富山鹿島町教会

礼拝説教

「主の杯を飲む者」
詩編 第22編1〜32節
マタイによる福音書 第20章17〜28節

第三回受難予告
 本日与えられている聖書の箇所、マタイによる福音書第20章17節以下には、主イエス・キリストが、ご自分のこれから受ける苦しみと死のことを予告されたお言葉が記されています。「受難予告」と言われるのですが、マタイ、マルコ、ルカ福音書はどれも、主イエスが三度にわたって受難予告をなさったと語っています。本日の箇所は、三度目、最後の受難予告です。マタイ福音書において、この三度にわたる受難予告は、その語られた場所においても、また内容においても、次第に深められています。第一回の受難予告は16章21節以下、フィリポ・カイサリア地方で、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰を告白した、その直後でした。第二回は17章22節以下、これは「一行がガリラヤに集まったとき」となっています。そして本日の第三回は、「エルサレムへ上って行く途中」です。つまり語られた場所が、次第に受難の地エルサレムに近づいていっているのです。また語られた受難の内容も、この第三回が最も詳しくなっています。「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する」とあります。ここで注目すべきポイントは、まず、「引き渡される」という言葉です。それは第二回の受難予告から出て来た言葉ですが、それがここでは二度語られています。主イエスが引き渡されること、それが受難において起こることの本質なのです。この言葉は幅広い意味を持っています。「逮捕される」ということでもあります。裁判の場から、十字架の死刑を執行する者たちに引き渡される、ということでもあります。そして最も深い意味は、父なる神様が、主イエスを、死に引き渡すということです。そういう意味でこの言葉が使われているところが、ローマの信徒への手紙第8章32節です。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。ここで使徒パウロは、主イエスの十字架の死は、神様が私たちのためにその御子をさえ惜しまず死に引き渡して下さったという恵みの出来事だったのだと語っています。「引き渡す」という言葉はそういう意味で、主イエスの受難の本質を語っているのです。その言葉がここには二度繰り返されているのです。
 次に注目したいのは、「十字架につける」という言葉がこの第三回に至って初めて語られていることです。それまでの二回は、「殺される」でした。そのことが具体的には、「十字架につけられる」という仕方で起ることがここに語られているのです。それと結びついているのが、「異邦人に引き渡される」ということです。十字架は、ユダヤ人の死刑のやり方ではありません。これはローマの、そして最も身分の低い者たちを処刑する時のやり方です。この時よりも数十年前に、ローマで、「スパルタカスの反乱」という大規模な奴隷の反乱が起りました。映画の題材にもなっていますが、それが鎮圧された時、有名なアッピア街道沿いに、ずらりと十字架が並んだと記録されています。十字架刑というのはそのように、ローマにおいて、反乱を起した奴隷を処刑する時のやり方なのです。だからそれは、人間の尊厳など全く無視した、残酷な、じわじわと苦しめて死に至らせるような死刑なのです。主イエスは異邦人に引き渡され、そのような残酷な仕方で殺される、そのことがこの第三回において初めて明らかにされたのです。

受難と復活の予告
 ところで、先ほどから「受難予告」と言っていますが、主イエスが予告されたのは「受難」のことだけではありません。これはもう第一回の時から一貫して、「三日目に復活する」ということが語られているのです。ですから、「受難予告」という言い方は本当は正確ではないのであって、「受難と復活の予告」なのです。しかし、これを聞いた弟子たちの多くは、「受難」、つまり主イエスが捕えられ殺されるという点にのみ反応しています。第一回の時には、ペトロが直ちに主イエスをわきへ連れ出して、「そんなことを言うものではありません。みんなの士気にかかわるではないですか」と諌めたとあります。また第二回においては、これを聞いた弟子たちが「非常に悲しんだ」とあります。「受難と復活」が予告されたのだけれども、弟子たちの耳には、「受難」の方ばかりが非常に大きなインパクトを持って響き、「復活」の方は何を言っておられるのかよくわからない、というのが実態だったようです。

