富山鹿島町教会

礼拝説教

「まことの命を得る者」
イザヤ書 第55章1〜5節
マタイによる福音書 第10章34〜42節

 私たちは、本日のこの礼拝を、夏期総員礼拝として守っています。まだ洗礼を受けておられない、いわゆる求道者の方々にも案内を出し、あるいは普段あまり礼拝に来ることができていない教会員にも呼びかけ、みんなで礼拝を守ろう、というのが、この「総員礼拝」の趣旨です。また、週報にありますように、本日の礼拝には、天に召されたお二人の方々を記念して、そのご遺族が共に集っておられます。お一人は、丁度1年前に亡くなった上野陽子さん、もうお一人は、約2ヶ月前に亡くなった高坂聡さんです。高坂さんは、仏教で言ういわゆる四十九日を過ぎたところです。そういう一つの区切りの時に、亡くなられた方を記念して、ご遺族がこの礼拝に集っておられるのです。そのように、この礼拝には、普段はなかなか共に礼拝を守ることができない方々、クリスチャンではない方々も特に多数参加して下さっています。そういう意味でこの礼拝は特別な礼拝であると言うことができます。

 他方この礼拝は、私どもの教会が、主の日、日曜日に毎週欠かさずこの場で行っているものでもあります。先週も、今週も、来週も礼拝は連続していくのです。私たちは今、その礼拝において、基本的にはマタイによる福音書を連続して読んでいます。1章1節から読み進めてきて、本日は10章の終りのところにまで来たのです。ですから、本日のこの夏期総員礼拝において、この10章34節以下を読むのは、この礼拝のために特別にそうしたわけではありません。順番に読んできて、たまたまここに当ったのです。そこには、信仰的な言い方をすれば、神様の導きがあるのです。しかし神様の導き、み業というのは、しばしば私たちをとまどわせます。私自身、はっきり言って最初は「夏期総員礼拝でこの箇所を読むのはどうかな」と当惑を感じたのです。

 皆さんはどう思われるでしょうか。この箇所には、非常に厳しい主イエスのお言葉が記されています。柔和でやさしい救い主という主イエスのイメージを打ち砕くようなことが語られています。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」。主イエスが地上にもたらすのは、平和ではなく剣だ、というこのみ言葉は私たちに衝撃を与えます。そこにさらに畳み掛けるように「わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる」と言われています。主イエスがもたらすという剣、つまり敵対関係は、見知らぬ人との間にではなく、親子、家族の間にこそ起こるというのです。主イエスが来られたことによって、つまり主イエスを信じる信仰によって、家族に不和が起り、家庭が崩壊すると言われているのです。それは何故か。それは37節にあるように「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」からです。主イエスは、父や母、息子や娘という家族への愛よりも、主イエスへの愛を優先させよと言っておられるのです。そういう要求の下で、家族の間にひびが入り、不和が起っていくのです。このみ言葉は、洗礼を受けた信仰者、クリスチャンにとっても、まことにつまずきに満ちたものです。信仰者である私たちも、このみ言葉をなかなか正面から受け止めることができない。主イエスがもたらすのは平和ではなくて剣だと聞くと、「嘘でしょう。主イエスがもたらして下さるのは平和であるはずだ。そうでなければ困る」と思うのです。また、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」と言われると、自分はとうてい主イエスにふさわしい者ではあり得ない、と感じるのです。そのように信仰者自身も受け止めかねるようなみ言葉を、多くの求道中の方々のおられるこの総員礼拝で読むのはどんなものだろうか。さらに、亡くなった家族を思い、この礼拝を共に守ることによって家族の絆を深めようとしておられる方々にとって、このみ言葉はどんな意味を持つだろうか。そのようにも思わずにはおれないのです。家族を愛し、家庭の平和を求めることは当然ではないか、それを求めて何がいけないのか、そこにわざわざ敵対をもたらそうとするなら、それは主イエスの方が間違っているのではないか、そのように私たちは感じるのではないでしょうか。

