礼拝説教「恐れるな」詩編 第56編1〜14節 マタイによる福音書 第10章24〜33節 「恐れるな」。それが本日の説教の題です。本日与えられているマタイ福音書第10章24節以下において、主イエス・キリストは繰り返しその言葉を語っておられます。まず26節に、「人々を恐れてはならない」とあります。また28節に、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」とあります。そして31節にも「だから、恐れるな」とあります。三度繰り返して「恐れるな」と語りかけられているのです。 このマタイ福音書第10章は、主イエスが十二人の弟子たちを選び、伝道へと派遣される、そこにおける教えです。伝道へと遣わされる弟子たちに、主イエスは「恐れるな」と語りかけ、彼らを勇気づけておられるのです。しかしそれは、「何もこわいことなどないから大丈夫だ」ということではありません。先週読んだ16節以下に語られていたように、弟子たちの派遣は、「狼の群れに羊を送り込むようなもの」なのです。狼の群れの中に送られる羊は、食い殺されてしまいます。そのように、弟子たちも、「地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる」。また、兄弟、親子の間にも不和が起り、すべての人に憎まれるという事態が起る。遣わされる弟子たちはそういう苦しみを受けることになるのです。その苦しみの中でしかし、「恐れるな」と主は言われるのです。 弟子たちが主イエスによってこの世へと派遣される、そのことを、二千年前の十二人の弟子たちのみのこととしてしまったら、この「恐れるな」という教えは私たちとは何の関係もないことになってしまいます。しかしそうではない、これは主イエス・キリストを信じて、教会に連なって生きる私たち一人一人のことなのだ、私たちもまた、主イエスによって選ばれて、この世へと遣わされていくのだ、ということをこれまでにも繰り返し申してきました。そのことが、本日の箇所の終りの32、33節にはっきりと示されていると言えるでしょう。こう語られています。「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」。ここには、人々の前で、自分を、わたし、即ち主イエスの仲間であると言い表すか、それとも主イエスを「知らない」と言うか、ということが問われています。これはもはや弟子たちに対する問いではあり得ません。後の教会の者たち、つまり私たちに対する問いかけです。人々の前で、自分をイエス・キリストの仲間であると言い表す、それは以前の口語訳聖書では「人の前でわたしを受け入れる」と訳されていました。「仲間である」と言うと、主イエスと私たちが対等の関係にあるかのような感じになりますが、そういうことが言われているのではなくて、私たちが、主イエスを受け入れるかどうか、が問われているのです。いや、「受け入れる」というのも実は正確な訳とは言えません。この言葉のもとの意味は、「同じ言葉を語る」ということです。主イエス・キリストと同じ言葉を語る、それは主イエスの語ることに同意し、イエスを自分の主と信じ受け入れ、そのことを言い表すことです。それゆえにこの言葉は、単独では「告白する」と訳されます。「告白する」というと、通常の日本語では、「愛を告白する」とか「何か悪いことをしたのを告白する」というふうに、心の中に秘められていることを言い表すという意味になりますが、ここではそういうことではなくて、主イエス・キリストを信じるという信仰の決断をし、それを人々の前で言い表すことです。私たちがそのように主イエスを信じる告白をするなら、主イエスも、私たちを「仲間であると言い表」して下さる。しかし私たちがその告白をしないなら、主イエスも、私たちのことを知らないと言われる。つまりこの告白をするか否かによって、私たちと主イエスとの関係がつながるか、切れてしまうかが決まるのです。主イエスの教えをどんなに熱心に聞いていたとしても、この告白、主イエスを自分の主と受け入れ、それを言い表す告白をしないならば、結局その人は主イエスとは何の関係もない人となり、主イエスに「その人を知らない」と言われてしまうのです。 しかもこの告白は、「人々の前で」なされるものです。私たちは、人には知らせずに、隠れたところでこっそりと信仰者として生きることはできないのです。人々の前で、自分は主イエス・キリストを信じる者だと言い表すことを求められるのです。