富山鹿島町教会

礼拝説教

「まことの安らぎを求めて(2)」
詩編 第8編1〜10節
マタイによる福音書 第11章25〜30節

 先週の伝道礼拝に引き続いて、「まことの安らぎを求めて」と題して、マタイによる福音書第11章25節以下からみ言葉に聞いていきたいと思います。先週は、28節以下の主イエスのみ言葉に集中して聞きました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というみ言葉です。様々な重荷を負って疲れている私たちに、主イエスが、休みを、まことの安らぎを与えて下さる、そして力づけ、元気づけて下さる、そういうみ言葉を共に聞いたのです。本日は、先週触れなかった所、25節から27節にまず目を向けていきたいと思います。28節以下のまことの安らぎへの招きは、この部分に続いて語られているのです。25〜27節がその前提にあるのです。ここを読むことによって、主イエスが私たちに与えて下さるまことの安らぎとはどのようなものであるかが、よりはっきりと見えてくるのです。

 25節の冒頭に、「そのとき」とあります。これは何気なく読み過ごしてしまいがちな言葉ですが、原文を読んでみますと、「そのとき」と訳されているこの言葉に四つの単語が使われています。話のつなぎ目に使われる言葉にはもっと簡単なものもあって、たとえば20節の始めに「それから」とあるのは一つの単語です。それと同じ言葉を使って簡単につなげることもできたはずなのですが、25節ではわざわざ四つの単語を費やしています。そしてその意味は「そのとき」あるいは「そのころ」です。12章の1節に「そのころ」とあるのも、25節と同じ四つの単語からなる言葉です。このことが示しているのは、この25〜30節の部分は、かなり意識して、丁寧な語り方で、前後の部分と結びつけられているということです。つまりこの部分は、イエス様はいろいろなことを教えたりいろいろなみ業をなさったが、その中にはこんなみ言葉もあった、とただ羅列されているだけではないのです。25〜30節は、そこだけを取り出して読むのでなく、前後のつながり、脈絡をきちんと捉えて読まなければならないのです。

 25節には、そのことを裏付けるもう一つのことがあります。「そのとき、イエスはこう言われた」とありますが、原文には、この翻訳に現れていないもう一つの言葉があるのです。それを含めて訳せばこうなります。「そのとき、イエスは答えて言われた」。「答えて」という言葉が原文にはあるのです。しかしその前のところに主イエスに対する何らかの問いが語られているわけではありません。だから「答えて」としてしまうと話がつながらなくなるということで訳されていないわけですが、しかしこの言葉も、その前のところと25節以下とのつながりを示す大事な印です。問いに対する答えという意味ではないけれども、その前の所に語られていることへの応答として、主イエスは25節以下のみ言葉を語られたのだということが意識されているのです。それではその前の所にはどのようなことが語られていたのでしょうか。

 すぐ前の所、20節以下には、主イエスが教えを語り、数々の奇跡を行われたのに悔い改めなかったガリラヤの町々への主イエスのお叱りの言葉が語られていました。この町々は、主イエスのみ言葉やみ業を受け止めようとしなかったのです。さらにその前のところには、主イエスが伝道を開始される前にその道備えとして現れた洗礼者ヨハネのことも、人々が受け入れようとしなかったことが語られています。このように、神様が人々を救うために遣わされた主イエスをも、またその主イエスの先駆けとなったヨハネをも、人々が受け入れない、その語ることをちゃんと聞こうとしない、という現実が見つめられてきたのです。そのことへの応答として、25節以下のみ言葉は語られているのです。また、この部分の次の12章にも、同じようなことが語られていきます。今度はファリサイ派の人々が、主イエスのなさることを批判してくるのです。そして12章14節には、早くも彼らが主イエスを殺そうと相談したことが語られています。主イエスのみ言葉とみ業を、人々は受け入れず、悔い改めようとしない、そればかりか、むしろ主イエスを批判、攻撃し、殺そうとする動きが起こってくる、そのような流れがこのあたりには語られているのです。そしてその流れの中に25〜30節の安らぎへの招きが語られています。それは前後の暗い、敵対的な話の中で、唯一明るい、ほっとするようなみ言葉です。しかしそれはこの部分だけが暗い現実から切り離された別の世界のこととして語られているのではなくて、「そのとき、そのころ」という言葉によって現実にしっかりと結びつけられて語られているのです。

