富山鹿島町教会

礼拝説教

「数える罪」
サムエル記下 第24章1〜25節
ヨハネによる福音書 第20章24〜29節

ダビデの最後の罪―人口調査
 月の第四の主の日には、旧約聖書サムエル記下からみ言葉に聞いています。本日はその24章、最後の章を読みます。サムエル記下は、その全体がダビデ王の物語です。ダビデが、戦死したサウルに代って王となったことから始めて、彼の治世における様々な出来事を語ってきたのです。ダビデの生涯はまことに波乱万丈な歩みでした。神様に選ばれ、サムエルからイスラエルの王となるべき者として油を注がれたあの少年の日から、ついに王になるまでの間の前半世も勿論のことながら、王となった後の後半の人生においても、前半以上にいろいろなことがあり、多くの苦しみを受けなければならなかったのです。本日の24章には、ダビデが犯した最後の大きな過ち、罪のことが、そしてそのために起った災い、苦しみのことが語られています。ダビデの生涯は最後までこのようなことにつきまとわれていたのです。しかもそれは単に苦しみにつきまとわれていたというのではありません。今も申しましたように、これはダビデ自身の罪によることです。ダビデは、神様に選ばれ、王として立てられた人でしたが、同時にこのように最後まで神様に対して罪を犯し続けた人でもあったのです。その最後の罪とはどのようなことだったのでしょうか。  それは、人口調査をする、という罪だったとこの24章は語っています。ダビデが軍の司令官ヨアブに命じたことが2節にこのように記されています。「ダンからベエル・シェバに及ぶイスラエルの全部族の間を巡って民の数を調べよ。民の数を知りたい」。この命令を受けたヨアブがこのように答えています。3節「あなたの神、主がこの民を百倍にも増やしてくださいますように。主君、王御自身がそれを直接目にされますように。主君、王はなぜ、このようなことを望まれるのですか」。ヨアブのこの答えは、明らかにダビデの命令に反対しているのです。そのようなことはしない方がよい、と言っているのです。ここと同じ出来事を記している歴代誌上21章には、ヨアブの言葉は次のようになっています。「主がその民を百倍にも増やしてくださいますように。主君、王よ、彼らは皆主君の僕ではありませんか。主君はなぜ、このようなことをお望みになるのですか。どうしてイスラエルを罪のあるものとなさるのですか」。「どうしてイスラエルを罪あるものとなさるのですか」というところに、この人口調査が罪であるという思いが表されています。ヨアブはその思いから、ダビデに人口調査を思い止まらせようとしたのです。しかし4節にあるようにダビデの命令は厳しかったので、結局その人口調査は行われました。しかしその直後、10節には、ダビデ自身が、「民を数えたこと」つまり人口調査をしたことを悔いて、心に呵責を覚えたことが語られています。彼は神様に、「わたしは重い罪を犯しました。主よ、どうか僕の悪をお見逃しください。大変愚かなことをしました」と祈ったのです。