 しかし、主イエスはここで、ことさらに私たちの家庭に不和をもたらし、敵対関係を生じさせようとしておられるわけではありません。そのことは、39節のみ言葉からわかります。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」。主イエスがここで言っておられるのは、命を本当に得るためにはどうしたらよいか、ということです。「あなたがたは、命を得ようとして努力しているが、本当にそれを得ているか、むしろそれを失っているのではないか、本当に命を得るための道は、別なところにあるのだ、私はあなたがたに、その本当の命を得てもらいたいのだ」そう主イエスは言っておられるのです。私たちは、命を得ようと日々苦闘しています。それは肉体の命を少しでも永らえるということのみではありません。本当に生き生きとした、充実した人生を送ることを願い求めているのです。家庭の平和、家族の愛、それも、私たちの求めてやまない命の一部です。主イエスは、その命を求めることがいけないと言っておられるわけではないのです。主イエスが問うておられるのは、あなたはその命を本当に得ているか、ということです。命を得たいと願ってあれこれ努力しているけれども、それを本当に得ることはできていないのが私たちの姿なのではないでしょうか。自分が、また家族が病気や老いをかかえている。その中で、自分も元気になりたいと願い、家族にも元気でいて欲しいと願っているが、願い通りにはいかず、むしろ弱りや衰えを感じてしまうということがあります。家庭内の不和・対立という悲しみ苦しみをかかえていて、何とかそれを解決したい、泥沼のような状態から抜け出したいと願っているが、いっこうに事態はよくならない、ということもあります。あるいはまた、愛する家族を失った悲しみ、空虚感の中で、何とかその悲しみを乗り越えて、前向きに、希望を持って生きていきたい、そういう命を切に求めているが、家族の死の悲しみが自分を縛りあげていて、そこからどうしても自由になれない、命へと向かっていけない、ということもあります。願い求めている命を得ることができないでいる、それが私たちの体験している現実だと思うのです。

 主イエスはそのような私たちに、39節で大切なことを示して下さっています。「自分の命を得ようとする者はそれを失う」。それは言い換えれば、「あなたがたが求めている命を得ることができないでいるのは、自分の命を得ようとしているからだ」ということです。「自分の命」を求める、それは当たり前ではないか、他に何を求めよと言うのか、と私たちは思います。しかしそこに、大きな落とし穴があるのです。自分の命、それは、自分が、自分のものとして持っている命です。自分の自由になる、自分の好きなように用いることができる命です。まさに私たちは命を自分のものとして手に入れたいと願っているのです。しかしそんなことはできるでしょうか。病気や老いは、あるいはそこに様々な障害をも加えていくことができるでしょうが、それらは、私たちが自分の命を、体を、心ですらも、自分の自由にすることはできないという現実を示しています。家族の間の交わりも同じです。自分の家庭をこのようにしたいと願っても、その通りにはならない、家庭もまた、自分のものであるようだが、しかし自分の思い通りにはならないのです。そしてそういうことが最もはっきりと現れるのが、死においてです。家族や親しい者の死を、私たちはどうすることもできません。死の力の前で、私たちは敗北するしかないのです。自分の命を自分のものとして手に入れることなどできないということをそこで決定的に思い知らされるのです。

 「自分の命を得ようとする者は、それを失う」。それでは命を得るためにはどうすればよいのか。自分の命を求めるのではなく、他人の命を求め、人のために尽くせということか、というとそうではありません。命を得る者は、他人のために尽くす者ではなくて、「わたしのために命を失う者」なのです。「わたしのために命を失う」、それは単純に読んでしまうと、「主イエスを信じ、その信仰のために殉教の死を遂げること」ということになるかもしれません。しかし、殉教の死を遂げることが、まことの命を得るための条件である、というふうにここを読んでしまうことは間違いです。確かにこの第10章には、弟子たちがこの世へと派遣されていき、そこで迫害を受ける、敵対される、その中で信仰を守りぬき、「天の国は近づいた」という主イエス・キリストの福音を宣べ伝え続けるべきことが見つめられています。そこには、殉教の死ということも当然視野に入っています。しかしここで主イエスが言っておられる最も大事なことは、自分の命を自分のものとして得ようとするのではなく、主イエスのためにたとえ命を失うことがあっても、そこにはまことの命があると信じることです。つまり、本当の命が主イエスのもとにこそあることを信じる者こそが、まことの命を得るのだと言われているのです。殉教の死を遂げるという美徳、あるいは信仰的な英雄的行為によってまことの命が得られるというのではないのです。そもそも、殉教の死というのは、それによって命を獲得しようと思ってするようなことではありません。この世の命、肉体の命よりも貴い、まことの命が、主イエス・キリストのもとにある、主イエスを信じて、主イエスに従って死ぬことにこそ、自分が本当に生きる道があるという確信がある所にそれは起るのです。ですから問題は、殉教するか否かではなくて、自分のものである命を求めるか、主イエスのもとにある命を求めるか、なのです。それは以前に、いわゆる「山上の説教」の中の第6章19節以下にあった、「地上に富を積むのではなく、天に富を積め」という教えと通じます。地上の富、それは私たちが自分のものとして持っている自分の富、豊かさ、力です。本日のところで言えば「自分の命」です。天の富とは、それに対して、神様が私たちのために備えて下さっている恵みです。主イエスのもとにこそある命です。天に富を積むというのは、せっせと良いことをして神様の点数を稼ぐことではなくて、むしろそういう自分の正しさや立派さという自分の富に寄り頼むことをやめて、神様が私たちに与えて下さる恵みに信頼して、それに寄り頼んで生きることなのです。それと同じことが、本日の箇所では、「わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る」と言い表されているのです。

