富山鹿島町教会

礼拝説教

「神は何でもできる」
詩編 第126編1〜節
マタイによる福音書 第19章16〜30節

金持ちの青年
 「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と主イエスに問うた一人の青年の話を、先週の礼拝においても読みました。神様の掟、律法の中心である十戒をみな守ってきました、まだ何か欠けているでしょうかと言うこの青年に主イエスは、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われました。それを聞くとこの青年は、悲しみながら立ち去りました。彼は沢山の財産を持っており、それを全部手放して無一物になることなど、とうていできなかったのです。
 主イエスが彼に、「持ち物を売り払え」と言われたのは、「あなたにはまだ、全財産を棄てて貧しい人に施すという善い行いが欠けている、それをすればあなたは完全な者となり、永遠の命を得ることができる」という意味ではなかったのだということを、先週の説教において申しました。主イエスは、そのような究極の「善いこと」を教えようとされたのではなくて、ただ一人の「善い方」である神様のみ前に彼を立たせ、自分のよい行いや正しさ、清さを拠り所として生きるのではなく、神様の恵みと慈しみによって生きる者になるようにと招いておられたのです。持ち物を売り払って施せという命令は、それを実行して完全な者になるためと言うよりも、そんなことはできないという自分に気づかせ、自分の善い行いによって完全な者となって永遠の命、救いを獲得することが不可能であることを教えるためだったのです。ですからこの青年が主イエスのお言葉を聞いて、「自分にはそんなことはできない」と思った、実はそこにこそ、主イエスからの招きがあったのだし、彼がそれまでとは全く違う新しい生き方へと変えられるチャンスがあったのです。しかし彼は悲しみながら主イエスのもとを立ち去ってしまいました。それは彼が、自分の持っている沢山の財産を手放すことができなかったということであると同時に、自分のする「善いこと」、自分の正しさや清さを拠り所とする生き方を変えることができなかったということでもあります。彼が手放せなかった財産とは、お金だけではなくて、自分の善い行い、正しさという財産でもあったのです。
 彼は「悲しみながら」立ち去った。彼のこれからの歩みは、悲しみに支配されたものとなるのです。その悲しみとは、「本当は全財産を投げ出して貧しい人に施さなければならないのに、自分にはそれができない」という後ろめたさです。彼はこの後も、律法をしっかり守り、いっしょうけんめいに善いことに励み、人々に親切にし、貧しい人にできるだけ施しをするという立派な生き方をしていくのでしょう。世間の人々は彼のことを見て、なんて立派な人格者だろうと感心し、褒めることでしょう。しかし彼の心の中には、いつもあの悲しみが、自分の善い行いには決定的に欠けているものがある、自分は善い行いに生き切ることができていない、結局は自分の豊かさを守ろうとしているのではないか、という後ろめたさが付きまとうのです。自分の善い行い、正しさという財産を拠り所とする生き方は、真剣になればなる程、このような悲しみに支配されたものとならざるを得ないのです。

