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テレホンメッセージ「救いの歴史」(36)創世記32章25節以下の、ヤコブが、ヤボク川のほとりで、何者かと格闘した、という話について、お話ししています。この話においては、「名前」が大事な意味を持っています。ヤコブが格闘した相手である神様のみ使いは、ヤコブに、「お前の名は何というのか」と尋ね、彼が「ヤコブです」と答えると、「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる」と新しい名前、イスラエルを与えたのです。「お前の名は何というのか」という問いは、単に「あなたはどなたですか」というのとは違います。み使いは、彼に新しい名前を与えるために、わざとそう尋ねて彼のそれまでの名前を語らせ、そこに、新しい名前を与えているのです。聖書において、名前はその人自身、その人の本質を表すものです。名前が新しく与えられるというのは、新しい人になる、変えられる、ということなのです。 イスラエルという新しい名前を与えられたヤコブの方も、み使いに、「どうか、あなたのお名前を教えてください」と尋ねています。ヤコブも、格闘した相手の名前を知ろうとしたのです。しかしみ使いは「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、名前を教えてくれませんでした。しかしその代わりに、祝福を与えてくれたのです。 このことは大事なことを教えています。神様は、私たち一人一人の名前を知っておられ、時として私たちに新しい名前をお与えになるのです。しかし私たちが神様の、あるいはみ使いの名を知ることはできません。名前というのは先程も申しましたように、その相手の本質を表します。神様が私たちの名前を知っておられる、それは神様が私たちのありのままの姿、本質をよくわきまえて、それに応じて恵みや導きを与えて下さることを意味します。しかし私たちは神様の名前を知ることはできない、それは、私たちは神様の本質をわかってしまい、自分の考えや感覚の中に納めてしまうことができないということです。名前を知ることによって、相手を自分の支配下に、影響下に置くことができる、ということも当時考えられていました。神様は私たちが自分の支配化に、影響下に置くことができるような方ではないのです。神様は私たちのことをわかっておられ、私たちにみ心のままに恵みを与えてくださる、しかし私たちは神様のことをわかってしまい、自分の思い通りにすることはできない、それが、神様と私たちの関係の基本なのです。
牧師 藤 掛 順 一 |
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