富山鹿島町教会

礼拝説教

「赦しの共同体」
詩編 第113編1〜9節
マタイによる福音書 第18章21〜35節

 礼拝において、マタイによる福音書を読み進めておりまして、今第18章を読んでいるところです。先々週の礼拝においても、本日の箇所と同じ、21〜35節について説教をしました。主イエスが語られた、そしてマタイ福音書のみに記されている、「仲間を赦さない家来のたとえ」と呼ばれる印象深いたとえ話を中心とした箇所です。その時にも申したのですが、このたとえ話は、18章全体のまとめ、しめくくりになっています。18章で語られてきたことの全体を結び合わせる要が、このたとえ話にあるのです。本日はそのことについて、18章全体を視野に入れつつご一緒に考えていきたいと思います。

天の国で誰が一番偉いか
 この18章はどのような話から始まったのかを、まず振り返って見たいと思います。1節に、弟子たちが主イエスのところに来て、「いったい誰が、天の国で一番偉いのでしょうか」と質問したことが語られています。18章はこの問いから始まっているのです。天の国で誰が一番偉いか、それは、自分たちと関係のない、遠い国についての話ではありません。弟子たちにとってこれは、要するに、自分たちの間で誰が一番偉いか、ということです。「天の国は近づいた」と宣言された主イエスを救い主と信じ、従ってきている弟子たちは、天の国、つまり神様のご支配にあずかる者です。その自分たちの中で、誰が一番偉いかという疑問が生じた、いや、疑問と言うよりももっとはっきり言えば言い争いが生じたのです。弟子たちの誰もが、自分が人よりも偉くなりたい、上になりたい、より高い地位を得たいと思って争いを始めたのです。そういう問いに対して主イエスが答えていかれたのがこの18章でした。
 この弟子たちの問いを、私たちは、大人げない幼稚な問いとして一笑に付してしまうことはできないでしょう。これは、主イエス・キリストを信じる信仰者の群れ、つまり教会における兄弟姉妹の交わりに関することです。その交わりにおいて、私たちも、これと同じ思いをしばしば抱くのではないでしょうか。勿論私たちはこういう幼稚な問い方はしません。私たちの思いはもっと複雑です。偉くなったり、人の上に立ったりすることを求めるのではなく、むしろいかに謙遜であるかを競い合うようなところがあります。自分の謙遜さを誇るような、もってまわったおかしなことを私たちはしているのです。しかしそれも、人より偉くなりたいという思いが形を変えたものに過ぎません。教会における兄弟姉妹の信仰の交わりにおいても、「誰が一番偉いか」という問いは常についてまわるのです。だからこそ、この弟子たちの問いと主イエスの答えがこのように福音書に記されて残されたのだと言えるでしょう。福音書が書かれた時の教会の人々が、これは自分たちの間にいつも起っている大事な問いだと思ったのです。

二つの教え
 この問いに対する主イエスのお答えが、2〜5節に記されています。そこでまず第一に言われていることは、「自分を低くして、子供のようになる人こそ、天の国で一番偉い」ということです。主イエスは、弟子たちに、つまり私たち教会に連なる信仰者に、「子供のようになる」ことを求めておられるのです。しかし5節に語られているのは、それとは少し違うことです。そこには「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」とあります。ここで主イエスが私たちに求めておられるのは、「子供のようになる」ことではなくて、「一人の子供を受け入れる」ことです。つまり主イエスのお答えは二つのことを含んでいるのです。「子供のようになる」ことと、「子供を受け入れる」ことです。その二つのことがここで私たちに求められているのです。

つまずかせないように
 次の6節以下に語られていることは、今の二つのことの内、後者の、「子供を受け入れる」ことと関係しています。「一人の子供」がここでは「小さな者の一人」と言い換えられています。その一人を「つまずかせる」ことへの警告です。信仰の兄弟姉妹の間で、一人の小さな者をつまずかせてしまう、つまり、その人が信仰をもって生きることを妨げ、教会の交わりから脱落してしまう原因を作ってしまうようなことがないように、よくよく気をつけなさいと言われているのです。そのようにつまずいてしまう者が、「小さな者」と言われていることが大事です。大きな者はつまずかないのです。大きな者とは、重んじられている者、みんなから一目も二目も置かれている者です。そのようにみんなから大事にされている人は、つまずかされてしまうことはない。つまずかされるのは小さな者、つまり、教会の交わりにおいてともすれば軽んじられたり、無視されたりする者です。そういう小さな者をつまずかせることが、大きな石臼を首に懸けられて深い海に沈められる方がましであるような大きな罪であることが語られているのです。それではそういう小さな者をつまずかせないためにはどうすればよいのか。それは、その人を受け入れることです。主イエスが、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる」とことさらに言われたのは、子供がこの当時、軽んじられ、受け入れられない弱い、小さな存在の代表だったからです。そういう小さな者、弱い者を、主イエスの名によって受け入れることこそ、その人をつまずかせないために最も大事なことなのです。私たちが教会の交わりにおいてもしも誰かをつまずかせてしまうことが起るならば、それは、私たちがその人を受け入れていなかったからではないか、とまず振り返って見る必要があるのです。

