富山鹿島町教会

礼拝説教

「主イエスの家族」
詩編 第1編1〜6節
マタイによる福音書 第12章46〜50節

 教会の玄関のところのアドベント・クランツの4本のろうそくの1本に火が灯されました。本日からアドベント、待降節に入ります。主イエス・キリストのご降誕を喜び祝うクリスマスを待ち、それに備えていく時です。私たち一人一人の心の中にも、4本のろうそくを立てて、主の日の礼拝ごとにその一本一本に火を灯しながら、クリスマスに備えたいと思います。

 アドベントになって、主イエスのご降誕に思いをめぐらしていく時に、私たちが必ず思い出すのが、主イエスを生んだ母マリアのことです。毎週の礼拝で告白している使徒信条あるいはニカイア信条に「おとめマリアより生れ」あるいは「おとめマリアより肉体を取って、人となり」とあることに、改めて思いを致すのです。私たちが今読んでいるマタイによる福音書では、マリアはヨセフと一緒になる前に聖霊によって身ごもったとだけ語られています。しかしルカ福音書には、マリアに天使が現れ、彼女が聖霊によって男の子を産むこと、その子こそ神様の遣わされる救い主、神の子であることを告げたこと、マリアがそれらの全てを受け入れて「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言ったことが語られています。クリスマスの出来事は、この母マリアの信仰によって実現したと言ってもよいのです。

 そのように、私たちが尊敬と親しみをもって思い起こす主イエスの母マリアですが、本日の箇所においては、主イエスはその母マリアに対して、大変冷たい、厳しいお言葉を語っておられます。主イエスが人々に教えを語っておられたところに、母マリアと主イエスの兄弟たちが来たのです。ある人が「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言うと、主イエスは、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」と言われたのです。まるで、そんな人たちは母でも兄弟でもない、と言っているようなお言葉です。主イエスはどうしてこのようなことを言われたのでしょうか。  マルコによる福音書の第3章31節以下には、この出来事がマタイとほぼ同じ内容で語られています。しかしマルコは、その前の21節に、主イエスの家族が何のためにやって来たのかを語っているのです。そこには「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」とあります。主イエスは、ルカ福音書3章23節によれば、およそ三十歳の時に家を出て、神の国の福音を宣べ伝え始められました。それまでは、長男として、そしてマリアの夫ヨセフは早くに亡くなっていたようですから、一家の大黒柱として、家業を継ぎ、家を守っていたのです。その主イエスが家を出て、家族を離れて、伝道の生活に入るというのは、マリアや兄弟たちにとって大変なことだったでしょう。そしてうわさによれば、イエスはあちこちで、律法学者やファリサイ派の人々と論争をしたり、病人を癒す奇跡を行っているという、それは、小さい時からイエスのことをよく知っている母や兄弟たちにとっては、気が変になってしまったに違いないと思われるようなことでした。そして家族としては、そういうイエスをこのまま放っておくわけにはいかないと思ったのです。なんとか取り押さえて家に連れて帰らなければと思ったのです。それは家族としてはある意味で当然の思いであると言えるでしょう。母と兄弟たちはそういう思いをもって主イエスのところに来たのです。「その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた」、その「話したいこと」というのはそういうことです。「もうこんなことはやめて、私たちと一緒に家に帰ろう、そしてしばらく休んだ方がいい」、そのようなことを言おうとして、彼らは主イエスのもとにやって来たのです。この母や兄弟たちは、決して主イエスに対して敵対しているわけではありません。むしろ身内として心配しているのです。そういう意味では、彼らは、この12章14節で、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した、あるいは24節で、主イエスの癒しの業を悪霊の頭ベルゼブルの力によるのだと言ったファリサイ派の人々とは違います。しかし結果的には、彼らの愛や心配も、主イエスの、救い主としてのお働き、その伝道と癒しのみ業の妨害をするものになってしまっているのです。それゆえに主イエスは、そういう母や兄弟たちに、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」という厳しい、冷たい言い方をなさったのだと言うことができるでしょう。

