富山鹿島町教会

礼拝説教

「大きい信仰」
イザヤ書 第56章1〜8節
マタイによる福音書 第15章21〜28節

 本日の聖書の箇所の冒頭のところ、マタイ福音書15章21節に、「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた」とあります。「そこをたち」の「そこ」とはどこでしょうか。それは地理的に言えばガリラヤです。主イエスは、ガリラヤ湖のほとりの町カファルナウムにおられたのです。そのカファルナウムで何があったのでしょうか。それを私たちは先週まで二週間に亘って読んできました。エルサレムから遣わされたファリサイ派の人々が、主イエスを非難したのです。エルサレムからとあるのは、彼らがファリサイ派の本部から遣わされた幹部だったということでしょう。神の民であるイスラエル、その宗教的指導者であるファリサイ派の中心となる人々が、ガリラヤの主イエスのところにやって来て、主イエスと弟子たちが、当時言い伝えられていた、食事の前には手を洗って汚れを落し、神の民としての清さを保てという教えを実行していないと言って非難したのです。そのような主イエスに対する非難とそれに対する応答としての主イエスのお言葉が20節までに語られていました。そういう論争、やりとりが先週のところだったのです。主イエスはそこを去って、ティルスとシドンの地方に行かれた。聖書の後ろの付録の地図の6.「新約時代のパレスチナ」を見ていただきたいと思います。ティルスとシドンはこの地図の一番左上の、フェニキアと呼ばれる地方です。それはもうユダヤ人の地ではありません。ユダヤ人にとって外国、異邦人の地です。そこへ主イエスは行かれた。それは何のためでしょうか。異邦人にも福音を宣べ伝える伝道のためでしょうか。そうではないと思います。その理由は一つには、この福音書の10章5節で、主イエスは弟子たちを伝道に派遣するに当って、異邦人のところには行くな、イスラエルの家の失われた羊のところへ行け、と命じておられることです。主イエスの伝道は基本的に、ユダヤ人たち、神の民イスラエルに対象を限定したものだったのです。その主イエスが今こうして、ティルスとシドンの地方、フェニキアに行かれた、それは、伝道のためと言うよりも、一時ここに避難してきた、ということだったのではないでしょうか。神様の民であり、ご自分がその民の救いのために遣わされたイスラエルの人々に、主イエスは熱心に神の国の福音を語り、神様の恵みのご支配が今や始まろうとしていることを告げ、そのことを具体的に示す癒しの業を行ってこられたのです。しかし人々の反応は鈍いものでした。彼らは、癒しの奇跡には驚き、自分たちも苦しみを癒してもらおうとして押し寄せては来るのです。しかしそれ以上に、本当に主イエスが語り示しておられる神様の恵みのご支配を信じ、主イエスに従ってくる者はほんの僅かでした。そして民の信仰を指導していたファリサイ派の人々は、むしろ主イエスを拒み、難癖をつけ、あら捜しをし、殺してしまおうとすらしているのです。主イエスはそういう彼らの批判に堂々と答え、逆に彼らの間違いを指摘していかれました。そういうことが先週のところに語られているのです。しかしそのように堂々と論争しつつ、主イエスのお心には、「もう、いいかげんしろ」という苛立ちのような思いがあったのではないでしょうか。あなたがたは神の民だろう、神に選ばれ、その恵みをいただいている者ではないか、そのあなたがたが、私が語り、示している福音をなぜ受け入れないのか、どうしてわからないのか、なぜ拒むのか、堂々とした論争をしながら、主イエスのお心はそういう思いで疲れ果てていかれたのではないだろうか。そういう疲れをかかえて主イエスは、ユダヤ人たちと顔を合わせる機会の少ない異邦人の地へと一旦避難されたのではないだろうか、はっきり言えば少し休みたいと思われたのではないだろうか、それがこのティルスとシドンの地方に行かれたことの意味だったのではないかと思うのです。

 そのように避難して行かれたフェニキアの地で、主イエスは一人の女の人と出会いました。「この地に生れたカナンの女」と22節にあります。つまり彼女も異邦人です。しかし彼女は、主イエスがおられることを伝え聞いて、救いを求めてやって来たのです。たまたま出くわしたのではありません。「出て来て」とあるように、彼女はわざわざ主イエスのもとにやって来たのです。そしてこう言いました。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」。彼女の娘は、悪霊にとりつかれて苦しんでいました。どんな医者も、祈祷師も、娘を治すことはできなかったのです。彼女はその苦しみをかかえて、その救いを主イエスに求めたのでした。「主よ、ダビデの子よ」と彼女は言っています。それはイスラエルの民の救い主を意味する言葉です。イスラエルとは何の関係もない異邦人の女が、主イエスを、イスラエルの民の救い主と認め、その主イエスに救いを求めたのです。イスラエルの民の指導者であったファリサイ派の人々は、主イエスに対して決してこのような呼びかけをしません。彼らはイエスが主であるとも、ダビデの子であるとも思っていないのです。しかしイスラエルの民でない異邦人の女性が、このように主イエスに語りかけてくる、これはとても不思議なことであり、ある意味で皮肉なことです。

