富山鹿島町教会

礼拝説教

「現れるはずのエリヤ」
マラキ書 第3章19〜24節
マタイによる福音書 第11章7〜15節

 本日与えられている聖書の箇所、マタイ福音書第11章の7節に、「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか」とあります。次の8節にも、「では、何を見に行ったのか」とあります。そのように主イエスが人々に問うておられるのです。これはそのまま私たちに対する問いでもあります。私たちは今、何を見にここに集まっているのでしょうか。教会の主の日の礼拝に集まって、私たちが見るものは何なのでしょうか。見るというのは肉体の目で見るだけではありません。心の目で、あるいは信仰の目で、私たちは何をここで見るのでしょうか。その問いを心に留めつつ、本日の箇所を読んでいきたいと思います。

 本日の箇所の冒頭に「ヨハネの弟子たちが帰ると」とあります。このヨハネは、いわゆる洗礼者ヨハネです。彼は、主イエスが現れる前に、荒れ野で「天の国は近づいた」と宣べ伝え、人々に悔い改めを求め、悔い改めの印としての洗礼を授けていた人です。そのことは3章に語られていましたが、その11節にあるように、彼は、自分の後から、自分よりも優れた方がおいでになる、自分はその方の言わば露払いを務めているに過ぎないと言っていたのです。そのように彼は、来るべき救い主の先駆けとなった人でした。そのヨハネは今、11章2節にあるように獄中にいます。時の支配者ヘロデの怒りをかって捕えられていたのです。主イエスが活動を始められたのは、このヨハネが捕えられてからでした。ヨハネは獄中で主イエスのことを聞き、自分の弟子たちを遣わして、「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と問わせたのです。主イエスはこの問いに対して、「そうだ」とも「違う」ともお答えにはならず、自分が行っている業と、それによって起っていることをヨハネに伝えよとだけ言われました。そして最後に、「わたしにつまずかない人は幸いである」と言われたのです。これは、突き放したような答えです。私が来たるべき救い主であるかどうかは、私が答えることではなくて、あなた自身が自分で判断することだ、あなたは私を誰だと思うのか、と主イエスは逆にヨハネに問いを投げかけられたのです。このことを前回、8月12日の礼拝において読みました。本日のところはそのヨハネの弟子たちが帰った後のことです。主イエスは今度は群衆に対して、ヨハネについて語り始められたのです。そして、「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか」と言われたのです。

 多くの人々が、洗礼者ヨハネの言葉を聞き、彼から洗礼を受けるために荒れ野へ行きました。彼らが荒れ野へ見に行ったのは、洗礼者ヨハネだったのです。しかしその洗礼者ヨハネのもとで、あなたがたは何を見たのか、それが主イエスの問いです。まさか荒れ野に、風にそよぐ葦を見に行ったわけではなかろう、しなやかな服を着た人を見に行ったわけでもなかろう。ヨハネは、らくだの毛衣を着、革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていたとあります。しなやかな服を着て王宮にいる人々とは正反対の生活をしていたのです。そういうヨハネのもとをあなたがたは訪ねて行った、それは何を見るためか。その問いに主イエスはご自分で答えていかれます。9節です。「では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である」。あなたがたは、預言者を見に、荒れ野のヨハネのもとへ行ったのだ。預言者というのは、神様のみ言葉を人々に伝える者です。その人を見に荒れ野へ行った、それは、ただ見るためというよりも、その人から、神様のみ言葉を聞くために行ったということです。あなたがたは、ヨハネという預言者に会い、彼から神様のみ言葉を聞こうとして荒れ野へ行った、そうだろう、と主イエスは言っておられるのです。

 それは今礼拝に集っている私たちとつながることであると言えるでしょう。私たちは荒れ野ではなくて教会堂に来ているわけですが、それはこの建物を見に来ているわけでもないし、牧師の顔を見に来ているわけでもありません。私たちはここに、神様のみ言葉を聞くために集まっているのです。荒れ野に、ヨハネに会いに行った人々と、礼拝に集っている私たちはその点で共通するものがあると言えるでしょう。そのように、神様のみ言葉を聞くために荒れ野のヨハネのもとに行った人々に主イエスは、「そうだ、あなたがたが会いに行ったヨハネは預言者だ。しかし、預言者以上の者でもあるのだ」とお語りになったのです。ヨハネは預言者であり、預言者以上の者でもある。それはどういうことなのでしょうか。

