礼拝説教「主イエスの憐れみ」イザヤ書 第35章1〜10節 マタイによる福音書 第15章29〜39節 礼拝において、マタイによる福音書を読み進めておりますが、本日与えられている第15章の終わりの部分には、主イエスが多くの病人や体の不自由な人を癒されたこと、そして、男だけで四千人もいた群衆を、七つのパンとほんの少しの魚で満腹にさせたことが語られています。これらのことは、どちらも、これまでに読んできたところにも出てきていたことです。主イエスが病気の人や体の不自由な人を癒されたことは、一対一の、個人的な癒しの業としてもいくつか語られてきましたし、本日のところにあるように、多くの人々を癒されたということも、繰り返し語られてきました。少しめんどうかもしれませんが、そういうところを振り返って見たいと思います。まず、8章16節です。「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた」。次に9章35節。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」。12章15節。「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、…」。14章14節。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた」。そして14章35節以下。「土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた」。このようにマタイは、主イエスがご自分のもとに集まって来た、病や障害を負って苦しんでいる人々を深く憐れみ、癒して下さったことを繰り返し語ってきたのです。本日のところも、これらの箇所と同じことを語っていると言うことができるのです。 ところで、マタイ福音書はマルコ福音書を下敷きにして書かれたと考えられていますが、マタイとマルコのこの部分を比べてみると興味深いことがわかります。この部分の話の流れは、21節以下の、主イエスがティルスとシドンの地方に行かれ、そこで一人のカナンの女、つまり異邦人の女と出会い、最初は拒絶しておられたけれども、最終的には、彼女の娘の病気を癒されたという話に続いて、ガリラヤ湖のほとりに戻られた主イエスによる癒し、そして四千人の人々を満腹にされた奇跡、と続いていきますが、この話の流れはマルコから受け継がれているものです。しかしマルコ福音書では、ガリラヤ湖のほとりでの癒しは、ある、「耳が聞こえず舌の回らない人」の癒し、つまり個人への癒しのみ業となっているのです。マルコ福音書7章31節以下に、その癒しの業が詳細に語られています。マタイは、この個人への癒しの話の代りに、本日の29節以下の、大勢の人々への癒しの記事を置いたのです。そこに、マタイの意図と言うか、マタイがこの箇所で語ろうとしていることが現れています。つまりマタイは、これまで繰り返し語ってきたように、主イエスが多くの人々を癒されたことをここでも語りたかったのです。そして、マタイ福音書において、このような、大勢の人の癒しのみ業が語られているのは、ここが最後です。つまりマタイはここで、主イエスが多くの人々を癒された、その恵みのみ業の最後のまとめをしているのです。 ここが最後のまとめであることは、長さからもわかります。ここには、先ほど読んだいくつかの箇所のどこよりも長く、詳しく、主イエスがいろいろな病気や障害を負った人を癒されたことが語られています。そしてここには、その主イエスの癒しのみ業を見た群衆の反応が記されているのです。31節「群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した」。このような群衆の驚きと讃美は、先ほど読んだいくつかの箇所にはありませんでした。その点においてもこの箇所は特別だと言えるのです。そして、今読んだ31節は、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第35章と関係があります。このイザヤ書35章は、神様の救いが実現し、荒れ野や砂漠が一面の花畑になる、苦しみは取り去られ、喜びと楽しみに満ちた世界が与えられる、ということを語っているところです。その救いが実現する時、5、6節にあるように、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開き、歩けなかった人が鹿のように踊り上がり、口の利けなかった人が喜び歌うようになるのです。31節に語られているのはまさにそういう出来事です。