富山鹿島町教会

礼拝説教

「二つの提案」
サムエル記下 第17章1〜29節
ローマの信徒への手紙 第9章14〜18節

アブサロムの反乱
 月の第四の主の日には、旧約聖書、サムエル記下からみ言葉に聞いています。先月、5月26日に、15章を読みました。そこには、ダビデ王の息子アブサロムが、父の王位を奪い取ろうとして反乱を起したことが語られていました。この反乱はかなり周到に準備されており、またアブサロムという人はなかなか行動力もあり、魅力的な人物だったこともあって、イスラエルのかなりの人々が彼を支持するようになりました。ダビデは、エルサレムから脱出し、荒れ野に逃れなければならなくなったのです。若い頃にはサウル王に追われて逃げ回らなければならなかったダビデですが、今度は、自分の息子に追われて逃げるはめになったのです。本日は、このアブサロムの反乱の話の続きです。先ほどは第17章の全体を読んでいただきましたが、16章から18章までの全体を視野に置いてお話をしていきたいと思います。アブサロムの反乱は一時はかなりの力を持ちましたが、結局はダビデの軍勢との戦いに敗れ、アブサロムも殺されてしまうのです。その顛末を読んでいきたいのです。

アヒトフェルの提案
 さて15章12節に語られていたように、アブサロムは、ダビデの顧問であったギロ人アヒトフェルという人を自分のもとに迎え、参謀としました。この人は、ダビデが部下のウリヤから奪い取って妻としたバト・シェバのおじいさんに当る人で、ダビデの宮廷の重臣であり、また大変優れた人物でした。彼がアブサロムの側に加わったことを聞いたダビデは、15章31節で、「主よ、アヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」と祈っています。それはアヒトフェルという人の助言がそれだけ賢明な、適切なものであり、敵に回したら怖い人物であることを示していると言えるでしょう。このアヒトフェルが、アブサロムに早速いくつかの提案をします。その第一が、16章20節以下に語られています。「アブサロムはアヒトフェルに、『どのようにすべきか、お前たちで策を練ってくれ』と命じた。アヒトフェルはアブサロムに言った。『お父上の側女たちのところにお入りになるのがよいでしょう。お父上は王宮を守らせるため側女たちを残しておられます。あなたがあえてお父上の憎悪の的となられたと全イスラエルが聞けば、あなたについている者はすべて、奮い立つでしょう』」。ダビデは多くの側女たちをかかえていたわけですが、エルサレムを脱出する際に、彼女たちを王宮に残していたのです。アヒトフェルの提案は、アブサロムが彼女たちのところに入ることです。その「入る」というのは、要するに父の側女だった彼女たちを今度は自分の側女とする、父のハーレムを自分が受け継ぐということです。それは象徴的なことであって、自分がイスラエルの王となったのだということを行動で示すということであり、また、先代の王ダビデはもう死んだも同然だと宣言することであり、要するにアヒトフェルが言っているように、あえて父ダビデの憎悪の的となることです。そうやって、父を排除して自分が王となる強い決意と意志を人々に示すことで、アブサロムを支持している人々は奮い立つし、ダビデとアブサロムとどっちにつこうかと迷っている者たちには、「もう時代は変わっているのだ、その流れに乗り遅れるぞ」という促しになるのです。このアヒトフェルの第一の提案は直ちに実行されました。16章23節にはこうあります。「そのころ、アヒトフェルの提案は、神託のように受け取られていた。ダビデにとっても、アブサロムにとっても、アヒトフェルの提案はそのようなものであった」。アヒトフェルの提案は神託のように受け取られていた。今風の言い方をすれば、彼は天才的ひらめきを持ったブレーンだったのです。その彼の提案によってアブサロムの陣営は大いに盛り上がったのです。
 アヒトフェルは次に第二の提案をしました。それが17章1節以下です。「アヒトフェルはアブサロムに言った。『一万二千の兵をわたしに選ばせてください。今夜のうちに出発してダビデを追跡します。疲れて力を失っているところを急襲すれば、彼は恐れ、彼に従っている兵士も全員逃げ出すでしょう。わたしは王一人を討ち取ります。兵士全員をあなたのもとに連れ戻します。あなたのねらっておられる人のもとに、かつてすべての者が帰ったように。そうすれば、民全体が平和になります』」。この提案の3節は、前の口語訳聖書ではこうなっていました。「すべての民を花嫁がその夫のもとに帰るようにあなたに帰らせましょう。あなたが求めておられるのはただひとりの命だけですから、民はみな穏やかになるでしょう」。この訳の違いは、新共同訳がヘブライ語の本文から訳されているのに対して、口語訳はギリシャ語訳聖書を参考にしていることから来るものです。そしてここなどは、むしろギリシャ語訳の方がもともとの生き生きとした内容を伝えているように思えます。いずれにせよアヒトフェルの提案は、今すぐ出陣してダビデを追い、ダビデ一人を討ち取ればよい、そうすれば、後の全軍勢は自然にアブサロムの下に帰順してくる、ということです。まだそう遠くへは逃げていない、しかも疲れているダビデの一行を今のうちに追撃しようというこの提案は、まことに理にかなった、有効な提案であると誰もが思ったのでした。もしこの提案が採用されていたら、おそらくダビデの命運はここで尽きていたでしょう。

