富山鹿島町教会

礼拝説教

「主の恵みの約束」
サムエル記下 第7章1〜29節
使徒言行録 第13章13〜41節

 月の終わりの主の日には、旧約聖書サムエル記下よりみ言葉に聞いています。今読んでいるところは、ダビデがイスラエルの王となり、その統治の基盤を固めていったことが語られているところです。先月、11月に読んだ6章の後半で、ダビデは、新しく定めた首都エルサレムに、神の箱を運び入れました。神の箱は、モーセが神様から授かった十戒を刻んだ二枚の石の板を納めた箱です。これをエルサレムに安置することによって、ダビデの町エルサレムは、イスラエルの政治的中心であるのみならず、宗教的、信仰的な中心ともなったのです。もともと十二の部族の連合体であったイスラエルですから、そのように全体を束ねる中心がはっきりと定められることによって、統一された王国としての体裁が整い、国全体が安定するのです。ダビデはそのように、王国の安定のための整備を精力的に進めていきました。このようなことは、彼の前の王サウルの時代にはなかったことです。ダビデという人が、いかに政治的に優れた見識、センスを持っていたかということがわかります。

 このように、自らの王国の安定のために次々に手を打っていったダビデですが、彼は決して政治的な計画や打算のみによって動いていた人ではありません。彼は、自分がこのようにイスラエルの王となることができたのは、ひとえに主なる神様の導きのおかげであることを深く意識していました。もともと彼は、特に優れた家柄の人であったわけでもないし、兄弟たちの間でも末っ子で、家督を継ぐような立場ではなかったのです。羊の群れの世話をすることが彼の仕事でした。その彼が、神様によって選ばれて油を注がれ、様々な紆余曲折を経て、今こうして王となったのです。そのことは、8節の主なる神様の言葉にある通りです。「わたしの僕ダビデに告げよ。万軍の主はこう言われる。わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした」。まさに、「牧場の羊の群れの後ろ」が定位置であり、そこで人生を送るはずだったダビデが、神様によってイスラエルの民の指導者、その群れの前に立って導く者とされたのです。その神様の恵み、導き、守りをダビデは片時も忘れたことはありませんでした。神様のおかげで今日の自分がある、それがダビデの嘘偽りのない思いだったのです。

 王となり、国の平安、安泰を得た今、ダビデはその神様への感謝を何らかの形で表そうとします。それが2節の彼の言葉です。「見なさい。わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、神の箱は天幕を張った中に置いたままだ」。ダビデはエルサレムに王宮を建て、そこに住んでいました。そのことは5章の11節に語られています。「ティルスの王ヒラムはダビデのもとに使節を派遣し、レバノン杉、木工、石工を送って来た。彼らはダビデの王宮を建てた」。このように、彼の王宮は、隣国ティルスの王ヒラムのプレゼントでした。ティルスは地中海に面した港町であり、現在はレバノンという国になっています。そこの名産であるレバノン杉を使った王宮を、ヒラムはダビデのために建ててくれたのです。このようにして彼は、「レバノン杉の家」、立派な王宮に住んでいました。しかし6章でエルサレムに運び込まれたあの「神の箱」は、なお天幕、テントの中に置かれていたのです。この神の箱のために、立派な家、つまり神殿を建てよう、そのようにして、主なる神様への感謝を表そうとダビデは思ったのです。

 ダビデがこのことを相談したのは、預言者ナタンという人でした。この人はここに初めて登場します。ダビデがいろいろなことを相談し、助言を求めた預言者、信仰の面でのアドバイスを受けていた人のようです。このナタンが、この7章以後、ダビデの傍らにあって重要な働きをします。ダビデはそのナタンに、神殿建設の計画を打ち明け、相談しました。ナタンは「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。主はあなたと共におられます」と言います。つまり、賛成だ、ということです。

