富山鹿島町教会

伝道礼拝説教

「永遠の命を得るには」
マタイによる福音書 第19章13〜22節

永遠の命?
 本日の説教の題を「永遠の命を得るには」としました。これは、教会の伝道部の方から、本日の礼拝のためのチラシを作るから、なるべく伝道礼拝らしい題を出せと言われて考えた題です。そしてそれは勿論、本日の聖書の箇所の16節で、ある人が主イエス・キリストに、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と訊ねた、その言葉から取ったものです。これなら、伝道礼拝の題としてふさわしいと認めてもらえるかな、と思ったのです。しかし私はこの題を考えながら、おそらくこの題を見てこの礼拝に行ってみようと思う人はほとんどいないだろうと思いました。それは、既にクリスチャンになっている人はともかく、そうでない一般の方々にとっては、「永遠の命」などと言われても全然ぴんと来ないし、ましてや、そういうものを得たいと思っている人はほとんどいないだろうと思うからです。「永遠の命」と言われて、皆さんはどんな印象を持つでしょうか。それは今のこの命がいつまでも永遠に続いていくことでしょうか。そういうのは「不老不死」と言います。誰でもできるだけ元気で長生きしたいと思ってはいますが、不老不死でありたいと思っている人はもはやいないでしょう。そもそも、人間がみんな不老不死になったら大変なことになります。生まれてくる人はいても死ぬ人はいない。人口はどんどん増え続けて、食料はまたたく間に底をつき、破局が訪れるのです。おかしな言い方ですが、私たちは、人間や他の動物たちも皆、ある時が経てば死ぬ者であるからこそ、こうして生きていられるのです。ですから、今のこの命が永遠に続いて行くような永遠の命などは、不必要であるどころか、人類滅亡を招くのです。
 永遠の命はそういう不老不死とは違う、ということは私たちにもわかります。しかしそれではそれはどういうものでしょうか。肉体はいつか死ぬけれども、魂は永遠に残り、天国と言うか極楽と言うか、言い方は様々だが、そういうすばらしい所で永遠に幸せに暮せる、ということでしょうか。昔、貧しく、衛生状態も悪く、人の死が日常的に身の周りにあった時代には、人々はそういう死後の幸福を願い、それを真剣に求めていったのでしょう。しかし今、少なくとも私たちの国においては、そういう思いは人々の心から失われているのではないでしょうか。平均寿命が、女性は八十歳を越えています。つまり、八十まで生きてもまだ平均に届かないという時代です。そんな中で、私たちの思いは、死後のことよりも現在のこの命、この人生のことで満たされています。死ぬまでどう生きるかということでもう手一杯、その先のことなど考えている暇がない、というのが私たちの現実なのではないでしょうか。つまり私たちが今得たいと思っているのは、死んだ後の永遠の命よりも、今のこの人生の幸福であり、平安なのです。そこに、「永遠の命を得るには」などと言われてもあまり魅力を感じない、そんなことよりももっと当面大事な、気がかりなことがいくらもある、と思うのではないでしょうか。そういう意味では、ここで主イエスに、「永遠の命を得るには」という質問をした一人の人、ここには「青年」とありますが、この人は、まだ若いのに、随分奇特な人、いわゆる「信心深い人」なのだなあと私たちは思います。今の若い人には、こんな質問をする人はいないだろうとも思うのです。

どんな善いことをすればよいのか
 永遠の命は、このように、私たちにとって身近なものではないし、あまり魅力的なものでもないと思います。そういうものを得ようとして主イエスに質問をしたこの青年のような思いには、どうも私たちはなれそうもないと思うのです。けれどもここで、一つのことを見つめておきたいのです。それは、この青年が、永遠の命を得たいと思って、「どんな善いことをすればよいのでしょうか」と質問したということです。彼が求めている永遠の命は、私たちにはぴんと来ないし、それを求めようとも思わないかもしれませんが、彼が問うている、「どんな善いことをすればよいのか」ということは、私たちもいつも求めている、知りたいと願っていることなのではないでしょうか。「どんな善いことをすればよいのか」、それは言い換えれば、何をして、どのように生きたらよいのか、ということです。死んだ後のことはあまり考えない私たちも、今のこの自分の人生をより良いものにしたい、より充実した、幸せな、意味あるものにしたい、ということはいつも思っています。そのためにはどうしたらよいのか、ということは私たちの人生の最も大事な問題なのです。そしてこのことを少しでも本気で考え、ただ自分の好きなことをして楽しく生きられればよいというのではなくて、本当に意味ある、充実した人生にしたいと思う人は誰でも、この青年と同じように、「どんな善いことをしたらよいのか」と思うのです。この人生を本当に価値のある、有意義な、充実したものとするためには、「善いこと」をする必要がある、と誰もが思うからです。「永遠の命」にはあまり興味を抱かない私たちも、「どんな善いことをしたらよいか」というこの青年の問いには共感し、同じことを訊ねようとするのです。そういう意味では、本日の説教の題は、「永遠の命を得るには」ではなくて、「どんな善いことをすればよいのか」とした方がよかったかなと思っています。
 善いことをして生きたい、そうすればそこに、本当に良い、充実した人生が得られる、そう私たちは思っています。私たちがせっかくの日曜日に、遊びにも行かずに教会の礼拝に来るのは、そのことを学ぶためだと言えるでしょう。善いことをして生きる良い人生とはどんなものかを学び知るために、私たちは教会に行ってみようと思うのです。それはこの青年が「どんな善いことをすればよいのか」という問いをもって主イエス・キリストのところへ行ったのと同じです。この青年の姿は、教会の礼拝に集まっている私たちの姿を象徴していると言ってもよいのです。そうであるならば、主イエスが彼に答えて語られたことは、そのまま私たちへのみ言葉でもある、ということです。主イエスはどのように言われたのでしょうか。