数える罪
 人口調査をすることは何故罪なのでしょうか。私たちの国においても、定期的に国勢調査が行われます。それによって、現在の人口は何人という統計が発表されるのです。そのようにして国民の数を始めとする実情を把握することは国家の運営のために必要なことです。自分の家族構成のことなどを細かく書かなければならないことに多少の抵抗は覚えるとしても、そういう調査を罪であるとは私たちは思わないのです。人口調査が罪であるとされるのは、それが何のためになされるのかということに関係します。一口に人口調査と言っても、その目的は様々です。例えば主イエスがお生まれになった時にローマ皇帝アウグストゥスが命じたとされるあの人口調査は、住民から税金を取るためでした。ダビデが行ったこの調査は何のためだったのでしょうか。9節に、調査の報告がなされています。「剣を取りうる戦士はイスラエルに八十万、ユダに五十万であった」とあります。ここに、この人口調査の目的が示されています。つまりそれは、徴兵可能な兵士の数を知るためだったのです。ダビデは、自分のもとに動員できる兵力を調べようとしたのです。このことが、神様に対する罪となりました。それは、軍隊は戦争をするためのものであり、戦争は人を殺すことだから、軍隊を持つことが罪である、という話ではありません。戦争や軍隊そのものを罪とする考え方は少なくとも旧約聖書にはありません。それを持つことが罪なのではなくて、その数を数えることが罪だったのです。兵の数を数える、それは、自分の持っている戦力を把握することです。この国は軍事的にどのくらい力があるかを調べることです。それは戦争をするに当ってはぜひ必要な、基本的なことです。自分の戦力がどれくらいかを知らずに戦争はできないのです。ですからダビデがしたことはある意味では当然のことです。しかしイスラエルにおいてはそのことが神様に対する罪となるのです。それは、イスラエルの戦いが神様の戦いだからです。神様ご自身が戦って、勝利を得られるのです。勝利は、神様によって与えられるものであり、人間が自分の力で獲得するものではないのです。そうであるならば、兵の数を数え、戦力を数えることは、神様の力ではなくて、人間の、自分たちの持っている力を頼んで事を計画し、実行していこうとすることです。神様の力に依り頼むのではなくて、自分の力、自分の兵力によって事をなそうとする、そこに、この人口調査の罪があるのです。
 ダビデは決して、神様を抜きにして、自分の力だけでなにかができると思ったわけではないでしょう。彼はこれまでの歩みにおいて、神様が彼を導いてきて下さり、戦いに勝利させて下さった、その恵みによって現在の自分があるということをよく知っているのです。ですから、この人口調査を、神様の力に依り頼むことをやめて自分の力で何かをしようとした、と言ってしまうのは酷かもしれません。しかしそこにこういう思いが働いていたことは確かでしょう。つまり、ダビデは、自分のもとにある兵力を数えることによって、神様の自分に対する恵みの大きさを確かめようとした、神様の祝福を確認しようとしたのです。自分に与えられている神様の恵みを、兵の数を数えることによって、目に見える仕方で確認しようとした、それがこの人口調査でした。それは、本日共に読まれた新約聖書の箇所、ヨハネによる福音書第20章24節以下におけるトマスの姿と通じるものがあると言えるでしょう。トマスは、主イエスが復活して他の弟子たちに現われた時にそこにいなかったのです。仲間の弟子たちから主イエスの復活を聞かされた時、彼は、自分の目で主イエスの手の釘跡を見、そのわき腹の傷に手を入れてみなければ決して信じないと言いました。つまり、主イエスの復活という恵みを、目に見える仕方で確かめることを求めたのです。ダビデの人口調査はそれと同じ意味を持っています。自分に与えられている神様の恵みを、目に見える兵の数で確かめようとしたのです。主イエスは、そのようなトマスの前に現われて下さり、釘跡のある手を示して、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語りかけて下さいました。トマスが、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を言い表すと、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。神様を信じる信仰とは本来、見ないで信じることです。目に見えていることは「信じる」必要はないのです。目に見えない神様の恵み、祝福を信じるのが信仰なのです。しかし私たちも時として、目に見えない神様の恵みを、目に見える何かによって確かめようとします。恵みが確かにあることの保証を、目に見える何かに求めようとするのです。それがダビデの人口調査の意味であり、それゆえにそれは神様に対する罪だったのです。

三つの罰
 ところで、ダビデがこの人口調査の罪を犯したのは、実は主なる神様ご自身がそのように誘ったからだ、ということが1節に語られています。1節は、「主の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった」と始まっているのです。ダビデが人口調査の罪を犯したから神様の怒りが燃え上がったのではありません。先に神様の怒りがあるのです。その怒りのゆえに神様ご自身がダビデを、人口調査の罪へと誘ったというのです。これは不可解なことであり、躓きに満ちたことです。このことの意味については、後で考えるとして、今は先へ進みます。人口調査の罪に対して、神様はガドという預言者を通して、罰を下されることを宣言なさいます。三つの罰が示され、その内のどれかをダビデ自身が選べと言われるのです。その三つとは、七年間の飢饉と、三か月間敵に追われて逃げることと、三日間の疫病です。最初の飢饉だけ七年間となっていますが、以前の口語訳聖書ではこれは三年間の飢饉となっていました。ヘブル語の原文においては確かに七年間となっているのです。しかし先程申しました歴代誌上21章では、三年間になっています。三つの罰が全て三という数字になっている方が格好がつくわけで、もともとはそうだったのかもしれません。いずれにしてもその三つの罰が示され、その中からどれかを選ぶことが求められたのです。

