富山鹿島町教会

礼拝説教

「実を結ぶ種」
イザヤ書 第6章8〜10節
マタイによる福音書 第13章1〜23節

 礼拝において、マタイによる福音書を読み進めて参りまして、本日から第13章に入ります。この第13章には、主イエスが語られたいくつかのたとえ話が集められています。「たとえ話集」と言ってもよい章なのです。主イエスは、多くのたとえ話を語られました。たとえ話によって、神様の救いとはどのようなものであるかをお語りになったのです。たとえ話というのは、身近な、誰もがよく知っているものや事柄を用いて語られます。神様の救いという、なかなかイメージを掴みにくい事柄を、身近な、よくわかる事柄に置き換えて語るのです。この13章で主イエスが語られたいくつかのたとえ話に共通している題材は、種を蒔いてその実りを収穫する、ということです。本日ご一緒に読む、「種を蒔く人のたとえ」はその代表です。当時の多くの人々にとって、自分が直接携わっている、あるいはごく身近な所で行われている農業のことを題材にして、主イエスは天の国、つまり神様の救いのことを語っていかれたのです。そういう意味では、たとえ話で語るというのは、人々が神様の救いについて、よりはっきりとしたイメージを持つため、みんなによりよく理解させるためだと言うことができるでしょう。

 ところが、本日の箇所の10節から17節を読んでいくと、主イエスはどうもそれとは違うことを言っておられるようです。ここには弟子たちが主イエスに、「なぜたとえを用いてお話になるのですか」と質問したことへの答えが語られています。主イエスはこうお答えになりました。11〜13節を読んでみます。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」。ここに、「天の国の秘密」という言葉がありますが、これが、要するに神様の救いのことです。それを人々がよく分かり、理解できるようにたとえで語るのだ、とおっしゃっているのかと思うと、そうではありません。「あの人たちには天の国の秘密を悟ることが許されていない、だからたとえで語るのだ」というのです。それは、彼らが少しでも悟り、理解できるように、という意味ではありません。その後に、イザヤ書の預言の言葉が引用されています。本日共に読まれた、イザヤ書第6章にある言葉です。そこにおいて神様が語っておられるのは、イザヤが遣わされて預言をすることによって、かえって人々が理解せず、その言葉を受け入れず、悔い改めようとしない、ということが起るということです。主イエスのたとえ話によっても同じことが起る。つまりそれを聞く人々が、「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」ということが起るのです。たとえ話はそういう働きをするのだと主イエスは言っておられるのです。