 この女性の救いを求める叫びに、しかし主イエスはお答えになりません。黙っておられたのです。彼女の願い、訴えを無視したのです。しかし彼女はそれでも、叫び続けました。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫びながら、主イエスと弟子たちについて来たのです。弟子たちはうるさがって「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」と言いました。これはうるさがってそう言ったのか、それとも、「あんなに願っているのですから、願いを聞いてやったらどうですか。そうしないといつまでもついてきて、迷惑です」ということだったのかもしれません。しかし主イエスはそれに対して、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われました。これは、先程申しました10章5節以下で、主イエスが弟子たちを遣わした時に語られた言葉です。異邦人のところに行くのではなく、イスラエルの家の失われた羊のところに行け、と主イエスは言われたのです。ここではそのことが主イエスご自身のこととして語られています。自分が父なる神様から遣わされたのは、イスラエルの家の失われた羊のためなのであって、異邦人のためではない、というのです。そう言って主イエスは、この女性の願いをはっきりと拒絶されたのです。

 ところが、主イエスの拒絶のお言葉にもかかわらず、彼女はなおも主イエスの前に来て、ひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言いました。この「ひれ伏し」という言葉は、主イエスの誕生の物語において、東方の博士たちが幼子主イエスの前にひれ伏して拝んだというのと同じ言葉です。つまりこれは「礼拝する」という言葉でもあるのです。彼女は主イエスを礼拝しつつ願ったのです。しかしそれに対して主イエスはなお、こう言われました。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」。ここで「子供たち」と言われているのは、イスラエルの民のことです。その子供たちのパン、それは、イスラエルの民に与えられるべき神様の恵み、救いです。それを子供たちにではなく小犬にやるわけにはいかない。その小犬とは、異邦人のことです。主イエスは異邦人であるこの女性に、あなたがたは犬のようなものだ、私の救いは子供であるイスラエルの民のためのもので、あなたがたにあげる分はない、と言われたのです。

 このように主イエスは、この女性の願いを三度にわたって拒絶しました。最初は無視によって、次は「イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」ということによって、そして最後に「子供たちのパンを小犬にやるわけにはいかない」ということによってです。この主イエスのお姿は私たちには不可解に思えます。主イエスは、苦しみを抱いて救いを求めてやって来た人に対して、その願いを拒んだり、無視したりなさらない方であられたはずだ、例えば弟子たちがうるさがって追い返そうとしても、それをたしなめて救いのみ業をして下さる方だったはずだ、それなのにどうしてここではこんなに冷たい態度をとられるのだろうか、と思うのです。このことはこの箇所を読む上での一つの大きな謎ですが、それについては、こういうふうに考えるべきだろうと思います。それは、この女性が体験したことは、私たちが信仰をもってこの世を生きていこうとする時に体験することと重なる、ということです。私たちも、様々な悩みや苦しみをかかえて主イエスのもとに来て、救いを求めます。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」とは私たち一人一人の言葉です。そして私たちはそういう思いを抱いて主イエスの前にひれ伏します。つまり礼拝をします。そうやって主イエスの救いを求めていくのです。けれども、そういう私たちの求めや願いに対して、すぐに答えが返ってくるわけではありません。願っても、祈っても、神様からは、主イエスからは何の答えもない、ということを私たちは体験するのです。主イエスは何も応えて下さらない、自分を無視している、そう感じることがあります。あるいはそこで、自分のような者は神様の救いや主イエスの恵みを受けるにはふさわしくない者なのだ、だから救いが与えられないのだ、と思うこともあります。神様は、お前にやる救いなどない、と言っておられるのだ、と思ってしまうこともあります。つまりこの女性の置かれた状況は、実は私たちがしばしば体験している現実だと言うことができるのです。

 そのことに思いを致す時に、この女性の姿は私たちにとって俄然意味深いものとなってきます。彼女は、無視されても、拒絶されても、あきらめずに、しつこく、主イエスの救いを求めていったのです。願っても応えが返って来ない、願い求めている救いが与えられず、苦しみの現実が少しも変わらない、そういう中で、私たちはしばしば、簡単にあきらめてしまいます。やっぱりだめだ、主イエスに救いを求めても与えられないのだ、どうせだめなんだ…と思ってしまうのです。しかし彼女はそうならなかった。それでもなお、必死に、願い求め続けたのです。この話は、私たちに、彼女に倣ってあきらめずに願い求め続けることを教えている、と言うことができるでしょう。