アルキ人フシャイの提案
 ところがここに、もう一人の人物が登場します。それはアルキ人フシャイという人です。アブサロムは、彼の意見も聞いてみよう、と言うのです。このフシャイも、先月読んだ15章に出て来ました。彼はダビデの部下の一人ですが、「ダビデの友」とも呼ばれています。ダビデと非常に親しい、ダビデが心許していた人だったのでしょう。そのフシャイは、ダビデがエルサレムから逃亡していく時に、一緒に行こうとしたのです。しかしダビデは彼に、むしろアブサロムの所へ行って、彼の部下となるふりをして、その動向を自分に伝えてくれと頼みます。つまりフシャイは、ダビデのスパイとしてアブサロムのもとにいるのです。そのフシャイがアブサロムの所に来た時のことが、16章16節以下に語られています。「ダビデの友、アルキ人フシャイはアブサロムのもとに来て、アブサロムに向かって言った。『王様万歳、王様万歳。』アブサロムはフシャイに言った。『お前の友に対する忠実はそのようなものか。なぜ、お前の友について行かなかったのか。』フシャイはアブサロムに答えた。『いいえ。主とここにいる兵士とイスラエルの全員が選んだ方にわたしは従い、その方と共にとどまります。それでは、わたしは誰に仕えればよいのでしょう。御子息以外にありえましょうか。お父上にお仕えしたようにあなたにお仕えします』」。このようにして、フシャイはアブサロムの信頼を得て、その側近となったのです。アブサロムとしても、ダビデの友であった人が、自分についてくれたことは大変嬉しく、彼を重く用いようとしたのでしょう。それで、あのアヒトフェルの提案について、フシャイの意見も聞こうとしたのです。そのフシャイは、アヒトフェルの提案に反対し、別の提案をします。17章7節以下です。「フシャイはアブサロムに、『今回アヒトフェルが提案したことは良いとは思えません』と言い、こう続けた。『父上とその軍がどれほど勇敢かはご存じのとおりです。その上、彼らは子を奪われた野にいる熊のように気が荒くなっています。父上は戦術に秀でた方ですから、兵と共にはお休みにならず、今ごろは、洞穴かどこかを見つけて身を隠しておられることでしょう。最初の攻撃に失敗すれば、それを聞いた者は、アブサロムに従う兵士が打ち負かされた、と考え、獅子のような心を持つ戦士であっても、弱気になります。父上も彼に従う戦士たちも勇者であることは、全イスラエルがよく知っているからです。わたしはこう提案いたします。まず王の下に全イスラエルを集結させることです。ダンからベエル・シェバに至る全国から、海辺の砂のように多くの兵士を集結させ、御自身で率いて戦闘に出られることです。隠れ場の一つにいる父上を襲いましょう。露が土に降りるように我々が彼に襲いかかれば、彼に従う兵が多くても、一人も残ることはないでしょう。父上がどこかの町に身を寄せるなら、全イスラエルでその町に縄をかけ、引いて行って川にほうり込み、小石一つ残らなくしようではありませんか』」。フシャイはまず、ダビデとその手勢が歴戦の勇士であることを示し、それゆえに慎重に事を進めた方がいいと言います。これによって、今直ちに追撃しようというアヒトフェルの主張を、慎重を欠く無謀な策だと批判しているのです。そして彼の提案は、イスラエル全国から兵士たちを集結させ、絶対に優位な体制を築いてから攻撃しようということです。そうすれば絶対に負けることはない。そうしておいてから、フシャイはアブサロム自身が軍勢を率いて出陣することを勧めています。ここが、この提案の巧妙なところです。アヒトフェルの提案は、アヒトフェル自身が直ちに兵を率いて追撃するというものでした。それに対してフシャイは、アブサロム自身が出陣するという提案をしています。そこには、アブサロムの自尊心をくすぐろうとする意図があります。イスラエルの王となろうとしているアブサロムにとっては、自分自身が軍勢を率いて出陣し、敵、それは父であるダビデですが、その敵を打ち破って凱旋する、そして王として即位するということの方が、アヒトフェルに軍勢を委ねて追撃させて勝利するよりも魅力的に映るのです。フシャイはそういうアブサロムの心理を上手に利用したのです。それで、アヒトフェルの提案ではなく、フシャイの提案が採用されることになりました。14節には、「アヒトフェルの優れた提案が捨てられ」とあります。アブサロムにとって本当に優れた、ためになる提案はアヒトフェルのものだったのです。戦いというのは、チャンスを捉えて迅速に行動することが何よりも大事です。ダビデはまだ体制を立て直すことができずに、今一番弱っているのです。しかしイスラエルをここまでまとめてきたダビデをなお支持している者も多いのです。時が経てばそれだけ、ダビデは力を取り戻していきます。アブサロム側が勝利するためには、今のこのチャンスを捉えるしかないのです。アヒトフェルが一万二千の兵を率いて追撃するというのも、迅速な、小回りのきく戦いをするためです。しかしこの適切な提案は退けられ、ダビデのために時間を稼ごうとするフシャイの提案の方が採用されたのです。