 しかしその夜、主なる神様のみ言葉がナタンに与えられました。主はこう言われたのです。「わたしの僕ダビデのもとに行って告げよ。主はこう言われる。あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。わたしはイスラエルの子らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕、すなわち幕屋を住みかとして歩んできた。わたしはイスラエルの子らと常に共に歩んできたが、その間、わたしの民イスラエルを牧するようにと命じたイスラエルの部族の一つにでも、なぜわたしのためにレバノン杉の家を建てないのか、と言ったことがあろうか」。「わたしはこれまでテントを住みかとしてイスラエルの民と共に歩んできた。その時に、『こんな粗末な所ではけしからん、もっとちゃんとした家を建てろ』などと要求したことがあったか」と神様は言われるのです。ここには、いくつかの大事なことが示されています。まず第一に、主なる神様が、イスラエルの民の間に住んでおられるということです。「イスラエルの子らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで」ずっと、神様はイスラエルの民の中に、住んで下さっているのです。それは7節の言葉で言えば、「イスラエルの子らと常に共に歩んできた」ということです。イスラエルの民と常に共にいて下さる神、それが、「あなたがたの間に住む」という言い方で示されているのです。第二に、その神様が住んでおられたのは天幕、テントだったということです。そのことに神様は不都合や不満を覚えてはおられないのです。むしろテントを住みかとしていることを喜んでおられるのです。テントというのは、折りたたんで持ち運ぶことができるものです。移動が可能であることがテントと家の違いです。神様がテントに住んでおられる、それは、民の歩みのどこへでも共に行くことができるということです。実際、エジプトを出て、約束の地へと荒れ野を旅していったイスラエルの民は、常に移動を続けていたのです。彼らは、神の箱を担いで運び、それを安置するテントをも持ち運び、滞在する所ではその都度それを建て、出発する時にはそれをたたむ、という歩みを続けていたのです。神様が天幕を住みかとするのは、そういう民の旅路に常に同行して下さるためでした。そのような荒れ野の旅はとうに終わり、イスラエルはカナンの地に定住するようになっているわけですが、神の箱は今もテントの中にある、それは、今でも神様が、イスラエルの民の全ての歩みに共にいて下さることのしるしなのです。神様はそのことをむしろ喜んでおられるのです。立派な神殿よりも、移動可能なテントの方が、ご自分の住まいとしてふさわしい、と言っておられるのです。だから、神様のために立派な家を建てようというダビデの計画はむしろ有難迷惑で、ノーサンキューだ、そういう神様の思いがここに語られているのです。

 しかしナタンに与えられた神様のみ言葉はそこまでで終わりではありませんでした。さらに8節以下が語られていったのです。そこには、先ほど読んだように、神様がダビデを牧場の羊の群れの後ろから取って王となさったことが語られており、そして「あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう」と言われています。この「共にいて、敵をことごとく断つ」という言葉が、過去のこと、つまりこれまでにダビデに与えられた恵みを指しているという読み方もあります。前の口語訳聖書はそうなっていました。しかしその恵みが将来に渡っても約束されていることは、この主のみ言葉全体から明らかです。つまり神様は、これまでも、そしてこれからも、常にダビデと共にあり、行く手の敵をことごとく退けて下さると言っておられるのです。それはダビデ一人のためではありません。10、11節に語られているように、そのことによって、イスラエルの民全体に平安、安らぎが与えられるのです。神様はそのような恵みの約束をここでダビデとイスラエルの民に与えておられるのです。

 そしてその恵みの約束が、さらにダビデとその子孫にも与えられていきます。それが11節の後半以降です。「主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す」とあります。その「家」とは、次の12節に「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする」とあるように、ダビデの子孫が代々イスラエルの王となり、ダビデ王朝が続いていくということです。つまりこの「家」は建物のことではなく、「ダビデ王家」のことです。イスラエルの王権が、ダビデの子孫へ代々継承されていくということです。15節には「わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない」とあります。ダビデの前の王サウルは、主の慈しみを失い、サウル家は没落してしまいました。しかしダビデの家に対してはそのようなことはしない、と神様は約束して下さったのです。このように神様は、ダビデの家に、その子孫たちにまで及ぶ恵みの約束を与えて下さったのです。ここには一つの言葉の遊びのようなものがあります。つまり、神様のために家を建てようとしたダビデに、神様は、「わたしこそお前のために家を興す」と言われたということです。神様は、「わたしのための家はいらない」と断ったのみではなく、むしろ逆にダビデのために家を建てるという祝福、恵みを約束して下さったのです。

