富山鹿島町教会

礼拝説教

2001年 キャンドル・サービス
「闇の中に輝く光」
ルカによる福音書 第2章1〜21節

 教会のクリスマス、キャンドル・サービスにようこそおいで下さいました。しばらくの間、蝋燭の炎を見つめながら、二千年前、ユダヤのベツレヘムの馬小屋で、イエス・キリストがお生まれになったことを思い、そのクリスマスの出来事が、それから二千年後の21世紀を生きる私たちにとってどのような意味を持つのかを考えていきたいと思います。私たちは今、21世紀最初のクリスマスを祝っています。勿論21世紀は今年の1月1日から始まったのですが、しかし歴史の流れという点で言えば、本当の意味での21世紀は、今年の9月11日に始まったと言わなければならないのではないかと思います。それは言うまでもなく、あの同時多発テロ事件の日です。あの日以来、この世界は新しい時代に突入したと言っても過言ではありません。20世紀は、二度の世界大戦の世紀でした。しかし今や、そのような国家対国家、国家群対国家群の戦いとは全く違う、新しい戦争、新しい戦いの時代に入りました。それは宣戦布告もなければ、停戦や休戦の交渉もない、どこが戦場であるのかもはっきりしない、いつどこでその戦いに巻き込まれるかもわからない、そんな戦いです。昔は戦地と銃後などという言葉がありましたが、今やそんな区別は意味をなさないのです。テロによって何千人の一般市民が、ごく普通の日常生活の中で突然殺されてしまう。その報復のための空爆によってやはり一般市民が家を失い、難民となっていく、どちらも、いわゆる非戦闘員です。どちらの国も戦争状態にあるわけではありません。20世紀的な概念で言えば、これは戦争とは呼べないものです。しかし現実に多くの人が殺されていく、その悲しみと憎しみが積み重なり、それが新たな攻撃、殺戮を生んでいく、私たちはそういう時代に突入しているのです。さらに、このことの影響もあいまって、世界的に厳しい不況の中にあります。21世紀はいったいどんな世紀になっていくのか、いずれにしても決してバラ色の幸せな未来を思い描くことは難しい、暗い闇に閉ざされたような現実が私たちの前に立ちはだかっているのです。

 このような闇に閉ざされた時代、社会の現実の中で、私たちがクリスマスを祝うことにはどのような意味があるのでしょうか。こんなご時世だから、クリスマスの祝いなど自粛するべきだ、と思っている人もいるかもしれません。そうではない、私たちがここでクリスマスをお祝いすることには意味があるのだ、ということは、何によって言うことができるのでしょうか。

 このキャンドル・サービスのクリスマスメッセージにおいてどのようなお話をするべきかと考えて参りまして、私は、毎年クリスマスになると心に思い浮かべる一つのお話をここで皆さんと分かち合いたいと思いました。このことについては、何年か前のこのキャンドルサービスでもお話ししたことがあります。毎年来ておられる方には、前に聞いたことがある話、ということになるかもしれませんが、今このような、殺戮が殺戮を生み、憎しみが憎しみを生み、それがエスカレートしていくような、恐怖と不安の闇に閉ざされている時代の中にあってこそ、もう一度この話をじっくりと味わってみたいと思うのです。そこに、私たちがクリスマスをお祝いする意味も示されていくと思うのです。

 そのお話というのは、ラーゲルレーヴという人の書いた『キリスト伝説集』という、岩波文庫になっている本の中の「ともしび」というお話です。昔イタリアはフィレンツェの町に、ラニエロという荒くれ男がいました。腕っ節の強さ、喧嘩の強さのみが自慢という男でした。彼はさんざん口説き落として、フランチェスカという女性と結婚したのですが、ラニエロの余りの乱暴さ、また人の心を思いやることのできない性格に愛想をつかして、彼女は実家に帰ってしまいました。ラニエロは、何とか彼女の心を再び自分の方に向けさせようと思い、傭兵になってあちこちの戦さで大手柄を立て、戦利品の中で最も貴重なものをフィレンツェの大聖堂の聖母マリアに捧げました。その戦利品によって自分の大活躍を知れば、フランチェスカの心も戻ってくるだろうと思ったのです。つまり彼は、あまたの敵をやっつけて勝利し、大手柄をあげること、そういう自分の力と強さにしか価値を見出すことのできない男だったのです。しかし彼がどんな手柄を立て、どんな立派な戦利品をマリアに捧げても、フランチェスカは戻っては来ませんでした。

 しかしラニエロは、これはまだ自分の手柄が足りないのだ、としか考えることができません。それで彼は今度は、そのころ始まった十字軍に加わり、聖地エルサレムをイスラム教徒の手から奪回する、その戦さにおいて一番乗りの大手柄を立てました。その褒美として、彼はエルサレムのキリストの墓に灯るともし火から、自分の蝋燭に最初に火を移すことを許されました。このともし火こそ、今回の戦さにおける最も尊い、貴重な戦利品でした。その夜仲間たちが、「今度ばかりはいくらおまえでも、そのともし火をフィレンツェの聖母マリアのもとに届けることは出来まい」と彼をからかいました。かっとなった彼は、「いや、俺はこのともし火をフィレンツェまで消さずに届けてみせる」と宣言します。そして翌朝から、エルサレムからフィレンツェまで、ともし火を消さずに持ち運んでいく奇妙な旅が始まったのです。