誰が救われるだろうか
 この青年が立ち去った後、主イエスは弟子たちに、「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われました。このお言葉は、主イエスから弟子たちへの、謎かけのようなお言葉です。このお言葉をどう聞き、それにどう反応するかによって、弟子たちが、あの金持ちの青年の出来事を、そこでの主イエスのお言葉を、どう受け止めたかがわかるのです。つまりそれは私たちにとっても謎かけです。私たちは主イエスの、「金持ちが天の国に入るのは難しい」というお言葉をどう聞き、どう思うでしょうか。「いや本当にそうですね。金持ちほどケチだって言いますしね。金持ちはこの世で贅沢ないい思いをしている反面、本当に救われて天国に行ける人は少ないんではないですかね。私は金持ちでなくてよかったですわ。ハッハッハ」なんていう呑気な感想を持つとしたら、主イエスの謎かけを、また金持ちの青年の話をちゃんと受け止めることができていないということです。その点、主イエスの弟子たちは、この謎かけにきちんと応答しています。彼らはこの主イエスのお言葉を聞いて「非常に驚き」「それでは、だれが救われるのだろうか」と言ったのです。なぜ彼らはそんなに驚いたのでしょうか。主イエスは「金持ちが天の国に入るのは難しい」と言われたのです。そして彼ら弟子たちは、決して金持ちではありません。あの青年のように「たくさんの財産を持っていた」などという人はいないのです。そういう意味では、主イエスのこのお言葉に対して、「あのような金持ちの青年が天の国に入るのは難しいが、自分たちのような貧しい者なら大丈夫だ」と思ったとしても不思議はありません。つまり主イエスのお言葉を他人事のように聞くこともできたはずなのです。しかし彼らは、非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った、自分たちも含めて、救われて天の国に入ることのできる者など一人もいないのではないかと思ったのです。つまり彼らは主イエスのお言葉を、他人事ではなく、自分自身の問題として聞いたのです。それは彼らが、主イエスが言われた「金持ち」が、単にお金を持っている、財産のある人というだけのことではなくて、自分の善い行い、正しさという豊かさに依り頼んでいる人のことだということを正しく聞き取っているということです。あの青年が立ち去ったのは、ただ財産を棄てることが惜しくてできなかったからではなくて、自分の善い行いという財産を手放すことができなかったからだということを、彼らは感じ取っているのです。そして、そういう意味の財産、自分の富、豊かさを求め、そこに拠り所を置こうとする思いは、自分たちの中にもあるということに、彼らは気づいたのです。誰もが、自分が善い行いにおいて豊かな者、清さ正しさにおいて富んだ者となることによって、救いを得ようと思っている、その点においては、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と問うたこの青年と、私たちはみんな同じなのではないでしょうか。その私たちに主イエスは、もし本当にそのような自分の豊かさ、富によって救いを得ようとするなら、全財産を売り払って施すべきだと言われるのです。そのようなことができる人は一人もいません。それは、善い行いにおける自分の豊かさ、自分の正しさによって救いを得ることができる人は一人もいないということです。自分の豊かさ、富に依り頼んで生きている限り、私たちの救いは、らくだが針の穴を通るよりも難しいことなのであり、つまり救われる人は一人もいないのです。

人間にはできないが
 それでは、だれが救われるのだろうか。誰も救われないではないか。という弟子たちの驚きととまどいの言葉に対して、主イエスは、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われました。私たちの救いは、人間業ではなくて、神様のみ業なのです。人間にできることではない。私たち人間が、どのように努力して善い行いを積み重ねても、それによって救いを獲得することはできないのです。あの青年が、「まだ何か欠けているでしょうか」と言ったように、善い行いはどれだけ積み上げても、もうこれで十分、救いが得られたと安心することはできないのです。人間は、救いを自分の力で得ることは決してできないのです。救いは、私たちの外から、神様から与えられるものです。神様が、その恵みのみ心によって、私たちを救って下さるのです。しかもそれは、私たちがどれだけ善い行いをしているか、という私たちの側の努力に応じて、神様がご褒美として救いを与えて下さるということではありません。もしそうなら、救いは私たちが自分の努力で獲得することができるものとなります。「人間にできることではない」のではなくなるのです。「人間にできることではないが、神は何でもできる」という仕方で与えられる救いというのは、私たちの側にはどのような善い行いもない、正しさという富、豊かさが全くない、卑近な言い方をすれば何のとりえもない、そういう者をも、神様が恵みによって救って下さるということです。「救いようのない奴だ」という言い方がありますが、自分の豊かさによって救いを得ようとする傾向にある私たちにとっては、とうてい救いようがない、と思う者が、ただ神様の恵み、憐れみ、慈しみによって救われるのです。つまり神様が与えて下さる救いとは、不可能を可能にすることです。とうてい起こり得ないことを実現することです。そのことが、「神は何でもできる」という言葉によって言い表されているのです。

