富山鹿島町教会

礼拝説教

「人を汚すもの」
箴言 第15章1〜4節
マタイによる福音書 第15章1〜20節

 礼拝において、マタイによる福音書を読み進めて参りまして、本日から第15章に入ります。15章の1〜20節を、本日と来週と、二回の主の日に亘ってご一緒に読みたいと思っております。ここには、ファリサイ派の人々と律法学者たちが主イエスを攻撃したこと、それに対して主イエスの方も、大変厳しい言葉で彼らを批判し、彼らと主イエスとの亀裂、対立が決定的になったことが語られています。ファリサイ派の人々は既に12章14節で、主イエスを殺そうと相談をしています。その相談の結果が本日のところに現れていると言ってよいでしょう。本日のところに登場するファリサイ派の人々と律法学者たちは、エルサレムから来たと1節にあります。首都エルサレムから、わざわざこのガリラヤくんだりまで、彼らは主イエスのことを調査するためにやって来たのです。いよいよそのように、ファリサイ派が総力をあげて、主イエスを抹殺しようと動き始めている、「エルサレムから」という言葉によってそのことが暗示されているのです。

 そのように言わば本部から派遣されてきたファリサイ派の幹部が、主イエスを問いつめて言ったことは、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません」ということでした。主イエスの弟子たちが食事の前に手を洗っていない、ということを彼らは問題にしたのです。これは、主イエスは洗っていたのだが弟子たちは洗っていなかった、ということではないでしょう。弟子たちは師である主イエスに倣って生活しているのです。ですから主イエスご自身も食事の前に手を洗っていなかったと考えるべきです。弟子たちが、という彼らの言葉は、遠まわしに主イエスご自身への非難なのです。

 このファリサイ派の人々の非難は私たちにはこっけいなことに感じられます。わざわざエルサレムからやって来たファリサイ派の幹部が、まるで母親が子供に「ご飯の前には手を洗いなさいよ」と言うのと同じことを言っているのです。しかしこれは勿論そのような話ではありません。当時のユダヤの人々にとって、食事の前に手を洗うことは、私たちにおけるような衛生上の問題ではなく、宗教的な問題、神様の民として身を清く保つためのことだったのです。聖書を読んでいて気づかされることの一つは、食事というものが信仰においてとても大事にされていることです。出エジプト記において、神様がイスラエルの民と契約を結んで下さり、イスラエルが神様の民となる場面においても、民を代表する長老たちが、神様の前で共に食事をするのです。食事において神様との交わりが確立するのです。それは私たちの礼拝における聖餐にもつながっていることです。聖餐のパンと杯を共にいただくことによって、そこで私たちは神様との親しい交わりを与えられているのです。食事というものはそのように、神様との交わりの場となるのです。同様に、それは人との交わりの場、親しい、深い関係が生じる場でもあります。日本語にも、「同じ釜の飯を食う」という言い方がありますが、共に食事をすることによって、そこには人間どうしの親しい交わりが生れるのです。食事は神様との交わりの場であると共に、人間どうしの交わりの場でもある。聖餐もそうです。聖餐にあずかることによって私たちは、神様と、主イエスとの交わりを与えられるのみではなく、共に聖餐にあずかる兄弟姉妹との交わりがそこで深められ、固くされるのです。当時のユダヤの人々は、そのことを、私たち以上にはっきりと意識していました。そのために、誰と一緒に食事をするか、ということにとても気をつかったのです。一緒に食事をするということは、その人と親しい交わりに入ること、自分とその人が仲間であると宣言することなのです。だから、やたらな人と食事を共にすることはできないのです。だから彼らは、当時罪人、汚れた人と見られていた人とは決して食事を共にしませんでした。その人の罪の汚れが自分にも移ってしまうことを防ぐためです。そしてさらに、何を食べるかということにも大変気をつかっていました。旧約聖書には、汚れているから食べてはいけないと命じられていた食物がありました。そういうものを食べてしまわないように気をつけていたのです。「食事の前に手を洗う」という言い伝えも、これらのことの延長上に生れてきた教えです。人間は手を使っていろいろなことをする、手でいろいろなものに触れ、いろいろな人と接触する、だから手にはいろいろなばい菌がつきやすい、その手を洗わずに食事をすると衛生上よくない、というのが私たちの感覚です。それと同じように、当時の人々は、この世の様々な事柄に関わる手は、汚れを帯びやすい、その手で食事をすると、この世の罪や汚れに知らないうちに染まってしまうかもしれない、だから、ばい菌をではなくてこの世の宗教的汚れを洗い落とすために、食事の前には手を洗わなければと考えたのです。そういうことが旧約聖書に律法として書き記されているわけではありません。これは律法ではなくて、「昔の人の言い伝え」です。いつのまにか、口伝えで受け継がれてきた掟です。しかもそれは、ただ「食事の前には手を洗いなさい」というだけの掟ではなくて、どういう順序で、どうやって洗うかまで細かく規定されていたようです。ファリサイ派の人々はそういう口伝えの掟をも律法の一部として守るように人々に教えていたのです。