迷い出た羊のたとえ
 このように、一人の子供あるいは小さな者の一人を受け入れ、決して軽んじてはならないと主イエスは教えておられます。そのことが10節にも語られているわけですが、そこには、「言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」とあります。小さな者の一人を軽んじてはならないことの理由がこれなのです。このみ言葉の意味は、天の父なる神様が、彼ら小さい者の一人のことをいつも気にかけ、見守っているということだと、ここを読んだ時に申しました。つまり、小さな者の一人を軽んじてはならないのは、神様がその一人の小さな者を大事に思っておられるからなのです。どのくらい大事に思っておられるのかが、「迷い出た一匹の羊のたとえ」によって語られています。この羊飼いは、百匹の羊の内の一匹が群れから迷い出てしまった時に、残りの九十九匹を山に残したままその一匹を捜しに行くのです。神様は、信仰者たちの内の小さな者の一人をそのように大事に思っておられるのです。迷子になってしまう羊は、群れ全体に迷惑をかけています。群れの仲間からは、軽んじられ、相手にされず、受け入れられずに、つまずいてしまいがちなのがその羊です。しかし神様は群れの他の者たちのことを放っておいても、その一匹のことを気にかけ、大事にし、ご自分の群れの中に置いて養い育てようとしておられるのです。神様にとって、そういう小さな者の一人がどれほど大切であるかをこのたとえ話は語っているのです。

兄弟があなたに罪を犯したら
 このようにこの18章には、信仰者の群れである教会において、ともすれば軽んじられ、受け入れられない一人の小さな者を、神様がいかに大切に思っておられるか、だからそういう一人の小さな者を受け入れ、軽んじないように、つまずかせないように、よくよく気をつけるべきことが教えられています。そしてその教えは、15節以下の、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」ということにつながっていくのです。「一人の小さな者」は、ここからは「自分に対して罪を犯す兄弟」と言い換えられています。小さな者とは、私たちにとって、いてもいなくても関係のない、どうでもよい者ではないのです。むしろ私たちに対して罪を犯し、私たちの気持ちを損ね、傷つける人、つまり私たちにとって目障りであり、いなければいいのにと思ってしまうような人、それこそが実は「これらの小さな者の一人」です。だからこそ、その人を軽んじるということが起るのです。軽んじるというのは、その人のことを知らなかったり、意識していなかったりするところに起ることではありません。知っているのです。意識しているのです。そしてわざと知らないふりをするのです。その人がいないかのように振舞うのです。そこには既に明確な悪意があります。その人を受け入れず、拒否する思いがあります。どうでもよいのではなくて、実ははっきりとその人のことが嫌いなのです。なぜ嫌いか。それはその人が自分に対して罪を犯しているからだ、と私たちは理由をつけます。「罪を犯している」と言うと何かとても大袈裟な感じがしますが、その人がいるとどうも事がスムーズに進まないで迷惑している、その人さえいなければもっと楽しく和気藹々とやっていけるのに、ということもそこには含まれます。要するに、その人と自分が合わない、うまくいかないのです。そういう相手のことを見つめる時に私たちは、「あの人がこうだから」、と相手のせいにするのです。それが、「兄弟があなたに対して罪を犯す」ということです。ですから、私たちが軽んじてしまいがちな「これらの小さな者の一人」と、「自分に罪を犯す兄弟」とは別の人ではないのです。そのことは、あの迷い出た羊のたとえにおいて既に暗示されていました。群れから迷い出るとは、神様のもとから離れ去る罪を犯すことです。そして先程も申しましたように、群れ全体に迷惑をかけることです。それは神様に対する罪であると同時に、兄弟姉妹に対する罪でもあるのです。そのように自分に対して罪を犯し、迷惑をかけている兄弟に対してどうするかが15節以下で問われているのです。