アヒトフェルとフシャイ
フシャイはしかし、それで安心はしませんでした。彼は、アヒトフェルの提案がアブサロム側にとってまことに適切なものであり、もしもそれが実行されればダビデが危ないことを誰よりもよく知っているのです。それで彼は、アブサロム陣営の今の状況をダビデに伝えようとします。そのことが、15節以下に詳しく語られています。その伝令として用いられたのは、これもダビデがエルサレムに残るように15章で依頼した祭司ツァドクとアビアタルの息子たち、ヨナタンとアヒマアツです。エルサレムの外で待機している彼らのところに、父である祭司の家から使いの女が送られる。ところが彼らがダビデに通報しようとしていることが明るみに出て、探索を受ける。彼らはある家の井戸の中にかくまわれ、その家の妻の機転によって探索を逃れてダビデのもとまで行くことができたのです。このあたりはまさに、スパイ映画を見ているような、スリルに満ちた場面です。彼らの通報によって状況を知ったダビデは、その夜のうちにヨルダン川を渡り、安全なところまで逃れることができたのです。
 一方、自分の提案が受け入れられなかったアヒトフェルは、家に帰り、首をつって自殺してしまいます。それは、自分の提案を受け入れてもらえなかったことを恨んで、拗ねて、というような子供じみた思いではないでしょう。彼は、アブサロム側が勝利するためには、自分の提案を実行するしかないことを冷静に見極めているのです。その提案が退けられたことによって、もうアブサロムに勝ち目はない、その滅亡は時間の問題であることを悟ったのです。ということは、彼を支持した自分自身の滅亡ももう確定的だということです。彼はその全てのことを見切って、絶望の内に死んだのです。ダビデはヨルダン川の東のマハナイムという所落ち着き、そこで勢力を立て直していきました。そして18章には、ダビデの軍勢とアブサロムの軍勢の戦いと、ダビデ軍の勝利、アブサロムの死が語られています。全ては、アヒトフェルが予想した通りになったのです。つまり、あの二つの提案の内、フシャイの提案が取り上げられた、その時点で、ダビデの勝利、アブサロムの滅亡は決定的となっていたのです。