主の慈悲にすがって
 ダビデが選んだのは第三の罰、三日間の疫病でした。これは三つの内で一番期間が短いから、いちばん軽い罰をダビデは選んだのだ、とは言えません。疫病で死んだ人は七万人に及んだと15節にあります。期間は短くとも、これは相当に過酷な罰なのです。ダビデが敢えてそれを選んだ理由は、14節に語られています。「大変な苦しみだ。主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい。人間の手にはかかりたくない」。ダビデは、神様のみ手にかかって苦しむことを選んだのです。疫病は、神様が直接手を下して与える災いと考えられていました。それに対して他の二つの罰は間接的です。飢饉は作物の実りによって、敵に追われることは人間によってもたらされるのです。ダビデは特にこの、人間の手にかかることを最も嫌いました。罰を受けるなら、直接神様のみ手から受けたいと願ったのです。それは彼が、「主の慈悲は大きい」ということを知っていたからです。主なる神様は今、自分に対して怒り、罰を下されようとしている、しかしその主は、慈悲深い方であられるのだということをダビデは知っているのです。それゆえに、直接神様のみ手からの罰を受けることによって、その慈悲のみ心にすがろうとしているのです。
 このダビデの選択は正しかったことがその後のところに示されています。神様は疫病の災いを与えられましたが、16節では、その災いを思い返され、民を滅ぼそうとする御使いに、「もう十分だ。その手を下ろせ」と言われたのです。神様は、人間の罪に対して怒り、災いを与えられる方です。しかしまた、その災いを思い返される方でもあられます。聖書にはそういうことが繰り返し語られています。神様が思い返し、心を変える、それはなんだか神様らしくない、威厳のないことのようにも思います。しかしそこに、神様の慈悲深さがあるのです。私たちの信じる神様は、一旦決めたことでも、慈悲をもって変えて下さる方なのです。

ダビデの祈り
 さてこの16節に、民を滅ぼそうとして手を伸ばしている御使いが、「エブス人アラウナの麦打ち場の傍ら」にいたとあります。ダビデはそこでその御使いの姿を見たのです。そして彼はこう祈りました。「御覧ください、罪を犯したのはわたしです。わたしが悪かったのです。この羊の群れが何をしたのでしょうか。どうか御手がわたしとわたしの父の家に下りますように」。今、イスラエルの民を疫病が襲い、苦しめているのは、王であるダビデが犯した罪のためです。ダビデの罪のゆえに、何の罪もない人々が苦しんでいるのです。ダビデはそのことを神様に訴えています。「罪を犯したのはわたしです。悪いのは私です。だから神様の裁きの御手を私の上に下して下さい。罪のない人々を苦しめないで下さい」と彼は祈っているのです。これは当然と言えば当然のことです。自分が犯した罪の責任は自分が負うべきであって、他の人にそれを負わせるべきではないのです。しかし、世の多くの人々が、特に権力を握っている人ほど、自分の罪の責任を罪のない人々に負わせて平気な顔をしているという現実があります。先週の日朝首脳会談で、金正日は、日本人拉致問題で謝罪し、部下の一部がやったことで自分は知らなかったと言いました。あのような独裁国家でそんなことがあり得るはずはないのです。しかし国や自分の面子のためにはああ言わざるを得ないのでしょう。責任を取らされて処罰された人が本当にいるとしたらその人こそ気の毒です。そういう独裁者の姿を見ると、このダビデの姿には心打たれるものがあります。自分が苦しみを引き受けて、無実の民を救おうとする彼の姿は、それがもともと彼自身の罪だったということを差し引いても、やはりイスラエルの王に相応しい姿だと言えるでしょう。しかし、大切なことは、このダビデの祈りに応えて神様が災いのみ心を変えて下さったのではない、ということです。神様が御使いに「もう十分だ。その手を下ろせ」と命じられたのは、このダビデの祈りよりも前なのです。ダビデの祈りに免じて神様がみ心を変えて下さったのではありません。神様が災いを思い返されたのは、あくまでも神様ご自身の慈悲、憐れみによってだったのです。この順序に私たちは目を留めておく必要があるのです。

