富山鹿島町教会

礼拝説教

「神が結び合わせたもの」
創世記 第2章18〜24節
マタイによる福音書 第19章1〜12節

ユダヤへの旅立ち
 礼拝においてマタイによる福音書を読み進めてまいりまして、本日から第19章に入ります。その冒頭の1節に、「イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた」とあります。これはなにげない言葉ですがとても大事なことです。主イエスのこれまでの活動の場は主にガリラヤ地方でした。ガリラヤの湖周辺のこの地は、ユダヤ人たちの住む地域としてはむしろ周辺、辺境の地だったのです。19章に入って、主イエスはそのガリラヤを去られます。そして「ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方」に行かれたのです。この言い方は本当は正しくありません。ヨルダン川の東側をユダヤ地方とは言わないのです。しかしこの言い方で示されていることは、主イエスがガリラヤから、すぐ南のサマリヤを迂回してヨルダン川の東側を通ってユダヤ地方へと南下してこられたということです。その旅の目的地は、エルサレムです。ユダヤ人たちの信仰の中心である神殿のあるエルサレムへ向けて、主イエスはいよいよ旅立たれたのです。そのことがこの19章の冒頭に語られています。この後、21章で主イエスはエルサレムに入り、そしてその週のうちに捕えられ、十字架につけられて殺されるのです。その十字架の死への直接的な歩みがここから始まっていると言うことができるのです。

離縁についての問い
 そのようにユダヤへ向けて旅立たれた主イエスのもとに、ファリサイ派の人々がやってきて、主イエスを試そうとして質問をしたことが本日の箇所に語られています。それは、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」という質問でした。この質問は、イエスを試そうとする問いです。つまり、主イエスを陥れようとする悪意ある問いなのです。彼らはこの問いによってどのように主イエスを陥れようとしたのでしょうか。そのことを理解するためには、当時の社会や結婚制度が、圧倒的に男性、夫の優位のもとにあったという事実を知らなければなりません。女性は男性の保護の下でしか生きられない社会でした。ですから娘は父親の、そして妻は夫のある意味では所有物のように位置付けられていたのです。ですから夫は妻を離縁できるが、妻の方から夫を離縁するなどということは考えられなかったのです。ちなみに、今はこの関係が全く逆転していると言えるでしょう。昨今の離婚は、妻が夫に愛想をつかして出て行くというケースが多い。夫は妻に離婚されないようにいっしょうけんめい…。女性が自立できる社会になったことによって、そのように結婚や離婚の主導権は女性が握るようになっているのです。聖書の時代のような、またこの国においてもしばらく前まではそうだったわけですが、男性優位の社会というのは今や昔日の感があります。一人の男としては、「昔はよかった」と思わないでもありません。それはともかく、ここに語られていることはそういう社会を背景としているのです。
 その上で、この質問がどういうわけで主イエスを陥れようとしていることになるかということですが、主イエスが離婚について教えられたみ言葉は既に第5章31節以下にありました。本日のところとほぼ同じことがそこに語られていたのです。それを読むと、主イエスは、夫が妻を離縁することに厳しい条件をつけておられたことがわかります。「不法な結婚でもないのに妻を離縁することは罪だ」と言っておられたのです。この「不法な結婚でもないのに」というところは、前の口語訳聖書では「不品行のゆえでなくて」となっていました。5章のところでも申しましたが、こちらの方が原文の意味を正しく現しているのです。ここの原語は「ポルネイア」という言葉です。そこから「ポルノ」という言葉が生まれました。つまりこれは「みだらな行い」という意味です。妻が、不品行、みだらな行いをする、つまり他の男性と浮気をする、姦通の罪を犯す、そういうことがないならば、それ以外の理由で離縁してはならないと主イエスは教えられたのです。この教えを離婚の条件として厳しいととるかどうかは時代の背景によります。当時のユダヤの社会においては、これは離婚の条件を最も厳しく狭める教えでした。本日のところでファリサイ派の人々が引用している、離婚についての律法は、申命記第24章の1節ですが、そこにはこうあります。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」。この「恥ずべきことを見出し」というのが離婚の条件となるわけですが、何がそれに当るかを、当時の律法学者たちは様々な議論していたのです。最も厳しくは、主イエスと同じように、この「恥ずべきこと」とは妻が姦通の罪を犯すことで、それ以外ではないという解釈がありました。しかし、夫が妻に何か気に入らない点を見つけたら、それが即「恥ずべきこと」であって離婚の条件になる、というまことに緩やかと言うか、夫の身勝手を許すような解釈もあったのです。そして世の男性たちは、どちらかと言えばそういう解釈の方を支持します。「女房と畳は新しい方がいい」という、これまた前世紀の遺物となった諺があります。最近は「女房」が「亭主」に置き換えられてコマーシャルに出てきたりするわけですが、あの諺に言われているような感覚で、気に入らなくなった妻は離縁して新しい女をめとる、実際にそうするかどうかは別として、そういう夫の権利を認める解釈の方が、人々の、ということは男性たちの、意に適うのです。しかし主イエスはそういう男の身勝手をお認めにはならない。そのことをもう一度はっきりさせることによって、「あの人の教えは厳しくてついていけん」という思いを人々に与えようとしている、それがファリサイ派の人々の思いでしょう。そして彼らのその意図は成功しています。10節には、主イエスの教えを聞いた他ならぬ弟子たちが、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言ったことが示されています。「妻を離縁できるのは、妻が姦通の罪を犯した時だけだ」という主イエスの教えに対して弟子たちが、このように反応したのです。私たちにはこの反応は理解できません。主イエスの言われたことが、「それなら結婚しない方がましだ」と思えるようなことだとは考えられないのです。それは弟子たちも、この当時の社会の常識にどっぷりと浸かって生きていたということの現われであると言えるでしょう。人は皆その時代の子です。その時代の、その社会の雰囲気や感覚から自由であることはできないのです。