ゼベダイの妻の願い
 けれどもそのような中で、主イエスが語られた「復活」を、よくわからないながらも聞き取り、それに敏感に反応した弟子たちがいました。そのことが、本日の20節以下に語られているのです。それはゼベダイの息子たち、ここには名前は出てきていませんが、ヤコブとヨハネです。彼らがと言うよりも、彼らの母、つまりゼベダイの妻が、主イエスのお言葉を注意深く聞き、三日目に復活する、ということが何を意味するか、おぼろげなりとも理解して、それに反応したのです。彼女は二人の息子たちを連れて主イエスのもとに来てひれ伏し、「主よ、お願いがあります」と言いました。主イエスが「何が望みか」と言われると彼女は、「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と願ったのです。「王座にお着きになる」、これが、彼女が主イエスの「復活する」という言葉に聞き取った意味です。死者の中から復活する、生き返る、それは敵対する全ての力、その究極のものは死の力ですが、それらの全てに打ち勝って王座に着く、支配する者となるということだと彼女は、またヤコブとヨハネは考えたのです。そのような主イエスの最後の勝利の時が迫っている、その時に自分たちが、また自分の二人の息子たちが、主イエスの王座の右と左に座る者となることを、つまり誰よりも主イエスのみ側近くでそのご支配の栄光に共にあずかる者となることを、彼らは願い求めたのです。

主イエスが飲もうとしている杯
 他の弟子たちが主イエスの語られた受難に心を奪われて恐れたり悲しんだりしている中で、彼らが、復活に目をとめ、その栄光に共にあずかる者となりたいと願ったことは、正しいことであり、鋭い洞察だったと言えます。主イエスが、あのペトロの告白に言われているようにメシア、つまり救い主であられ、生ける神の子であられるならば、その主イエスは最終的にこの世の全ての力に勝利して支配なさる方でなければならないし、死の力にも打ち勝つ方でなければならないのです。つまり受難は受難で終わるはずはない、必ず復活に至るものであるはずなのです。そのことをみ言葉から聞き取り、見つめている彼らの思いは正しいのです。そして主イエスが復活の栄光の座に着かれるときに、その右と左において栄光に共にあずかりたいと願うことは、他の弟子たちを出し抜いて抜け駆けしようとするところに問題は感じるし、この母親の姿はまるで息子の出世を願う教育ママのようだと批判することはできるとしても、基本的に彼らの願っていることは間違っていない、本当に大切なことを願い求めていると言うことができるでしょう。それゆえに主イエスも、彼らのこの願いを退けてはおられないのです。主イエスはこう言われました。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」。主イエスが言われたのは、「あなたがたの願いは間違っている」ということではありません。あなたがたのその願いはそれ自体間違ってはいないが、しかしあなたがたはその願いが何を意味しているのか、自分がどういうことを求めているのかが分かっていない、と言われたのです。そしてそれに続いて、「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と言われたのです。「私が復活して王座に着く、その栄光に共にあずかるためには、私がこれから飲もうとしている杯を共に飲まなければならないのだ、そのことができるか」という問いです。主イエスが飲もうとしている杯、それは、捕えられ、侮辱され、鞭打たれ、十字架につけられて殺されるという苦しみの杯です。主イエスは逮捕される直前、ゲッセマネの園というところで、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られました。これから受けようとしている苦しみと死、受難は、主イエスにとっても、できるなら受けたくない、なしですませたい、大きな苦しみだったのです。その苦しみの杯を飲むことを通してこそ、復活の栄光に至ることができるのです。あなたがたもその杯を飲むことができるのか、と主は問うておられます。「あなたがたは自分が何を願っているか、分かっていない」。それは、あなたがたのその願いは、とてつもなく大きな苦しみを求めていることになるのだ、そのことが分かっていない、ということです。

