのもとを離れては、この救いはないのです。だから彼らにとって、主イエスに従っていくことが一番自然なことなのです。

キリエ・エレイソン
 信仰とは、主イエス・キリストの憐れみをひたすら求めつつ生きることです。「主よ、憐れみたまえ」と祈り続けることです。「主よ、憐れみたまえ」という祈りは、新約聖書の言葉、ギリシャ語で「キリエ・エレイソン」といいます。それはそのギリシャ語のまま、教会の祈りの言葉となりました。「ミサ曲」などを聴くと最初にこの祈りが歌われます。私たちにはこの「キリエ・エレイソン」を礼拝において歌う習慣がありませんが、「讃美歌21」にはこれを歌う曲がいくつか入りました。だんだんにそういうものも歌えるようになればと思います。しかしそれを歌うかどうかはともかく、私たちが神様のみ前に出てこのように礼拝をささげる、その私たちの根本的な姿勢を表しているのはこの祈りなのです。「主よ、憐れみたまえ」、「キリエ・エレイソン」、私たちはそう切に祈り願いつつ歩みます。そう祈らずには一日も歩むことができない私たちであり、またこの世界です。しかしその私たちの、またこの世界の悲惨さ、罪を、私たち以上にはっきりと見すえ、その現実の中を深い憐れみをもって歩み、十字架の苦しみと死を引き受けてその憐れみを注ぎ切って下さり、そして復活の勝利のしるしである癒しを与えて下さる主イエス・キリストがおられるのです。この主イエスのもとに留まり、主イエスと共に歩むことこそ、私たちの信仰であり、そこに真実の喜びと希望があるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年11月3日]

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