結婚とは何か
 このように、主イエスのこの教えは、この当時のユダヤ人たちの社会の、結婚や離婚についての常識を背景としており、それに挑戦するような面があったわけですが、そうなると、それとは全く違う、正反対とも言えるような社会に生きる私たちには、この教えはあまり意味がないものなのでしょうか。そうではない、ということをご一緒に見つめていきたいのです。主イエスに投げかけられた問いは、離婚についてのことでした。しかしその問いに対して主イエスが先ず答えていかれたのは、「こういう場合には離婚できる」という条件ではありませんでした。主イエスは先ず4〜6節を語られたのです。「イエスはお答えになった。『あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。』そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」」。ここに語られているのは、結婚とは何かということです。結婚することが、神様との関係の中でどういう意味を持つかを主イエスはお語りになったのです。結婚は、神様が人間を男と女とにお造りになった、その天地創造のみ業を土台としています。そのことを語っているのが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、創世記第2章18節以下です。そこには、神様が人間を男と女として造って下さったことの根本にどんなみ心があったかが示されています。18節の「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」というみ言葉がそれです。人間が男と女であるのは、人は独りで生きるべきものではなく、彼に合う助ける者と向かい合って、助け合いながら共に生きるべきだという神様のみ心によるのです。そのことが最もはっきりと、端的に実現するのが結婚です。その結婚ということが、24節で、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と言い表されています。これが本日の5節に引用されているのです。

神が結び合わせてくださったもの
 主イエスはそこに6節をつけ加えられました。「だから、二人はもはや別々ではなく、一体である」。結婚した二人は、二人別々ではなく、一体となって生きるのです。一つの人生を共に生きると言ってもよい。夫婦の間のそういう深い絆がそこに語られています。しかしその一体であること、絆は何によるのでしょうか。結婚すれば自然に一体となり、絆が生まれるのでしょうか。あるいはお互いが愛し合っていれば一体になれるのでしょうか。主イエスはそこに、二人が一体であることの決定的な根拠をお示しになっています。それが「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」というみ言葉です。夫婦が一体となるのは、お互いが愛し合うことによるのでもなければ、共に生活していくことで自然になじんでいって一体になるのでもありません。神が結び合わせて下さった、そのことによって二人は一体となるのです。結婚は、神様が二人を結び合わせて下さるという神様のみ業である、それが、ここで主イエスが教えようとしておられることの中心です。神様が人間を男と女として造って下さったことから説き起こすのもそのためなのです。一組の男女が結婚して夫婦となる、そこには、神様のみ心とみ業が働いているのです。そのことをしっかりと受け止めることこそが、結婚の正しい受け止め方なのです。そしてそれゆえに、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」のです。それは、第三者が二人の仲を引き裂いてはならない、ということでもありますが、より大事なことは、夫婦それぞれの心の中に、お互いをお互いから引き離そうとする思いが生じてくるということです。一体であるはずの二人を分離しようとする思いが働くようになるのです。それが最終的に離婚という事態を生むのです。主イエスはそのことを見据えつつ、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」とおっしゃいました。つまり主イエスは基本的に離婚に反対しておられるのです。しかしその理由は、離婚するとお互いが傷つくからとか、子供が傷つくからとかではありません。「神が結び合わせてくださった」ということを否定し、放棄してしまうことがそこで起るからです。離婚とは、神様が二人を結び合わせて下さったことを否定することに他ならないのです。ですからここに語られているのは、離婚してもよいかいけないか、という道徳の教えではありません。主イエスは私たちに、結婚を、神様が二人を結び合わせて下さったこととして、つまり神様のみ心とみ業によることとして受け止めるように教えておられるのです。そこにこそ、二人が本当に一体となり、向かい合って助け合いながら生きるための道があるのです。祝福された家庭を築く秘訣があるのです。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」というみ言葉は、教会の結婚式において、新郎新婦の結婚の誓約を受けて、牧師がこの二人が夫婦であることを宣言する、その宣言の最後に語られます。それはとても大切な、またこれから二人が夫婦として歩むための土台を示す宣言です。神様が結び合わせて下さった、ということをしっかり覚えることこそが、愛し合うとか、いたわり合うとか、支え合うという全てのことに増して、夫婦の歩みを支えるのです。