その第一歩が、教会の礼拝の中で、信仰を告白して洗礼を受けるということです。洗礼は、病気で寝たきりであったりとかの特別の場合以外は、教会の礼拝の中で、集まっている人々の前で行われます。以前ある求道者、まだ洗礼を受けておられない方が、「先生と二人っきりのところで洗礼を受けるというわけにはいきませんかね。どうもあの皆さんの前に出て行って受けるというのが恥ずかしくて」と言われたことがありますが、それはできないのです。確かに、ここに集っている7、80人の人々の前で、みんなに見られながら信仰の誓約をし、跪いて洗礼を受けることには、気恥ずかしい思いが伴うでしょう。特にある程度年がいった男性の人はそういう思いを強く持つようです。社会の中でそれなりの地位を築いてきたプライドが邪魔をするということがあります。しかし、そういうプライド、気恥ずかしさを乗り越えて、人々の前で、「自分は主イエス・キリストを信じる。この方こそ私の救い主であられると信じる」と告白することによってこそ、私たちは本当に主イエス・キリストの仲間、キリストにつながる者、その救いの恵みにあずかる者となることができるのです。 そしてそのようにして教会において信仰を告白し、洗礼を受けてクリスチャン、信仰者となった私たちは、さらに教会の外でも、人々の前で、つまりこの世における様々な交わり、関係の中で、「自分はイエス・キリストを信じる者である、クリスチャンである」ということを言い表していくのです。それが私たちの伝道です。そのために私たちはそれぞれの生きている場へと遣わされているのです。伝道をするというと、何か特別にすばらしいことを語って、人々を信仰へ導くことと思ってしまいがちですが、そうではありません。伝道の第一歩は、自分がクリスチャンであることを言い表すことです。人々にそれを明らかにすることです。「へえ、あんたそんなんでクリスチャンなの」とからかわれるでしょう。それでもいいのです。「自分のような者がクリスチャンだと知れたら、キリスト教ってあんなもんかと思われて伝道にならないから、なるべく隠しておこう」と思う人がいたらそれは間違いです。それは一見謙遜なようで、実は傲慢な思いです。何故なら、それは裏を返せば、「自分が立派な者だったらその自分の力によって伝道ができる」ということになるからです。伝道は、そのような私たちの立派さや力によってできるものではありません。遣わされた者が、その行く先々で、イエス・キリストを告白する、自分は主イエスを信じ、その救いにあずかって生きているということを公にする、そこに、神様ご自身が、聖霊の力によって働いて下さって、伝道がなされていくのです。それゆえに何よりもまず大事なことは、人々の前で自分が信仰者であることを言い表すことです。そのことを主イエスは私たちに求めておられるのです。 しかしそのように人々の前で主イエスを告白しようとする時、私たちは恐れを覚えます。弟子たちにとってはそれは、「地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる」という迫害への恐れでした。そのような迫害はこれまでの教会の歴史の中でいろいろな形で繰り返されてきました。今日の日本の社会においては、主イエス・キリストを信じることを告白したからといって、そのような物理的迫害を受けることはありません。しかしキリストを告白して生きることへの圧迫は、この社会においても、別の形でやはりあります。先祖代々の家の宗教を守れ、という周囲の思いは、私たちが一人の個人として神を信じて生きようとすることを圧迫します。また職場や職種によっては、クリスチャンであることが不利益につながるようなところもやはりあります。またそのような信仰に対する反感ではなくても、私たちの社会には、日曜日に礼拝を守ることを妨げるいろいろな要素があります。キリストを告白して、即ち礼拝を守って生きようとする時に、そういう妨げにあうのです。そういう妨げの中で私たちは、恐ろしくなって、主イエスへの信仰を言い表そうとする思いに水をかけられ、その思いがしぼんでいってしまうのです。あるいは先ほど申しましたように、人々の前で信仰の告白をなし、洗礼を受けることを気恥ずかしく思い、躊躇するような思いも起ってきます。それも、自分のプライドが傷つくことへの一種の恐れから来ることだと言えるでしょう。主イエスを信じる信仰を人々の前で言い表していくことには、このような様々な恐れがつきまとっているのです。