神殿の場所
 この「エブス人アラウナの麦打ち場」が、この後とても重要な場所となっていきます。神様はダビデに、そこに主のための祭壇を築けとお命じになるのです。そこでダビデはそこの所有者アラウナからこの麦打ち場を買い取り、祭壇を築き、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげました。すると、「主はこの国のために祈りにこたえられ、イスラエルに下った疫病はやんだ」と25節にあります。これも、ダビデが焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげたから疫病がやんだのだと読んではならないでしょう。疫病がやんだのはあくまでも先程の神様ご自身の憐れみによる思い返しによってです。その憐れみのみ心の中で、神様はダビデのこの献げ物を受け入れて下さったのです。それ以来、この「エブス人アラウナの麦打ち場」が、主なる神様に犠牲を献げる場となりました。この場所こそ、後にダビデの息子ソロモンが神殿を建設した場所なのです。そのことは歴代誌の方を読んでいくとはっきり語られています。歴代誌上21章に、本日のところと同じ人口調査の罪とそれによる疫病の災い、そして祭壇を築くための麦打ち場の獲得ということが語られています。歴代誌の方では「アラウナ」という名前が「オルナン」となっていますが、話としては同じです。そして歴代誌上22章の1節に、「神なる主の神殿はここにこそあるべきだ。イスラエルのために焼き尽くす献げ物をささげる祭壇は、ここにこそあるべきだ」というダビデの言葉が記され、そして22章にはダビデが息子ソロモンのために、そこに神殿を建設するための資材を集めたことが語られていくのです。つまり本日のこの24章は、ダビデの最後の罪とその結果としての疫病の苦しみの話であると同時に、後の神殿の場所が定められたという話でもあるのです。

諸国民の祈りの家
 エブス人アラウナの麦打ち場が神殿の場所、イスラエルの民の礼拝の場所となった。このことはいろいろなことを私たちに考えさせてくれます。もともとエルサレムの町そのものが、エブス人の町だったのです。そこをダビデが攻め落として、イスラエル王国の新しい首都としました。そのことはサムエル記下の第5章に語られています。ダビデは、イスラエルのどの部族にも属していなかったこの異邦人の町を首都とすることによって、イスラエル諸部族の統一を図ったのです。そしてこの町に隣接するやはりエブス人アラウナの麦打ち場が、今度は神殿の場所として選ばれました。それはダビデが選んだのではなく、神様がそこを示して下さったのです。エルサレムを占領したのは武力によってでしたが、この麦打ち場は、正当な金額を支払ってアラウナから買い取られたことがここに語られています。主の神殿の場所はそのように、暴力や略奪によってではなく平和のうちに定められたのです。このことが、ダビデが自分の兵力を数えた、その人口調査の罪に端を発して起ったということがまた意味深いと思います。自分の力、兵力に依り頼み、力によって敵を屈服させようとする、そういう思いが打ち砕かれて、異邦人との平和共存の内に、もともと異邦人の土地であったところに主の神殿の場所が定められたのです。この神殿は、イスラエルの民のためだけの礼拝の場ではなく、諸国民の祈りの家であると神様は後に宣言して下さいました。そのことは、この場所が選ばれた時に既にみ心の内にあったことなのです。