二つの提案
 さてこれが、16章から18章にかけての、アブサロムの物語です。ここには先ほども申しましたように、まことにスリルに満ちた、手に汗握る描写があります。また、アヒトフェルとフシャイの二つの提案をめぐって事態が決定的に動いていくあたりは、言葉によって人の心が動かされ、変えられていく、大変面白い場面です。同じようなことは、シェイクスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」の中にもあります。シーザーを暗殺したブルータスが、人々にその理由を説明するのです。「シーザーは、自分がローマの支配者、皇帝になろうという野望を抱いていた、その野望を打ち砕くために、ローマを民衆の手に取り戻すために我々はシーザーを打ったのだ」。その演説を聞いた群衆は、「なるほどそうだ。シーザーは野心家だった。ブルータスは我々のために良いことをしてくれた」と思い、彼に支持を与えたのです。しかしその後、アントニー(アントニウス)が演説に立ちます。彼はブルータスの言ったことを否定はしません。その応援演説のようにして語り始めるのです。しかし、その演説の中で彼は、シーザーがいかにローマの民衆のことを思っていたか、彼が暴君のように人々を支配したことなどなかったということを語っていくのです。そして彼が語り終えた時、人々の心は、シーザーへの哀悼の思いと、暗殺者ブルータスへの憎しみで満たされていました。アントニーの演説によって、形勢は一気に逆転してしまったのです。シェイクスピアはこの戯曲で、演説が人の心を動かし、あるいは煽動していく様を見事に描いていますが、それよりも二千年以上前に書かれた聖書に、このような記述があることは驚きです。聖書は、シェイクスピアと肩を並べる文学書でもあるのです。