 ナタンを通してダビデに与えられたこのみ言葉には、主なる神様とはどのような方であられるかが明らかにされています。ダビデは、主なる神様の恵みに感謝して、神様のために自分も何かをしようと思ったのです。感謝を形にして表そう、神様のために尽くそうとしたのです。しかしそれに対して神様は、そのダビデの感謝を受けるのではなく、むしろ逆にさらなる恵みの約束を与えて下さったのです。これまでにも大きな恵みを与えて下さった神様が、それに感謝しようとする人間に、さらに大きな恵みを与えて下さる、それが、ここで起こっていることです。主なる神様とはそういう方なのです。そこに、私たちの常識で量り知ることのできない、まことの神様のお姿が描き出されています。つまり、私たちの常識からすれば、誰かから何かの恵みを受けた者は、それに感謝を表し、自分も相手のために何かをしようとするのが当然です。恵みを受けてもそれに感謝をしないとか、自分も相手のために何かをしようとしないのは非常識です。この世の人間関係はそのようにして円滑に営まれていくのです。もっともそれは必ずしも円滑には行かないわけで、私たちは、これだけしてやったのにあいつは恩知らずだ、と思うこともあるし、逆に人から何か恩恵を受けたら、それに見合う以上の感謝、お返しをしないと気がすまない、そうでないと何か相手に対して借りを残したままのようで気持ちが悪い、という感覚も生まれます。この二つの感覚は裏表の関係にあって、人のことを恩知らずと思う人ほど、過剰にお返しをしたがるものだし、お返しをしないと気がすまないという人の心には、人のことを恩知らずと批判する思いが潜んでいると言えるでしょう。いずれにせよこの世の人間関係は、そのような恩恵と感謝のギブアンドテイクで成り立っているわけですが、私たちはそのことを神様との関係にもあてはめてしまいがちです。そして、神様から恵みをいただいたのだから、それに感謝し、お返しをしなければならない、と思うのです。それは勿論ある意味では当然のことで、神様から大きな恵みを与えられている私たちは、それに感謝して生きる、それが信仰者の生活の基本であるわけですが、しかしこのことはともすると、神様と私たちの関係における最も大事なことを見失わせてしまうことにもなるのです。その最も大事なこととは、私たちは神様と同等の存在ではない、ということです。同じ人間どうしの間で、恩恵に対して感謝する、その感覚を神様と自分とにも当てはめていく時、ともすると私たちは自分と神様を同じレベルに置いてしまうという間違いを犯します。ダビデが、自分はレバノン杉の家に住んでいるのに神の箱はテントの中だ、神様にも立派な家を建てなければ、と思ったのはそういう間違いだったのです。それは神様を敬っているようでいて、実は神様を自分と同じレベルに引き下げてしまっていることなのです。神様がこのダビデの思いを断り、逆にさらなる恵みの約束を与えられたのは、ダビデに、神様と自分とは違うのだ、決して同等な、同じレベルに立つことができるような者ではないのだ、ということを教え示すためです。しかし神様はそのことをダビデに教えるために、「ちょっと偉くなったと思って生意気なことを言うな、そんなことを言い出すのは百年早い」というような言い方はなさらないのです。むしろ逆に、「私があなたのために家を興す」と言われるのです。それは、「あなたは私の恵みに感謝して私のために家を建てようと思っているが、あなたが私のために何かをする必要はない、私があなたのためにさらに恵みを与えていく、それが私とあなたの関係なのだ」ということです。ここに、人間が頭の中で造り出した神様とは違う、生けるまことの神様の真骨頂があるのです。人間が造り出した神様は、人間の常識の範囲を越えることはできません。そこにはあの、恩恵と感謝のギブアンドテイクの世界が展開されるのです。しかしまことの神様と私たちの関係は、神様が恵みを与えて下さる、そしてさらに与えて下さる、そのギブアンドギブの世界です。そんなんじゃ申し訳ない、と思うこと自体が、既に人間の傲慢、自分を神様と同じレベルに置こうとしていることです。まことの神様のもとで、人間の傲慢は打ち砕かれるのです。それは、「お前なんか大したものではないのだ、ひっこんでろ」という仕方によってではなく、神様が、「私はレバノン杉の家はいらない、テントでいい、テントに住むことによって、あなたがどこへ行っても、どのような所、どのような状態にあっても、そこに共にいることができる。私はあなたに対してそのような神なのだ」と言って下さることによってなのです。