やむを得ない離婚
 このように主イエスは、離婚の条件はどうだというのではなくて、基本的に離婚そのものに反対されたのです。それに対してファリサイ派の人々は、しかしモーセは律法において離婚を許し、その場合には離縁状を渡せと言っているではないかと言って、先程の申命記24章を引いたのです。それに対して主イエスは、「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない」と言われました。つまり律法に離婚についての規定があるのは、人間の頑固さ、言い換えれば罪の現実のゆえなのであって、それが本来の神様のみ心ではない、ということです。神様は、基本的に離婚を喜んではおられない。しかし、人間の罪のゆえに、どうしても夫婦としての関係を維持できなくなるということがある。どうしても、お互いを神様が結び合わせて下さった相手として受け入れることができなくなってしまうことが起る、そのような場合に、やむを得ないこととして離婚ということもあり得るのです。そのようなやむを得ない事情として、相手が他の人と性的関係を持つということがあげられているのです。このことは、今日の社会の事情においては少し別なふうに受け止めることが許されるでしょう。例えば今日の離婚の大きな要因となっているドメスティック・バイオレンス(家庭内暴力)、これなども、どうしても結婚を維持できなくなる事情の一つとなるでしょう。主イエスの教えはこのように、結婚を「神が結び合わせて下さったもの」として受け止め、その神様のみ心を受け入れ、従っていくという信仰を教えているのであって、道徳的規則を語っておられるのではないのです。

人間の権利か、神のみ心か
 この主イエスの教えに対して、弟子たちが「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言ったのです。この反応は、男性優位の結婚理解にどっぷり浸かっていた当時の人々の思いであると先程申しました。しかし今見てきた主イエスの教えの本当の意味を前提として考えるならば、ここには、時代や社会の状況を越えて私たち人間が普遍的に持っている問題が浮き彫りになってくるように思います。つまり、主イエスが教えておられるのは、結婚を神様のみ心によることとして、神様が二人を結び合わせて下さったということとして受け止めよということであるのに対して、弟子たちの反応あるいは反発の背後には、結婚を、人間の思いによる人間の業、人間の権利として受け止めようとする思いがあるのです。離婚の条件を厳しく理解するか、緩やかに理解するかの違いはあるにしても、当時の人々は、夫はある条件が整えば妻を離縁できる、妻を離縁して他の女と結婚することは男としての権利だと思っていたのです。それはもっと一般的普遍的に言い直せば、結婚は人間が自分の意志で好きなようにすることができるし、いやになったらやめることができる、そういう人間の権利だ、ということです。その権利を男性だけが持っていたのが当時の社会ですが、今は男女が共にそれを持っています。むしろ女性の方がその権利を強烈に主張し、行使するようになっています。結婚は人生の墓場だ、というのは以前は男性の言葉でしたが、今はそう考えて独身で生きようとする女性が増えています。「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」という弟子たちの言葉は、今や男女の両方が抱く思いになっているのです。つまり、自分の思い通りにならないなら、自分が我慢をしなければならないなら、やりたいこともできなくなるなら、結婚なんてやめてしまおうという思いです。それは、神様が自分たちを結び合わせて下さったということと真っ向からぶつかり合う思いです。主イエスの教えと弟子たちの反応とは、そのようにぶつかり合っているのです。これはそのまま私たちへの問いです。私たちは、結婚、夫婦について、主イエスが教えておられるように、それを神様が結び合わせて下さったものとして受け止め、神様のみ心に従う思いでそれを大事にしていくのか、それとも、結婚は自分の思いでしたりやめたりできる自分の権利なのだと主張していくのか、この問いは、時代や社会を越えて全ての人に向けられているのです。