 預言者というのは、今も申しましたように、神様のみ言葉を語る人です。預言者によって私たちは、み言葉を聞きます。神様の教えを聞きます。それによって神様のみ心を知り、また神様が今自分に求めておられること、命じておられることを知ることができます。ヨハネに関して言えば、彼は「悔い改めよ、天の国は近づいた」と教え、人々に罪の悔い改めを求めました。自分の罪を知り、それを悔い改めて赦しを乞い、新しくなることを今神様は求めておられる、ということを人々はヨハネから教えられたのです。そしてその悔い改めの印として彼は洗礼を授けました。人々は、ヨハネのもとに来て洗礼を受けることによって、自分の罪を悔い改めて神様に赦していただき、新しくなろうとしたのです。そのようにして神様のみ心、教えに従おうとしたのです。預言者のもとに行くというのはそういうことです。神様のみ言葉を聞き、それを理解し、それに従っていく、そのために人々は預言者のもとに行くのです。

 しかし主イエスは、ヨハネは預言者以上の者であると言われました。それは、今申しました、預言者のもとへ行って人々がすること、そこで起ることより以上のことが、ヨハネのもとで起るということです。いったい何が起るのでしょうか。10節に「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ」とあります。ここで「あなた」と呼ばれている救い主のための道を準備させるために神様が使者を遣わす、その使者こそヨハネなのだと言われているのです。ヨハネが預言者以上の者であるとは、この使者であるということです。救い主が来られることを告げ、その道を備えるために遣わされた、それが、他の預言者たちとヨハネの違いだと主イエスは言われるのです。しかし、救い主が来る、ということを告げたのは何もヨハネが最初というわけではありません。ここに引用されているのは、本日共に読まれた旧約聖書の箇所であるマラキ書第3章の1節ですが、そのマラキを始めとして多くの預言者たちが、救い主の到来を告げていたのです。しかしそれらの預言者たちとヨハネとは決定的に違うと主イエスは言われます。預言者以上の者というのはそういうことです。どこが違うのか、それはヨハネが、やがて救い主が来ることを教えたというだけではなくて、今それが決定的に近づいていることを告げ、人々をその救い主との出会いのために備えさせたことです。ヨハネのもとに来た人々は、今まさに来たろうとしている救い主との対面に備えることを求められたのです。ということはつまり、ヨハネのもとに来た人々は、ただ神様のみ言葉を聞き、その教えを受けるということではすまないということです。教えを聞いて、それを理解して、そしてそれを自分の生活の中で少しでも実践していこう、その教えに従って生きていこう、そういうことではすまない何かが、ヨハネのもとでは起っているのです。その、ヨハネのもとで起っている特別なこと、それまでの預言者たちのもとでは起らなかったことを描いているのが、12節です。「彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」。これはとても意味がとりにくい文章で、昔からいろいろに解釈されてきました。しかし明らかなことは、洗礼者ヨハネにおいて新しく起っていることを語っている言葉だということです。ヨハネの登場によって、何が新しく起っているのか。難しいのは、「襲う」という言葉の意味です。天の国が襲われ、奪い取られようとしている、と言われています。それは最も自然には、天の国が敵による攻撃を受けていると読めるでしょう。ヨハネも今そういう敵の攻撃によって捕えられ、牢獄に入れられているのです。しかしその読み方だと、敵が天の国を滅ぼそうとしているということになるわけですが、ここにある「奪い取ろうとしている」という言葉はそういう意味ではなくて、むしろ「手に入れようとする、つかもうとする」ということなのです。つまり激しく襲う者たちが天の国を手に入れようとしている、ということになります。そうするとこの「襲う」という言葉は、滅ぼそうとするという否定的な意味ではなくて、肯定的な、天の国、神様のご支配、その救いにあずかろうとする、ということになります。ヨハネの登場以来、人々は天の国を獲得しようと熱心に励んでいる、とも読めるのです。そしてこちらの読み方の方が、ヨハネは預言者以上の者であるという言葉とつながると思います。あるいは11節の「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」という言葉ともつながると思います。それは、ヨハネが来たことによって、天の国、神様の救いが、決定的に人々のものとなり始めている、ということを語っているのです。