兄弟を得る=罪を赦す
 そこを読んだ時に申しましたように、ここでの主イエスの教えの根本は、「その人を兄弟として再び得るために最大限の努力をせよ」ということです。それは決して相手の罪を見て見ぬふりをしたり、問題にしないことによってではありません。その人に対して忠告をすること、つまり相手の罪を指摘し、悔い改めを求めることが勧められています。そのようにお互いどうしの間で、罪をきちんと問題にし、相手の何によって自分が傷つけられているのか、逆の立場から言えば、自分が相手をどのように傷つけてしまっているのかを知り、正すべきことは正し、詫びるべきことは詫びることが必要だと教えられているのです。しかしそれら全てのことの根本になければならないのは、相手を兄弟として得ようという思いです。自分に罪を犯した相手に復讐してやろう、自分が味わったのと同じ苦しみを相手にも与えてやろう、という思いでいたのでは、憎しみと争いが深まるだけで、相手を兄弟として得ることはできません。兄弟を得るためには、罪を罪として問題にしつつ、それを赦すということが必要なのです。そのことが18節では、「つなぐ」と「解く」という言葉で語られていました。「つなぐ」とは、「罪につなぐ」、つまりその人と罪とを結びつけ、それを赦さず、あくまでも追求していくことです。「解く」とは、「罪から解く」、つまりその人と罪とを切り離し、もはや罪を問わず、赦すことです。「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と主イエスは言われました。私たちがこの地上で自分に罪を犯す者を赦すのか赦さないのか、それによって、神様が天上でその人をお赦しになるかならないかが決まる、あなたがたはどうするのか、と問われているのです。そして主イエスが求め、期待しておられるのは、私たちが人の罪を解くこと、つまり赦すことです。そのようにして相手を兄弟として得ることです。そのことのために、心を一つにして祈れ、そうすれば主イエスの天の父なる神様はその願いを必ずかなえて下さるのだ、と教えられているのです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という、本年度の私たちの教会の主題聖句となっているみ言葉はこういう文脈の中で語られていました。二人または三人が主イエスのみ名によって、つまり信仰を絆として集まる、それは要するに教会ということです。その教会は何のために集まるのかというと、自分に罪を犯す兄弟を赦すためであり、そのことを集まった者たちが心を合わせて祈り求めていくためなのです。そこにこそ、主イエス・キリストが共にいて下さるのです。

仲間を赦さない家来のたとえ
 18章における教えの流れをこのように振り返ってたどってきました。これらのことを受けて、21節以下が語られているのです。その冒頭には、ペトロが「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と問うたことが語られています。先々週に申しましたように、ペトロは、主イエスのこれまでの教えから、自分に罪を犯す兄弟を赦すことの大切さを感じ取り、その教えを頑張って実行しようと思って、「七回までですか」と言ったのです。しかし主イエスはそれに対して、「七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」と言われました。それは、ペトロの人を赦そうとする努力はまだ足りない、さらに七十倍努力すべきだ、ということではありません。主イエスはこのことによって、自分に罪を犯す兄弟を赦すことは、人間の決意や努力によってなされる「よいこと」とは違うということを教えておられるのです。そのことを示すために、「仲間を赦さない家来のたとえ」が語られました。一万タラントンという、一生かかっても絶対に返すことができない莫大な借金を主人によって赦してもらった家来が、兄弟の百デナリオンの借金を赦そうとしないのはどう考えてもおかしい、あってはならないこと、人としての道に反することです。つまり、兄弟の百デナリオンの借金、罪は、努力して赦すべきものではなくて、それを赦すことの方が当たり前であり、自然であって、赦さないなんて全くの非常識、人としての道をはずれたことなのです。主イエスはこのたとえ話で私たちにそのことを教えようとしておられるのです。それは、私たちは既に神様によって一万タラントンの借金、罪を赦されているからです。私たちが兄弟の罪を赦すのは、一万タラントンを赦された者が百デナリオンを赦すということなのです。だからそれは努力や決意の問題ではなくて、当たり前のことなのです。当たり前のことだから、七の七十倍まで、つまり無限にすることができるはずなのです。