神のご計画
 しかし聖書が語っているのは、フシャイがその弁舌でアブサロムや人々を誘導してダビデのためになる提案を採用させた、ということではありません。本日の箇所の中心は14節です。「アブサロムも、どのイスラエル人も、アルキ人フシャイの提案がアヒトフェルの提案にまさると思った。アヒトフェルの優れた提案が捨てられ、アブサロムに災いがくだることを主が定められたからである」。アブサロムをはじめとしてみんなが、フシャイの提案の方が優れていると思い、アヒトフェルの提案が捨てられたのは、主なる神様が、アブサロムの滅亡を定めておられたからなのです。フシャイの巧みな弁舌が人々を動かしたように見えますが、それは表面的なことに過ぎず、本当は、神様が事態を導き、神様の意志しておられることを実現されたのです。しかもそれは、神様がダビデの友でありスパイとして送り込まれたフシャイを支えてそのようにして下さったというだけのことではありません。実は神様がアブサロムの滅亡とダビデの王への復帰のために用いられたのは、フシャイだけではなく、あのアヒトフェルもまたそうだったのです。それは、アヒトフェルがアブサロムに、父の側女たちの所に入ることを勧めたあの第一の提案について言えることです。この提案の目指すところは、先ほど申しましたように、アブサロムがわざと父ダビデの憎悪の的となることをすることによって、ダビデとの対立をはっきりと公にし、従う者たちの士気を高め、どっちつかずにいる者たちの決心を促すということでした。それは人間の思いからすれば、思い切った有効な政策だったのです。けれどもこのことは、そういう人間の駆け引きを超えた、実は重大なことだったのです。同じようなことをした人がいたことが、創世記に語られています。創世記35章22節です。そこに、ヤコブ、即ちイスラエルの長男ルベンが、父ヤコブの側女ビルハのところへ入って関係を持った、ということが語られています。そこにはその事実だけが語られ、それについて何も言われてはいません。ところが49章3、4節において、そのことが重大な結果を生んでいるのです。そこは、ヤコブが、死に臨んで息子たち、つまりそこからイスラエルの12の部族が生れていくその息子たちに与えた言葉が記されています。ルベンはヤコブの長男ですから、最初に言葉を与えられているのです。しかしそこに語られているのは、こういうことです。「ルベンよ、お前はわたしの長子、わたしの勢い、命の力の初穂。気位が高く、力も強い。お前は水のように奔放で、長子の誉れを失う。お前は父の寝台に上った。あのとき、わたしの寝台に上り、それを汚した」。「お前は父の寝台に上り、それを汚した」と言われているのが、あのビルハとのことです。父の側女と関係を持つことは、父の寝台を汚すこと、父を汚すことなのです。それによって、ルベンは「長子の誉れを失う」と言われています。父を汚したことによって、長子としての権利を失い、それを受け継ぐことが出来なくなってしまうのです。アヒトフェルの提案によってアブサロムがしたのはそういうことでした。彼はこのことによって、自分を、父ダビデの王位を受け継ぐことができない者としてしまったのです。アブサロムの滅亡は、実はこのアヒトフェルの第一の提案によって決定的になっていたと言うことができるのです。
 このアブサロムの物語が私たちに教えているのは、人間の様々な思い、計画、策略、それらを用いて、神様のご意志が行われ、実現していくということです。それはフシャイの場合のように、神様のご意志にかなった方向での策略、努力が用いられるということでもあるし、逆にアヒトフェルの場合のように、神様のご意志とは反対の方向へ、天才的なひらめきを持って、優れた見識と知識をもって考え、計画し、策を練る、そういう人間の営みをも、神様はご自分のご計画の実現のために用いられるのです。本日共に読まれた新約聖書の箇所は、ローマの信徒への手紙第9章14節以下ですが、そこにも、同じことが語られています。奴隷とされていたイスラエルの民の解放を頑なに認めようとしなかったエジプトの王ファラオについて、神様は、「わたしがあなたを立てた」と言われるのです。それは「あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるため」でした。ファラオが頑なになり、神様の言葉に聞き従おうとしない、そのことすらも、神様はご自分の救いのご計画の中で用いて下さるのです。
 このローマの信徒への手紙9章から11章で見つめられているのは、主イエス・キリストによる救いの恵みを受け入れようとしないで敵対しているユダヤ人たちのことです。彼らは旧約聖書以来、神様に選ばれ、その祝福を担ってきた民だったのです。そのユダヤ人たちが、今神様が遣わして下さった救い主、神様の独り子である主イエス・キリストを認めようとせず、その十字架と復活による救いを受け入れず、むしろ主イエスを信じる人々を迫害している、どうしてそんなことが起こっているのか、ということが大問題でした。それについてパウロは、それは神様が彼らを頑なにしておられるのであって、このことを通して、ユダヤ人以外の者たち、異邦人にも、救いを及ぼしていくという神様のご計画が実現するのだ、そして最終的には、このユダヤ人たちも、神様のみ手の内にあり、彼らも救いにあずかるようになるのだ、と言っているのです。神様の救いのご計画は、敵対している者たちをも通して実現する、それはパウロが自分自身のこととして体験したことでした。彼はユダヤ人の中でも、ファリサイ派のエリートとして、イエスを信じる人々を迫害する急先鋒だったのです。その彼が、神様に選ばれ、導かれ、主イエスとの出会いを与えられて、今や使徒、伝道者となっている、神様は、自分のように激しく敵対している者をも用いて、救いのご計画をおし進めて下さるのだ、だから、今敵対し、福音を受け入れようとしない人々も、だから彼らは救われないとか、神様に選ばれていないなどと言ってしまってはならない。神様の救いのご計画は、そういう人々を通しても実現し、前進していくのだ、ということをパウロは確信を持って語っているのです。アブサロムの物語も、それと同じことを教えていると言えるでしょう。私たちはこの物語を通して、私たちの周囲の人々の、また私たち自身の、目に見える現実がどうであろうとも、またそこで人間がどのような思いを持ち、何を計画し、どう策略を巡らそうとも、神様の救いのご計画が必ず進展し、実現していくのだということを確信する信仰を与えられるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年6月23日]

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