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テレホンメッセージ「救いの歴史」(106)旧約聖書、出エジプト記第20章にある、「十戒」についてのお話しをしています。今回は、その第9の戒め、「あなたは隣人について偽証してはならない」についてです。 偽証というと、裁判において、偽りの証言をすることです。あるいは、国会の証人喚問のことを思い浮かべるかもしれません。どちらも、あまり身近なことではないと言わなければならないでしょう。裁判や、証人喚問で証言をしたことのある人はそう多くはないと思います。そういう狭い意味での「証言」だけを考えると、この戒めはあまり私たちの生活に直接の関係はないようにも思われます。しかし、「証言」ということをもっと広い意味で考えるならば、私たちは日々、証言をしつつ生きているとも言えるのではないでしょうか。 「隣人について」の証言というのは、要するに、その人のことをどう言うか、ということです。自分がその人のことをどう思い、どう評価しているか、を別の人に対して語るのです。それは、私たちが毎日何気無しにしていることではないでしょうか。誰かに改まって、「あの人はどんな人?、あの人のことをあなたはどう思う?」と聞かれる場合もあるでしょう。あるいはそうではなくて、単なる雑談の中で、「あの人はこうなんだよ」ということを、うわさ話としてすることもあるでしょう。しかしどういう場面であれ、そういう言葉によって私たちは、人のことを「この人はこういう人だ」と証言しているのです。 そういう言葉において、「偽り」があってはならない、とこの戒めは語っています。それは、本当のことを言わなければならない、嘘をついてはならない、ということでしょうか。勿論、そういう場面で故意に嘘をついて聞く人を騙すことはいけないことでしょう。しかし、こういう「隣人についての証言」においては、何が客観的な事実で何が偽りかははっきりしません。問題は事実が否かということよりも、人のことを判断、評価する時に私たちがどういう思いを抱いているか、ということだと思います。悪意を持ち、その人の欠点や短所ばかりを見ており、「あいつはこんなダメな奴だ」と語っていくのと、好意を持ち、できるだけその人のよい所、長所を見、「あの人にはこんなよい所がある」と語っていくのとでは、天と地ほどの違いがあります。聖書が「隣人に対する偽証」と言っているのは、前者のような思いで人のことを見つめ、語るその姿勢なのです。なぜならそれは、神ご自身が人間を見つめておられるそのまなざしに反することだからです。人のうわさ話は、とかく悪意や、いじわるな思いで語られがちです。そういうことも、「偽証」に入ると言わなければならないのです。 宗教改革者カルヴァンが書いた「ジュネーヴ教会信仰問答」には、この第9の戒めの解説として次のような言葉があります。「神はわれわれに、悪く判定したり、けなしたりする傾向に陥ることがないように、むしろ事実が許す限り、隣人をよく思うように、またわれわれの言葉をもって彼らの名声を保つべきことをお教えになるのであります」。
牧師 藤 掛 順 一 |
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