 神様が私たちの間にテントを張って宿り、私たちといつも共にいて下さる、それが、私たちが先週祝ったクリスマスの出来事の意味です。主イエス・キリストがベツレヘムの馬小屋で一人の赤ん坊としてこの世に生まれて下さった、それは、神様が私たちとどこまでも共にあると約束して下さったということです。ヨハネによる福音書1章14節はこの出来事を、「言は肉となって、私たちの間に宿られた」と語りました。世の初めから、神と共にあり、ご自身が神であられた言、主イエス・キリストが、肉体をとって私たちの間に宿って下さった。住んで下さった。ダビデに与えられた恵みの約束がここに実現しているのです。神様はこのように、ご自分の独り子をもこの世に、私たちに与えて下さる方です。私たちがどのように感謝し、神様のために何をするかということとは関わりなく、このような恵みをもって私たちと関わって下さるのが、生けるまことの神様なのです。

 この神様に対して、私たちはどう関わればよいのでしょうか。何をするべきなのでしょうか。18節以下の、み言葉に答えてダビデが祈った、その祈りの言葉からそれを知ることができると思います。ダビデはこう言っています。「主なる神よ、何故わたしを、わたしの家などを、ここまでお導きくださったのですか。主なる神よ、御目には、それもまた小さな事にすぎません。また、あなたは、この僕の家の遠い将来にかかわる御言葉まで賜りました。主なる神よ、このようなことが人間の定めとしてありえましょうか。ダビデはこの上、何を申し上げることができましょう。主なる神よ、あなたは僕を認めてくださいました。御言葉のゆえに、御心のままに、このように大きな御業をことごとく行い、僕に知らせてくださいました。主なる神よ、まことにあなたは大いなる方、あなたに比べられるものはなく、あなた以外に神があるとは耳にしたこともありません。また、この地上に一つでも、あなたの民イスラエルのような民がありましょうか。神は進んでこれを贖って御自分の民とし、名をお与えになりました。御自分のために大きな御業を成し遂げ、あなたの民のために御自分の地に恐るべき御業を果たし、御自分のために、エジプトおよび異邦の民とその神々から、この民を贖ってくださいました。主よ、更にあなたはあなたの民イスラエルをとこしえに御自分の民として堅く立て、あなた御自身がその神となられました。」

