富山鹿島町教会

礼拝説教

「募金の信仰」
エレミヤ書 第22章13〜16節
コリントの信徒への手紙一 第16章1〜4節

コリントの信徒への手紙一を読み進めてまいりまして、いよいよ最後の第16章に入りました。この16章は、手紙のしめくくりです。これからコリントを訪れようとしているパウロの計画を語り、先にコリントへと遣わしたテモテのことをよろしく頼み、またコリント教会からパウロのもとを訪問してくれた人々への感謝を語り、そして今パウロがいる、エフェソとその地方の教会の者たちからの挨拶を述べています。そのようにして、手紙をしめくくっているわけですが、そのしめくくりに入る前に、パウロが最後にもう一つ、コリント教会の人々への教えとして語っていることがあります。それが本日の1〜4節です。ここに語られているのは、1節の冒頭にあるように、「聖なる者たちのための募金について」です。募金についての教えがここに語られている。募金という言葉は、「集める」という言葉から来ているもので、「集められたもの、集められたお金」ということです。何かの目的のために特別にお金を集めて用いるのです。そういう募金の活動をパウロは各地の教会で興し、指導していました。1節後半に「わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい」と言われているところにそれが表れています。コリント教会の人々はガラテヤの教会との何らかの交流の中でそのことを聞き、パウロに質問してきたのでしょう。様々な教え、質問への答えの最後に、パウロはこの募金の問題をとりあげているのです。

ところで、先日まで読んできた第15章には、死者の復活の信仰が語られていました。世の終わりに、私たちも、主イエス・キリストの復活にあずかって、新しい、朽ちることのない、復活の体を与えられる。それによって、今私たちを脅かしている死の力が打ち破られ、神様の恵みの勝利が確立する、そういう信仰者の究極の希望について語られてきたのです。そのことから突然こんどは募金の話になる。そこに私たちは大きな落差を感じるかもしれません。世の終わり、永遠を見つめていた目が、突然まことに卑近な、即物的な、募金の話に引き戻される、それはちょっとガクッとくるようなことかもしれません。そして、この手紙は15章まででおしまいにした方がよかったのではないか、15章で信仰的に最高潮に盛り上がったのだから、それにあとちょっとした挨拶と祝福の言葉をもって終わった方が効果的だったのではないか、などと考えることもあるかもしれません。しかしパウロはそうしなかった。世の終わりの復活の希望についての壮大な記述にすぐ続いて、彼はこの募金の問題を同じ口調で語っているのです。このことの意味を私たちは受けとめなければなりません。つまりパウロにとっては、ここには落差はないのです。彼はちっともガクッときていないのです。パウロにとって、世の終わりの復活の希望は、今のこの世の現実の生活とかけ離れた、別世界の話ではありません。勿論彼は15章50節で言っていたように、「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできない」ということを知っています。つまり、この世の営みは過ぎ去っていき、朽ちていく、世の終わりにそれが決定的に変えられ、新しくされなければ、永遠の救いに入ることはできないのです。しかしその復活の希望に生きる信仰者は、この世の歩みにおいて、15章58節に語られていたように、「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励む」者となるのです。それは「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っている」からです。つまり復活の希望に生きる者は、この世の具体的、即物的な現実の中で、それらが朽ちていくものであることをはっきりと知りつつ、なおそこで、朽ちないものにつながる希望をもって「主の業」に励んでいくのです。復活の希望は、この世の事柄を軽んじたり、無視したりする姿勢を生むのではなくて、むしろ本当に責任をもってこの世の事柄に関わっていくという姿勢を生むのです。本当に責任をもってこの世の事柄に関わる、それは、この世の事柄を、本当に無駄にならない仕方で用いていくことです。本当に無駄にならない用い方とは、言い替えれば朽ちないことのために用いていくことです。朽ちないことのために用いる、それは、永遠の主であられ、私たちに朽ちない体を与えて下さる主なる神様のみ業のために用いること、即ち「主の業」のために用いることです。日々の具体的な生活の中で、自分に与えられている様々なもの、いろいろな能力、時間、そしてお金を、他のことのためにではなく「主の業」のために用いていく、それが「主の業に常に励む」ことであり、その時に、その私たちの業、苦労が決して無駄になってしまうことはないという確信に生きることができるのです。募金の教えはこの「主の業」の一環として語られていることです。ですからここには前の章との落差はないのです。復活の希望に生きるというのは、何か抽象的な未来を夢のように思い浮かべながら生きることではなくて、今与えられている生活の中で、与えられているもの、たとえばお金、財産を、主の業のためにどう用いていくか、何に捧げていくか、ということと密接に関わるのです。ですから、15章と16章の間に落差を感じてしまうとしたら、その私たちの信仰にむしろ問題がある、パウロが語っていることがまだちゃんとわかっていないということなのです。