善い方
 「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」。これが主イエスのお答えです。「どんな善いことをすればよいのか」という彼の問いに対して、主イエスは突き放すような言い方をなさっています。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか」、それは、そういう問い自体が間違っている、ということです。そして、「善い方はおひとりである」と言われました。ここには、「善いこと」と「善い方」との対比があります。そして、「善いこと」ではなく、「善い方」をこそ求めるべきなのだと教えられているのです。
 「善いこと」を求めるのと、「善い方」を求めることはどう違うのでしょうか。「善い方」というのは、「善い方はおひとりである」と言われていることからわかるように、神様のことです。「善いこと」というのは、自分がする善いことです。自分が何をするか、どんな善いことをする人間になるか、そういうことを求めていくことが、「善いこと」を求めることです。つまり、「善いこと」を求めることと「善い方」を求めることの違いは、自分を見つめていくか、神様を見つめていくかという違いです。善いことをする自分を見つめ求めていくか、善い方である神様を見つめ求めていくか、ということがここで問われているのです。そしてこのことこそ、私たちが教会の礼拝に集うようになり、そこで語られる教えを聞いていく中で突き当たる最大の壁なのではないでしょうか。つまり私たちは、先程も申しましたように、「どんな善いことをすればよいのか」という思いを持って教会に行くのです。人生を本当に充実させ、良いものとするためには、どのように生きるべきか、自分のなすべき善いことは何か、教会に行けばそういうことを教えてもらえると期待して私たちは礼拝に出席します。あるいは、仏教におけるそういう教えを聞いてきたが、教会では、キリスト教ではどのように教えるのだろうか、という興味や関心を抱いて来られる方もいるでしょう。ところが、その期待は裏切られるのです。教会で語られ、教えられるのは、「こんな善いことをしなさい」ということではありません。ただお一人の「善い方」がおられる、その方を見つめ、その方との交わりに生きることを教会は教え、勧めるのです。教会の信仰は、あれこれの「善いこと」を努力してしていくことではありません。ただ一人の「善い方」である神様の下で生きる者となること、それが教会の信仰なのです。この壁を乗り越えられないと、つまり自分が善いことをして生きることを求めていたのが、善い方である神様を見つめ、神様との交わりに生きることを求めるように変えられていかないと、信仰は得られないのです。そこに、キリスト教信仰のとっつき難さ、難しさがあると言えるでしょう。
 主イエスはこの青年に、「善い方」をこそ見つめ求めるべきことを示された上で、「掟を守りなさい」と言われました。掟というのは、ユダヤ人たちが受け継いできた、旧約聖書に語られている神様の掟、律法と呼ばれているものです。その中心はいわゆるモーセの十戒です。その後のところで、「どの掟ですか」という彼の問いに対して、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」とあるのは、十戒の後半、人間関係における戒めのところに語られていることです。そういう掟、律法を守るようにと主イエスは言われたのです。しかし私たちはこれを、こういう掟、規則、道徳律を守るという「善いこと」を主イエスが教えられたと読んでしまってはならないでしょう。この教えは、先程の「善い方はおひとりである」という言葉に続いて語られているのです。つまりこれは、「その善い方である神が命じておられることをしっかりと聞き、それを守り行なうことが大切だ」ということです。掟を守るという私たちの善いことが求められているのではなくて、善い方である神様の下で、その神様のみ言葉に聞き従っていくことが求められているのです。聖書にも、キリスト教にも、十戒を始めとする戒めがあります。「こうしなさい」「これをしてはならない」という教えがあります。しかしそれらは、それだけを道徳律として取り出していっしょうけんめい守り行っていても意味がないのです。大切なのはそれらの教えを私たちに語り、求めておられるただ一人の善い方、神様との交わりです。神様を信じ、善い方として愛することの中で、そのみ言葉に聞き従うのです。そこで見つめられているのは、掟を守って善いことをしている自分ではなくて、まことの善い方である神様なのです。

