富山鹿島町教会

礼拝説教

「安息日の主」
ホセア書 第6章4〜6節
マタイによる福音書 第12章1〜8節

 礼拝において、マタイによる福音書を連続して読んでまいりまして、本日から第12章に入ります。この12章にどのようなことが語られているのか、それを最初におおざっぱにまとめてみますと、ここには、イスラエルの民の信仰的指導者であったファリサイ派の人々が、主イエスへの敵意、敵対を深めていき、なんとかしてイエスを殺してしまおうという相談を始める、ということが語られているのです。主イエスが、神様の恵みのご支配の到来を告げる福音を語り、その恵みの現れである癒しの業、奇跡を行っていくにつれて、イスラエルの人々の間に、特にその指導者たちの中に、主イエスに対する敵意が深まっていくのです。そのことは既に11章でも語られ始めていました。主イエスが福音を宣べ伝え、数多くの奇跡を行われたのに、それを見たガリラヤの町々の人々が悔い改めようとしない、むしろ主イエスに対して、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言っていることが語られていたのです。そのような無理解と敵対が、宗教的指導者であるファリサイ派の人々においてとりわけ深まっていくことが12章に語られていくのです。

 そのような対立の原因となったいくつかのことが語られていくわけですが、その第一の点としてあげられているのは、安息日をめぐる問題です。主イエスやその弟子たちが、安息日にしていることに対して、ファリサイ派の人々は、それは神様の掟、律法に違反していると言って批判、攻撃しているのです。本日のところで問題にされているのは、主イエスの一行が安息日に麦畑の中を通った時に、弟子たちが、その穂を摘んで食べたということです。ファリサイ派の人々はこれを見て、「安息日にしてはならないことをしている」と言ったのです。

 このことは、どういう意味で律法の違反と言われているのでしょうか。ファリサイ派の人々は何を問題にしているのでしょうか。他人の麦畑で勝手に穂を摘んで食べるのはいけない、ということではありません。それは律法で許されていることでした。律法は、空腹な人は、他人の畑になっているものを自由に食べてよいと語っています。ただしそれはその場で自分の腹を満たすためだけに限られており、例えばそこに袋を持ってきてそれに詰め込んで持ち帰ったりしてはいけないと定められていたのです。この掟は、畑を持っている者は、持たない貧しい人が生きていけるように支えていくのだ、という精神を土台としています。同じ精神によって、麦畑で収穫をした後、そこに残された落穂は貧しい人のために残しておかなければならない、という掟もありました。旧約聖書の律法は、そのように、弱者への配慮に満ちた教えだったのです。ですから、他人の麦を食べたことが問題なのではありません。それでは何がいけないと言われているのかというと、麦の穂を摘んで、殻を取って実を食べることが、「収穫」あるいは「脱穀」という「仕事」にあたるからです。それは安息日にしてはいけないことだ、安息日には、一切の仕事を休まなければならないと律法に定められている、というのが、ファリサイ派の人々の主張なのです。  このことは私たちには理解しかねる、こっけいなことに感じられますが、イスラエルの人々にとっては深刻な、重大な問題でした。律法の中心である十戒の中に「安息日を覚えてこれを聖とせよ」とあります。それに続いて、この日には一切仕事をしてはならないと語られています。神様から与えられた掟を守ることによって神の民であることができると考えたイスラエルの人々は、この掟を真剣に守ろうとしました。ユダヤ人の歴史を読むと、戦争のさ中に、敵が攻めてきたが安息日だったので戦わずに全滅したという話が出てきます。命を守ることよりも律法を守ることの方を大事にする、という信仰の伝統があるのです。そういう信仰はキリスト教にも受け継がれています。キリスト教においては、安息日はユダヤ人たちとは違って、週の初めの日である日曜日です。主イエス・キリストの復活の記念日である日曜日を安息日としたのです。この主の日には、仕事は勿論、遊びや娯楽に類することはしない、という伝統が、キリスト教の一部にはあります。「炎のランナー」という映画をご覧になった方も多いでしょう。オリンピックの選手に選ばれながら、日曜日の試合を辞退した人の話です。そういうことは何十年も前の話だと思っていたら、つい数年前にも、ジョナサン・エドワーズという走り幅跳びの選手が、日曜日の試合を辞退したということが話題になりました。そういう信仰の伝統が一部では脈々と受け継がれているのです。イスラエルの人々に話を戻せば、彼らはこの安息日の掟を守るために様々なことを考えました。どこまでのことは安息日にもしてよいか、どこから先は仕事に当りしてはいけないか、という細々とした規則を作ったのです。そしてその規則においては、麦の穂を摘んで殻を取ることは仕事に当るとされていたのです。

