富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「聖書の人間理解」(59)

 前回は、旧約聖書、創世記第11章の「バベルの塔」の物語において、神のようになろうとした人間の傲慢の罪の結果として言葉の混乱が起こり、人間どうし言葉が通じなくなってしまったのに対して、新約聖書、使徒言行録第2章の、イエス・キリストの弟子たちに聖霊が降り、彼らが様々な言葉で神の救いのみ業を語り出したことにおいては、様々な言語を持つ人々が、もう一度一つに結び合わされる時代が始まったということをお話ししました。人間の罪、その本質は、自分が神になり、主人になって自分の思いを通そうとすることですが、それによって人間どうしの間がばらばらになり、心が通じなくなってしまうのです。そのような人間の罪が、イエス・キリストの十字架の死によってこそ赦され、人間どうしがもう一度一つになることができる、それが、旧約聖書と新約聖書を貫く一本の筋なのです。

 このことは、創世記第3章の、人間の最初の罪についても言うことができます。神のようになれる、自分が自分の主人となって生きることができる、と思って禁断の木の実を食べてしまった人間は、神様との関係を断ち切ってしまったわけですが、それと同時に人間どうし、男と女、夫婦の関係も破れ、相手のせいにして言い逃れをしていくような関係になってしまったのです。神様との交わりの断絶が、人との交わりの断絶をも生んでいる。それが、聖書の人間理解の根本です。創世記の第1章から11章は、神様に造られ、祝福の内に生き始めた人間が、罪によって、神との、また人との交わりの断絶という苦しみの中に陥っている、そういう人間の現状を描き出しているのです。

 そのことを前提として、創世記の第12章から、新しい話が始まります。そこには、神様が、人間の罪によって損なわれた交わりを回復し、人間を本来の祝福の中に立ち戻らせようとする救いの歴史が語られていくのです。その歴史のクライマックスが、新約聖書の、イエス・キリストです。イエス・キリストにおいて、人間の罪の究極的な赦しが与えられ、神様と人間の交わりが決定的に回復され、そこに、人間どうしが本当に心を通い合わせることができる交わりが生まれる、ということを聖書は語っているのです。

 「聖書の人間理解」のシリーズは今回をもって終了します。次は、「救いの歴史」と題して、創世記第12章以下についてお話ししていきたいと思っています。

牧師 藤 掛 順 一

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