さて、ここで勧められている「聖なる者たちのための募金」ですが、この「聖なる者たち」というのは、小見出しにもありますように「エルサレム教会の信徒」のことです。「聖なる者たち」という言葉は、エルサレムの教会の人々だけに用いられるわけではなくて、パウロ自身も、この手紙の冒頭の挨拶において、コリント教会の人々のことを「聖なる者とされた人々」と呼んでいます。「聖なる」という言葉は、その人の人となりを現わすのではなくて、「神様のものとして聖別された」という意味です。ですから神様の導きによってイエス・キリストを信じ、その救いにあずかった人々全てが「聖なる者たち」なのです。その中で特にこの時募金をして援助する必要があったのは、エルサレムの教会の人々でした。エルサレムは、教会が最初に誕生した所ですが、ユダヤ教の本拠地、おひざもとであり、キリスト教会が次第にユダヤ教との違いを鮮明にしてくるにつれ、激しい迫害にあっていました。また、飢饉の影響もあって苦しんでいたということが使徒言行録には書かれています。そのような苦しみと迫害の下にあるエルサレム教会の人々のために、各地の教会の人々が募金をして、それをエルサレムに送るという運動をパウロはしていたのです。つまりこの募金活動は、同じ主イエス・キリストを信じて教会に連なっている主にある兄弟姉妹の間で、苦しみにあっている人々を支え、助けていこうという働きです。そしてそこで私たちが思いを致さなければならないことは、たとえばコリントの人々にとって、エルサレム教会の人々というのは、会ったこともない、顔も見たことのない人々だということです。ギリシャのコリントとユダヤのエルサレムは、距離的にも、民族的にも全くかけ離れています。この当時はローマ帝国という一つの支配の下に組み込まれていましたが、本来は全くの外国どうしです。そういう、人間的には全くつながりや関係のない、会ったこともない、名前も知らない人々の間に、主イエス・キリストを信じ、その救いにあずかっている、というただ一つの絆、つながりのゆえに、自分の財産を捧げて相手の苦しみを支え助けるという交わりを生み出していく、それがパウロが熱心に勧めていた募金の働きだったのです。

パウロは、キリストの福音を宣べ伝え、教会を造るという働きと同時に、この募金の業を熱心に行っていました。教会が大きく成長してだいぶ余裕が出てきたらば、そろそろこういう募金の働きをもするように、などということを彼はしていません。福音を伝えると共に、彼はこの募金の信仰をも教え、この業を勧めていったのです。コリントの信徒への手紙一では、募金のことにふれているのは本日のここだけですが、第二の手紙では、8、9章においてもっぱらこの募金のことについて語っています。8章の始めのところを読んでみましょう。「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。」。ここにマケドニア州の諸教会のことが紹介されていますが、そこに語られているのは、決して豊かな、余裕のある教会の姿ではありません。むしろ「苦しみによる激しい試練を受けていた」教会が、その「極度の貧しさ」の中から、「人に惜しまず施す豊かさ」を示したのです。募金は、「余裕があればする」というものではありません。必要なのは、今の5節にあったように、「まず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げた」という、主イエス・キリストに自分自身を献げる思いです。自分に与えられているものを、主の御業のために捧げ用いていこうという熱意です。それは「余裕」とは関係ありません。「余裕がない」というのは実は「熱意がない」のです。