 洗礼者ヨハネは、時代の決定的な転換点に立っています。そのことを語っているのが13節です。「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」。ヨハネは、預言者と律法の時代の終りに立っているのです。旧約聖書の時代の終わりと言ってもよいでしょう。これからいよいよ、新しい時代、救い主イエス・キリストの時代、新約聖書の時代が始まるのです。けれどもこのことは、歴史の年表を見ているような、ああここで時代が変わって新しい時代が始まったのだ、というような呑気な話ではありません。それは私たち一人一人がどう生きるかという問題なのです。私たちは、今や、ここで始まった新しい時代を生きているのです。預言者と律法の時代ではなく、主イエス・キリストの時代を生きているのです。それはどういうことなのでしょうか。そこで、先ほど申しましたことに戻っていかなければなりません。預言者や律法の時代、それは、神様のみ言葉や教えを聞き、それを理解して、それを自分の生活の中で少しでも実践していこう、その教えに従って生きていこうとする、そういう時代です。しかしヨハネの登場によって、もはやそれではすまないことになっている。ただ教えを聞いて理解して実行するというのではなく、この世に来られた救い主イエス・キリストと対面しなければならない、それが、今私たちが生きている新しい時代なのです。ヨハネは人々を、その救い主との対面に備えさせました。それが、この新しい時代を生きる者のあるべき姿なのです。私たちも、この主イエス・キリストとの対面に備えていかなければなりません。いや、それはいつか対面するからその時までに備えておかなければ、ということではありません。私たちがこうして礼拝に集うのは、ここで、この救い主イエス・キリストと対面するためなのです。「あなたがたは、何を見にここに集っているのか」という問いの本当の答えがここにあります。私たちは、何のために礼拝に集まるのか、教会の建物を見るためでも、牧師の顔を見るためでもない、み言葉を聞くためだ、それはその通りです。けれども、それだけでは十分な答えではないのです。み言葉を聞いて、それを理解して、実行していけば、神様に喜ばれる正しい立派な者になることができる、そういう思いでみ言葉を聞きに来ているのだとしたら、私たちはまだ預言者と律法の時代を生きているのです。それは新しい時代に対応できていない、時代遅れな生き方なのです。礼拝においてみ言葉が語られるのは、私たちがそれを理解して実行していくためではありません。私たちはそこで、私たちの救い主であられるイエス・キリストにお目にかかるのです。主イエスと出会うのです。礼拝のごとに、その主イエスとの対面を繰り返しながら生きるのです。そういう意味で、私たちは、礼拝に、主イエス・キリストを見るために来るのです。それこそが、主イエス・キリストの時代、新約聖書の時代に相応しい生き方なのです。

 ヨハネは人々に、救い主と対面する備えをさせました。しかしそれは、救い主にお会いするにはそれに相応しい清さ、正しさ、立派さを身につけなければならない、ということではありません。先ほどの12節の、「天の国は力ずくて襲われている」という言葉は、別の訳し方をすれば、「天の国は力をもって突入してきている」とも訳すことができます。人々が奮闘努力して天の国を獲得していると言うよりも、天の国の方が、力をもって私たちのただ中に突入して来ているのです。主イエス・キリストがこの世に来られたことによって起っているのはそういうことです。この世に来て下さった主イエスのみ言葉とみ業とによって、人々は天の国、神様の救いに巻き込まれているのです。努力して正しさや清さを身に着けた者だけがそれを獲得しているということではないのです。礼拝において私たちが主イエスにお会いすることもそれと同じです。主イエスの方から、み言葉によって、私たちの中に突入してきて下さり、私たちを神様の恵みに巻き込んで下さっているのです。ヨハネが教えた備えは、悔い改めることです。それは、自分が神様の恵みに相応しくない、罪深い者であることを認めて、その罪の赦しを与えて下さる救い主である主イエスを心の内にお迎えすることです。その備えのみによって、私たちは、礼拝において、救い主イエス・キリストにお目にかかることができるのです。

 ヨハネも、預言者としてみ言葉を語りました。しかしそのみ言葉は、ただ聞いて、理解して、それに従って生きるように努めればよいようなものではなく、今や現れようとしている救い主イエス・キリストと人々とを引き合わせるような、人々をその出会いへと導くようなものでした。神様のみ言葉を聞くことが、ただ教えを受けることではなく、主イエス・キリストにお目にかかることであるという時代が、このヨハネにおいて始まったのです。ヨハネは預言者であり、預言者以上の者であるということの意味はここにあります。ヨハネが女から生まれた者のうちで最も偉大な者であると言われる理由もそこにあります。しかしそこには同時に、「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」とつけ加えられています。天の国、それは主イエス・キリストにおいてこの世に来たり、私たちの現実の中に突入してきている神様の恵みのご支配です。その主イエスにお目にかかり、主イエスとの交わりの内に生きている者、主イエスによる神様の恵みに与かっている者が、天の国に生きている者です。その中の最も小さな者も、ヨハネより偉大なのです。それは、ヨハネが先駆けとして、自分の後から来る方によって実現すると語った天の国に、その人は既に与かっているからです。ヨハネは預言者と律法の時代の終りに位置し、その中では最も偉大な人でした。しかし主イエス・キリストによって天の国、神様の恵みのご支配がこの世に突入してきて、私たちがそれに与かることができるようになった今、その私たちに与えられている恵み、祝福は、ヨハネよりもはるかに大きいのです。しかし私たちがその祝福に本当に与かるためには、ヨハネが指し示した道を歩まなければなりません。それは、み言葉によって私たちと出会って下さる主イエス・キリストとの対面をこそ求めていくことです。私たちが礼拝においてみ言葉を聞くのは、正しい立派な教えを身につけて生きるためではなくて、救い主イエス・キリストとお会いし、共に生きるためなのです。

