富山鹿島町教会

礼拝説教

「自分の言葉によって」
詩編 第12編1〜9節
マタイによる福音書 第12章31〜37節

 本日の説教の題を「自分の言葉によって」としました。それは本日の聖書の箇所の一番最後の37節、「あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる」から取ったものです。私たちが、神様の前で義とされるか、それとも罪ある者とされるか、つまり救いにあずかることができるか、それとも罪人として裁かれてしまうか、それは私たちがどのような言葉を語るかにかかっている、と主イエスはおっしゃったのです。これは私たちの意表を突くみ言葉です。私たちは普通、神様から私たちが問われているのは、「行い」だと思っています。どのような行い、行動をとっているか、何をしているか、が問題なのであって、それによって私たちが義とされるか、あるいは罪ある者とされるかが決まる、「言葉」が問題なのではないのだ、と私たちは思っているのではないでしょうか。さらに言えば、言葉だけならどんな立派なことも言える、しかし大事なことは、それを実行できているか、言葉通りに生きているかどうかだ、その行動を見なければ、その人のことを正しく判断することはできない、というのも、私たちが普通に思っていることなのではないでしょうか。肝心なのは言葉ではなくて行いだ、ということが私たちにとってある意味で常識となっていると思うのです。しかし主イエスはここで、人が義とされるか、罪ある者とされるかは、その言葉で決まる、とおっしゃいました。それは勿論行いはどうでもよい、ということではないでしょう。しかし、どのような行いをしているか、ということと並んで、あるいはそれにも勝って、自分がどのような言葉を語っているかということによくよく気をつけなければならない、行いさえちゃんとしていれば、言葉はどうでもよい、ということはないのだ、と主イエスは教えておられるのです。

 聖書は、言葉というものをとても大切にしています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とは、ヨハネによる福音書の有名な書き出しの文章ですが、そのように、言葉は神様ご自身の本質をも表すものなのです。また、神様は言葉によってこの世界を造り整えていかれた、というのが、創世記の最初の天地創造の物語です。改めて読んでいただけばわかりますが、天地創造の物語は、ただ神様がこれこれのものをお造りになった、と語っているのではなくて、神様が言葉を語られる、するとそれがその通りになる、という仕方で進んでいくのです。そしてその天地創造のみ業の最後に、人間が造られます。その人間は、言葉を持つ者として造られたのです。人間が言葉を与えられたのは、人間どうしの間で語り合い、意志を伝え合うためだけではありません。もっと根本的には、言葉を本質とし、言葉によって世界を造られた主なる神様と語り合うためです。神様との交わりに生きるために、人間は言葉を与えられているのです。言葉を語ることができることにこそ、人間が神様に似せて造られたことの本質があると言うことができるのです。ところが人間は、神様の本質ともつながるその言葉によって罪を犯しています。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第12編にまさにそのことが語られているのです。その3〜5節を読んでみます。「人は友に向かって偽りを言い、滑らかな唇、二心をもって話します。主よ、すべて滅ぼしてください、滑らかな唇と威張って語る舌を。彼らは言います。『舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない』」。「自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない」。これこそまさに、人間の罪の思いです。神様に背き、自分が主人となろうとする罪と言葉とが密接に結びついているのです。言葉においてこそ人は罪を犯す。そのことを、新約聖書のヤコブの手紙第3章も語っています。その2節の後半に、「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」とあります。自分の言葉をコントロールできる人は、他の全ての点においても自分をコントロールして、罪から遠ざかっていることができる、ということです。しかしそれができる人は一人もいない、とその後に語られていきます。6節以下を読んでみます。「舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません」。「舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちている」。私たちは口から出る言葉で、人を傷つけ、殺してしまうのです。「言葉ではどんな立派なことでも言える」というのも人間の現実の一つの側面ではありますが、むしろ私たちの現実においてしばしば起こっているのは、その言葉でもって人をやっつけ、傷を負わせ、殺してしまうことなのではないでしょうか。だから私たちは、自分の語っている言葉を振り返って吟味してみる必要があるのです。義とされるような言葉を語っているのか、それとも罪ある者とされるような言葉を語ってしまっているのか。