主イエス・キリストに自分自身を捧げる熱意はどこから生まれるのか。そのことをパウロはその次の8節以下で語っています。「わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。主イエス・キリストは、私たちのために、貧しくなって下さった。その主の貧しさによって、私たちは豊かな者とされた。それが、主イエス・キリストに自分自身を捧げる募金の信仰の原点です。まことの神であられる主イエスが、人間となり、しかも私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さった、それはご自身の豊かさを私たちのために放棄し、進んで最も貧しい者となって下さったということです。そのことによって、私たちは、罪の赦しの恵みを与えられ、神様の祝福の内に、神の民として生きる豊かな幸いを与えられたのです。主イエス・キリストによる救いはこのように、豊かな者が貧しい者のためにその豊かさを捨てて貧しくなる、それによって貧しい者が豊かにされる、という構造を持っています。その救いにあずかっている私たちが、同じことを人間どうしの間でしていこうというのが募金の信仰です。主イエス・キリストの十字架による救いにあずかっている者だからこそ、そのように生きることができるのです。そしてこのような募金の働きは豊かな実りを生みます。そのことが、第二の手紙9章11節以下に語られています。「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。この奉仕の業が実際に行なわれた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。言葉では言い尽せない贈り物について神に感謝します」。この働きは、募金によって支えられる者から支える者への感謝を生むのみではなくて、このような働きを生み出して下さった神様への感謝を生み、神様をほめたたえる声が高らかにあげられていくのです。募金によって支える者も支えられる者も、共に神様に感謝し、神様をほめたたえ、そして一人の主イエス・キリストに共に連なる兄弟姉妹として互いに祈り合っていく、そういう信仰における交わりが、人間的な絆を越えて、会ったことのない、名前も知らない人々との間に生まれていく、パウロはそういう実りを見つめているのです。パウロがそこで大切なこととして意識しているのは、主イエス・キリストの教会の全世界的広がりです。私たちはとかく、自分が目で見ることができ、顔と名前を知っている人々の間だけの交わりに閉じこもってしまいがちです。しかし、主イエス・キリストを頭と仰ぐ教会は、私たちの見える範囲、知り得る範囲をはるかに越えて全世界に広がっているのです。その教会を一つに結びつけている絆はただ一つ、主イエス・キリストによる救いです。私たちが、自分の知ることのできる範囲のみに意識を狭めてしまう時に、そこでは、教会の絆は主イエス・キリストではなくなって、私たちの人間関係になってしまいます。それでは、教会はキリストの教会でなくなってしまうのです。キリストの教会の一員であろうとするならば、私たちは、顔も名前も知らない人をも兄弟姉妹として意識していく感覚を養われていかなければなりません。その感覚を具体的、即物的に養われていく場が募金の働きなのです。

コリント教会からエルサレム教会への募金が送られるということは、異邦人からユダヤ人へと、援助の手が差し伸べられるということです。パウロはそのことにも深い意味を見出しています。そのことは、ローマの信徒への手紙の15章26節以下に語られています。「マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります」。異邦人はユダヤ人の霊的なものにあずかった。旧約聖書以来の主なる神様の恵みは、ユダヤ人が神の民として担ってきたものです。その恵みが、主イエス・キリストによって、異邦人にまで拡大され、異邦人も含めた新しいイスラエルとしての教会が生まれたのです。ユダヤ人が担ってきた伝統、信仰なしに、イエス・キリストによる救いはありません。私たち異邦人は、救いにおける多くの部分を、ユダヤ人に負っているのです。旧約聖書が私たちの聖書であるということはそういうことを意味しています。そのように救いにおいてユダヤ人のおかげを被っている異邦人が、今度は肉のもの、物質的な面で彼らを助けることは当然だ、というのです。このことは、これだけを取り出して読むと、パウロがユダヤ人として異邦人に対して自己主張をし、おまえたちが私たちを助けることは当然の義務だ、と言っているかのように感じられますが、実際にはそういうことではありません。パウロという人はユダヤ人ですが、熱心なユダヤ教徒としてキリスト信者を迫害していたところから、劇的な回心を与えられ、今度は異邦人のためのキリスト伝道者となりました。その彼が宣べ伝えていった福音は、ユダヤ的なしきたりや律法から全く解放された、ただ主イエス・キリストのみによって救われるという福音でした。異邦人も、キリストを信じることのみによって教会に加わることができる、ユダヤ人になることを象徴する割礼を受ける必要もないし、律法を守ることも救いの条件ではない、パウロのそういう伝道によって、各地に異邦人の教会が生まれていったのです。しかしユダヤ人でキリスト信者になった人々の中には、そのようなパウロの福音に疑問を持つ者たちもいました。キリストによって救われることは勿論であるにせよ、やはりユダヤ的伝統、割礼とか、律法は大事だ、それを守る者でなければ、神の民とはいえない、という考え方がエルサレムを中心とするユダヤ人教会には根強くあったのです。つまりパウロが伝道していた当時、ギリシャなど異邦人の地の教会と、エルサレムを中心とするユダヤの教会との間には、福音の理解をめぐる微妙にして深刻な問題があったのです。下手をすればそこで、異邦人の教会とユダヤ人の教会とが対立、分裂してしまったかもしれません。もしそうなっていたら、異邦人の教会は、ユダヤ人たちの信仰的伝統から断ち切られた根無し草の、単なる新興宗教となってしまい、歴史の荒波の中を生きていく力を失ってしまったでしょう。また他方ユダヤ人の教会も、結局ユダヤ教の一分派に止まり、今日のような世界宗教としてのキリスト教に発展することはなかったでしょう。今日キリスト教が、ユダヤ人たちの伝統をしっかりと受け継ぎつつ、つまり旧約聖書を聖書として位置づけつつ、全世界の人々が信じることのできる世界宗教となっているのは、この時、パウロを中心とする異邦人の教会と、エルサレムのユダヤ人教会とが、対立、分裂してしまうのではなく、キリストにあってお互いが一つであることを確認することができたからであると言っても過言ではないのです。パウロは、この、異邦人教会とユダヤ人教会の一致のために心を砕いています。その一つの表れがこの募金活動なのです。異邦人の教会が、ユダヤ人からの信仰的遺産に感謝しつつ、その現在の苦しみに思いを致し、募金をもって支える、そのことによって、教会が、民族的、習慣的な様々な違いを持ちつつ、主イエス・キリストによる救いの恵みによって一つとなる、それがパウロの願いなのです。 本日の16章2節には、募金の集め方についての指示が語られています。「わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい」。パウロが来てからあわてて集めるようなことにならないように、毎週少しずつ集めておきなさい、という実際的な指示です。しかしそれだけではありません。「週の初めの日」というのは、日曜日のことです。主イエス・キリストの復活の記念日である日曜日に、教会の者たちは集まって礼拝を守っているのです。その礼拝において、募金がなされる。それは、単に困っている人たちを助ける、赤い羽根募金とか、歳末助け合いなどとは違う意味を持つことです。この募金は、先に申しましたように、主に自分自身を献げるという行為としてなされるのです。そこで求められているのは、慈善を施す思いではなく、主への献身の思いです。そのようにして主にお献げしたものを、主に用いていただくのです。主が用いて下さることによってこそ、その捧げものは本当に無駄にならず、生かされていくことができるでしょう。募金は、私たちが自分のお金、財産をどう生かして有効に用いるか、ではなくて、自分のお金、財産を主にお献げすることによって、主に、それを本当に有効に生かして用いていただく、ということなのです。