何かが欠けている
 この青年はしかし、主イエスが「掟を守りなさい」と言われたことの本当の意味を捉えることができていません。彼はあくまでも「自分がする善いこと」にこだわっているのです。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」という彼の問いにそのことが現われています。十戒を守ることはユダヤ人たちにとって基本中の基本です。さらにその周りにもっと細かい沢山の掟が言い伝えられていたのです。善いことをして永遠の命を得ようと願っている彼は、それらの細かい掟の全てを熱心に学び、それらを守り行っていたのでしょう。そういう彼にとっては、十戒を守ることなど、わざわざ意識するまでもない、当然のことなのです。彼は自信を持って、「そういうことはみな守ってきました」と言うことができるし、それは決して嘘ではないでしょう。しかしここに面白いことがあります。そのように「善いこと」を追い求め、律法の隅々までを、おそらく人一倍熱心に守り行っている彼が、「まだ何か欠けているでしょうか」と言っているということです。自分の「善いこと」にはまだ何かが欠けているのではないか、と彼は不安なのです。だから主イエスのところに来て、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と問うたのです。ここに描き出されているのは、自分の「善いこと」を追い求めている限り、そこには「もうこれで十分」という平安、安心は得られない、ということです。どんなに頑張って善いことに励み、一つ一つの戒めを落ち度なくクリアしていったとしても、「まだ何か欠けているのではないか、何かが足りないのではないか」という思いがなくなることはないのです。自分が善いことをする、ということに人生の土台を置き、それを追い求めていく歩みはそのように、どこまで行ってもゴールにたどりつくことができないのです。いつもどこかに不安がつきまとうのです。

完全になれ
 主イエスは彼に「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われました。自分が善いことをすることを人生の土台とするなら、その土台を完全なものにしなければなりません。土台が不完全では、建物がぐらついてしまうのです。自分のする善いことを完全なものにするには、持ち物を売り払い、貧しい人々に施すことが必要です。そこまでして初めて、自分がする善いことはこれで完全だと言えるのです。このことは、彼が先程、十戒の後半の戒めについて、「そういうことはみな守ってきました」と自信を持って言ったことを受けています。主イエスは19節で、これらの戒めを一言でまとめるならば、「隣人を自分のように愛する」ことだと言われました。そして、「もしあなたがこれらの戒めをみな守り、自分の隣人を本当に自分と同じように愛しているなら、自分の財産を売り払って貧しい隣人に施すことができるはずだ」と言われたのです。彼は十戒の表面的な字面だけを見て、自分は人を殺していないし、姦淫の罪も犯していない、人のものを盗んだことも、偽証したこともない。父母を敬い大事にしている、だからそれをみな守れていると思っているのです。しかし十戒を、それをお与えになった神様のみ心に即して本当に守り行うとはそんな簡単なことではないのです。

たくさんの財産
 この主イエスのお言葉によって、この青年は悲しみながら立ち去りました。それは、「たくさんの財産を持っていたから」だと聖書は語ります。それらを全部売り払って施すことが彼にはできなかったのです。このことは、財産のある人がそれを捨てて神様に従うことの難しさを語っています。しかしそれは単に、お金持ちは信仰に入りにくい、貧しい人の方が惜しむものが少ないから信仰に入りやすい、ということではないでしょう。彼がどうしても捨てることができなかった沢山の財産とは、彼がいっしょうけんめい努力して積み重ねてきた善いことでもあるのです。彼はお金も沢山持っていましたが、そういう地上の富があればもうだいじょうぶ、安心だとは思わなかったのです。永遠の命はお金で買うことはできない、永遠の命を得るためには、善いことをしなければならない、と彼は思い、善いことを積み重ねてきたのです。その面でも豊かな財産を築いてきたのです。そしてその富にさらに新たな善いことを加え、より完全なものにするために、主イエスのもとに来たのです。つまり彼は、自分の善い行いという財産、豊かさにより頼み、それを人生の土台としているのです。そういう彼に主イエスは、自分のなす「善いこと」を追い求めるのではなく、ただ一人の「善い方」との交わりに生きなさいと言われました。その流れの中で、持ち物を売り払って貧しい人に施せと教えられたのです。ですからこれは、「全財産を貧しい人に施すというすばらしい善いことをせよ、そうすればあなたはその善いことによって永遠の命を得ることができる」、という話ではありません。主イエスがこのことによって彼に求めておられるのは、あなたが拠り所とし、必死になって積み重ねている自分の「善い行い」という財産を手放せ、それを全部捨て去って、何も持たない、無一物の者になれ、ということなのです。無一物になってどうやって生きていくのか。「それから、わたしに従いなさい」と言われています。主イエスに従う弟子になる、そのことへと主イエスは彼を招いておられるのです。主イエスの弟子になるとは、それまでとは違う新しい善いことをして生きる者となることではありません。そうではなくて、自分のなす善いことを拠り所とするのをやめて、ただ一人の善い方であられる神様の恵みに身を委ねて生きる者となることです。自分の富、豊かさを人生の土台とすることをやめて、神様の善さ、つまりいつくしみと恵みに生かされ導かれる者となることです。「持ち物を売り払って施せ」というみ言葉は、自分がどんな「善いこと」をして生きるかということを追い求め、いつも自分の方ばかりを見つめている彼の目を、神様の方に向けさせ、まことの「善い方」であられる神様の恵みを求めて生きる者とするための招きだったのです。