主の杯を飲む者
 主イエスのこの問いに対して、ヤコブとヨハネは、「できます」と答えました。あなたが飲む杯を私たちも共に飲みます、と宣言したのです。主イエスのお受けになる苦しみを、私たちも共に受けますと言ったのです。しかし私たちは、彼らがこの後どうなったかを知っています。彼らは主イエスが捕えられた時、逃げ去ってしまったのです。十字架につけられる主イエスと共に苦しみを受けるどころか、我が身かわいさで主イエスを見捨てたのです。そのことを知っている私たちは、ここを読むと、「おいおい、そんな出来もしないことを安請け合いするなよ」と思います。主イエスも、そのことは全てお見通しだったはずです。だから彼らの思い上がりをたしなめるようなことをおっしゃってもよかったはずです。ところが主イエスが言われたのは、そういう私たちの思いとは全く違うことだったのです。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」と主は言われました。「あなたがたは確かに、私の杯を飲む者となる」と宣言されたのです。そして主イエスのこのお言葉は、最終的にはその通りになりました。ヤコブとヨハネは、主イエスの十字架の時には、今申しましたように逃げ去ってしまいましたが、復活した主イエスが彼らをもう一度みもとに集めて下さり、そして聖霊が彼らに降って力を与え、彼らは使徒として、主イエスによる神様の救いの恵みを宣べ伝える者として立てられていったのです。そして、使徒言行録12章のはじめのところには、ヤコブがヘロデ王によって剣で切り殺されて殉教の死を遂げたことが語られています。ヤコブはまさに主イエスの苦しみの杯を共に飲む者となったのです。ヨハネの方は殉教したという記録はありません。一説によればかなり長命を与えられたということです。しかし彼はその長い人生を、ひたすら使徒として、主イエスを宣べ伝える者として、そのための様々な苦しみを受けつつ生きたのです。ヤコブもヨハネも、形は違っても、主の杯を飲む者となったのです。

苦しみを経て栄光へ?
 主イエスのお言葉はこのように、彼ら二人の遠い将来の歩みを見越したものです。しかし彼ら二人が今ここで「できます」と言っているのは、そういうことを見越してではありません。あくまでも、当面主イエスが歩まれる受難と復活の道、苦しみを経て得られる栄光を見つめ、主イエスの飲もうとしておられる苦しみの杯を自分たちも飲み、それによって主イエスの栄光にあずかる者となるのだ、ということです。彼らの思いと、主イエスが見つめておられることの間には大きな落差、隔たりがあるのです。その落差、隔たりは、私たち一人一人と主イエスの間の落差であり、隔たりなのではないでしょうか。つまり私たちは、信仰をもって生きるという時に、この二人の弟子と同じように、それは主イエス・キリストに従っていき、主イエスの飲む杯を私たちも飲み、その苦しみを忍耐して背負い、そのことによって主イエスの復活の栄光に自分もあずかっていくことだと思っているのではないでしょうか。主イエスが王座にお着きになる、その栄光と勝利を見つめ、その右と左に座る、つまりその栄光と勝利に共にあずかる者となるために、苦しみの杯を飲み干し、忍耐しつつ主イエスに従っていく、そういう生き方こそが信仰だと私たちは思っているのではないでしょうか。自分がそのように生きているかどうかは別として、本当に信仰をもって生きるとはそういうことなのだと思っているのではないでしょうか。
 しかし主イエスはそのような私たちに、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と語りかけておられます。苦しみをも忍耐して栄光にあずかることが信仰だとあなたがたは思っているけれども、私が受けた苦しみがどのようなものか、あなたがたは分かっているのか、その苦しみの杯を飲むことができると言うのか、と言っておられるのです。主イエスが十字架につけられてお受けになった苦しみ、それは、「この苦しみを忍耐すればその彼方には栄光がある」などというものではありませんでした。本日共に読まれる旧約聖書の箇所として、詩編第22編を選びました。その冒頭に、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という言葉があります。これは、主イエスが、十字架の上で、死の直前に叫ばれた言葉です。神様の独り子であられる主イエスが、父であり、自分を遣わした方であるはずの神様に見捨てられてしまった、その苦しみの中で死んでいかれたのです。詩編の言葉をさらに読むならば、「なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない」、このような、神様に見捨てられた嘆き悲しみ、絶望の内に、主イエスは死んでいかれたのです。それは、「苦しみを経て栄光へ」などという呑気なものではありません。栄光への出口などまるで見えない絶望の中での死です。だからこそそれは主イエスご自身ですら、「この杯を過ぎ去らせてください」と願わずにはおれない苦しみなのです。そしてヤコブとヨハネが、また他の全ての弟子たちが、その筆頭であり、「たとえみんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言ったペトロですら、逃げ去ってしまい、三度にわたって主イエスのことを「知らない」と言ってしまったのは、彼らの心が弱かった、主イエスにどこまでも従っていくという信仰が確立していなかったというようなことではなくて、このような絶望の中での死という苦しみの杯を飲み干せる者は私たちの中には一人もいない、ということなのです。主イエス・キリストは、私たちの中の誰も、たとえどんなに信仰が深く、主イエスに従っていく思いが強いという人でも、決して飲むことのできない杯を、一人で飲み干されたのです。それが主イエスの十字架の死でした。そしてそこに、私たちのための神様の恵みがあり、救いがあったのです。主イエスのこの死は、神様に見捨てられた罪人としての、神様から遠く離れ、もはや救いの望みはない、どんなに叫んでもうめいてももう神様に届くことはない、そういう死でした。神様の独り子が、神様に背いた罪人のそのような絶望の中での死を、引き受けて下さったのです。そのことによって、私たちが受けるどのような苦しみも、どのような絶望も、そしてどのような死も、そこに救い主イエス・キリストがおられないものではなくなったのです。私たちは、主イエスの飲んだ苦しみの杯を共に飲むことができる者ではありません。しかし主イエスがお一人でその杯を飲み干して下さったおかげで、私たちが受けるどのような苦しみも死も、主イエスがそこに共にいて下さる、主イエスの杯となったのです。私たちはその苦しみの杯を、主イエスが私たちに与え、共に飲んでいて下さる主イエスの杯として飲むことができるのです。ヤコブとヨハネは、また全ての弟子たちは、そして全ての信仰者たちは、このようにして、主イエスの杯を飲む者とされていったのです。主イエス・キリストは、私たち全ての者を、主の杯を飲む者とするために、お一人で、十字架の死の杯を飲み干されたのです。