 ヤコブの手紙はここで、私たちの同じ口から、神様を賛美する言葉が出て来るかと思えば、人を呪うような言葉も出てくる、ということを問題にしています。本来そんなことはあり得ないはずだ、同じ泉から甘い水と苦い水がわき出ることはないし、いちじくの木にオリーブの実がなるはずはないのとそれは同じだと言っているのです。この言葉は、本日の箇所における主イエスのお言葉とつながります。本日の箇所の33節に「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」とあります。良い木には良い実が実り、悪い木には悪い実が実る。木とは人間の心のことであり、その「実」とは言葉です。言葉は心から自然に生み出される実である、だから、言葉によってその人の心がわかるのです。それが34、35節です。「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる」。悪い言葉、人を呪い、傷つけ殺すような言葉は、悪い心から出てくるのです。そういう言葉が出て来るということは、その人の心が悪いということです。普段そういう悪い言葉を語っている者が、改まった席で、あるいは祈りにおいていくら神様を賛美する言葉を語っても、その賛美の言葉は実は偽りでしかないのです。

 そのような断言に対しては、私たちの心の中に反発も起こるかもしれません。私たちが、例えば礼拝において神様を賛美している、その思いは決して偽りではない、心から賛美している、しかし日々の生活の中で、いろいろな人間関係の難しさやお互いの罪の現実に直面する時に、ついつい、人を傷つけるようなことを言ってしまうことがある、言ってはならないようなことまで言い過ぎてしまうこともある、いけないとは思いながらも、冷たい言葉、棘のある言葉を吐いてしまうことがある、私たちはそういう弱さを持って生きているのだ、だからといってその私たちの賛美の言葉を偽りだと言われてしまったら身も蓋もないではないか、と思うのです。けれども、まさにそこに、私たちが、自分の語っている言葉に対する責任というものをまことに希薄にしか感じていないことが現れています。要するに、人間は弱いものなんだから、言葉の弾みということがある、それをいちいち追求されたらたまらん、という感覚です。あるいは、その場の状況や感情によって、心にもないことを言ってしまうことがあるではないか、それをそんなに大問題にするなよ、という思いです。しかし主イエスはここで、まさに私たちのそのような思いに対して、「そうではない」と言っておられるのです。36節に、「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる」とあるのはそういうことです。私たちが、普段何気なく、大して考えもせずに語っている言葉の一つ一つが、神様の前でその責任を問われるのです。神様は、その一つ一つの言葉を、決してどうでもよい、ささいなこととはお考えにならないのです。何故ならば、そういう一つ一つの言葉によって、神様と私たちとの、そしてまた私たちと隣人との関係が築かれていくからです。隣人との関係において私たちがしばしば体験するのは、ほんのささいな一言によって、お互いに傷つけ合い、相手を殺すようなことをしてしまうということです。語った方は、何の気なしに言ったのであって、「そんなこと言ったかな」と覚えてすらいないようなことが、相手にとっては深い傷となっていて、「あの人のあの一言は一生忘れない」なんて思われていることがあるのです。言葉というのはそれほどに重いものなのであり、「言葉ぐらい」などと軽く見ることは決してできないのです。「あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる」。この主イエスのお言葉は、私たちの人間関係にそのままあてはまるのです。そして同じことが、私たちと神様との関係においても起こるのです。