 ご自身のみ言葉やみ業が受け入れられず、敵対が深まっていく、その現実への応答として、主イエスは何を語られたのでしょうか。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」、これがその言葉です。主イエスは、天の父なる神様をほめたたえたのです。讃美なさったのです。それは、どんな逆境にあっても神様を讃美することを忘れてはならない、などという話ではありません。主イエスには父なる神様を讃美する理由がちゃんとあるのです。それは「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」ということです。「これらのこと」というのは、主イエスがお語りになり、み業をもって示された神の国の福音、神様の恵みのご支配が今や到来しようとしている、悔い改めて神様の方に向き直り、その恵みを受ける備えをせよ、というメッセージです。それが知恵ある者や賢い者には隠され、幼子のような者に示された、そういう父なる神様のみ業が今行われている、と主イエスは言っておられるのです。多くの人々が悔い改めようとせず、敵対しようとしている、その現実を主イエスはそのように見ておられるのです。そこには、天地の主である父なる神様のみ業が働いている、神様ご自身が、神の国の福音をある者たちには隠して、わからなくしておられる、そしてある者たちにはそれを示し、わからせて下さっているのです。

 神の国の福音が隠され、それをわからなくされている者たちが「知恵ある者や賢い者」であることが注目に値します。主イエスのみ言葉を受け入れずに敵対していく者たちは、決して愚かな人々ではないのです。むしろこの世において知恵のある、賢い人々です。み言葉を受け入れず、信じようとしない人は、愚かだからそうするのではないのです。むしろ知恵があり、賢い人の方が、主イエスを受け入れようとしないのです。逆に神の国の福音を示され、悔い改めて信じた人は「幼子のような者」と言われています。それは、「幼子のように素直で純粋な者」という意味ではありません。これは、「知恵ある者や賢い者」との対照で用いられている言葉です。ですからそれは「素直で純粋」というような褒め言葉ではなくて、「知恵がない、賢くない」ということです。弱く愚かなと言ってもいいでしょう。本日共に読まれた旧約聖書の箇所である詩編第8編の2節から3節にかけてのところに、「天に輝くあなたの威光をたたえます、幼子、乳飲み子の口によって」とありますが、その「幼子、乳飲み子」もそれと同じ意味で用いられています。つまり、あなたの威光をたたえるわたしの言葉は、幼子の片言に過ぎない、ということです。そういう弱く愚かな者にこそむしろ神の国の福音は示されたのです。このことを私たちは間違って受け止めてはなりません。これは、「だから頭のいい連中はだめなんだ。わたしらのような単純な人間の方が神様の恵みを素直に受け入れることができるんだ」ということではありません。そういう考え方というのは、裏返して言えば、「神様なんか信じるのは弱い愚かな人のすることで、理性的にものを考える人はそんなことはしない」と言っているのと同じことになります。ここに語られているのは、知恵ある者や賢い者と、幼子のように弱く愚かな者と、どちらがよいか、という話ではありません。そういうことではなくて、神様が隠されるなら、どんなに知恵ある賢い者も信じることはできないし、神様がお示しになるなら、どんなに幼い、あるいは弱く愚かな者でも信じることができる、ということです。つまり、私たちが神の国の福音を信じることができるかどうかは、私たちの側の力や資質や性格によるのではなく、神様がそれを示して下さるかどうかにかかっているのです。

 それでは、神様はどのようにして「これらのこと」を、つまり神の国の福音を私たちに示して下さるのでしょうか。そのことが、26節以下、特に27節に語られています。「そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」。「すべてのことは、父からわたしに任せられています」と主イエスは言っておられます。主イエスは、父なる神様から、全権を委任されてこの世に来られたのです。それは、主イエスと父なる神様の間には、子と父という関係があるからです。その関係は、「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」という関係です。主イエスが神の子であられることは、父であり、主イエスをこの世に遣わされた父なる神様のみがご存じなのです。また、神の子である主イエスは、ご自分の父であられる天地の主なる神様をはっきりと知っておられ、父なる神様のみ心をわきまえて、それを実現しようとしておられるのです。そのように父と一体であり、父からすべてのことを任せられている子である主イエスが、その委任された全権を用いてして下さること、それは、父なる神様を私たちに示すということです。それが、先ほどからの「神の国の福音を示す」こと、「これらのこと」を示すことなのです。つまり、父なる神様が「これらのこと」を私たちに示して下さる、それによって私たちが神様を信じることができるようになる、そのことは、神の子である主イエス・キリストを通して起こることなのです。父なる神様から私たちの心に直接何かの語りかけがあるのではありません。私たちが天地の主なる父を知り、信じることは、必ず、神の子である主イエス・キリストを通して起こるのです。