 「あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」という批判に対して、主イエスは、旧約聖書の故事を引いて答えていかれました。第一に引かれたのは、「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか」ということです。これは、サムエル記上の第21章に語られている話です。後にイスラエルの最も偉大な王となったダビデの話ですが、この時はまだ、サウル王に命をねらわれて逃げていたのです。その逃亡の途中で、ノブという町の聖所の祭司アヒメレクのところに身を寄せ、そこで、祭壇に供えられていて、そこから下げられてきた供えのパンで空腹を満たしたのです。そのパンは本来、祭司たちだけが食べることを許されているものでした。また、その日は、丁度祭壇のパンを供え変える日だったとあります。それは安息日でした。つまりダビデと供の者は、安息日に、祭司たちしか食べてはいけないはずのパンを食べたのです。しかし聖書はそのことをダビデの罪としてはいませんし、神様もそのことでダビデにお怒りになってはいません。むしろ神様はそのようにしてダビデを苦境から救って下さり、王となる道を導いて下さったのです。この故事を示すことによって主イエスは、安息日にその掟を破って腹を満たすということは偉大な王ダビデもしている、そういうことはあってもよいのだと言っておられるのです。けれども、このことだけでは、主イエスが本当に言おうとしておられることが語り尽くされてはいません。ファリサイ派の人々も、勿論このダビデの故事のことはよく知っているのです。そして彼らはこのことを、「ダビデと供の者たちは空腹で命の危機のもとにあった、そういう場合は特例として安息日の規定が適用されない」と説明していたのです。命の危機においては、安息日の掟も例外を認められる、命にかかわる怪我人を救出したり治療することはできる、という理解です。昔はそれこそ先ほど申しましたように、殺されても安息日を守るということもありました。しかしそれではイスラエルの民全体が滅ぼされてしまう。それで、もっと合理的な考え方をするようになったのです。その論理で弟子たちの行為を弁明するとなると、弟子たちは空腹で倒れそうだったのだ、そういう場合には安息日の掟の例外として認められるはずだ、ということになります。しかし主イエスがここで語ろうとしておられるのはそういうことではないのです。そのことを明らかにするために、さらに次のことが語られていきます。それは次の5節の、「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか」ということです。安息日に神殿にいる祭司は安息日の掟を破る、それはつまり、安息日に神殿で神様への捧げ物が捧げられる、礼拝がなされる、そこにおいて祭司たちは、忙しく仕事をしている、ということです。動物の犠牲を捧げることを中心とする礼拝がなされていました。犠牲とする動物を引いていって、それを作法にのっとって屠殺し、血を抜き、解体してしかるべき部分を焼いて捧げるのです。それは言葉で言うと簡単ですが、ものすごい重労働です。祭司たちは安息日に、そういう大変な労働をしている、仕事をしているのです。日曜日に牧師が大変忙しい思いをして仕事をし、くたくたになる、というのと似ています。安息日が安息日として守られるために、このように忙しく働いている人もいるのです。それを主イエスは指摘しておられるわけですが、そのことは弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べることとどう結びつくのでしょうか。それは少し分かりにくいことです。直ちには結びつきません。そこで、その疑問は保留にしておいて、さらに次の6節へと読み進めていきたいと思います。「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある」。これはどういうことなのでしょうか。