 けれども、この話のポイントはそこにあるのではありません。あきらめずに願い続ける熱心さはいつか必ず通じる、ということが言われているのではないのです。この話のクライマックスは何と言っても、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」という主イエスのお言葉に対する彼女の応答です。彼女は、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と言ったのです。これは、あきらめずに求め続ける、というのとは違うことです。この彼女の言葉の持つ意味を、私たちはしっかりと受け止めていかなければなりません。主イエスは、「子供たちのパンを小犬にやるわけにはいかない」と言って彼女の願いを拒絶したのです。つまり、彼女は主イエスによって犬呼ばわりされてしまったのです。もしもこれが私たちだったら、どうするでしょうか。「犬とは何だ、人を馬鹿にするにも程がある、もう金輪際あんたなんかに頼むものか」と真っ赤になって怒る、それが私たちの普通の反応ではないでしょうか。そういうふうになっても不思議でないことを主イエスは言われたのです。ところが彼女はそうしなかった。怒って席を蹴って立つのではなくて、「主よ、ごもっともです」と言ったのです。これは原文ではまことに単純な言葉で、直訳すれば「そうです、主よ」となります。彼女は、「子供たちのパンを小犬にやるわけにはいかない」という主イエスの言葉を、「そうです」と肯定したのです。つまり、自分は子供ではなくて犬です、と言ったのです。それはつまり、自分は主イエスの救いに当然あずかれるような者ではありません、救いにあずかることを権利として主張できるような者ではありません、ということです。ここに、彼女のこの言葉の第一の重要なポイントがあります。彼女は、自分が主イエスの救いの恵みにあずかることなど本来できない者であることを知っているのです。そんなものを求めることすらもおこがましいのだということを意識しているのです。そのことをはっきりと知った上で、彼女は主イエスに救いを求めたのです。そこに、彼女と私たちとの大きな違いがあるのではないでしょうか。私たちも、苦しみ悲しみの中から、主イエスに救いを求めます。「主よ、憐れんでください」と願います。そして礼拝において、「私たちはあなたのみ前に立つことのできない罪人です」などと祈りもします。けれども、本当にそう思っているのでしょうか。私たちは、本当は、自分は主イエスの救いにふさわしくない、などとは少しも思っていない。むしろ自分に救いを与えることは神の、主イエスの義務だと思っている。神の方で義務を果たし、自分の願う救いを与えるなら、自分も神を信じてやる、と思っている。それが私たちの本当の姿なのではないでしょうか。だから、ちょっと求めて得られないとすぐに苛立って、やめてしまうのです。あきらめると言うよりも、神が救ってくれないことに腹を立ててそっぽを向いてしまうのです。それは私たちが心の中で、「自分は犬ではない、子供だ、だから救われる権利がある」と思っているということです。「犬とは何だ、馬鹿にするな」という、一見当然に見える反応の中には、そのような人間の傲慢な思いが潜んでいるのです。