 そのファリサイ派の人々が非難しているように、主イエスと弟子たちは、食事の前に手を洗っていませんでした。この世の汚れや罪を洗い落してから、その手で食事をする、ということを主イエスはなさらなかったのです。それは何故でしょうか。それは単なる言い伝えの教えで、律法にはそんなことは書かれていないから、でしょうか。そうではありません。主イエスは、この教えが、書かれた教えか、それとも言い伝えの教えか、ということを問題にしておられるのではないのです。それでは主イエスは何を考えておられたのか。そのことが語られているのは、本日の箇所において、まず10、11節です。「それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。『聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである』」。そしてこの「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」というお言葉のさらに詳しい説明が、17節以下に語られているのです。「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない」。これらのみ言葉には、人を本当に汚すものとは何か、ということが語られています。本日はそのことに集中してみ言葉に聞きたいのです。

 ところで、10節に、「イエスは群衆を呼び寄せて言われた」とあります。つまり11節の、「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」というみ言葉は、ファリサイ派との論争の中でその人たちに対して語られた言葉ではないのです。きっかけは、ファリサイ派の人々の非難です。しかし主イエスは、それに対するご自身の答えを、群衆を呼び寄せて、多くの人々に向ってお語りになったのです。それはこのみ言葉を、私たち皆が、自分のこととしてしっかりと聞かなければならない、ということでしょう。このことは、主イエスを陥れ、批判する口実を得ようとしている人々のみの問題では決してないのです。私たち一人一人が真剣に聞かなければならないことがここに語られているのです。それはつまり、私たちも、口に入るものが人を汚す、と思っているのではないか、ということです。

 口に入るものが人を汚す、それは勿論、ばい菌のついたものを食べると病気になる、という話ではありません。しかしそうでないなら、私たちは別に、食べると宗教的に汚れてしまうような食物があるとは思っていないし、例えば大きな罪を犯している人と交わりを持ったからといって、それでその罪が自分にも移って自分が汚れてしまうなどということもないと思っています。むしろそういう人を忌み嫌わずに、分け隔てなく交わりを持っていくことによって、自分がより清い、立派な者になることができる、とさえ思っているくらいです。だから「口に入るものが人を汚す」というのは私たちとは無縁な思いなのではないか、とも思います。しかしそうではないのです。そうではないことは、次の「口から出て来るものが人を汚す」というみ言葉によってわかります。口から出て来るもの、それは言葉です。そしてその言葉の元になっている思いです。言葉と思い、それが人を汚すのだと主イエスは言っておられるのです。ということは、汚れ、それは罪と言い換えてもよいわけですが、それは、元々私たちの内側にある、ということです。その内側にある汚れ、罪が、思いとなり言葉となり行動となって外に現れてくる、そのようにして私たちは汚れた者、罪ある者となるのだ、と主イエスは言っておられるのです。ところが私たちはそのことをなかなか認めようとしません。受け入れようとしません。自分の汚れや罪、醜さ、それが自分自身の内側から生じていることを認めないで、それを自分の外側のいろいろなことのせいにします。社会情勢のせいにする、景気が悪いことのせいにする、自分の置かれている境遇のせいにする、自分が負っている悩みや苦しみのせいにする、そして、あの人があんなことを言ったから、この人がこんなことをしたからと人のせいにする、私たちはそういうことをいつもしているのではないでしょうか。つまり汚れは自分の外にある、外にある汚れが自分にふりかかってくる、それによって迷惑を被る、と思ってしまい、実は汚れは、罪は自分自身の中にあるのだということがわからないのです。それが、「口に入るものが人を汚す」という思いです。汚れたものが口に入ることを防げば、外から来る汚れをシャットアウトすることができれば、それで自分は清くあることができる、とファリサイ派の人々は考えました。実は私たちも、同じことを考えているのではないでしょうか。彼らに決定的に欠けていた思いは、自分自身の内側に汚れがあり、自分自身の中で汚れが常に新たに生み出されているということです。それなのに、外から来る汚れを防ぐために、例えば食事の前にいっしょうけんめいに手を洗っているのです。それはこっけいな姿です。しかしそれがまさに私たちの姿なのではないでしょうか。自分自身の内側に汚れがあり、自分自身の中で汚れが常に新たに生み出されているという認識は、私たちにも決定的に欠落しており、外からくる汚ればかりを気にしているというこっけいなことを私たちもしているのではないでしょうか。