礼拝の土台
 さらに、このことをも見つめておきたいと思います。この麦打ち場は、主の怒りを実行する御使いが民を滅ぼそうとして手を伸ばしていた場所です。人間の罪に対する神様の怒りの場であったと言ってもよいのです。しかし神様はそこで、その怒りのみ心を変えて下さいました。神様がその深い慈悲のみ心によって、災いを思い返して下さったのです。そのことが起ったのがこの麦打ち場です。そこに、主の神殿が建てられ、礼拝が行われていったのです。このことは、イスラエルの民の、そして私たちの礼拝の本質を示している重要なことです。礼拝は、主なる神様が、私たちの罪に対する怒りのみ心を思い返し、憐れみを与えて下さった、そのことを土台としています。神様の怒りが、憐れみによって乗り越えられたのです。その恵みによって私たちは礼拝をすることができます。私たちが礼拝をするから、神様が憐れんで赦して下さるのではありません。順序は逆なのです。神様の憐れみと赦しの中でこそ、私たちは礼拝を捧げることができるのです。
 そしてこのことはさらに、ダビデのあの、民のためのとりなしの祈り、この災いを罪のない人々にではなく、自分に下して下さいというあの祈りとつながっていきます。神様の怒りのみ心が乗り越えられ、憐れみと赦しが与えられていく、そこには、苦しみを自分に与えて下さいと祈る人の存在があるのです。このダビデの姿は、私たちのために十字架の苦しみと死とを引き受けて下さった主イエス・キリストを指し示しています。ダビデの場合には、自分が犯した罪のための災いを自分に下して下さいと祈っているのですから、ある意味では当然のことです。しかし民の救いのために自分が災い、苦しみを背負おうというこの祈りは、主イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って十字架の苦しみと死を受けて下さったそのお姿を、不十分ながら指し示しているのです。神様の怒りが、憐れみによって乗り越えられた、そのことは、独り子イエス・キリストの十字架の死において私たちに与えられた恵みです。主イエス・キリストが、自らは何の罪もない神様の独り子であられながら、私たちと同じ人間となって下さり、私たちの罪を背負って十字架の苦しみと死を引き受けて下さった、そこに、神様の憐れみのみ心があるのです。そしてそれこそが、私たちの礼拝の土台なのです。私たちが毎週主の日にここに集まって礼拝をささげる、そのことは、主イエス・キリストの十字架の死によって私たちの罪が赦され、神様の憐れみと赦しが与えられている、ということに基づいているのです。ダビデが礼拝をし、犠牲をささげたから疫病がやんだのではありませんでした。同じように、私たちも、礼拝をすれば、その見返りとして神様から何かの恵みをいただけるのではありません。神様の恵みは、憐れみのみ心は、主イエス・キリストの十字架と復活において既に与えられているのです。私たちはその与えられている恵みを感謝し、喜び、祝うのです。それが私たちの礼拝です。そういう礼拝の場が、神様によって示された、それがこの24章の結論です。このことをもってサムエル記下は終わり、次の列王記へと入っていくのです。その冒頭に語られているのは、ダビデの王位が息子ソロモンに受け継がれていくことです。ダビデ王の生涯の最後に、神殿が建てられるべき場所が示されました。今度は、それを建てる人物が表舞台に登場してくるのです。

怒りから恵みへ
 最後に、先程保留にしておいた問題を考えたいと思います。ダビデが人口調査の罪を犯したのは、主なる神様ご自身の誘いによることだった。神様は怒りによってダビデをその罪へと誘われたのだと1節に語られていたことです。ここを読むと私たちは、いったい神様は何を怒っておられるのか、何だかいやに怒りっぽい神様だなと思います。しかしこの24章全体を通して語られていることは、今見てきたように、神様の怒りが憐れみのみ心によって乗り越えられて、その恵みを喜び祝う礼拝の土台が据えられたということです。人間の罪に対する怒りに始まった話が、このような祝福、恵みへと結実しているのです。24章はそのことを語っています。私たちが罪を犯し、神様がそれをお怒りになり、災いを下される、そういうことを通してすら、神様の恵みのみ心が表され、前進していくのです。ですから、1節の「主の怒り」は何に対する怒りか、と考える必要はないと思います。神様が私たちに対してお怒りになる、その理由はいくらでもあります。私たちは日々、神様に対して罪を犯し、神様をないがしろにし、その怒りを招くようなことばかりをしているのです。私たちの日々の歩みは全て神様の怒りの下にある、と言ってもよいのです。しかし神様はその怒りを、憐れみによって乗り越えて下さり、私たちに赦しの恵みを与えて下さり、神様に感謝し、喜ぶ礼拝を与えて下さいます。そのために独り子イエス・キリストが来て下さり、十字架の苦しみと死を引き受けて下さったのです。このようにこの24章が語っているのは、神様の怒りではなくて憐れみと赦しです。ダビデの最後の罪は、神様のこの憐れみと赦しの中で、イスラエルの民の、そして私たちの、礼拝の礎となったのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年9月22日]

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