 主イエスがこのような教えを語っていかれるきっかけとなったのは、先週の礼拝において読みました22節以下の、「ベルゼブル論争」と呼ばれている話です。主イエスが、目が見えず口の利けなかった人から悪霊を追い出し、その人を癒された、そのみ業を見たファリサイ派の人々が、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言ったのです。つまり彼らは、主イエスの癒しのみ業を、聖霊の力による神様の救いのみ業ではなく、悪霊の働きだと言ったのです。この彼らの言葉に対して主イエスは、31、32節を語られました。「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、"霊"に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」。「霊」に対する冒涜、聖霊に言い逆らう罪とは、彼らファリサイ派の人々の言葉を指していることは明らかです。彼らは主イエスの癒しのみ業を悪霊の働きとすることによって、主イエスに働いている神の霊を冒涜し、聖霊に言い逆らっているのです。そのような罪はこの世でも後の世でも赦されることがない、とは大変厳しい言葉ですが、それは、神様はそれほどに人間の言葉を重視し、語られた言葉への責任を問おうとしておられるということを示しています。何故神様がそうなさるかというと、先ほども申しましたように、そのような一つ一つの言葉によって、神様と人間との関係が具体的に築かれていくからです。主イエスの癒しの業を悪霊の力によることと言ってしまう時、それによって、その人と神様との関係がある方向へと築かれていきます。この場合にはそれは築き上げられると言うよりも、むしろ突き崩され、破壊されていくわけです。このように、私たちと神様との関係、即ち信仰は、主イエスに関して私たちが語る一つ一つの言葉によって築き上げられたり、突き崩されたりするのです。それは私たちの人間関係が、私たちの一つ一つの言葉によって築かれたり破壊されたりするのと同じです。どのような言葉を語るかによって、神様との関係も定まっていくのです。言葉にはそういう重大な意味があるのだ、ということを、私たちは自覚しなければなりません。私たちは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされるのです。

 しかしそうであるならば、私たちはもう不用意に言葉を語ることはできなくなるのではないでしょうか。自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日に責任を問われるならば、もう私たちは一言も語ることはできない、ただ黙っているしかない、そう思うのです。そうなったら、この世界は何と静かな、そして暗い、殺伐としたものになることでしょうか。何も言わなければ、確かに、不用意な言葉で人を傷つけることは起こらない、けれどもそれはむしろ、交わりそのものが成り立たないということです。主イエスはそういうことを私たちに望んでおられるのでしょうか。そうではないはずです。主イエスは、私たちが言葉を失ってしまうためではなく、むしろ良い言葉を積極的に語っていく者となるために、つまり私たちが自分の言葉によって義とされていくようになるために、この教えを語っておられるのです。良い言葉を積極的に語っていく、そのためには何が必要なのでしょうか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのです。良い言葉は、良い心から出てきます。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出すのです。ですから私たちが良い言葉を語るためには、私たちの心が、良いもので満たされていけばよいのです。心の中に良いものがないのに、言葉だけ良いものにしようとしても、それはとってつけたようなものにしかならないのです。