つまり、イザヤ書に預言されていた救いが、この主イエスのみ業によって実現しているのです。群衆が「イスラエルの神を讃美した」のは、この救いを目の当たりにしてのことです。主イエスこそ、預言されていた救いをもたらす方、救い主であられる、そのことを人々は見て、救い主を遣わして下さった神を讃美したのです。マタイはこのように、イザヤの預言が主イエスにおいて成就したことを語ることによって、主イエスの癒しのみ業の最後のまとめをしているのです。 このように、本日の29節以下の、大勢の病人の癒しの話は、一見すると前にも出て来たことの繰り返しのように思えますが、実はマタイ福音書において、とても大事な位置と役割を果しているのです。そのことを示すもう一つの言葉があります。それは、29節後半の、「山に登って座っておられた」という言葉です。この癒しのみ業は、ガリラヤ湖のほとりでなされた、それはマルコ福音書と共通することです。しかしマタイはそこに、「山に登って座った」という言葉をつけ加えたのです。そこに、多くの病人たちが、足の不自由な人や目の見えない人が連れて来られたのです。そういう人々が山の上の主イエスのところまで来るのは大変だっただろうと思います。どうせなら、もっと低い所で、あるいは町の中で癒しの業をしてあげた方がよかったのに、などと考えたりします。しかしここには、やはり意味があるのです。主イエスが、ガリラヤ湖にほど近い山に登って座る、それは私たちに、この福音書の第5章1節を思い起こさせるのです。5章1節に「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」とありました。同じように、山に登って腰を下ろした主イエスのお姿が語られているのです。そしてそこで語られていったのが、5〜7章のいわゆる「山上の説教」です。主イエスの教えをまとめたこの説教が、山の上で腰を下ろして語られたのです。本日のところで主イエスは同じことをしておられます。そしてそこでなされたのは、今度は、多くの人々への癒しの業だったのです。マタイは明らかに、5章1節を意識しながら15章29節を書いています。そのような書き方によって、あの山上の説教と、多くの人々への癒しのみ業を結びつけているのです。両者が一つであることを示しているのです。つまり、主イエスの教えとみ業とは一体であり、両者は切り離すことができないものだということを示しているのです。主イエスの教えは、癒しのみ業において実際に示され、現実となっています。主イエスはただ教えを説かれた方なのではなくて、それを実現して下さった方なのです。また逆に言えば、主イエスの癒しのみ業の持つ意味は、主イエスの教えにおいてこそ示されているのです。主イエスの癒しのみ業を、単なる奇跡として、あるいはテレビによく出てくる超能力による不思議な現象としてとらえていたのでは、その本当の意味はわかりません。主イエスの癒しのみ業は、山上の説教に語られている教えと合わせて理解されなければならないのです。「山に登って座っておられた」という言葉は、このように、山上の説教とこの箇所とを結びつけ、それによって主イエスの教えと癒しのみ業とが切り離すことができない密接な関係にあることを示していると言うことができるのです。 またこのことは、次のような意味をも持っていると言うことができます。それは、主イエスのガリラヤにおける伝道の活動が、山上の説教において始まり、山上の癒しにおいて終わっている、ということです。つまり、5章から15章までが、ガリラヤにおける主イエスの伝道の活動を語っている部分であり、本日の山上の癒しにおいて、そのしめくくりがなされている、と考えることもできるのです。そういう意味では、先ほどの31節の群衆の讃美は、ガリラヤにおける伝道をしめくくる言葉であると言うこともできます。そうすると、この後にはどのようなことが語られていくのかということになります。マタイがこの後語っていくことを少し先取りして見てみますと、16章に入ると主イエスとファリサイ派との対立が深まっていきます。そしてそのような中で、弟子のペトロが、「あなたはメシア、つまり救い主、生ける神の子です」という信仰の告白を語ります。その直後に、主イエスはご自分がエルサレムへ行ってそこで苦しみを受け、殺されることを予告し初められます。そのように16章からは、受難、十字架の死を明確に意識した記述になっていくのです。またその受難への歩みの中では、先ほど申しましたように、群衆への癒しのみ業ということはもう語られません。むしろそこで主イエスが心を砕いていかれるのは、弟子たちの群れの育成、主イエスの弟子として歩む者たちを育てていくことなのです。