 しかしどうなのでしょうか。主イエスのたとえ話はそんなに理解できない、難しい話なのでしょうか。例えば本日のところの3〜9節にある「種を蒔く人のたとえ」はそんなに分かりにくい話でしょうか。種を蒔く人が蒔いた種が、様々な場所に落ちた、という話です。それについては少し説明がいるかもしれません。この当時のこの地方の種まきは、まず畑を耕してそこに種を蒔くというのではなくて、先に種を蒔いてからそこを耕すというやり方だったようです。だから、種は耕された畑にのみ落ちるのではなくて、様々な所に落ちるのです。道端に落ちれば、そこは耕されることなく、種は鳥の餌になってしまったでしょう。石だらけで土の少ない所に落ちることもある。そこは一応耕されて芽を出しても、根がしっかり張れないのでそのうちに枯れてしまうのです。あるいは茨などの雑草が周囲にあると、そちらが先に伸びて囲まれ、負けてしまって育たないということもあります。良い土地に落ちるとは、しっかり耕される畑のことです。そこに落ちた種は実を結ぶのです。これらのことは全て、当時の人々にとって、身近な、よくわかることだったでしょう。そして主イエスは18節以下で、そのたとえ話の意味の説明をしておられます。道端に落ちて鳥に食べられてしまう種とは、「御国の言葉を聞いても悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る」ということだ。「石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である」。そして「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」。つまりこのたとえ話は、主イエスのみ言葉、神の国の秘密を語るそのみ言葉を聞いた者が、それをどう悟るか、理解するか、そしてそのみ言葉に従って、困難や妨げに負けずに生きることができるか、そしてその種であるみ言葉の実をいかに結ぶことができるか、ということを語っているのです。そのことは、私たちにとって決してわかりにくいことではありません。おそらく当時の人々にだって、よくわかることだったろうと思います。このたとえに語られているいくつかのケースは、主イエスのみ言葉を聞く私たちにしばしば起ることとして、それぞれ、思い当るふしがあることなのです。み言葉の種が蒔かれても、それが全く芽を出さずに、鳥に食べられてしまうようにいつのまにか消えてなくなってしまう、そのように、み言葉が私たちの心に全く根付かず、失われてしまうということを、私たちは自分自身において、また他の人々において経験します。また、み言葉が一旦は受け入れられ、芽を出す、それは信仰の芽生えと言ってもよいでしょう。しかし、それが私たちの心にしっかりと根付いていかない、心のごく表面のみに止まってしまうということがあります。私たちの心を少し掘り下げてみると、そこには、み言葉を寄せ付けない堅い石のようなものがあって、み言葉の根はそこを突き抜けることができない。そういう状態だと、信仰はしばらくは続くけれども、いろいろと困難が生じたり、大なり小なり迫害を受けるようなことがあると、すぐにつまずいてしまうのです。困難に打ち勝つ生命力を信仰が持っていないからです。あるいは、私たちの信仰の生活は常に茨に囲まれていると言うことができます。信仰が育っていこうとする時に、それを覆い塞いでしまうような様々なものがこの世には満ちているのです。「世の思い煩いや富の誘惑」とここにはあります。この世を生きていく以上、私たちはこの世の事柄と関わりつつ歩んでいます。「思い煩い」と訳されている言葉は、6章25節で主イエスが、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」とおっしゃった、その「思い悩む」と同じ言葉です。自分の命のこと、体のこと、生活のことで、様々な思い煩いが、不安が私たちにはあります。それを何とかしなければと日々あくせくしているのです。そういう思い煩いと共に、この世の生活には様々な誘惑があります。私たちの思いを神様からそらせ、神様を見つめ従うのではなくて別のものを見つめ、別のものに心を寄せさせようとするものがあるのです。それは富だけではなく、人それぞれに様々な誘惑があると言えるでしょう。そういうものに心を奪われてしまうと、み言葉の種が育っていかない、実を結んでいかない、信仰が育っていかずに、むしろ枯れていってしまうのです。み言葉の種が蒔かれ、芽を出し、育っていき、実を結ぶようになるには、これらの様々な妨げが乗り越えられなければなりません。その全てがクリアーされているのが「良い土地」であって、そうでなければみ言葉の種は実を結ぶことができないのです。

 私たちはこのたとえ話を、まことに身につまされる思いで読みます。道端に落ちた種も、石だらけの地に落ちた種も、茨の間に落ちた種も、みんなそれぞれに自分のことだと思うのです。どれかがと言うよりも、どれもそれぞれに自分に当てはまるところがあると思います。ある時は道端のようであり、ある時は石だらけの地のようであり、ある時は茨の間のようだと思う、あるいは、同時にこの三つであるようにも感じるのです。そしてそのように感じる私たちが、自分は少なくともこれではないと思うのが、「良い土地」です。み言葉の種が順調に育っていき、全ての妨げが取り除かれて、百倍、六十倍、三十倍の実を結んでいく、それは私たちの目指すべき理想の姿だけれども、しかし現実はそうはなっていない、これだけは自分の姿ではない、と私たちは思うのです。

 このように、このたとえ話は私たちにとって、決して理解できない難しい話ではありません。私たちはそれなりにこの話がわかるし、そこに語られていることの中に自分自身の姿を読みとることができるし、この話によって主イエスが私たちに求めておられること、つまりみ言葉の種にとっての良い土地になるように、という主イエスの期待を理解することができるのです。そういう意味で、このたとえ話はやはり私たちが神様の救いをよりよく理解し、よりイメージをはっきり持つためにあると言えるように思うのです。