神は何でもできる
 「神は何でもできる」。それは、神様は全能である、ということです。神は全能であって、何でもおできになる。そのことを私たちはともすれば、いろいろな不思議なことや人間の能力を超えたことをする魔術師や超能力者の延長で考えてしまうのではないでしょうか。しかし、神様が全能であられるとは、どんな人でも、自分の正しさ、善い行いという財産を全く持っていない人でも、その恵みのご意志によって救うことができる、ということです。いや、「どんな人でも」などという他人事ではない、要するに、この私をも救うことがおできになる、そこに神様の全能があるのです。不可能を可能にすること、とうてい起こり得ないことを実現すること、それが神の全能の力です。それは、この私が救われる、ということにおいて実現しているのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編126編は、神様が、捕われ人となっている民を解放し、故郷に連れ帰って下さる、という恵みを歌っています。バビロン捕囚からの解放、帰還という大いなる救いのみ業が、神様によって行われるのです。その4節に、「主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように、わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください」という言葉があります。ネゲブというのは、イスラエルの南、シナイ半島に続いていく荒れ野、砂漠のことです。そこに川が流れ、土地が潤されるなどということはとうてい考えられない、不可能なことなのです。そのネゲブ砂漠に川の流れを導くような、とうてい不可能なことを実現する、そういう神様の力で、捕囚からの解放という救いのみ業は行われる、それをこの詩は祈り求めているのです。私たちの救いも、ネゲブに川の流れを導くようなものではないでしょうか。神様の全能の力によってこそ、らくだが針の穴を通るよりも困難な、私たちの救いは実現するのです。

神の全能はキリストにおいて
 それではその神様の全能の力を私たちはどこで知り、受けることができるのでしょうか。それは、主イエス・キリストにおいてです。主イエス・キリストにおいてこそ、私たちは、神は何でもできるということを知り、体験することができるのです。神は、その独り子を私たちと同じ人間としてこの世に遣わして下さいました。そしてその神の子、ご自身が神であられる主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかり、この上ない苦しみを受け、死んで下さったのです。神様が、私たち罪人のために、ご自分の身を犠牲にして苦しみと死を引き受けて下さった。神は何でもできるとは、こんなことまでもできるということです。ご自身を徹底的に低くして、罪人を救うことができる、神の全能とはそういうことなのです。主イエス・キリストの十字架にこそ、神様の全能がいかに徹底的なものであるかが示されています。そして神様は、その主イエスを、死者の中から復活させ、新しく生かして下さいました。それは、主イエスによる罪の赦しの恵みを信じる者をも、この復活にあずからせ、新しく生かして下さるという恵みの印です。この主イエスを復活させた力で、神様は、私たちをも新しくすることができるのです。自分の善い行い、正しさという自分の財産を拠り所として生きている私たちが、その財産を握りしめている手を離して、無一物になって、神様の恵みと慈しみに身を委ね、それに支えられて生きる者へと新しくされることができるのです。神は何でもできる、それは私たちをこのように新しくすることもおできになるということです。この神様の全能の力、主イエス・キリストの十字架と復活において示されている何でもできる力によって、私たちは救われるのです。

どんな報いが
 するとペトロは、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と言いました。これはおかしな言葉です。主イエスは、救いは人間の力で獲得できるものではないと言われたのです。何か善いことをしたらその見返りとして救いが与えられるというものではないと言われたのです。それなのにペトロは、「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と、自分たちのしたことを主張しているのです。そして、「では、何をいただけるのでしょうか」と、その見返り、報酬を求めているのです。この言葉は、主イエスの教えと全く矛盾するとんでもない求めだと言わなければならないでしょう。しかしこのペトロの言葉よりももっと驚かされるのは、それに対する主イエスのお答えです。こう言われたのです。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。主イエスは、ペトロの求めを、「何を言ってるんだ。救いはあなたがたの善い行いへの報いとして得られるのではなくて、神様の全能の力によって与えられるのだと今言ったばかりだろう」と退けてはおられないのです。むしろ、私に従ってきたあなたがたには、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めるという大きな報いが与えられると言っておられるのです。また、十二人の弟子たちだけではありません。29節にあるのは、誰であれ、主イエスの名のために、つまり主イエスを信じる信仰のために、大切なものを捨てて従った者には、その百倍の報いがあるということです。それは私たちに対しても語られていることです。私たちも、主イエスのために、信仰のゆえに大事なものを捨てて従うならば、大きな報いを期待してよいのだと言っておられるのです。これはどういうことなのでしょうか。