 ここでダビデが言っていることは、要するに主なる神様がこのような大きな恵みを、自分に、またイスラエルの民に与えて下さった、ということです。神様の恵みはこんなにすばらしく、こんなに大きいということです。そのことを語り直し、確認しているのです。つまり、神様が与えて下さった恵みを恵みとして認め、受け入れる、そういう言葉を彼は語ったのです。私たちの信仰生活の中でこれに当るものは何かと考えてみるならば、「信仰告白」がそれであると言えるでしょう。本日も「日本基督教団信仰告白」によって信仰を告白します。先週は「ニカイア信条」を共に告白しました。これらの信仰告白に語られていることは、神様の、主イエス・キリストを通しての恵みはこんなにすばらしく、こんなに大きい、私たちはその恵みを恵みとして信じ受け入れる、ということです。このように信仰を告白することこそ、神様の恵みに対して私たちがなすべきことです。私たちに求められているのは、神様の恵みに感謝して、私たちも神様のために何かをすることではありません。何かをしてはいけない、ということはありませんが、その前に、根本的になすべきことは、恵みを恵みとして認め、受け入れることです。別の言い方をすれば、神様の恵みに対して、「アーメン」と言うことです。アーメンとは、「本当にその通りです」という意味です。私たちの信仰、神様に対する関係は、この「アーメン」をはっきりと言うということに尽きると言ってもよいのです。ですから皆さんにお願いがあります。祈りの最後に、また信仰告白の最後に、あるいは洗礼が授けられる時に、みんなで「アーメン」と言います。それを、もっとはっきりと、もっと大きな声で言いましょう。口の中でぼそぼそと、誰にも聞こえないように言うのではなくて、はっきりと、世の人々に信仰を宣言するような思いで、「アーメン」と言いましょう。そういう力強い「アーメン」が、礼拝に共に集っている求道中の方々への証し、伝道になるのです。

 ダビデはさらにこう祈りました。「主なる神よ、今この僕とその家について賜った御言葉をとこしえに守り、御言葉のとおりになさってください。『万軍の主は、イスラエルの神』と唱えられる御名が、とこしえにあがめられますように。僕ダビデの家が御前に堅く据えられますように。万軍の主、イスラエルの神よ、あなたは僕の耳を開き、『あなたのために家を建てる』と言われました。それゆえ、僕はこの祈りをささげる勇気を得ました。主なる神よ、あなたは神、あなたの御言葉は真実です。あなたは僕にこのような恵みの御言葉を賜りました。どうか今、僕の家を祝福し、とこしえに御前に永らえさせてください。主なる神よ、あなたが御言葉を賜れば、その祝福によって僕の家はとこしえに祝福されます」。ここでダビデが言っているのは、神様の恵みの約束を受けて、神様に、そのみ言葉の通りになさってください、あなたが約束して下さった通りに、僕の家を祝福し、子孫たちを守り導いてください、ということです。つまり、神様の恵みの約束の実現を願い求めているのです。私たちの常識的な感覚からすれば、これはずうずうしいことです。これまでにも神様の大きな恵みを受けてきた、それに対する感謝もまだきちんと表していない、自分は立派な家に住みながら、神の箱はまだテントの中だ、そんな状態の中で、なおこれ以上の恵みを神様に求めるなんてとんでもない、まずちゃんと神様に感謝を表して、立派な神殿を建てて、それから次のお願いをするべきだ、というのが、人間の常識であり、人間が造り出した神ならそう言うでしょう。しかし生けるまことの神様が私たちに求めておられることはそれとは違うのです。神様は、私たちに数々の恵みを与え、さらに独り子イエス・キリストの命をも与えて下さったのです。そして私たちに何を要求なさるのでもなく、私たちが神様の恵みをさらに願い求めることを待っておられるのです。自分が神様の恵みによって生かされている者であることを認め、さらにその恵みを願い求めていくことこそ、私たちの、神様に対する最もふさわしいあり方なのです。ダビデも、27節で「万軍の主、イスラエルの神よ、あなたは僕の耳を開き、『あなたのために家を建てる』と言われました。それゆえ、僕はこの祈りをささげる勇気を得ました」と言っています。神様が、「わたしこそお前のために家を建てる」と言って下さった、そのみ言葉によって彼も、ずうずうしさを顧みず、神様の恵みを願い求める勇気を与えられたのです。神様は私たちにも、「勇気を出して私に恵みを願い求めよ」と語りかけていて下さいます。独り子主イエス・キリストの命をすら与えてくださった神様は、私たちが、勇気を出して恵みを願い求めていくことを喜んで、待っていて下さるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2001年12月30日]

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