毎週日曜日の礼拝において、各自が収入に応じて幾らかずつを献げていく、それは私たちの現在の教会生活における献金に当たるものであると言えます。しかし大事なことは、この献金が、自分たちの群れのために、自分たちの信仰生活の維持のために集められたのではない、ということです。自分たちの群れを、自分たちで持ちより、献げたもので維持していくのは当然のことです。ここでは、それに加えて、他の群れ、見たことも会ったこともない、しかし今苦しみの中にある、共にキリストに連なる兄弟姉妹のための募金がなされているのです。初代の教会が、コリントとエルサレムという、今日よりもずっとずっと大きかったであろう物理的、精神的距離にもかかわらず、このような具体的な交わりに歩んでいったその姿を、私たちはよい模範としてそれに倣っていきたいものです。今私たちは、台湾大地震の救援献金を、台湾基督長老教会にお送りすべく募金を行っています。あるいは、この国のこれからの伝道を担う伝道者を養成している東京神学大学のための募金も行っています。さらには、隠退教師の生活を支える年金のための募金、能登半島の伝道を担っている諸教会のための募金も随時行っています。私たちがそこで捧げたお金が、具体的にどのような人によってどのように用いられるのかを私たちはいちいち知ることはできません。しかし顔も名前も知らなくても、そこには確実に、主イエス・キリストに共に連なっている兄弟姉妹がいます。募金の働きを通して、主がそれらの兄弟姉妹を支え、導いて下さるその御業に、私たちもこの身を献げていきたいのです。自分に与えられているものをそのように用いていくことこそ、復活の希望に生き、主の業に励み、主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを知っている私たちに最もふさわしいことなのです。逆に、自分のものを主にお献げすることを惜しみ、名前も知らない、顔も見たこともない者を兄弟姉妹として覚えることを拒むならば、私たちはエレミヤ書22章13節以下と同じお叱りを主から受けることになるでしょう。

「災いだ、恵みの業を行わず自分の宮殿を、正義を行わずに高殿を建て、同胞をただで働かせ、賃金を払わない者は。彼は言う。「自分のために広い宮殿を建て、大きな高殿を造ろう」と。彼は窓を大きく開け、レバノン杉で覆い、朱色に塗り上げる。あなたは、レバノン杉を多く得れば立派な王だと思うのか。あなたの父は、質素な生活をし、正義と恵みの業を行ったではないか。そのころ、彼には幸いがあった。彼は貧しい人、乏しい人の訴えを裁き、そのころ、人々は幸いであった。こうすることこそ、わたしを知ることではないか、と主は言われる」。

牧師 藤 掛 順 一
[1999年10月17日]

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