 けれども、今申してきましたことは、マルコ福音書の記述を参考にして言っていることです。マタイは、母や兄弟たちが何のために主イエスのもとに来たのかを全く語っていません。気が変になったと思ったとか、取り押さえに来たということは一言も語られていないのです。ということは、マタイは、そういう身内としての思いというようなことをここで語ろうとしてはいないのです。マタイはマルコを土台として書いているのですから、これはもともとはそういう話だったのでしょう。しかしマタイはそのもともとの話から、身内としての特別な思いや事情を取り除いて、もっと一般的な話としてこれを語っているのです。その時にマタイが、母や兄弟たちの姿として強調していることがあります。それは「外に立っている」ということです。その言葉は、46節と47節に二回語られていて、この短い話の中で際立って強調されています。母や兄弟たちは、主イエスが群衆に話しておられる、その輪の外に立っているのです。主イエスはこの時、カファルナウムのペトロの家で、集まった人々に教えておられたのかもしれません。あるいは、野外で、集まった群衆たちのまん中で語っておられたのかもしれません。いずれにしても、母や兄弟たちは、主イエスの話を聞いているその人々の中に入っては来ないのです。外に立っているのです。そこに、彼らが主イエスに対して、そしてその教えておられることに対して取っている姿勢、思いが象徴されています。主イエスのことを外から眺め、批評し、その教えを判断し、評価しようとしている、そういう姿勢です。そしてそういう意味で「外に立っている」ということは、主イエスの母や兄弟に限られたことではない、私たち全ての者にも起こり得る普遍的、一般的なことです。マタイはこの話を、まさにそのように、一般的な、私たち一人一人と関係する話として語っているのです。これは決して、主イエスの母や兄弟たちという身内に限られた事柄ではないのです。

 「外に立っている」、そのことの持つ意味についてさらに考えてみたいと思います。そこには、主イエスに対して、ある距離を置いているということが込められています。ある距離を置いて、少し離れた所から、主イエスとその教えのことを見ているのです。物事は、そのようにある距離を置いて見た方が、客観的に、正確に見ることができる、ということもあります。「木を見て森を見ない」という言葉があるように、あまり渦中に入ってしまうと目の前のことしか見えなくなって、全体がわからなくなる、正確に捉えることができなくなる、ということは確かにあるのです。そういう意味では、主イエスとその教えについても、「外に立って」、少し距離を置いて見ることが必要なのかもしれません。けれども、一般論としてそのように言うことはできますが、実際にそのように「外に立って」、距離を置いて主イエスとその教えを見るところに起ってくることはどういうことでしょうか。私たちがこの12章において読んできたファリサイ派の人々の姿というのがまさにそれに当るのではないでしょうか。12章のはじめのところで、彼らは、主イエスの弟子たちが、安息日に麦の穂を摘んで食べたことを批判しました。また、主イエスが安息日に片手の萎えた人を癒されたことに怒り、主イエスを殺そうと相談を始めました。それは彼らが、主イエスの教えやみ業を外から、距離を置いて見ていることから生じたことです。彼らは、自分たちの持っている律法理解、神様の掟に従うとはこういうことだという理解から、主イエスの教えやみ業を判断し、批判しています。距離を置いて見るというときには、必ずそういうことが起っているのです。「距離を置いて、客観的に」というのは、実際には、自分の持っている基準に照らして、ということです。そしてそのように自分の理解や基準や常識をもとにして判断しようとすることによって、主イエスが大切にしておられる神様のみ心が見失われてしまうのです。安息日に、空腹の人が満たされていくことを喜んで下さる神様の憐れみのみ心、片手の萎えた苦しみの中にある人が安息日に癒されることを喜んで下さるみ心、それらは彼らの視野からまったく失われてしまっているのです。主イエスの癒しのみ業を、「悪霊の頭ベルゼブルの力によるのだ」と言っているのも、彼らが主イエスに対して距離を置いていることの現れです。彼らは、悪霊に取りつかれて目が見えず、口が利けなかった人が癒され、ものが言えるようになり、目が見えるようになった、その喜ばしい恵みの出来事をちゃんと見つめようとしないのです。そしてそこからできるだけ距離を置いて、遠くの、自分には関係のない出来事としてそれを捉えようとするのです。そこに生まれるのが、悪霊の頭が子分に命令しているのだ、という詭弁です。つまり彼らは、事柄からできるだけ距離を置き、外から、遠くから見ることによって、自分に都合のよい、自分が変わらずにすむような理屈をつけようとしているのです。「外に立つ」ことの本質がここには描き出されていると言えるでしょう。外に立つのは、自分が変わりたくないからです。主イエスと関わることによって自分が変えられてしまうのを防ぐために、距離を置こうとするのです。また38節で、主イエスにしるしを求めた人々の姿も、外に立つ人の典型です。外に立つとは、自分の持っている基準で判断しようとすることだと先ほど申しましたが、しるしを求めるというのはまさに、その自分の基準に合うしるしを求めるということです。「あなたが神の子であり救い主であることを、私が納得できるように示してくれ」というのはそういうことです。主イエスに対して、外に立ち、距離を置こうとしている者が、そのように言うのです。そして最後に、主イエスに対して外に立とうとする者の姿を最も端的に示しているのが、43節以下の、「汚れた霊が戻って来る」というたとえ話ではないでしょうか。汚れた霊を追い出して、きれいに掃除をし、整えられている家のたとえです。しかしその家は空き家であり、住む人、所有者がいないのです。それはまさに、主イエスと距離を置き、外に立とうとする人の姿です。つまり主イエスの教えを学びはする、尊敬もするし、それを参考にして生きていこうとも思う、しかし主イエスを自分の心の家に迎え入れ、自分の心の主人になってもらおうとはしないのです。のめり込むのはやめにしておいて、少し客観的に、距離を置いてイエス様と付き合おうとしているのです。そういう人の心というのは、守る人のない空き家であって、悪霊の絶好の餌食だ、というのがこの話の教えていることです。主イエスに対して外に立つことによって、悪霊が私たちの内に入ってくるのです。