 「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」という謎めいた言葉を、主イエスは群衆たちにお語りになりました。しかしそれ以上の説明はなさいません。その後12節で、弟子たちが主イエスのところに近寄って来ます。そして15節でペトロが「そのたとえを説明してください」と言うのです。「そのたとえ」というのは、「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」というお言葉のことです。その説明を、弟子たちを代表してペトロが求めたのです。これは、13章における、たとえ話とその解説の構造と共通しています。13章においても、たとえ話そのものは群衆たちに語られたのです。しかしそれは、わかりやすくするための話というよりも、むしろ謎かけのような話でした。そして13章においても、弟子たちは、主イエスの解説によってそのたとえの意味を教えられ、天の国の秘密を知らされていくのです。ここでも同じことが起っています。「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」という謎のような言葉の解説が、弟子たちに語られていくのです。それが17節以下です。弟子たちに語られたこの説明によって、私たちは主イエスのあのお言葉の真意をさらに知らされていくのです。

 「すべて口に入るものは、腹を通って外に出される」。これは食物のことです。勿論その間に消化がなされ、栄養分が体に吸収されるのです。しかしここで言われていることのポイントは、食物、つまり外から入ってくるものは、体を通ってまた外に出ていく、ということは、それは私たちの中を通過していくだけで、私たちの人間としての本質がそれによってどうこうするものではない、ということです。食物は勿論命を維持するために欠かすことのできないものだけれども、人間の本質、言い換えれば、神様が人間を何のためにお造りになったか、ということにおいては、食物は二次的なものなのです。それでは、人間の本質、神様がこのためにこそ人間をお造りになったというものは何か。「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」という言葉がそれを示しています。つまりそれは「心」です。「心」こそ人間の本質であり、神様が人間をお造りになったのは、この「心」を持ったものをお造りになるためだったのです。誤解を避けるために言っておかなければなりませんが、これは、人間は心が肝心であって体はどうでもよい、ということではありません。心だけで体のない人間などはあり得ないのであって、心と体が結び合って一人の人間なのです。しかしここで明確に言われていることは、人間の汚れ、罪、それは体ではなくて心に宿るということです。そういう意味で心こそ人間の本質なのです。そして汚れ、罪が心に宿るということは、先ほど申しましたように、それは私たちの外側の問題ではなく、内側の問題だということです。私たちの汚れや罪は、ばい菌のように外からやって来て体につくのではないのです。私たちの内側に、心の中にそれは生れ、それが外に現れてくるのです。

 心の中の汚れ、罪がどのように外に現れ出てくるか。それを主イエスは19節で順を追って語っておられます。まず、「悪意、殺意」です。それはまだ「思い」の段階です。人を憎む思い、妬む思い、逆に軽蔑する思い、そういう思いによって私たちは人を裁き、批判攻撃し、そこに喜びを見出していく、それは人を殺してしまいたいという殺意につながっていくことなのだ、と主イエスは言っておられるのです。心の中の罪はそのようにまず私たちの思いに現れてきます。次に、「姦淫、みだらな行い、盗み」とあります。これはその思いが、具体的な行為としての罪を生むということです。思いは思いだけで終わらず、具体的な行為につながっていくのです。そしてさらに、「偽証、悪口」とあります。これらも罪の行為の一種です。しかしこの二つにおいては、「言葉」が問題となっています。偽証とは嘘をつくこと、言葉において偽りを語り、それによって人を陥れ、あるいは自分が益を得ようとすることです。悪口は文字通り悪口(わるくち)です。それは本人のいないところでその人の悪いうわさを語るということに留まらず、人の心を傷つけ踏みにじるような言葉を語ることの全てを指していると言えるでしょう。主イエスは私たちのそういう言葉における汚れ、罪をも深く見つめておられるのです。いやむしろ、「口から出て来るもの」ということで主に見つめられているのはこの言葉の問題だと言うことができるでしょう。心の中に湧き上がる汚れ、罪は、口から、言葉となってほとばしり出るのです。私たちは言葉でこそ、罪を犯し、汚れた者となるのです。口に入るものと口から出て来るもの、それは食物と言葉です。そのどちらが私たちを本当に汚すのか。それは口に入る食物ではなく、心で生れ、口から出て来る言葉なのです。そのことにこそ気をつけなければならないのです。それなのに、私たちはなんと見当違いなところで、自分を清くしよう、正しい者であろうとしていることでしょうか。なんと表面的な汚れにしか思いが至っていないことでしょうか。食事の前に手を洗うことにこだわっているファリサイ派の人々の姿は、まさに私たちの姿なのではないでしょうか。