 しかし、心が良いもので満たされるとはどういうことでしょうか。私たちが、心の中にもう悪い思いを持たなくなる、憎しみや、恨みや、嫉妬や、そういう心がなくなって、親切な、やさしい、好意的な思いだけを持つようになる、ということでしょうか。だとしたら、私たちがそんな仏様みたいな心になることは、一生かかったって絶対ないのです。主イエスは、私たちにそういうことを求めておられるのではありません。それでは主イエスは私たちの心にどういう良いものが満たされることを願っておられるのでしょうか。そのことを教えてくれるのが、31、32節です。先週の礼拝においては、32節までを読みました。そして本日は31節からを読みました。つまり31、32節は、先週と今日と、重複して読まれているのです。それだけ、ここは大事なところだと思います。33節以下を理解するための鍵もここにあると思うのです。ここに語られているのは、聖霊に言い逆らう罪は赦されることがないという、一見厳しい、恐ろしいみ言葉です。しかし先週の説教でも申しましたが、ここで私たちがしっかりと読み取らなければならないのは、「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される」「人の子に言い逆らう者は赦される」というみ言葉です。どんな罪や冒涜も、主イエス・キリストに言い逆らう罪すらも、神様は赦して下さる、と言っているのです。ただ、霊に対する冒涜、聖霊に言い逆らう罪は赦されない、それは、先ほど申しましたように、主イエス・キリストに、神様の霊、聖霊が働いていて下さり、主イエスによって、神様の救いのみ業、私たちの罪の贖い、赦しのみ業が成し遂げられている、ということを否定してしまうこと、それを悪霊の働きにしてしまうことです。そのように、主イエスによる神様の赦しの恵みを否定してしまったら、そこには赦しはない。しかしそれは逆に言えば、このことだけをしっかりと信じ、受け入れるならば、私たちのいかなる罪も赦されるということです。どんな罪も冒涜も、主イエスに言い逆らうことすらも赦される、その赦しの恵みの根拠が、主イエスにおける聖霊の働きにあるのです。このことこそ、主イエスが私たちの心に満たされることを願っておられる良いものです。私たちは、自分の心を、自分の良い思い、立派な考え、善良な性格で満たそうと思ってもそれはできないのです。何故なら私たちはもともと悪い人間だからです。蝮の子らと呼ばれるしかない者だからです。その私たちの心が良いもので満たされるためには、私たちはそれを外から、神様からいただかなければなりません。神様が、独り子イエス・キリストによって、その十字架の死と復活とによって、私たちの全ての罪を赦して下さり、その主イエスを信じる信仰によって私たちを義として下さる、救って下さる、その恵みをいただくことしか、私たちの心が良いもので満たされることはないのです。そしてこの良いもので心が満たされる時に、私たちは、神様に対しても隣人に対しても、良い言葉を積極的に語っていくことができるようになるのです。

 神様に対して良い言葉を語る、それは、主イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んで下さり、それによって私たちの罪を赦し、新しく生かして下さる、その恵みを信じて受け入れ、感謝し、神様をほめたたえることです。礼拝において、また様々な教会の集会において、そしてそれぞれの日々の祈りにおいて、そういう言葉を神様に対して語っていくことによって、私たちと神様との関係、交わりが築き上げられていくのです。隣人に対して良い言葉を語ること、それは、自分も、隣人も、共に主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みの下に置かれていることを信じる時にこそできることです。私たちはお互いに罪を持っており、そのために傷つけ合い、行き違いを生じてしまう者です。そういうことを乗り越えて、お互いの交わりを築き上げていくことができる言葉は、単なる人間の善意や好意からは生まれません。自分の罪も、隣人の罪も、共に主イエスが赦して下さっていることを信じ、主イエスが自分を赦して受け入れて下さっているように、自分も隣人を赦し受け入れていくことによってこそ、お互いの罪を乗り越えて、交わりを築き上げる言葉を語り合うことができるのです。

 そのような良い言葉を求めつつも、私たちはなお、悪い言葉、神様を冒涜し、主イエスに言い逆らい、隣人を傷つける言葉を語ってしまう者です。しかし大事なことは、その都度、主イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しの恵みに立ち戻ることです。今私たち一人一人にも、聖霊が働きかけていて下さり、私たちを主イエスによる罪の赦しの恵みにあずからせて下さる、その聖霊のお働きを信じることです。それによって、あの「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される」「人の子に言い逆らう者は赦される」という恵みが、私たちにも与えられるのです。そしてその恵みの下で、私たちは、安心して、大胆に、言葉を語っていくことができるのです。不用意なことを言って罪を犯してしまってはいけない、とびくびくして、言葉を失っていくことが主イエスのみ心なのではありません。主イエスは私たちに、主イエスによる罪の赦しに信頼して、大胆に、積極的に、神様と隣人に向かって語りかけることを求めておられます。この主イエスの促しの下で、より良い言葉を語り、神様と隣人との交わりを築き上げていきたいのです。そこには、「自分の言葉によって義とされる」歩みが与えられるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2001年11月11日]

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