 主イエスは、外に立っている母や兄弟たちについて、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」と大変厳しいことを言われました。しかしそれはよく読めばわかるように、母や兄弟たちに対して言われたのではありません。むしろこれは主イエスの周りに集って、その教えを聞いている人々、つまり外に対して内にいる人々に対して語られたお言葉です。そしてそれは、次の49、50節のみ言葉への導入となっているのです。「そして、弟子たちの方を指して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である』」。弟子たちこそ、外ではなく内にいる人々です。この弟子たちこそ、わたしの母、わたしの兄弟、つまり主イエスの本当の家族であると言われたのです。つまり主イエスはここで、身内の者たちなど家族ではない、と言われたのではありません。そうではなくて、主イエスの本当の家族とは誰か、を示されたのです。そして、「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」というみ言葉によって、だれでも、どんな人でも、私たちも、この主イエスの本当の家族になれる、ということを示されたのです。つまりここには、主イエスの、大いなる招きがあります。あなたも私の本当の家族になれる、私はあなたも、家族として迎えたい、私の家族になってもらいたい、そう主イエスは私たち一人一人に語りかけておられるのです。

 この招きに応えて主イエスの本当の家族になるには、何が必要なのでしょうか。そのためには、「わたしの天の父の御心を行う人」になることです。「わたしの天の父」つまり神様の御心を行うことが、主イエスの本当の家族になるためには必要なのです。しかしそこで私たちはよくよく注意しなければなりません。というのは、あのファリサイ派の人々だって、自分たちは神様の御心を行っていると思っていたのです。彼らは律法を熱心に学び、それを厳格に守って生活していました。それが神様の御心を行うことだと思っていたのです。このことが教えているのは、人は、神様の御心を行っていると思いつつ、実際には外に立つ者であることがあり得るということです。どうしてそうなるかというと、神様の御心を自分でこうと決めてしまうからです。これが神様の御心である、これをすることが御心にかなうことである、ということを、自分はもう知っている、わかっている、と思い、それを少しも疑わない、その時に私たちは実は、自分の思い、自分の考え、自分の基準を神様の御心と勘違いしており、それを主張することによって、主イエスからは距離を置いてしまう、ということが起っているのです。ですから、「神様の御心を行う」ということにおいて私たちはよほど慎重でなければなりません。そう言っている時にこそ、人間は最も大きな罪を犯すものなのです。神の名によって行われるテロはその最たるものです。神の名によってそれに報復することも同じです。いずれも、自分の考えと神の御心を行うことの区別がつかなくなってしまっているのです。

 そういうことを防ぐにはどうしたらよいのでしょうか。そのためにこそ私たちは、外に立つのではなく、内に入らなければならないのです。それは、主イエスのもとに集い、そのみ言葉を聞くことです。主イエスは、「神の御心を行う人が」と言われたのではなくて、「わたしの天の父の御心を行う人が」と言われたのです。神様は、主イエスの天の父であられます。神様を「わたしの天の父」と呼ぶことができるのは主イエスお一人なのです。その神様の御心を私たちは、主イエスを通してこそ知ることができます。神の独り子である主イエスを通してこそ、私たちは神様の御心を知り、それを行なうことができるのです。ですから私たちはいつも、この主イエスのみもとにしっかりと集い、そのみ言葉を聞かなければなりません。しかもできるだけ主イエスの足もと近くに、距離を置かずに、ぴったりと着いて、主イエスの語られることを聞き、なされるみ業を見るのです。そのようにしていくことによってこそ、私たちは、神様の本当の御心が何であるのか、何をすることが本当に神様の御心にかなうことなのかを正しく知ることができるのです。