赦す者から赦される者へ
 ですから、ここに語られていることの全ては、自分が神様によって一万タラントンの借金、罪を赦していただいた者だ、ということにかかっています。そのことがわからなければこの話は無意味なのです。私たちは神様によって、一万タラントンの借金、罪を赦していただいた者である。そのことをここで、納得できるように説明してしまうことはできません。それは理解したり納得したりすることではなく、信じて受け入れるしかないことです。しかしこのことだけは説明することができるし、理解することができます。それは、このたとえ話において、私たちの立場は初めて、赦す者から赦される者へと転換しているということです。18章にこれまで語られてきたことにおいて、私たちは、自分に罪を犯す兄弟を赦すことを求められていました。兄弟を得るために努力するとはそういうことであるし、赦す思いがなければ相手を受け入れることもできない、つまり小さな者の一人を軽んじるとは、相手を赦さないことであり、それが、その人をつまずかせることにつながっていくのです。つまりこれまで語られてきたことにおいて、私たちは、小さい者の一人を赦し受け入れる者、主イエスの名のために一人の子供を受け入れる者であることを求められてきたのです。勿論この「仲間を赦さない家来のたとえ」においても、そのことは強く求められています。しかしここには、それとは少し違うことも語られているのです。私たちは、兄弟を赦す者、小さな者の一人を受け入れる者でなければならない、というのみではない。むしろより根本的には、赦されている者、受け入れられている者なのだ、ということです。神様によって赦され、受け入れられている者であるからこそ、人を赦し、受け入れることができるのです。つまり、私たち自身が実は、これらの小さな者の一人なのです。一人の子供なのです。その小さな者を、神様は、かけがえのない大切なものとしていつも見つめていて下さいます。私たちの天使が、天でいつも主イエスの父なる神の御顔を仰いでいるのです。私たち自身が、群れから迷い出て罪を犯し、みんなに迷惑をかけてしまうような者です。しかしその私たちのことを、神様は、他の九十九匹を山に残しておいて、徹底的に探し回り、連れ帰って下さるのです。神様は私たちのことをそのように大切に思っていて下さり、決して軽んじることなく、受け入れていて下さるのです。そのことを示しているのが、神様の独り子イエス・キリストの十字架の死です。神様は、罪人である私たちの救いのために独り子を世に遣わし、その十字架の苦しみと死とによって私たちの罪を赦して下さったのです。それは神様が、私たち一人一人を、愛する独り子の命以上に大切に思って下さっているということです。私たちが、一万タラントンの借金を赦された者だというのは、そういうことなのです。つまり、自分が一万タラントンの借金を赦された者であるということは、言い換えれば、自分は群れから迷い出てしまった一匹の羊であり、まことの羊飼いであられる主イエスが、他の九十九匹を山に残しておいて、この自分を捜しに来て下さり、見つけ出して大いに喜んで下さった、その羊であるということなのです。

子供のようになるとは
 このことを見つめていくならば、「これらの小さな者」とは実は私たちのことであるということがわかってきます。私たちは、これらの小さな者の一人を受け入れる者である前に、実は主イエス・キリストによって、神様に受け入れられている小さな者、一人の子供なのです。3、4節で主イエスが、「心を入れ替えて子供のようになれ、自分を低くしてこの子供のようになれ」と言われたことの本当の意味がそこにあります。子供のようになる、とは、子供のように純真な、無垢な、素直で清い心を持った人間になれ、ということではありません。あるいは、子供のように自分を低くする謙遜な者になれ、ということでもありません。そもそも、子供は自分を低くするとか、謙遜であるなどということは事実と違うのです。子供のようになるとは、あの一万タラントンの借金を赦してもらった家来になることです。羊飼いが捜しに来てくれたことによってようやく戻ることができ、生き続けることができたあの迷い出た一匹の羊になることです。どちらも、絶体絶命の自分の状況を、自分でどうにかすることはできないのです。一万タラントンは一生かかっても決して返せません。主人に赦してもらうしかないのです。迷子になった羊は一匹で生きていくことはできないし、自分で群れに戻ることもできません。羊飼いに探し出してもらって、連れ帰ってもらうしかないのです。このように自分が神様の恵みと憐れみをひたすら受けるしかない者であることを認めること、それが心を入れ替えて子供のようになることです。自分を低くするというのも、本当はもっと高い存在なのにわざと自分を低い者のように装うという謙遜ではなくて、自分が本当に低い者、自分の力ではどうすることもできない者であることを認めることです。自分がそのように小さな者であることを本当に知る時に、私たちは同時に、神様が自分を受け入れていて下さり、一万タラントンの罪を独り子の命と引き換えに赦して下さっていること、神様はこの小さな自分のことを本当にかけがえのない、大事な者として見守っていて下さることをも知ることができるのです。そしてその時、私たちも、これらの小さな者の一人を受け入れ、赦す者となっていくことができるのです。つまり、子供のようになることによって、一人の子供を受け入れる者となることができる、赦されなければならない者であることを知ることによって、赦しに生きることができるようになる、そのことをこの18章は私たちに教えているのです。ここに、教会における信仰の兄弟姉妹の交わりの要、土台があります。教会は、主に受け入れられているがゆえに互いに受け入れ合って生きる、赦されているがゆえに赦しに生きる、そういう赦しの共同体なのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年9月1日]

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