 そしてこのことこそ、神の国の福音が、知恵ある者や賢い者には隠され、幼子のような者に示された理由です。主イエス・キリストは、およそ二千年前に、ユダヤの地で三十数年といわれる生涯を生きた具体的な人です。その姿は他の人と特に変わってはいませんでした。誰が見ても「ああこの人は神の子であり救い主だ」とわかるような姿ではなかったのです。だからこそ、そのみ言葉やみ業を受け入れずに敵対する人々も出て来る、いや、そういう人々の方が多かったのです。この人が神の子、救い主だなんて普通には考えられないことだったのです。同じことは今日の私たちにも少し違う仕方で起こります。私たちは、イエス・キリストが普通の人たちとは違う、すばらしい教えを語り、力あるみ業を行った方であることは聖書を通して知らされ、宗教的な偉人の一人として主イエスを受け入れることはできるのです。しかし、すばらしい人物ではあるにせよ、二千年前の一人のユダヤ人の男を、神の子、救い主と信じることには躊躇を覚えるのです。そしてしばしばこう思うのです。「イエス・キリストの教えはすばらしい、キリストのなさった愛の業もすばらしい、しかしイエス・キリストという具体的な一人の人にこだわらなくてもよいのではないか、立派な教えを説いた人は他にもいるだろう。釈迦の教えにも聞くべきことがあるし、マホメットの教えにだってそれはあるだろう。だからキリストも釈迦もマホメットも、真理を証ししていたのであって、その中の一人を神にしてしまうのではなく、彼らが証しした真理そのものを信じるべきなのではないだろうか」。これがまさに、知恵ある者、賢い者の考えです。知恵ある者、賢い者は、そのように、神を抽象化していこうとします。二千年前とか、ユダヤ人とか、イエスという名とか、そういう具体性をどんどん剥ぎ取って、人類愛とか、自己犠牲の愛とか、そういう理念を神様として信じようとするのです。そういう考え方においては、イエス・キリストという具体的存在を神の子、救い主と信じることは、まさに幼子のような、無邪気だが幼稚なことに見えるのです。しかしそのように主イエス・キリストという具体的な神の子、救い主を通してではなく、直接に神を知り、信じようとするところでは、私たちは「天地の主である父」を知ることはできません。父を知る者は、子との交わりの中で、子によって父を示される者のみなのです。  28節の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というみ言葉はこのことを受けて語られています。今見てきた27節までのみ言葉を前提として読むと、「わたしのもとに来なさい」という招きの意味がはっきりとするのです。「わたし」とは、神の子であり、父なる神からすべてのことを任せられている主イエス、この方を通してこそ、父なる神を知ることができる、この方が示して下さらなければ、誰も父を知ることはできない、そういう方である主イエス・キリストです。その主イエスのもとに行くことによってこそ、様々な重荷に疲れ果てている私たちに、まことの休み、安らぎが与えられるのです。この主イエスのもとに行かなければ、つまり主イエスという具体的な神の子によってでなく、直接に神を知り、信じようとするところでは、まことの安らぎを得ることはできないのです。何故なら、私たち人間が自分の知恵や賢さで考える抽象化された理念としての神は、私たちに例えば隣人愛、自己犠牲の愛などという課題を新たな重荷として与えることはあっても、私たちが現に負っている様々な重荷を取り除いたり、そこに安らぎを与え、新しい力を与えたりすることはないからです。それに対して、主イエス・キリストという具体的な方のもとに来るとき、私たちは安らぎを与えられるのです。それは、主イエス・キリストが、この地上を、人間となった神の子として具体的に歩み、そして私たちのために、私たちの罪を背負って十字架にかかり、具体的な苦しみを受け、具体的に死んで下さったからです。父と一体であり、父からすべてのことを任されている方が、私たちのためにそこまで具体的に関わって下さり、苦しみと死を具体的に引き受けて下さったのです。この主イエス・キリストのもとで、私たちは、自分の重荷を本当に共に負っていて下さる方と出会い、安らぎを与えられるのです。主イエス・キリストは柔和で謙遜な方です。その柔和も謙遜も、最終的にはキリストの十字架の死へと帰結していくと先週お話ししました。「柔和さ」とか「謙遜さ」という理念は、私たちに本当の安らぎを与えはしないのです。「いつも柔和さを忘れず、謙遜に生きましょう」などという教えは、私たちにとって重荷でしかありません。まことの安らぎを与えてくれるのは、柔和さや謙遜さという理念ではなく、柔和で謙遜な主イエス・キリストという具体的な方です。その主イエスの具体的なお姿が、十字架の死において私たちに示されているのです。この主イエス・キリストのもとに来ること以外に、重荷を負って疲れている私たちのまことの安らぎはないのです。