そういう大きな流れを見てみると、マタイ福音書はこの15章から16章に移るあたりで、言ってみれば分水嶺を越えるのです。前半から後半へと移っていくのです。その前半の最後に、この山上の癒しの記事が置かれていると言うことができるのです。 さてその山上の癒しの後に、四千人の人々に食物を与えた奇跡が語られています。それはマルコ福音書から受け継いだ順序の通りである、と言ってしまえばそれまでですが、しかし同じマルコを下敷きにしているルカ福音書では、この記事は省略されています。なぜこれが省略されたのか、その理由はおそらく、既に同じような話が語られていたからでしょう。マタイで言えば14章の13節以下に、五つのパンと二匹の魚で五千人の人々を満腹にさせた話が既に語られていました。こちらの方はルカも語っているのです。おそらくルカ福音書は、この話はこの一回だけでよい、同じような話を二度語る必要はないと考えたのでしょう。そういう意味では、七つのパンで四千人を満腹にした話がここに語られていることは必ずしも当然なことではありません。ルカのようにこれを省略してしまうこともできたのです。しかしマタイは敢えて、同じような話をここに繰り返し語っています。マタイがそうしたことにはやはり意味があると考えるべきでしょう。マタイは何を思ってこの話を語っているのでしょうか。 このことを考えるためにヒントになるのは、14章の、五千人の話との比較です。あちらの方では、人里離れた所におられた主イエスのもとに多くの群衆が集まっており、夕暮れになってきたのを弟子たちが心配して、「そろそろ解散させてそれぞれ自分で食事の算段をさせなければ」と言うと、主イエスが「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と言われたのです。弟子たちが、「そんなことを言われても、ここにはパンが五つと魚が二匹しかありません」と言うと、主イエスはそれを持って来させて、讃美の祈りをささげてそれを配るとみんなが満腹になって余りまで出たのです。この最後のところ、主イエスが祈って配るとみんなが満腹して余りまで出たというところは、どちらの話もほぼ同じです。違いは、話の前半にあります。群衆の食事の心配をしたのは誰か、ということが違っているのです。五千人の話では、今申しましたようにそれは弟子たちでした。ところがこの四千人の話では、32節に主イエスの言葉として「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない」とあるように、それは主イエスなのです。主イエスご自身が、群衆の食事のことを心配しておられるのです。そのことを最も端的に現わしているのが、「群衆がかわいそうだ」という言葉です。この言葉は、五千人の話の中にはありませんでした。そこに、この四千人の話の特徴、あるいはこの話がどういう視点から語れているかが示されているのです。この言葉のゆえにマタイはこの話を残したと言ってもよいのではないでしょうか。 「群衆がかわいそうだ」。それは文字通りに訳せば、「私は群衆を憐れむ」という言葉です。主イエスはご自分の周りに集まって来た人々を、深い憐れみのみ心をもって見つめておられるのです。その「憐れむ」という言葉は、ただ気の毒に思う、かわいそうに思う、というよりもずっと強い意味の言葉です。既に何回か出てきましたが、この言葉は「内臓」という意味の言葉から来ており、「内臓が揺り動かされるような憐れみ、同情」を意味しています。「はらわたがよじれるような」と言う場合もあります。つまり、自分自身が痛み苦しむような、そういう憐れみ、同情です。同情という言葉は、同じ心になる、という意味ですが、私たちの同情は、なかなか本当に相手の苦しみと同じ心になるということはできないものです。しかし主イエスがここで覚えておられる同情、憐れみは、相手の苦しみが自分自身の苦しみとなり、自分が揺り動かされ、痛みを覚える、そこまで相手と本当に一体となる同情なのです。主イエスはそのような思いで、群衆の空腹を感じ取っておられる、それが「群衆がかわいそうだ」という言葉の意味なのです。七つのパンで四千人を満腹にされた奇跡は、主イエスのそのような憐れみ、同情のみ心によってなされたことです。そして主イエスが憐れみを覚えておられるのは、人々の空腹だけではありません。先ほど見た、あの山上の癒しのみ業、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を癒された、そこに働いているのも、主イエスのこの憐れみのみ心、本当の同情なのです。