「聖書の人間理解」→(2) |
テレホンメッセージ「聖書の人間理解」(1)今回から、新しいシリーズとして、「聖書の人間理解」ということについてお話をしていこうと思います。聖書が、人間というものをどのように考え、捉えているのか、ということです。それが、聖書の語る信仰の土台になっていると言うことができます。 さて、聖書の人間理解の根本にあるのは、人間は神様によって造られたものだ、ということです。これは、人間のみではなく、この世界と、そこにある全てのものが、神様によって造られた被造物である、というのが、聖書の語る根本的な世界観、この世界についての認識なのです。そのことを語っているのが、旧約聖書創世記のはじめのところの、いわゆる天地創造の物語です。このことを申しますと、この科学の時代に、神による天地創造を信じろと言われても不可能だ、と思う人も多いでしょう。けれども問題は、宇宙や地球の成立ちについて科学が語っていることと、聖書に書かれていることと、どちらが正しいか、ということではありません。科学において見つめられ、考えられていることと、聖書が語っていることとは、次元が違うのです。土俵が違うと言ってもよいでしょう。科学は、この世界の事柄がどうなっているかを調べ、それがどのようにして起こってきたかを因果関係によって説明しようとするものです。しかし、聖書は、そのことの背後にある意味を問い、それを語っています。つまり天地創造の物語も、この世界がどのようにして出来たか、という事柄の説明をしているのではなくて、この世界が存在し、そこに私たち人間が生きているということの意味を語っているのです。科学は、この世界の成立ちを、また人間の存在を、たとえばビッグ・バンとか、遺伝子の世界における突然変異による進化とかによって説明します。しかしそのことの意味は語りません。意味を求めることは科学的ではないからです。この世界の存在も、私という一人の人間が生きていることも、科学によれば、無数の偶然の積み重ねによることでしかないのです。しかし聖書は、世界や人間の存在の意味を語ります。神による天地創造とは、要するにこの世界には、また私たちがこうして生きていることには、意味があるのだ、ということです。それは単なる偶然の出来事ではなくて、私たちを越えた神様のご意志によることだ、ということです。私たちは神様によって造られたものだ、という聖書の根本的人間理解のポイントはそこにあるのです。皆さんはどちらを選ばれますか。私は、自分が今ここにこのような者として生きていることを、無意味な偶然ではなくて、意味のあることとして捉えることを選びたいのです。
牧師 藤 掛 順 一 |
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