 主イエスは、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすればあなたがたは安らぎを得られる」と言われました。軛を負うというのは、先週も申しましたように、不自由なことです。束縛を受け、自分の思い通りにはならないことです。主イエス・キリストという具体的な方を神の子、救い主と信じて生きることにはそういう不自由さ、ある束縛があります。それに対して、具体性を剥ぎ取った抽象的な理念における神を信じるなら、その時私たちは自由です。何の軛も負う必要がありません。私たちの頭の中の理念である神は自分の思いに従って自由に、どんなふうにでもすることができるし、都合の悪い時はひっこんでいてもらうこともできるのです。それはまことに自由で結構なことです。しかしその時私たちは、主イエスの軛を負わない代わりに、自分の人生の重荷の全てを自分一人で負わなければならなくなるのです。理念である神は、私たちの重荷を負ってはくれません。そしてこの世を生きる私たちの歩みには、様々な重荷もあれば、私たちをがんじがらめに縛りつける軛が他にいくらでもあります。主イエスという具体的な神の子から自由になることによって、私たちはそれらのこの世の力の奴隷となっていくのです。

 「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と主イエスは言われました。それは主イエス・キリストという具体的な神の子のもとに行き、その弟子となること、信仰者となることです。そのために私たちがしなければならないことは何でしょうか。何もありません。私たちが、知恵ある者や賢い者になることによってそれが実現するのでは勿論ないのです。あるいは、幼子のようになろうと努力することが必要なのかというと、そうでもありません。先ほど申しましたように、幼子のような、というみ言葉の意味は、幼子のように素直で純粋なということではないのです。要するに信仰者となることにおいて、私たちの側で満たすべき条件など何もないのです。神の国の福音は、父なる神様が示して下さることによってのみわかるものです。27節の言い方を用いれば、子であられる主イエスが父を示そうと思って下さった時に初めてわかるものです。つまり私たちの信仰そのものも、実は神様の賜物、神様が与えて下さるものなのです。それゆえに、今この礼拝に、信仰をもって集っている私たちは、主イエス・キリストが、私たちに父なる神様を示そうと決意して下さり、信仰へと導いて下さったことを感謝することができるのです。また今、信仰を求めて、主イエスによるまことの安らぎを求めてこの礼拝に集っておられる方々も、主イエス・キリストが、自分に父なる神様を示そうと既に決意しておられることを確信してよいのです。そうでなければ、皆さんがこうして教会の礼拝に参加するなどということは起っていないはずです。要するに今ここに集まっている私たちは一人残らず、子が父を示そうと思った者であり、これらのことを示された幼子のような者たちなのです。そこには、主イエスによる、神様の選びがあります。私たちは、主イエスによって選ばれて、父を知る者とされたのです。何故私たちが選ばれたのか、私たちの側には何の理由もありません。ただ神様が、主イエスが、多くの人々の中から私たちを選び出して、主イエス・キリストの父なる神様を知る者として下さったのです。この神様の選びと招きがあるから、私たちは、重荷を負って疲れた心と体をひきずって、主イエスのもとに行くことができるのです。そしてそこでまことの安らぎにあずかることができるのです。まことの安らぎは、主イエスの軛を負い、弟子になった人にご褒美として与えられるのではありません。それだったら、主イエスのもとに行くことも、その軛を負うことも、弟子、信仰者になることも、重荷でしかないでしょう。まことの安らぎは、神様が自分を選んで下さり、ご自身を示して下さり、その恵みによって生かして下さっていることを知ることにあります。自分の側にではなく神様の側に信仰と救いの根拠があると知らされることこそ、まことの安らぎです。その安らぎに生きるために、私たちは、主イエスのもとに行くのです。その軛を負い、弟子になるのです。そのこと自体が安らぎだからです。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」というのはそういうことでしょう。主イエスの軛を負い、主イエスの荷を負うことにこそ、まことの安らぎがあるのです。

 本日は世界聖餐日です。これから聖餐にあずかります。聖餐は、神様の独り子イエス・キリストが、具体的な人間となってこの世に来て下さり、私たちのために十字架にかかって具体的な苦しみを受け、具体的に死んで下さったことを覚え、私たちも具体的なこの体をもってその恵みを味わうために定められているものです。私たちは礼拝に集い、み言葉と聖餐において主イエス・キリストの具体的な恵みをいただき、天地の主である父なる神様をほめたたえつつ、主イエスの軛を負い、与えられた荷を背負って生きるのです。そこに、私たちのまことの安らぎがあるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2001年10月7日]

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