つまりあの山上の癒しの記事と、この四千人の話とはつながっています。主イエスが、苦しんでいる者、いろいろな意味での空腹を覚えている者、弱っている者たちを深く憐れみ、本当の同情をもって関わって下さり、彼らの苦しみを癒し、飢えを満たして養い、慰め、力づけて下さる、そういう恵みが、これらの話によって語られ、それによってガリラヤ伝道のしめくくりがなされているのです。 そしてこのことは、先ほど申しました、癒しのみ業と山上の説教の教えとの結びつき、ということに関わってきます。主イエスの癒しのみ業は、単なる奇跡や超能力ではなく、山上の説教と切り離すことのできないものだと申しました。その山上の説教において教えられていたことは何でしょうか。それは一言で言えば、あなたがたには天の父なる神がおられる、ということです。神は、あなたがたの天の父として、あなたがたを愛しておられる、あなたがたが願うより先に、本当に必要なものをご存じであり、それを与えてあなたがたを養い、守り、導いて下さる。あなたがたは、何度も何度もしつこく願わなければ、あるいは多額の捧げ物をしなければ、努力してよい人間にならなければ祈りを聞いてくれないような疎遠な神の下にいるのではない、天の父の下にいるのだ。だから、この天の父の養いと守りと導きを信じて、安心して、思い悩むことなく生きていくことができるのだ。またこの神に向って、「天にまします我らの父よ」と呼びかけて祈ることができるのだ。神はそのような父としての愛と恵みをもってあなたがたを支配し、守り導いて下さる。それが主イエスのお語りになった天の国の福音でした。天の父なる神様の恵みのご支配、それこそが天の国です。主イエスはそれをこの世に、私たちにもたらすために来て下さったのです。主イエスの様々な癒しのみ業も、また僅かな食物で五千人、四千人の人々を満腹にして下さった奇跡も、全てはこの父なる神の恵みのご支配をもたらし、示すためです。主イエスの教えとみ業によって、この父なる神の恵みが、人々に注がれ、そして苦しんでいる者を癒し、飢えの中にある者を満腹にしたのです。イザヤの預言はこのようにして成就し、人々はそれを見てイスラエルの神を讃美したのです。 そのようにして主イエスにおける父なる神の恵みがある意味で頂点に達したのが本日の箇所です。この後、先ほど申しましたように、主イエスの受難、十字架の死への歩みが始まるのです。それは峠を越えた道が今度は下り坂になり、次第に急勾配になって谷底へところがり落ちていくことにも似ています。しかしそれは、ここで頂点に達した父なる神の恵みが次第に失われていってしまった、ということではありません。主イエスの受難と十字架の死は、ここで示された神様の父としての恵みがどんなに深いものであるかを示し、それが私たちの罪の現実とそれによる苦しみのどん底にまで、あるいは私たちの死の苦しみのただ中にまで及ぶものであることを示しているのです。言い換えれば、主イエスがここでお示し下さった私たちへの憐れみ、同情が、私たちの罪を背負って身代わりになって死んで下さるほどに、つまり私たちが受けるべき苦しみを代って引き受けて下さるほどに大きな、真実な憐れみ、同情であったということが、この福音書の後半の、受難への歩みにおいて語り示されていくのです。私たちは、主イエスの憐れみ、同情が、この十字架の苦しみと死にまで至る真実の憐れみ、同情であることを知らされています。そこからもう一度、本日の箇所に語られている主イエスの癒しの恵みを見つめ直す時に、それが単なる奇跡的癒しなのではなく、多くの人々の様々な苦しみ、悩み、悲しみを、主イエスがご自分の身に引き受け、背負って下さったのだ、ということがわかるのです。また同様に主イエスが四千人の人々を満腹にされた奇跡も、ただ食べ物の量を増やしたということではなくて、主イエスが空腹の中で弱っている人々をその恵みによって養い、力づけて下さったのだということがわかるのです。そして今、主イエスは私たち一人一人を、同じ恵みによって養い、力づけて下さいます。そのことを象徴しているのが、本日も共にあずかる聖餐です。聖餐において私たちは、主イエスが私たちのために十字架にかかって下さったその肉と、そこで流された血とにあずかります。それは肉を食べたり血を飲んだりすることではなくて、主イエスがご自身の命を犠牲にするほどの深い憐れみと同情とをもって私たちを愛して下さっていることを覚え、その愛によって私たちが満腹し、養われ、力づけられていくためです。この四千人の人々と共に私たちも主イエスの恵みに満たされ、満腹して、心からの讃美を歌うのです。
牧師 藤 掛 順 一 |