 けれども、実は、私たちがこのたとえ話を読んでそのように感じるということこそが、主イエスがここで言っておられる「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」ということがまさに私たちに起っているということなのです。私たちはこのたとえ話を身につまされてこのように読むということを今申しました。しかし、主イエスがこのたとえ話によって私たちに語ろうとしておられるのは、そういうことではないのです。み言葉を聞く人間には、道端と、石だらけの地と、茨の間と、良い土地の四種類がある、さああなたはその中のどれに当るのか、自分を振り返ってみなさい、というふうにこの話を読めば、当然先ほどのようなことになります。しかし主イエスはこの話をそういう意図で語ってはおられないのです。そのことがわかるのは、11節のみ言葉からです。そこには「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが」とあります。あなたがたは天の国の秘密を悟ることを許されている、それは、あなたがたはみ言葉を聞いて理解することができるということです。それはこのたとえ話で言えば、「御言葉を聞いて悟る人」つまり「良い土地」であるということです。主イエスは、「あなたがたは良い土地である」と言っておられるのです。そのことは16、17節にも語られています。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」。あなたがたの目は見ている、あなたがたの耳は聞いている、だからあなたがたは幸いだ、と主イエスは言っておられるのです。それは、「こういう条件を満たせば幸いになれるぞ」ということではありません。「あなたは祝福されている、おめでとう、よかったね」ということです。あなたがたはみ言葉を聞いて悟り、理解し、良い土地として実を結ぶことができている、本当によかったねと主イエスは言っておられるのです。それが、このたとえ話で主イエスが語ろうとしておられることです。つまり主イエスは、「おまえたちはこの四つの内のどの地になるのか。がんばって良い土地にならなければだめだぞ」と言っておられるのではないのです。

 「あなたがたは良い地である」それがこのたとえ話において主イエスが私たちに語りかけておられるメッセージです。その「あなたがた」は、11節にあるように、「あの人たち」と区別された「あなたがた」です。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていない」のです。「あの人たち」とは、2節に出て来る「大勢の群衆」です。それに対して「あなたがた」とは、10節で主イエスに近寄って「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と尋ねた弟子たちです。つまりここには、群衆と弟子たちとの区別がはっきりとつけられています。たとえ話は、群衆たちに対しても語られています。しかし彼らは、それを悟ることができない、見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないのです。それに対して弟子たちは、それを悟ることを許されている、目は見えている、耳は聞こえている、み言葉を悟る良い地であることができている、多くの預言者や正しい人たちが見たいと願いつつ見ることができなかったこと、聞きたいと願いつつ聞くことができなかったことを、彼らは見、聞くことができている、その弟子たちの幸いを主イエスは語っておられるのです。

 弟子たち、それは主イエスに招かれ、従っていき、いつもそのみ側近くでみ言葉を聞いている人々です。この「種を蒔く人のたとえ」も、大勢の群衆が湖の岸辺に立ち、主イエスは舟に乗って湖の中に少し漕ぎ出してそこから語られています。弟子たちはおそらくその舟に一緒に乗り込んでいるのです。そこにも、弟子たちと群衆との区別があります。そしてこのことは、先週読んだ所、12章の終わりに語られていた、主イエスの母と兄弟たちが、「外に立っていた」ということと重なってきます。主イエスに対して「外に立つ」者であろうとする母や兄弟たちに対して主イエスは厳しい言葉を語られました。そして、主イエスのもとに集い、その足元でみ言葉を聞いている弟子たちこそご自分のまことの家族であると言われたのです。そのお言葉は、本日のところで主イエスが弟子たちに「あなたがたは幸いだ」と言われたお言葉と同じ響きを持っていると言えるでしょう。この「種を蒔く人のたとえ」は、主イエスのまことの家族とされている弟子たち、即ち主イエスを信じ、教会に連なり、礼拝を守っている私たち信仰者に、「あなたがたは良い土地とされている、み言葉を聞いて理解し、悟る者、み言葉の種の実を豊かに結ぶ者とされている、だからあなたがたは幸いだ」と語りかけているのです。しかしもし私たちが先ほどのように、「自分はいったいどの土地だろうか、最初の三つは身につまされる、しかし少なくとも最後の良い土地ではない」というふうにこれを聞いてしまうなら、私たちはこのたとえを聞いた群衆と同じく、主イエスの語ろうとしておられることを見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない者となってしまうのです。