その私たちに対して主イエスは、「恐れるな」と語っておられるのです。 「恐れるな」という語りかけの根拠は何なのでしょうか。26節を読んでいくと、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」とあります。これが「人々を恐れてはならない」という教えの根拠です。しかしそれはどのようにつながるのでしょうか。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」ということが何故「恐れるな」の根拠なのでしょうか。このことを、「隠し事はいつか暴露される」という意味で読んでしまうと、「恐れるな」とのつながりが見えてきません。ここで「覆われているもの、隠されているもの」と言われているのは、私たちが人に知らせずに心の奥底に隠している何かではなくて、次の27節にある、「わたしが暗闇であなたがたに言うこと、耳打ちされたこと」なのです。それは具体的には、「天の国は近づいた」という主イエス・キリストの福音です。主イエスにおいて、神の国、神様の恵みのご支配が始まっている、という知らせです。その主イエス・キリストの福音は、今は「覆われているもの、隠されているもの」なのです。それは、主イエスご自身が、他の人と何の違いもない一人の人間として地上を歩んでおられるからです。よく絵画では、主イエスの頭には後光がさしていてすぐにわかるようになっていますが、実際にはそんなものはなかったのです。主イエスを見た当時の人々の中の誰一人として、「ああこの人は特別な人だ、神の独り子で私たちの救い主だ」と思った人はいなかったのです。主イエスが救い主であられることはそのように隠されていたのです。私たちにおいてもそうです。私たちは、聖書を通して、教会の教えによって主イエス・キリストのことを知ります。しかしその主イエスがまことの神の子であり、救い主であることは、証明できるようなことではなく、信仰によって受け止めるしかないことです。誰が見てもはっきりとわかることではないのです。そのように主イエス・キリストの福音は、多くの人には覆われ、隠されているのです。私たち信仰者はその隠された真実を、暗闇の中でそっと耳打ちされるように、特別に教えてもらったのです。その特別に教え示されたことを、多くの人々に知らせ、屋根の上で言い広めていくことが私たちに与えられている使命です。しかしそれは人々に簡単にわかってもらえるようなことではありません。「そんなことは信じられない」「証拠を見せろ」「自分たちだけが真実を知っているというのは傲慢だ」など、いろいろな悪口を言われるのです。そこに私たちの苦しみがある。しかし、この覆われているもの、隠されているものは、必ずあらわになり、はっきりと知られる時が来る、それが26節の約束です。それは何時のことか。それは、主イエス・キリストがもう一度この世においでになり、この世が終わる終末の時です。その時には、今は覆われ、隠されている、主イエスこそ神の子、救い主であられることが、誰の目にも明らかになり、神様のご支配が完成するのです。その時が必ず来る。だから、恐れないで、キリストの福音を宣べ伝え続けなさいと言われているのです。 しかしこの教えを、単にこの世の終わりの時には全てがあらわになるのだから、今は無理解の中でもがんばって伝道しなさい、というふうにだけ読んでしまってはなりません。次の28節にはもう一つ新たな「恐れるな」があり、その根拠が示されているのです。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者ども」それが、私たちがこの世で出会い、恐れる人間たちです。その人間たちによって、体が殺されてしまうかもしれない、そういう恐れの中に私たちはあります。主イエスはそれに対して、「私が守っているからそんなことは起らない。大丈夫だ」とはおっしゃらないのです。確かに、体は彼らによって殺されてしまうかもしれない、しかし彼らとて、魂まで殺すことはできないのだ、とおっしゃるのです。ここに「体と魂」ということが語られていますが、ここを、人間は肉体と魂とからなり、肉体は滅びても、魂だけは生き続けるのだ、と理解してしまうのは危険です。主イエスが言っておられるのはそういうことではなくて、人間たちは、あなたの体を殺すことができるかもしれないが、彼らの力はあなたの魂にまでは及ばない、それに対して、神様の力は、体のみではなく、魂にまで及ぶのだ、ということです。