 ともし火を消さずに旅をしていくことは思ったほど簡単ではありませんでした。馬の背に後ろ向きにまたがり、マントで風をよけながらそろそろと進まなければなりません。そのうち彼は追いはぎに合います。普段なら、そんな連中をやっつけることは造作もないことですが、ともし火を守るためにはそれができません。彼は立派な馬と身ぐるみを全て彼らに渡しました。後に残されたのは、ぼろぼろの衣服と、やせ細った馬だけでした。ぼろを纏い、やせ馬に後ろ向きにまたがって、一本のともし火だけを守りながら旅していくラニエロを見て、人々はあざ笑い、からかいました。普段ならばそのようなことには我慢ならないラニエロですが、殴りかかることはできません。ともし火がいっぺんで消えてしまうからです。そのようにして、一本のともし火を守りながらの、ラニエロの奇妙な旅が続けられていきました。

 この旅で、彼はいろいろなことを体験します。その一つ一つをここでお話しているいとまはありません。まだお読みでない方はぜひ読んでみて下さい。要するに彼は、この旅によって、彼がそれまでの人生において一度もしたことのなかったこと、全く考えもしなかったことをすることになったのです。それは、弱いもの、風の一吹きで消え去ってしまう小さなものを、大切に守っていく、ということです。そのためには、いろいろなことを我慢しなければなりませんでした。何よりも、怒りに任せて暴れまわることができなくなりました。怒りや憎しみを覚えても、自分を抑えていかなければなりませんでした。屈辱を受けても忍耐しなければなりませんでした。そのように、小さなともし火をひたすら守りつつ歩む旅を続けていくことによって、彼は変えられていったのです。全く新しい人間になったのです。戦いよりも平和を愛し、荒々しいことよりも穏やかなことを好み、憎しみを抑えて忍耐することができる者に、弱い、小さな者をいつくしみ、いたわり、守ることができる者へと、一本のともし火が彼を変えていったのです。

 そのような苦しい旅を経て、ラニエロは遂にフィレンツェにたどり着き、大聖堂のマリア像にともし火をささげようとします。ところが人々は、彼がこのともし火をエルサレムから消さずに持って来たなどうそっぱちだ、証拠を見せろとつめよります。それを証明する証拠などありません。ラニエロが途方に暮れていると、一羽の鳥が聖堂に迷い込み、ラニエロの掲げているともし火にぶつかって、火を消してしまいました。しかしその火は鳥に燃え移り、鳥は体を燃やしながら、マリア像の前に落ちて息絶えました。それが何よりの証拠でした。鳥が、自分の命と引き換えに、ラニエロの持って来たともし火が本当にエルサレムから来たものであることを示してくれたのです。ラニエロは鳥の体を燃やす火を、マリア像の前の蝋燭に移すことができました。そして、ともし火のおかげですっかり変わった彼のもとに、フランチェスカも戻り、二人は幸せに暮していったというお話です。

 風のひと吹きで消えてしまう小さな弱い一本のともし火、それは丁度今私たちの前に灯っている蝋燭の炎です。私たちのひと息で、この火は消えてしまいます。しかしこのともし火が、一人の荒くれ男を、自分の強さだけが誇りであり、敵を憎み、攻撃し、打ち破ること、自分が勝利し、手柄を立て、名誉を得ることこそを喜び求めていた者を、やさしさ、いつくしみ、弱い者へのいたわりの思いへと目覚めさせ、作り変えたのです。クリスマスに、イエス・キリストが、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになったことは、暗闇に閉ざされているこの世界のひと隅に、この小さな、弱い、一息で消えてしまうようなともし火が灯されたという出来事です。そんなともし火の一本で、世界が明るくなるわけではないし、またそのともし火を吹き消してしまうのは簡単なことです。けれどももし私たちが、このともし火を自分の心の中に灯し、それを大事に守って人生を歩んでいくなら、私たちは変えられていくのです。私たちの心とこの世界とを覆っている恐怖と憎しみの闇をうち払い、平和と喜びを与えていく力を、このともし火は持っているのです。

 イエス・キリストは、このともし火としてこの世に来て下さいました。それがクリスマスの出来事です。このイエス・キリストというともし火を自分の心の内に迎え入れ、そのともし火を大切に守りながら生きていくことが、聖書の教える信仰です。イエス・キリストを信じるキリスト教の信仰というのはそういうものなのです。このたびのテロ事件と、その後の戦いを、イスラム教とキリスト教の宗教戦争のように理解し語っている人もいます。そのようなことを聞くと、私たちは、数年前のあのオウム真理教の事件などをも思い起こして、宗教は怖い、宗教を信じると、他の宗教の人を悪魔のように思って攻撃するようになる、宗教などない方が世界は平和になる、などと思ってしまうかもしれません。しかしそれは、間違った宗教の姿から導き出された間違った結論です。少なくともイエス・キリストを信じる信仰は、心の中にあのともし火を灯し、それを守っていくことなのです。それは決して、敵をやっつけ、勝利することによって問題を解決しようとするものではありません。イエス・キリストはむしろ「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」と教えられました。そして自ら、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。このイエス・キリストというともし火を私たちが心の中に迎え、このともし火を守って生きていくことが、本当のキリスト教信仰なのです。そしてそこにこそ、本当の平和への道があります。私たちが心から願い求める平和は、敵と戦い、打ち破ることによって得られるものではありません。そのような仕方によっては、ラニエロはフランチェスカの心を取り戻すことができなかったのと同じです。戦いは新たな戦いを、憎しみは新たな憎しみを、報復はさらなる報復を生むだけなのです。むしろ一本の小さなともし火こそが、世界に平和をもたらすのです。ラニエロがそうであったように、小さなともし火を大切に守って歩む時、私たちの歩みは、このともし火に仕える歩みになります。このともし火のために犠牲を払い、自分の思いを抑え、忍耐する生き方になります。それこそが、今私たちに、この世界に、必要とされていることなのではないでしょうか。21世紀最初のクリスマスです。イエス・キリストというともし火を私たちそれぞれの心に迎えて、歩み出していきたいのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2001年12月24日]

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