 「わたしのために」とあります。つまり、主イエス・キリストのためにです。それは、主イエス・キリストが生きるために、ということではありません。主イエス・キリストのもとにこそ、私たちのまことの命があるから、自分の命よりもそちらの命をこそ求める、ということです。しかし主イエス・キリストのもとにはどんな命があるのでしょうか。自分の命よりも貴い何がそこにあるのでしょうか。主イエス・キリストは、神様の独り子、ご自身も神であられる方です。神の命がそこにはあるのです。しかしそれが主イエス・キリストのもとにある命の中心ではありません。中心は、その神の子である主イエスが、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったということ、そして三日目のこの主の日、日曜日の朝、復活されたということです。独り子主イエスにおいて、神様は、私たちの罪と死とをご自分の上に引き受けて下さったのです。私たちは思いにおいても言葉においても行為においても、神様に背き、隣人を傷つける罪を犯している者です。そこから起ってくるいろいろな事柄によって、自分の罪をいやが上にも自覚させられます。しかしその時に、その罪人である私たちと共に主イエスがいて下さり、「私があなたのその罪を背負って十字架にかかって死んだ、だからあなたの罪はもう赦されている」、と語って下さるのです。また私たちは死の力の前で無力であり、自分の、また愛する者の死をどうすることもできずにうろたえるばかりです。しかしその時に、死に勝利して復活された主イエスが共にいて下さり、死の力を打ち破ってまことの命を与えて下さる神様の恵みを示して下さるのです。この、罪の赦しと死への勝利が、主イエス・キリストのもとにある命です。しかしこのまことの命は、私たちが、自分の命、自分の中の、自分が自由にできる財産としての命を求めている間は見えてこないのです。その自分の命を捨てて、主イエスのもとにある命をこそ求めていかなければ、私たちはこのまことの命を得ることができないのです。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」というみ言葉は、このことを言い表しているのです。私たちは、自分の父や母が、息子や娘が、本当に命を得て、生き生きと、元気に歩んで欲しいと願います。そう思って私たちは、父や母、息子や娘の顔を見つめ、彼らを愛して、彼らのために努力します。場合によっては自分のことをそっちのけにしても、家族のために尽くそうとします。けれどもそのようにすることで、父や母、息子や娘に命を与えることができるのでしょうか。彼らを本当に生かすことができるのでしょうか。できはしないのです。たとえば、愛する父や母、夫や妻、息子や娘が、病気や、事故でその命を奪われていく、その時に私たちは、どうすることもできないのです。彼らの命を取り戻すことはできないのです。私たちが家族をどんなに愛していたとしても、その愛は、死の力に打ち勝つものではないのです。しかし主イエス・キリストのもとには、死に勝利する命があります。肉体の死を越えてなお人を生かし、罪の赦しの恵みを与え、永遠の命を与えて下さる恵みがあります。その恵みによって与えられる本当の慰めがあります。主イエスのもとにあるこのまことの命をこそ見つめ、自分も、家族も、その命によって生かされていくことを祈り願うこと、それが、父や母よりも、息子や娘よりも主イエスを愛するということなのです。主イエスは、家族を愛することをやめよと言っておられるのではありません。家族など捨てて信仰の道に励めと教えておられるのでもありません。ただ、まことの命、死の力にも打ち勝って慰めと支えを与える命はどこにあるか、それを見失ってはならないと言っておられるのです。そのまことの命をこそ求めることを、家族への愛によってないがしろにしてはならないと言っておられるのです。そのまことの命によって生かされることがなければ、私たち人間が家族をどんなに愛したとしても、その愛は根本的には無力なのだと言っておられるのです。また私たちが、既に天に召された家族と心を通わせたいと願う時に、私たちの愛は、死のあちら側とこちら側、「幽明境を異にする」などと言いますが、その境を越えて彼らと私たちを結びつけるものではないのです。しかし私たちのために十字架にかかって死んで下さり、死に勝利して復活して下さった主イエス・キリストの恵みの下に彼らも、また私たちも置かれているということ、彼らも私たちも、同じ主イエス・キリストによるまことの命を得ているのだということこそが、天と地の隔たりを越えて、彼らと私たちの本当の絆となる、そういうこともここから言えると思うのです。