その場合の魂とは、私たちの一番中心の本質の部分を指していると言えるでしょう。人間の力はそこにまでは及ばない、しかし神様の力はそこに及ぶのです。それなら、本当に恐れるべきなのはどちらか、それがここでの問いです。本当に恐れるべきなのは、魂も体も地獄で滅ぼすことのできるお方です。ところが私たちは、その本当に恐れなければならない方を恐れずに、人間ばかりを恐れているのではないか。つまり私たちは、恐れる相手を間違えているのではないか。本当に恐れるべき方を見つめよ、それが28節の教えなのです。そうすると、先ほどの26節も、今は隠されているけれども、本当に私たちを、この世界を支配しておられる方が誰であるかをわきまえて、その方をこそ見つめよ、と教えていると言うことができます。いつかは神様のご支配が明らかになるのだからそこに希望を置いて、というよりも、いつかは明らかになる神様の隠されたご支配を、今この時にしっかりと見つめよ、ということなのです。 主イエスはそのように、本当に恐れるべき方である神様とそのご支配を見つめるように、私たちを促しておられます。その促しに応えて神様を見つめていく時、私たちは、神様が私たちを地獄に落とし、体どころか魂までも滅ぼしてしまわれるかもしれない、といつもびくびくして、恐怖を覚えつつ生きるようになるのでしょうか。そうではないのだ、ということが、29節以下に語られているのです。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。天地の全てを支配し、私たちの体も魂も地獄で滅ぼす力を持った方、本当に恐れるべき方が、「あなたがたの父」であられると主イエスは言われるのです。そしてこの天の父は、私たちの髪の毛一本までも残らず数えておられる。それほどまでに私たちのことを愛し、大事にしていて下さるのです。本当に恐れるべき方を、主イエスを通して示されていく時に、私たちがそこに見出すのは、恐ろしい閻魔大王のような存在ではなくて、愛に満ちた父なる神です。この天の父を見出すことによって、私たちは人への恐れから解放されるのです。私たちが主イエスを信じる者として生きようとすることに敵対し、それを妨害し、揶揄し、恐れを抱かせる全ての人間の力、また私たち自身の心の中にあって、神様の前に跪くことを躊躇させるプライド、それらの全てにまさる天の父なる神の愛が自分に注がれていることを知るからです。 私たちが、天の父なる神様の愛を知り、その下で生きるようになるのは、主イエス・キリストの弟子として生きることを通してです。主イエスを信じ、その信仰を人々の前で言い表し、主イエスに従い、また主イエスによって遣わされていくことの中でこそ、「一羽の雀さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」というみ言葉を聞くことができるのです。そしてこの天の父の恵みを受ける時、私たちの歩みは、だからといって決して何の苦しみも悲しみも不安もないものとなるのではありません。主イエスに遣わされて歩む私たちは、やはり狼の群れに送り込まれた羊のような存在です。「わたしの名のために、すべての人に憎まれる」という苦しみを受けることもあるのです。また、魂を殺すことはできない人間たちによって、しかし体は殺されてしまうことも起るのです。そういう様々な苦しみを私たちも味わいます。主イエスのご支配が覆われている間は、つまり主イエスの再臨と世の終わりまでの間は、信仰者の歩みはそういう苦難に満ちています。しかし私たちはそのことを決して悲嘆しません。先週も読んだ24、25節で主イエスは、「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」と言われました。私たちの師であり、主人である主イエスご自身が、苦しみをお受けになったのです。「おまえそんなんでクリスチャンか」と私たちが言われるのと同じように、主イエスもベルゼブルと悪口を言われ、さらには捕えられて鞭打たれ、十字架につけられて殺されたのです。私たちが苦しみを受けることは、この主イエスの家族の一員とされ、主イエスと共に天の父なる神様の子とされていることのしるしなのです。それゆえに恐れずに、人々の前で私は主イエス・キリストを信じると告白しつつ歩みたいのです。復活して天に昇られた主イエスのご支配が、いつかは必ず明らかになり、確立する時が来ることを信じて。
牧師 藤 掛 順 一 |