 この6節は、前の口語訳聖書ではこうなっていました。「あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる」。「宮よりも大いなる者」の「者」は、人間を示す「若者、人気者」の「者」、医者の「者」という字が使われていました。つまり、宮、神殿よりも偉大な人物がここにいる、というのが口語訳の理解です。それに対してこの新共同訳は、「神殿よりも偉大なものがここにある」、それは人間を想定していない訳し方です。この違いは翻訳のもとになっている原文の違いからくるもので、少し文法的なことを申しますと、この「偉大なもの」という言葉は、写本によって、男性形で書かれているものと、中性形で書かれているものとがあるのです。男性形で訳せば、口語訳のように「偉大な者がいる」という人間を示す訳になるし、中性形で訳せば、新共同訳のように「偉大なものがある」となるのです。そして現在では、この中性形で読む方が主流になっています。男性形で、「宮よりも大いなる者がここにいる」と訳せば、それは当然主イエス・キリストのことを言っていることになります。そしてそれなら、主イエスは神殿よりも偉大な方だ、神殿の犠牲のために安息日の掟が破られてよいなら、より偉大な方である主イエスのもとでは、なおさらそうではないか、ということが語られていることになり、一つのすじが通ることになります。しかし中性形で、「神殿よりも偉大なものがここにある」と訳す場合にはどうなるのでしょうか。「神殿よりも偉大なもの」とは何なのでしょうか。  そのことが、次の7節に語られているのです。「もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう」。主イエスはここで、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という旧約聖書の言葉を引用しておられます。それは、本日共に読まれたホセア書第6章6節の言葉です。「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」。「いけにえ」とか「焼き尽くす献げ物」は、神殿において捧げられる犠牲です。神様が本当に求めておられるのは、そういうものではなくて、愛、憐れみなのだということをこのみ言葉は語っています。それこそが、「神殿よりも偉大なもの」です。つまり「神殿よりも偉大なもの」とは、「憐れみ」なのです。そうするとここの論旨はこうなります。神殿の犠牲のために安息日の掟が破られてよいならば、それよりも偉大なものである憐れみのためにはなおさらではないか、憐れみの心こそ、犠牲をささげることに優って神様が求めておられることなのだ。主イエスはそのように言っておられるのです。

 しかしそこで私たちは勘違いをしてはなりません。神殿で犠牲をささげることよりも、憐れみの心の方が大事だと主イエスは言っておられる、それは、犠牲をささげて神様を礼拝することよりも、憐れみの心を持って人に親切にし、人のために奉仕することが大事なのだ、ということではありません。神殿で犠牲をささげることと、安息日の掟を守って一切の労働を休むこととは結びついているわけですが、弟子たちは、それをちゃんとしていない、掟を守っていないと批判されています。それでは彼らは、安息日の掟に従って休むことや、神殿の犠牲をささげることをせずに、その代わりにもっと大事な、人々への憐れみの業、人々に仕える働きをしていたのかというと、そうではないのです。彼らがしていたのはそういうことではなくて、空腹だったので麦の穂を摘んで食べたということです。それは人のための憐れみの業なんかではない、むしろ自分のためのこと、自分の空腹を満たすことです。ですから主イエスが言っておられることは、私の弟子たちは確かに安息日の掟を十分に守っていないかもしれないが、それよりも大事な、憐れみの業をしているのだからそれでいいのだ、そのことの方が大事なのだ、ということではないのです。それでは何故ここに、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という言葉が語られるのか。それは、ここで見つめられている「憐れみ」が、私たちが誰かに対して憐れみの心を持つことではなくて、神様が私たちに対して憐れみのみ心をもって接して下さる、ということとして語られているからです。「神殿よりも偉大なもの」とは憐れみの心です。しかしそれは、私たちが誰かに抱く憐れみの心ではなく、神様が私たちに対して抱いてくださる憐れみのみ心なのです。その憐れみのみ心の方が、いけにえを求める心よりも大きいのだということを、主イエスは語っておられるのです。だからこそ、空腹になった弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べることは、神様にとって何の問題でもないのです。むしろ弟子たちが、今日は安息日だから休まなければといって、空腹のままでいることは、神様の憐れみのみ心に反するのです。ダビデの話もそうです。ダビデが安息日に、祭司しか食べてはいけないはずのパンを食べた、それは神様にとって、まあ命にかかわる緊急の場合だから仕方ない許してやろう、というようなことではなくて、むしろ神様ご自身が、供えのパンを与えてダビデと供の者たちを支えて下さった、その空腹を満たして下さった、そういう神様の憐れみのみ心によることだったのです。神様にとっては、安息日が掟に従って守られ、神殿での犠牲が正しくささげられることよりも、この神様の憐れみのみ心によって人々が守られ、力を与えられ、励まされ、本当の平安の内に生かされていくことこそが大切なのです。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」というみ言葉の意味はそこにこそあったのです。