 私たちの語る言葉を問題にしている箇所として、本日は旧約聖書の箴言第15章1〜4節を共に読みました。もう一度そこを味わってみたいと思います。「柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる。知恵ある人の舌は知識を明らかに示し、愚か者の口は無知を注ぎ出す。どこにも主の目は注がれ、善人をも悪人をも見ておられる。癒しをもたらす舌は命の木。よこしまな舌は気力を砕く」。ここには、私たちの語る言葉が、傷つける言葉、怒りをあおる言葉、気力を砕く言葉となってしまうことがある、ということが語られています。私たちは言葉によって、人を殺してしまうことがあるのです。しかしまた同時にここに見つめられているのは、その私たちの言葉が、憤りを静める言葉、「命の木」にたとえられる言葉となることもまたあるということです。傷つける言葉ではなく、柔らかな応答となるときに、よこしまな舌が癒しをもたらす舌になるときに、それは傷を癒し、命を与えるものとなるのです。私たちの言葉はそのように、人を殺す凶器ともなるし、人を癒すものともなる。それはいずれも、私たちの心から出て来るものです。だから大事なのは、私たちの心に何があるかなのです。私たちの心にあるものが言葉となって出て来る、それが、人を殺すことにも、癒すことにもなるのです。

 私たちの心の中にあるものは何でしょうか。その心の中にあるものが、日々私たちが語っている言葉に現れているのです。自分が何を語っているかをふりかえることによって、自分の心の中に何があるかが分かるのです。逆に、自分が何を語っていないかをふりかえることによって、自分の心の中に何がないかが分かるのです。そのように自分の言葉をふりかえってみる時に、私たちは愕然とします。そこそこに清く正しく生きているつもりである自分が、いかに罪に汚れた醜悪な存在であるかに気づかされるのです。そしてその汚れが自分の心から生れて来ているのに、その原因が全て自分の外側の何かにあるように思い、自分の外側のことあるいは人のせいにしてしまっているということに気づかされるのです。

 しかしそのことを私たちに気づかせて下さるのは、主イエス・キリストのみ言葉です。主イエスが弟子たちに親しく語りかけて下さったように、私たちにも今語りかけて下さり、それによって私たちは自分の心の中にあるものを見つめさせられているのです。そこに私たちの救いがあります。なぜならばこの主イエスは、私たちの罪と汚れの全てをご自分の身に引き受け、背負って、十字架の死への道を歩んで下さった方だからです。あなたがたの心の中にあるものは何か、そこからどのような言葉が生れているのか、と問いかけられる主イエスのこのお言葉は、主イエスの、神様の、私たちに対する憐れみと愛のみ心からほとばしり出ているのです。私たちが罪を赦され、神様の子とされて、神様と共に新しく生きる者となる、その私たちの救いのために、主イエスは十字架にかかって死んで下さったのです。その恵みのみ心によって、主イエスは今私たちに語りかけておられます。私たちの心に、その恵みを満たすためです。私たちの心に、私たちの罪や汚れに代って、主イエスの恵みへの感謝と喜びが満たされるためです。そして私たちの言葉が、自分の汚れから出る、人を傷つけ殺すような言葉から、主イエスの恵みへの喜びと感謝から出る、人を癒し、生かす言葉へと変えられていくためです。私たちは毎週の礼拝において、そういう主イエスのみ言葉を聞きながら歩んでいるのです。罪の思い、憎しみや敵意が、なお日々私たちの心には湧きあがってきます。そこから生れる言葉を語ってしまうこともなお多いのです。しかし主イエスが、その恵みのみ心からほとばしり出るみ言葉を私たちに語りかけていて下さるのです。毎週毎週そのみ言葉を聞き続けていくことによって、私たちの心を支配しようとする罪が打ち破られ、主イエスの恵みによって心が満たされていくことを願い求めたいと思います。神様が私たちを、心を持ったものとしてお造りになったのはそのためです。私たちの心が、汚れ、罪に満たされてしまい、そこから出る悪意ある言葉を語っていくのでなく、主イエスによる神様の恵みに満たされていき、そこから出る柔らかな応答、癒しをもたらす言葉を語っていくことができるように、切に願い求めつつ歩みたいのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年3月3日]

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