 この女性は、そういう思いから解き放たれています。そして自分が本当に、主イエスの救いに相応しくない、それにあずかることなど本来できない者であることを知っていたのです。つまり主イエスの前で自分は小犬のような者であることを知っていたのです。それは、卑屈な生き方でしょうか。人間としての尊厳やプライドを失った惨めな姿でしょうか。そうではありません。この女性からは、そのような卑屈さや惨めさは感じられないのです。むしろ、彼女に感じられることは、不思議な明るさ、落ち着き、そしてユーモアです。それはどこから来るのでしょうか。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と彼女は言いました。ここに彼女のユーモアがあります。「イエス様その通りです。私は小犬のような者でしかありません。でもイエス様、小犬は主人が投げてくれるパン屑をいただいて、そういう主人たち家族の余りものをもらって、それで養われていくんですよ。私だって、イエス様が子供たち、イスラエルの民にお与えになる救いのおこぼれにあずかったっていいんじゃあありませんか。そのことすらもお拒みになるあなたではないはずです」。彼女はそう言ったのです。「私のことを犬呼ばわりするなんてあなたは人を差別している、私だって人間として救いにあずかる権利がある、あなたは私の願いを聞くべきだ」などと青筋立てて主張したのではないのです。主イエスの救いは、そのような主張によって獲得できるものではありません。それはただ、主イエスの、神様の憐れみのみ心によって与えられるものであり、私たちは、権利としてではなく、まさにおこぼれにあずかるようにしてその救いにあずかっていくのです。 主イエスの救いは、権利としてではなく、恵みとして与えられる、そのことを彼女は本当に知っていました。それを知っているがゆえに、自分はその救いにふさわしくない、犬のような者だということを素直に受け入れることができたのです。そしてその犬のような者である自分に、なお主イエスの救いにあずかる希望があることを見つめることができたのです。その希望は、主イエスが暗示しておられることでもあります。主イエスは彼女のことを「小犬」と言われました。これは、家で飼われ、かわいがられている小犬を言い表す時の言葉です。つまり主イエスは彼女に、「おまえは人間様よりも一段低い犬なんだ」という軽蔑の言葉を語られたのではないのです。日本語には「犬畜生」というひどい言葉がありますが、主イエスが語られたのはそういうのとは全く違う言葉なのです。彼女は、主イエスのこの「小犬」という言葉に励まされ、導かれて、「その小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と言うことができたのです。つまり彼女はこの主イエスの、一見冷たい拒絶ととれるお言葉の中に、恵みのみ心を、その暗示を聴き取ったのです。それができたのは、彼女が、自分は主イエスの救いに全くふさわしくない、それにあずかる何の権利もない者だ、ということを認めていたからです。そういう意味で自分は犬に過ぎない者だと認めていたから、「犬とは何だ」と怒るのではなくて、「小犬」という言い方の中に、主イエスの恵みへの招きを聴き取ることができたのです。

 主イエスはこの彼女の言葉を聞いて、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と言われました。「立派だ」と訳されている言葉は、文字通りには「大きい」という言葉です。「あなたの信仰は大きい」と主イエスは言われたのです。「大きい信仰」とはどういうものでしょうか。それは、信仰によって立派な行いができる、ということではありません。愛に溢れた人になる、ということでもありません。「大きい信仰」というのは、この女性のように、自分が主イエスの救いに全く価しない者であり、本来それにあずかることなどできない者であることを知っているということです。しかもそれを、口先だけではなく、本当に知っていることです。そして、その全く価しない自分に、主イエスがその憐れみのみ心によってみ手を差し伸べて下さり、救いの恵みを与えて下さることを信じて疑わないことです。そしてそれを信じるがゆえに、どんなに無視されても、拒絶されても、おまえなんかお呼びじゃない、と言われてしまうような思いをさせられても、あきらめずに求め続けることです。それが、「信仰が大きい」ということなのです。主イエスはこれまでに何度か、「あなたがたの信仰は小さい」と言われました。最初は6章30節で、「何を食べようか、何を飲もうか」と思い悩む者たちに、次は8章で、嵐で舟が沈みそうになって慌てふためいている弟子たちに、それから14章で、主イエスを信じて水の上を歩き始めたのに、風を見てこわくなり、溺れかけたペトロにです。いずれも「信仰の薄い者よ」という訳になっていますが、直訳すれば「信仰が小さい」です。この世の厳しい現実の中で、神様の、主イエスの恵みを信じ切ることができずに、疑いと恐れに陥っていくこと、それが「小さい信仰」です。それに対してこの女性の、主イエスにすら拒絶されてしまうような厳しい現実の中で、自分は拒絶されても仕方がない者であることをはっきりと見つめつつ、なおそこに恵みへの希望を見つめていく、それが「大きい信仰」なのです。

 「あなたの願いどおりになるように」と主イエスは言われました。その時、彼女の娘は癒されたのです。徹底的に拒絶されているとしか思えなかった救いが、豊かに彼女に注がれたのです。しかしこのことは、彼女にとって救いの出来事であったのと同じく、主イエスにとっても、ある意味で救いとなったのではないでしょうか。彼女の「大きな信仰」に触れて、主イエスご自身が、疲れを癒されたのです。主イエスはこの後ガリラヤに戻り、再び精力的に恵みのみ業を続けていかれます。そのことがこの後の29節以下に語られているのです。そしてその恵みの歩みは、私たちの全ての罪を背負って、十字架にかかって死んで下さることにまで至るのです。さらにその恵みは、イスラエルの民、ユダヤ人に限定されるものではなく、そこから豊かに溢れ出て、異邦人たち、全世界の民へと広められていったのです。私たちも今、その恵みの中に置かれています。全くふさわしくない、何の権利もない私たちが、主イエスの恵みの「おこぼれ」にあずかり、その「食卓から落ちるパン屑」によって養われているのです。そのことを知る時に、私たちも、この女性と同じように、苦しみの中にあっても、明るさと、落ち着きと、ユーモアを失わずに、主イエスの恵みを求め続けて生きることができるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年3月17日]

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