信仰とは「捨てる」こと
 救いは私たちの善い行いの報いとして得られるものではない、自分の清さや正しさという点では全く相応しくない者に、神様の、恵みに満ちた全能のみ力によって与えられるのだ、というのが、あの金持ちの青年の話とそれに続く主イエスのお言葉の語っていることです。このことは、絶対に崩されてはならない、聖書が語る神様の救いの根本なのです。けれども、27節以下においては、主イエスによってそこに一つのことがつけ加えられています。救いは、善い行いへの報いではない、しかし、神様は、私たちの信仰に報いて下さる方だ、ということです。報いとして救われるのではないが、信仰への報いはあるのだ、と言ってもよいでしょう。そこにおいて見つめられている信仰は、「捨てる」ことです。ペトロは「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言っています。確かに弟子たちは、自分の仕事や家族を捨てて主イエスに従ってきたのです。また、29節で全ての信仰者を対象に語られているのは、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てることです。自分にとって大切な、かけがえのないこれらのものを信仰のゆえに捨てることに対しては、その百倍の報いが与えられると言われているのです。この「捨てる」ということが、私たちの信仰における大事な要素であることをここから学びたいと思います。あの金持ちの青年にも、財産を捨てることが求められたのです。私たちは、捨てることなくして神様を信じることはできません。神様を信じるとは、何もかも自分の手に握りしめている、その手を離して捨てることです。それは捨てると言うよりも、神様に委ねると言った方がよいかもしれません。自分の手を離して、それを神様のみ手の中に置くのです。主イエスがあの青年に求めたのもそういうことでした。同じことは私たち一人一人にも求められているのです。主イエスは、私たちが全財産を教会に献金して、自分のお金は一円も持たない者になれなどと、カルト宗教のようなことを言っておられるのではありません。私たちが大事にしているもの、気がかりであり、心配していること、切に願い求めていること、誰にも打ち明けられないで心の中に隠してしまい込んでいること、それらの、私たちが自分の手にしっかりと握り締めているものを、その手を離して、私に委ねてごらんと言っておられるのです。その主イエスは、全能の父なる神様の独り子です。何でもできる方です。その何でもできる力を、私たちの罪を背負って十字架の苦しみと死を引き受けて下さるために用いて下さった方です。神様の全能の力は、私たちがたとえどんな罪人であっても、その罪を赦して救って下さることに発揮されるのだということを示して下さった方です。その主イエス・キリストのみ手の中に、私たちは自分の大切にしている、あるいは気にかけているあのことこのことを委ねるのです。そこには、神様の全能のみ力によって、百倍の報いが与えられます。私たちがそれを握り締め、自分の力や才覚でどうにかしようとして生まれる結果よりも、はるかによいものがそこには与えられていくのです。
 このように信仰とは、捨てること、自分が握り締めている手を離すことです。あの青年は、善い行いをするという自分の正しさを人生の土台、拠り所としていました。主イエスはその拠り所を捨てて、無一物になって私に従って来いと言われたのです。彼はそれがどうしてもできなかった。握り締めている人生の土台から手を離す勇気がなかったのです。何の拠り所もない、不確かな歩みに陥ることが怖かったのです。しかし、一切を主イエスに委ねる歩みは、決して不確かな、何の拠り所もない歩みではありません。主イエスの恵みに満ちた全能の力によって豊かに支えられ、すばらしい報いを約束された人生がそこには開かれるのです。そのことを主イエスはこの27節以下で私たちに教えようとしておられます。信仰には豊かな報いがあります。そしてそのことは、私たちの救いが、私たちの善い行いへの報いとしてではなく、神様の恵みに満ちた全能の力によって与えられるのだということを知るときに、ますますはっきりするのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年10月6日]

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