 ファリサイ派の人々は、そのことがわかっていませんでした。神様の憐れみのみ心を見ずに、ただ安息日の掟を正しく守ることしか考えなかったのです。安息日にはああいうことをしてはいけない、こういうことをしてはいけない、ということばかりを考えていて、それが神様に正しく従うことだと錯覚していたのです。しかし神様に正しく従うとは、神様のみ心を本当に知り、それを受け止めることです。安息日をお定めになった神様の本当のみ心は、人々が神様の憐れみのみ心、恵みのみ心の中で憩い、喜びとまことの安らぎを与えられ、新しく生きる力を与えられることなのです。そのみ心を見つめるのではなく、掟を正しく守ることしか考えない彼らが陥ったのは、7節の主イエスのお言葉にあるように、「罪もない人たちをとがめる」ことでした。掟を守ることによって正しい者になる、と考えている人は、掟をきちんと守っていないと思われる人を批判し、とがめるようになるのです。しかしその人たちは、「罪もない人たち」です。それは、掟に基づいて罪がないということではなくて、神様の目から見てということです。神様がその憐れみのみ心の中に受け入れ、はぐくみ、守っておられる、その人々を、彼らはとがめ、神様がそうしてはおられないのに、罪に定めてしまっているのです。このファリサイ派の人々の姿は、決して他人事ではありません。私たちはしばしば、こういう過ちに陥ります。そして罪もない人たちをとがめるようなことをしてしまうのです。それは、神様のみ心を本当にわきまえるのでなく、自分が思っている、自分の考えによる神様のみ心を絶対化してしまうから起こることです。私は神様のみ心がわかっている、と思うことほど危険なことはありません。そういう時にこそ、私たちは恐ろしい過ちを犯すのです。人を傷つけ殺しても平気でいるようになってしまうのです。このたびのテロ事件も結局そういう思いから引き起こされたことです。自分は神に従っている、反対する者は全て神の敵であり、それらの者を殺すことで自分は神に仕える正しいことをしている、そう思ってしまうと、人間はどんな恐ろしいテロ行為でも平気でしてしまうのです。先週の日曜日から、そのテロに対する戦いと称して、アメリカ・イギリス軍による攻撃が開始されました。しかしそれをしている側も、同じ過ちに陥ってはいないだろうか。テロに対する戦いは正しい、これは正義と悪の戦いだ、これに協力しない者は正義の敵だ、という主張がなされ、その攻撃によって罪もない人々がまきぞえになって傷つき、殺されていく、それはテロリストたちと同じ罪を犯していることになるのではないでしょうか。

 「もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう」。このみ言葉を私たちはしっかり噛み締めたいと思います。神様の本当のみ心は、そして神様が本当に願い求めておられることは、憐れみなのです。そのことは、神様がその独り子であられる主イエスをこの世に、人間としてお遣わしになり、その主イエスが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことにおいて明らかに示されています。「掟をちゃんと守って正しく生きよ」ということが神様のみ心ならば、主イエスが人間としてお生まれになることも、十字架にかかることも必要なかったのです。自分の力で正しく生きることができない、本当に神と人とを愛して生きることのできない私たち人間のために、神様はその独り子を遣わして下さり、その独り子の命を与えることによって、私たちの罪を赦して下さったのです。その憐れみのみ心こそ、神様の本当のみ心、み心の中心です。主イエス・キリストによって、その神様の憐れみのみ心を知り、そのみ心によって守られ、生かされ、養われていくことが、私たちに求められている信仰なのです。

 最後の8節に「人の子は安息日の主なのである」とあります。人の子とは主イエスがご自身を言う言葉です。主イエスは安息日の主であられる。それは、主イエスによって示し与えられている神様の憐れみのみ心によって守られ、生かされ、養われていくところにこそ、まことの安息があるということです。主イエスこそ、私たちに本当の安息を与えて下さる方、私たちを本当に休ませて下さる方なのです。そのことは、先週、そして先々週に読んだ、11章25節以下とつながります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と主イエスは言われました。主イエス・キリストが、私たちにまことの安らぎを与えて下さる方であられることを私たちは聞いてきたのです。それは言い換えれば、主イエスによってこそ、私たちの安息日が本当に安息日となる、ということです。掟を守って正しい者となろうという思いに支配されて、自分は正しいと思い込み、罪もない人たちをとがめていくような所には、本当の安息日はありません。本当の安息日は、安息日の主イエス・キリストによって示されている、神様の憐れみのみ心の中に自分が置かれていることを知るところにこそあるのです。この神様の憐れみのみ心へと、主イエス・キリストが、私たちを招いていて下さるのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という招きはそういう意味を持っているのです。私たちを神様の憐れみのみ心のもとへと招いて下さる主イエス・キリストこそ、安息日の主であり、この主のもとにこそ、まことの安息があるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2001年10月14日]

メッセージ へもどる。