神は善い方
 神様がまことの「善い方」であられるとはどういうことなのでしょうか。それが、本日の箇所の13節以下に語られているのです。主イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来ました。手を置いて祈るというのは、祝福を与え、その子が神様の恵みの下にすくすくと育つことを祈り求めることです。病人を癒したり、死んだ者を生き返らせたりというすばらしい業を行っていると評判になっていた主イエスのところに、親たちが子供を連れてきてその祝福を願ったのです。弟子たちはその親たちを叱りました。それは、ただでさえ忙しい先生をこれ以上煩わせてはならないという思いによることでもあるでしょうし、また、ちゃんと主イエスの教えを聞いて、何もかも捨てて従ってくるという信仰の姿勢もないのに、ただ祝福だけを、恵みだけをいただこうなんてけしからん、という思いもあったのでしょう。しかし主イエスは、「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」と言われ、子供たちを祝福されたのです。「天の国はこのような者たちのものである」。ここに、神様が「善い方」であられることが表されているのです。これは、子供のように素直で純真な者にならなければ天の国に入ることはできない、ということではありません。ここで見つめられている子供は、素直だとか純真だというのではなくて、ただ親たちに連れられて主イエスのもとに来ただけです。弟子たちが考えたように、それは主イエスを煩わせることだったでしょうし、また親たちの姿勢も確かに、主イエスを信じて従っていくということなしに、ただ祝福を求めるという虫のいいものなのです。しかし主イエスはそのような子供たちを、そして親たちを、迎え入れて下さいました。そして、天の国はこのような者たちのものだとおっしゃったのです。それは、天の国はそれに相応しい立派な善い行いをしている人のものなのではなくて、そのような相応しさを全く持っていない、何の「善いこと」をもすることができていない者に、ただ神様の恵みによって与えられるのだ、ということです。神様はそのように、「善いこと」という財産を何も持っていない無一物の者に、天の国を、神様の救いの恵みを与えて下さるのです。神様はそのように「善い方」、恵み深い、憐れみに満ちた方なのです。その神様の恵みと憐れみが、主イエス・キリストにおいて私たちに示され、与えられています。神様は、「善いこと」をするよりも、神様に背く罪を犯し、隣人を傷つけることの方がはるかに多い私たちのために、独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さり、その十字架の死によって私たちの罪を赦して、恵みの下に置いて下さるのです。自分の「善いこと」を追い求めるのをやめて、この「善い方」である神様の恵みを求め、それに身を委ねていくことこそが、聖書の教える、主イエス・キリストを信じる信仰なのです。

永遠の命を求めて
 永遠の命を求めている者は今はもういないだろうと最初に申しました。しかし永遠の命というのは、勿論不老不死ではないし、死んでから後の魂の幸福でもありません。今、この人生において、私たちが、この本当に善い方、恵み深い、いつくしみに満ちた方である主イエス・キリストの父なる神様と出会い、この神様の下で、自分のする善いこと、善い行いという自分の豊かさにではなく、この神様の無限に大きないつくしみに土台を置く人生を歩み始めるならば、そこにこそ、永遠の命があるのです。私たちの命は、様々な悩み苦しみ、病、そして死によって脅かされています。しかし主イエス・キリストにおける神様の恵み、いつくしみは永遠です。その永遠のいつくしみに根ざす歩みを、今この時から始めたいのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年9月29日]

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