 しかしそうであるならば、主イエスは何故、最初の三つのケース、道端とか、石だらけの地とか、茨の間というような土地のことをお語りになったのでしょうか。あなたがたは良い地だ、ということを言おうとしておられるなら、その良い地のことだけを語ってくれればよいではないか、余計なことを言うから誤解を招くのだ、と思うかもしれません。しかしそれは違うのです。最初の三つのケース、道端や、石だらけの地、そして茨の間、それはやはりどれも、私たちの姿です。これを読んで、身につまされる、これは自分の姿だと思うのは正しいのです。その通りなのです。しかしそこで私たちがしっかりと聞き取っていかなければならないのは、そのような、道端であったり、石だらけの地であったり、茨に塞がれているような私たちの心に、神様が、常にみ言葉の種を蒔き続けていて下さるということです。神様は、「私は良い土地にしか種は蒔かない。おまえが良い土地になったら種を蒔いてやる」とはおっしゃらないのです。み言葉の種は、どんな土地に対しても蒔かれています。たとえその土地が、全くみ言葉を受け付けず、取り付くシマもないような、蒔かれた種はそのまま鳥についばまれてしまうしかないような、そんな道端のような所であっても、私たちがそのような頑なな心でいる時にも、神様はみ言葉の種を私たちの心に蒔いていて下さるのです。また私たちが、表面的にはみ言葉を受け入れて信仰の芽を出すけれども、心の中には堅い石がごろごろしていて、み言葉が深く根を下ろすことができない、そのために少しでも嫌なこと、つらいことがあると、信仰なんかやめたと言って捨ててしまう、そんな弱い者、つまずきやすい者であっても、その私たちに、神様はみ言葉の種を蒔いていて下さるのです。また私たちが、この世の様々な思い煩いに捕えられ、あるいはいろいろな誘惑に目を奪われて、神様を忘れ、み言葉から目を背けてしまい、信仰の茎がやせ細り、いつのまにか見えなくなってしまう、なくなってしまう、そのような者であっても、その私たちに、神様はみ言葉の種を蒔いていて下さるのです。それは神様が、私たちを、何とかして、み言葉の種が育ち実を結ぶ良い土地にしようと情熱を傾けていて下さるということです。このたとえ話で、神様は、「お前はどの土地か」と第三者のように冷たい目で私たちを見ておられるのではないのです。神様ご自身が、汗を流して、いっしょうけんめいに、み言葉の種を蒔き続けていて下さるのです。その神様の熱心な、情熱溢れる、そして倦むことのない種まきの結果、私たちは、自分に蒔かれているみ言葉に気づくことができるようになるのです。神様が語りかけていて下さることに気づき、それに耳を傾けることができるようになるのです。そして信仰の小さな芽を出すことができるのです。その芽はしかし、ちゃんと根づかずに、育たずに枯れてしまうことも多いのです。茨に塞がれて伸びないことも多いのです。それでも神様は繰り返し、あきらめることなくみ言葉の種を蒔き続けて下さるのです。それによって、私たちの心は、次第によく耕されていくのです。石が取り除かれていくのです。茨が抜き取られていくのです。そして気がついた時に、私たちの心に、み言葉の結ぶ豊かな実りが与えられていきます。それは、神様が自分の心に種を蒔き、そこを耕し、石を取り除き、雑草を抜いて下さった、その神様の私たちのための情熱、労苦に気づくことです。もともと全く良い土地ではない、道端に過ぎなかったような自分を、神様が愛して下さり、汗水たらして世話をして下さり、み言葉を悟ることができる良い土地として下さった、その驚くべき恵みに気づき、感謝することこそ、み言葉の種の実りなのです。

 私たちが神様の恵みに気づき、感謝する信仰者となるに至るまでに、いったいどれほどのみ言葉の種が、虚しく蒔かれ、鳥についばまれていったことでしょうか。芽を出したけれども育たずに枯れてしまった種がどれほどあったことでしょうか。茨に塞がれて消えてしまったものがどれだけあったでしょうか。神様はそれだけの犠牲を払って、私たちを導いていて下さるのです。その神様の私たちのための情熱と犠牲の頂点が、主イエス・キリストであり、その十字架の死です。み言葉の種が私たちの心に蒔かれ、しかしそれが虚しく鳥についばまれてしまう、あるいは芽を出してもすぐに枯れてしまう、茨に塞がれてしまう、それは全て、主イエス・キリストの十字架の死を指し示しています。神様はこのような犠牲を払って、独り子の命をも与えて下さる情熱を傾けて、私たちを、み言葉のための良い土地として下さっているのです。このことに気づく時、私たちは、最初の三つの土地のことを自分自身の姿として身につまされて聞きつつ、しかし自分が神様の恵みによって、み言葉のための良い土地とされていることを、神様の恵みによってみ言葉が自分の内でよい実を結んでいることを信じ、感謝することができるのです。この神様の恵みこそ、多くの預言者や正しい人たちが、見たいと願いつつ見ることができなかったもの、聞きたいと願いつつ聞くことができなかったことです。それを今私たちは、主イエス・キリストによって見聞きする幸いを与えられているのです。主イエス・キリストのご降誕を覚え、クリスマスに備えていく今、「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されている」「あなたがたは幸いだ」と語りかけて下さる主イエスの恵みをかみしめつつ歩みたいと思います。

牧師 藤 掛 順 一
[2001年12月9日]

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