 主イエス・キリストのもとにこそまことの命がある。それが私たちの信仰です。この信仰に生きる時に、私たちの周囲の人々との間に、様々な軋轢が生じてきます。家族の間においてもです。そのことを主イエスはここで語り示し、私たちに覚悟を求めておられます。信仰は、いたずらに争いや対立を引き起こそうとするものではないけれども、然し場合によっては、家族の間でも理解を得られず、対立関係が生じてしまうことがあるのです。その時私たちは、信仰による苦しみを体験します。信仰をもって生きることには、喜びや平安のみではなく、このような苦しみが伴うこともあるのです。それを、「こんなはずではない」と思ってしまってはならないのです。38節に、「自分の十字架を担ってわたしに従わないものは、わたしにふさわしくない」と言われているのはそのためでしょう。私たちは、自分の十字架を担って主イエスに従うのです。それは何か大それた重荷を負うことではありません。主イエスに従い、主イエスのもとにこそまことの命があることを信じ、それを第一に求めていく、その歩みを貫いていく中で、いろいろな妨げにあうのです。最も近く親しい家族にも理解されずに苦しむのです。それが私たちの担うべき十字架です。その十字架を、ほうり出してしまわないで、担い続けること、主イエスのもとのまことの命を求め続けることが大切です。そしてそこでしっかりと覚えておくべきことは、この十字架は主イエス・キリストが私たちのために、先頭に立って担って下さったものだということです。私たちだけが十字架を背負わされているのではありません。いやむしろ、私たちの担っているものなどは、本来十字架などと呼べないちっぽけなものに過ぎないのかもしれません。しかし私たちが自分に与えられている苦しみを負いつつ歩む時に、十字架にかかって死んで下さった主イエスが共にいて下さり、「あなたは私にふさわしい」と言って下さるのです。

 主イエスに従う弟子たち、信仰者は、このように、自分の命を得ようとするのでなく、主イエスによって与えられるまことの命を求めて、苦しみをも耐え忍びつつ歩みます。そうすることによって私たちは、まことの命を得る者となるのです。しかし40節以下には、それとはいささか違うことが語られていきます。ここには、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」とあります。つまり弟子、信仰者を受け入れるとは主イエスご自身を受け入れるのと同じであり、主イエスを受け入れるとは父なる神様を受け入れるのと同じだ、というのです。そしてその「同じだ」というのは、同じ報いを受けるということだと41節に語られていきます。「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける」。つまり、預言者と同じ働きをしなくても、その人を受け入れるだけで、預言者が受けるのと同じ報いを受けることができる、というのです。さらに42節には「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」とあります。弟子の中の小さな者の一人に、つまり私たち信仰者の中のちっぽけな一人に、冷たい水一杯を飲ませてくれる、そういう小さな好意を示してくれるだけで、神様はその人を、信仰者と同じように報いて下さる、つまり主イエス・キリストによるまことの命にあずからせて下さるのです。このことと、先ほどの「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」という言葉とでは、随分話が違うようにも思えます。あちらはかなり厳しい言葉であるのに対して、こちらはかなり緩やかになっているように思うのです。しかしこれは厳しいとか緩やかという話ではありません。これらの言葉を、主イエスの救い、まことの命にあずかるための条件として読むと、そういう感じにもなりますが、ここに語られているのは救いの条件ではないのです。神様は、何かの条件を満たした者を救って下さるという方ではありません。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第55章の1節に、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、値を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」とあります。つまり、ただで与えるということです。神様はその救いの恵みを、まことの命を、何の条件もつけずに、ただで与えて下さるのです。2節には「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう」とあります。ご自分の豊かな恵みを人々に与えたくて仕方がない、そういう神様のみ心が描き出されています。主イエス・キリストによるまことの命の恵みも、そういうみ心によって与えられているのです。私たちはそれをいただくのに、何の値も払う必要はない、何の条件を満たす必要もないのです。そのように私たちにまことの命の恵みをただで与えるために、神様の独り子主イエスご自身が、十字架を担って下さり、苦しみを受け、死んで下さったのです。私たちがまことの命を得るための値は、主イエスが、もう支払って下さったのです。神様はその恵みを、できるだけ多くの人に受け取ってもらいたいと願っておられます。「冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は」というのはそういうみ心の表れです。私たちはそのような神様によってこの世に遣わされているのですから、世間の人々が、まだ信仰を持っていない人々が、ほんの少しでも好意を示してくれ、助けてくれ、あるいは私たちが信仰者として生きることを妨げずにいてくれるなら、そのことを大いに喜んでいいのです。そこに神様の恵みの印を見ていいのです。人々の無理解を嘆くよりも、小さな好意を喜びつつ生きる、それが信仰者のあり方です。そしてそれでもなお、信仰のゆえの苦しみを味わわなければならない時もあります。その時には、私たちのために十字架を担って苦しみの道を歩んで下さった、その主イエスに、自分の十字架を担って従っていくのです。まことの命にふさわしい者となるためではなくて、まことの命を得る者として下さった恵みへの感謝としてです。

牧師 藤 掛 順 一
[2001年8月5日]

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