 主イエスはそのように、主イエスのもとに集い、その教えを聞き、み業を間近で見ている弟子たちこそ、ご自分の本当の家族なのだと言われました。しかしここに語られているのはそれだけではありません。49節に、主イエスは弟子たちの方を指して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われたとありますが、この「指して」という言葉は、ただ「指差して」ということではありません。前の口語訳聖書ではここは「弟子たちの方に手をさし伸べて」となっていました。こちらの方が原文のニュアンスを伝えているのです。主イエスは弟子たちに手をさし伸べて、「ここにわたしの家族がいる」と言われたのです。その「手をさし伸べる」というのは、8章3節では、主イエスが重い皮膚病にかかっている人に手をさし伸べてその人に触れ、癒して下さった時のしぐさです。14章31節には、溺れそうになったペトロに主イエスが手をさし伸べて捕まえ、助けて下さったことが語られています。つまり手をさし伸べて下さるというのは、主イエスが守り、支えて下さるということなのです。主イエスはそのように弟子たちの方に手をさし伸べて、「ここに私の家族がいる」と言われたのです。つまり主イエスの本当の家族というのは、ただしっかりとみもとに集い、み言葉をちゃんと聞いている人々、というだけではありません。主イエスがその人々をご自分のそれこそみ手の届く範囲に置いて下さり、守り、支え、導き、はぐくんで下さる、その群れに入れられているということなのです。

 この主イエスのまことの家族に、誰でもなることができます。難しい条件は何もないのです。ただ、主イエスのもとに集う者となればいいのです。外に立つ者であることをやめて、主イエスと距離を置こうとすることをやめて、その懐に飛び込み、み言葉を常に聞き続ける者となればよいのです。それが、洗礼を受けてクリスチャンになるということです。本日と来週の長老会において、3名の方が、このクリスマスに洗礼を受けるための試問に臨まれます。これらの方々は、外に立つ者であることをやめて、主イエスのもとに集い、主イエスのみ手に支えられ、守られる主イエスの家族となろうとしておられるのです。試問に備えての準備会でお話したことにこういうことがあります。これまでは、あなたは教会のお客様でした。しかし洗礼を受けることによって、今度はお客様から、家の者、家族の一員になるのです、ということです。教会は、お客様を歓迎し、大事にします。できるだけ快適に過ごしていただくためにおもてなしをするのです。けれどもお客様は家族とは違うのです。洗礼を受けることによって、その人はお客様から家族になります。家族になれば、それなりの務めや役割も生じます。もてなされる側から、もてなす側に変わるのです。その家の歩みに、責任をもって関わる者になるのです。しかしそれよりも何よりも、このことによって私たちは、主イエスのまことの家族となることができます。そして、主イエスのさし伸ばされたみ手の内に守られ、養われ、はぐくまれる者とされるのです。それが、洗礼を受けて教会の一員となることによって与えられる恵みなのです。

 主イエスの母マリアや兄弟たちは、外に立つ者となってしまったことによって、主イエスに見捨てられてしまったわけではありません。彼らも後に、主イエスのまことの家族である教会の一員となっていったことが聖書に語られています。本日の箇所は、そこに至るまでの間に、彼らが、血のつながりによる主イエスとの関係を乗り越えて、信仰における関係を結んでいかなければならなかったことを語っていると言うことができるでしょう。主イエスを生んだ母マリアも、そのことで主イエスのまことの家族となれたわけではないのです。彼女も、外に立つ者から、主イエスのもとに集い、そのみ言葉を聞き、そのみ手の内に置かれる者となることによって、主イエスの本当の母となることができたのです。

 クリスマスに備えるアドベントの時、自分が変えられることを拒んで主イエスから距離を置こうとする思いを乗り越えて、真実に主イエスのもとに集い、そのさし伸ばされたみ手の内で生きようとする心を養っていきたいと思います。

牧師 藤 掛 順 一
[2001年12月2日]

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