復活させられた主イエス
 十字架につけられて殺される人の子は、三日目に復活する、主イエスはそのことをここで予告されました。しかしこの「復活する」という言葉は、文法的に正確に訳すならば、「復活させられる」です。受動態、受身の形が使われているのです。主イエスが自分で死の力を打ち破って復活してくるのではありません。父なる神様が、主イエスを捕えている死の力に勝利して、主イエスを復活させて下さるのです。復活の栄光、王座に着くことは、父なる神様から主イエスに与えられる恵みなのです。復活の栄光は、主イエスご自身においても、苦しみを耐え忍んだことによって獲得するものではありません。主イエスは、十字架の上で、栄光への出口の見えない絶望の内に死んだのです。その主イエスに、父なる神様が、復活の栄光を与え、王座に着かせて下さったのです。あの詩編22編は、神様に見捨てられた絶望の叫びで始まり、しかし最終的には神様への讃美でしめくくられています。それは、苦しみを忍耐したことによって平安を獲得し、讃美することができるようになった、などということではないでしょう。讃美は、復活の栄光と同じく、神様が与えて下さるもので、自分の力で獲得するものではないのです。そのことを示すために主イエスは、「わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」と言われたのです。私たちが主イエスの復活の栄光にあずかる者となる、そのことも、苦しみを忍耐して従っていくことによって私たちが獲得することではありません。主イエスを復活させて下さった父なる神様が、その恵みによって私たちを、主の復活の栄光にあずかる者として下さるのです。従って私たちの信仰とは、苦しみの杯を忍耐し努力して飲むことによって栄光を獲得する、ということではありません。苦しみの杯は、主イエス・キリストが、お一人で飲み干して下さったのです。罪人である私たちの絶望の内の死を引き受けて下さったのです。その主イエスの苦しみと死とによって私たちの罪が赦されたことを信じる、それが私たちの信仰です。この信仰に生きる時、私たちがこの人生において受けるどのような苦しみも、またどのような絶望も、そして死も、主イエス・キリストがそこに共にいて下さる主の杯となり、私たちはそれを飲むことができるようになるのです。そしてその杯を飲む時、主イエスを復活させて下さった父なる神様が、そのみ力によって私たちをも新しく生かして下さることを信じることができるようになるのです。主イエス・キリストの十字架と復活はそのようにして、私たちの人生の土台となるのです。洗礼を受けるというのは、このキリストの十字架と復活の土台の上に自分の人生を乗せることです。洗礼を受けた私たちは、主イエス・キリストの恵みのしるしである聖餐のパンと杯にあずかりながら、それぞれの歩みに与えられる苦しみの杯をも、主イエスが共にいて下さる主の杯として飲みつつ生きるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年10月20日]

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