 主イエスはこのように、洗礼者ヨハネのことを群衆たちにお語りになりました。最初に申しましたように、これはヨハネの弟子たちが帰った後のことでした。でもせっかくならば、これらの言葉をもヨハネに伝えてやればよかったのに、と思います。「来るべき方はあなたなのですか」と尋ねてきたヨハネが、自分について主イエスが語られたこの言葉を聞けば、救われる思いがしただろうと思うのです。しかし主イエスはヨハネには、最初に申しましたように突き放したような言葉しか与えておられません。それは不親切なことのようにも思えますが、しかしそこにはやはり意味があると思います。ヨハネが、ここに語られているように預言者以上の者であり、救い主の先駆けとして遣わされ、その道を整えることによって、時代の転換点に立つ者である、そのことは、ヨハネ自身も、主イエスに対する信仰によって決断をもって受け止めなければならないことだったのです。「わたしにつまずかない者は幸いである」と主イエスは言われました。それは、「あなたが私につまずくことなく、私を来るべき救い主と信じるならば、そのことによってあなたは、預言者以上の者、預言者と律法の時代で最も偉大な者、そしてその終りに位置する者となることができる」ということです。ヨハネが、ここに語られているようなすばらしい役割を自分が与えられていると知るためには、彼自身の信仰の決断が必要だったのです。そして主イエスは、同じ信仰の決断を、人々にも、私たちにも求めておられます。14節以下に、「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい」とあります。ヨハネは、「現れるはずのエリヤである」、それは、本日共に読まれたマラキ書3章の23節から来ていることです。旧約聖書の一番最後の言葉ということになります。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように」。「大いなる恐るべき主の日」、それはその前のところに語られているように、神様ご自身がこの世に来られ、裁きを行い、救いと滅びとをお定めになる日です。そのことの前に、預言者エリヤが遣わされ、「父の心を子に、子の心を父に向けさせる」。つまり、神様と人々との関係を整えて、来るべき主の日を迎える備えをさせるのです。主イエスに先立って遣わされ、主イエスのための道備えをしたヨハネは、このエリヤに当る。このエリヤの働きによって、人々は救い主イエス・キリストをお迎えする備えを与えられたのです。しかしそこにも「あなたがたが認めようとすれば分かることだが」とあります。問題は、人々が、ヨハネを、このエリヤとして、救い主の先駆けとして認め、彼の示しに従って救い主との対面に備えていくかどうかです。ヨハネをエリヤとして受け入れる信仰の決断を、人々も求められているのです。「耳のある者は聞きなさい」という言葉も、その信仰の決断を求める言葉です。ヨハネをエリヤとして認め、そのエリヤが道備えをした主イエスにおいて、天の国がこの世に、私たちの現実の中に突入してきていることを信じる、その信仰の決断によって私たちは、天の国に与かる者となるのです。そして、ヨハネよりも偉大な恵みに与かる者となるのです。

 私たちは今、何を見にこの礼拝に集まっているのでしょうか。それは、み言葉によって私たちと出会って下さる主イエス・キリストとお目にかかるためです。み言葉はただ学んだり、知識として蓄えたり、生活の指針としていくためのものではありません。礼拝においてそれが語られる時、生ける主イエス・キリストご自身が私たちと出会って下さるのです。み言葉と共に、本日共にあずかる聖餐においてもです。礼拝の中心は、み言葉の説教と聖餐ですが、それはいずれも私たちが主イエス・キリストにお目にかかり、主イエスと共に生きていくために与えられているのです。礼拝においてこの主イエスとの出会いを与えられるために、私たちは信仰の決断を求められているのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2001年9月2日]

メッセージ へもどる。