信仰者として
 主イエスはそのような弟子たちの反応に対して、11節で、「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである」と言われました。この「恵まれた者だけである」というところは、口語訳聖書では、「それを授けられている人々だけである」となっていました。もともとの言葉の意味はこの口語訳に近い、「与えられている者だけ」です。その「与えられている者」とは何を与えられている者なのか、「この言葉」とはどの言葉を指すのか、ということが様々に議論されています。しかし、何を与えられているにせよ、それは神様から与えられている者という意味であることは明らかです。また、その者たちだけが、どの言葉であるにせよ主イエスのみ言葉を受け入れるのです。つまりここで見つめられているのは、主イエスを信じ従ってくる弟子たち、信仰者たちのことです。教会のことと言ってもよいでしょう。神様から恵みを、あるいはみ言葉を与えられ、主イエスに従っていく弟子たち、教会に連なる信仰者たちだけが、この言葉を受け入れるのだ、ということが見つめられているのです。主イエスが、結婚とは何かを語り、そこから離婚をどう考えるべきかを教えておられるこれらのみ言葉は、私たち信仰者こそが受け入れ、従っていくべきものだし、また信仰者のみが、結婚は神が二人を結び合わせて下さったものであることを真剣に受け止めることができるのです。私たちこそが、ここで言う「恵まれた者」であり、「与えられた者」です。そして私たちこそが、主イエスのみ言葉を受け入れる者であることができるはずなのです。

赦しに生きる
 そういう意味でここには、教会における兄弟姉妹の、信仰を前提とした交わりの一環としての結婚、夫婦の関係が見つめられています。その点において、ここはこれまで読んできた18章とつながっているのです。18章には、教会とはどのような共同体であるべきか、教会における兄弟姉妹の交わりのあり方が教えられていました。その結論と言うか土台を示しているのが、あの「仲間を赦さない家来のたとえ」です。そこには、私たちは神様から一万タラントンの借金、罪を赦していただいた者として、兄弟が自分に対して犯す百デナリオンの罪を赦すこと、それが主イエス・キリストのもとに集まる信仰の兄弟姉妹である教会の交わりの根本であることが語られていたのです。このことは、本日のこの結婚、夫婦の関係にもそのまま当てはまることです。お互いを、神様が結び合わせて下さった相手として受け入れ、共に生きることは、相手の罪を赦すということなしにはあり得ないのです。18章で教えられていた、私たちが受け入れるべき小さな者の一人、あるいは私たちが赦すことを求められている、自分に罪を犯す兄弟とは、ここでは自分の妻であり夫なのです。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。このみ言葉は、私たちに、主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しの恵みのゆえに、自分の妻を、夫を、赦し、受け入れることを求めているのです。

独身で生きる者も
 また12節以下には、いろいろな理由で結婚しない人、独身で生きる人のことが語られています。それは「結婚できないように生れついた」という場合もあるし、「人から結婚できないようにされた」ということもあります。この第二のことは分かり難いですが、もともとは昔にあった人為的に去勢された「宦官」と呼ばれる人のことを言っているのだとも言われます。しかし私たちが今このみ言葉を受け止めるとすれば、それは何らかの人間の事情で結婚できない者というふうに理解することができるでしょう。そして第三に、「天の国のために結婚しない者」がいます。これは、神様に専心仕えるために独身で生きる決心をした人のことです。そのようにいろいろな事情や思いによって、独身で生きるという場合もあるのです。その最後に、「これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」とあります。つまり、独身で生きることをもまた、神様が自分に与えていて下さることとして受け入れること、それが信仰なのです。結婚して生きる場合にも、相手を神様が与えて下さったパートナーとして、神様が結び合わせて下さった二人であることを受け入れて歩み、独身で生きる場合にも、そのことを神様から与えられている歩みとして受け入れて歩む。いずれにおいても私たちは、主イエスの弟子として、主イエスに従っていくのです。結婚することも、独身で生きることも、いずれも私たちの権利ではなくて、神様が与えて下さることなのです。そのことを受け入れて生きるところに、主イエスの弟子、信仰者としての人生があるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年9月15日]

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