富山鹿島町教会

礼拝説教

「死は勝利にのみ込まれた」
ホセア書 第13章9〜14節
コリントの信徒への手紙一 第15章50〜58節

コリントの信徒への手紙一の15章を読み進めてまいりました。この15章でパウロが語っていることは、イエス・キリストを信じる信仰者たちが、この世の終わりの日、主イエスの再臨の時に、復活して、新しい体、霊の体を与えられるという、信仰における究極的な希望についてです。その希望の根拠であり、保証であるのが、主イエス・キリストの復活でした。主イエス・キリストは、私たちのために、私たちの罪を背負って十字架の上で死んで下さいました。主イエスの死は、死ぬべき罪人である私たちの身代わりとしての死だったのです。その主イエスを、父なる神様は復活させて下さいました。それはやはり、私たちのための復活です。神様が私たちにも新しい命と体を与えて下さる、その初穂として、主イエスは復活されたのです。主イエスの復活によって、私たちにも、この肉体の死を越えた彼方に、新しい命、神様の恵みによって活かされる新しい体への希望が与えられたのです。

この希望はどのように実現されていくのか、復活の体はどのように与えられるのか、ということについて、パウロは、今私たちに知ることが許されている範囲内で、精一杯語ってきました。復活の体は、今私たちが生きているこの肉体とは違う、霊の体です。霊の体というのは、霊によって出来ている体、ということではなくて、聖霊によって活かされている体ということです。今私たちが生きているこの体は、神様が与えて下さった自然の命によって生きているものです。その自然の命が取り去られれば私たちは死ぬのです。復活は、その自然の命の体がもう一度息を吹き返すことではありません。神様が、聖霊によって生きる新しい体を与えて下さるのです。それがどんな体であるかということを、私たちは今のこの自然の命の体から類推することはできません。そこには、蒔かれる種と、そこから生じる実りほどの大きな違いがあるのです。だから復活の体はこんな体だと見てきたように語ることはパウロといえどもできません。ただ一つ言えることは、それは最後のアダムである復活されたキリストの体と通じるものであるということです。私たちは終わりの日に、復活されたキリストと同じ体を与えられていく、それだけははっきりと言うことができる、そしてそれで十分なのだとパウロは言っているのです。

そのように復活について語ってきた15章の締めくくりが本日の所です。50節で彼はこう語っています。「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」。「肉と血」「朽ちるもの」それは私たちの今のこの体です。「神の国」とは神様の恵みのご支配ということです。それが「朽ちないもの」と言い変えられています。それを「受け継ぐ」というのは、神様の恵みのご支配の下に、朽ちることのない命を生きる者となる、即ち、救いの完成にあずかることです。肉と血、朽ちるものは、神の国、朽ちないものを受け継ぐことができない、つまり私たちは、今のこの体のままで、この人生において、救いの完成を得ることはできないのです。そこそこに幸せな人生を送っている者は、この事実を忘れてしまいます。そして自分の人生が平穏無事に過ぎていくことが神の救いであるように思ってしまいます。しかし一旦何かが起これば、私たちの人生はズタズタになってしまいます。最近世界の各地で大きな地震が続いて起きて、そのたびに何千人という人々が死にました。あるいは突然色もにおいもない放射性物質が人々を襲う、私たちはこのようなことを見ると、「神様がおられるなら何故こんなことが起こるのか」と思います。しかしこれらのことはまさに、肉と血をもって生きる私たちのこの人生、今のこの世界が、神の国を受け継ぐことのできるものではない、そこには救いの完成はないということを示していると言わなければならないでしょう。自然の命の体をもって生きるこの人生の中には、救いの完成、神様の恵みのご支配の完成はないのです。

そのことを語った上でパウロは51節で「わたしはあなたがたに神秘を告げます」と言います。「神秘」というのは「隠されたこと、秘密」という意味の言葉です。私たちの眼に通常隠されていること、信仰によってしかわからないこと、それを告げるというのです。それは「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます」ということです。今とは異なる状態に変えられる、つまり、肉と血、朽ちるものであり、それゆえに神の国を受け継ぐことができない私たちが、霊の体へ、朽ちないものへと変えられるのです。そして、神の国を受け継ぐ、救いの完成にあずかるのです。そのことはいつ、どのようにして起こるのか。52節にこうあります。「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」。これが、終わりの日の死者の復活です。世の終わりの、キリストがもう一度来られるその時に、私たちは復活し、朽ちないもの、神の国を受け継ぐ者へと変えられるのです。そうであるならば、この復活こそ、私たちが神の国を受け継ぐための、救いの完成にあずかるための、必要欠くべからざるものです。復活は、神様の救いの恵みの、最後のつけ足しではありません。もう十分に与えられた救いの恵みに、最後にさらに復活というもう一つの、言わばおまけが与えられる、というものではないのです。私たちは、復活において新しくされることなしには、朽ちないものへと変えられることなしには、神の国を受け継ぐことはできないのです。復活なしには、救いは一時の影のようなものでしかありません。復活の希望を見つめることのない信仰は、この世の生活の中で、救いの影を、あるいはその兆しを得ただけで、結局朽ちるものである肉と血の中に埋没してそれを見失ってしまう、ということになるのです。

しかしここでパウロが語っているのは、復活が大事だから復活できるように努力しなさい、ということではありません。パウロが語っているのはそういう努力目標ではなくて、神秘です。隠された真理です。それは、「私たちは皆、今とは異なる状態に変えられるのだ」ということです。キリストを信じる信仰者は、復活し、朽ちないものへと変えられる、それは努力目標ではなくて、既に約束されている神様のご意志なのです。それが、私たちの眼には通常隠されている神秘、信仰によってしかわからない秘密なのです。パウロはこの隠されている神の恵みの約束を告げ知らせています。復活について語るというのはそういうことなのです。それは信仰によってしかわからないことですから、当然、理解できない、信じられない、という人々も出てきます。それは当時も今日も同じです。2千年前のこの頃は、科学も進歩していなかったから復活の教えも受け入れられたのだろう、今日この科学の発達した時代に復活などと言われてもそれを信じることは難しい、と思う人がいるとしたら、それは間違いです。2千年前も、復活はやはり「神秘、隠されたこと」であり、「信仰によってしかわからないこと」だったのです。

しかしこの神秘、信仰によってのみわかる神様の恵みの事実に眼を開かれるならば、私たちは大いなる希望に支えられて生きることができます。53節に「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」とある、この希望です。私たちの今のこの体、この世の人生は、朽ちるべきもの、死ぬべきものです。何十年かの人生を、どのように充実して幸せに生きたとしても、あるいは全く不遇の内に、苦しみつつ生きたとしても、最後に待っているのは死です。しかしこの隠された神の約束を知るならば、この地上における何十年かの人生が私たちの歩みの全てではないこと、肉体の死を越えた彼方に、神様の恵みによって活かされる新しい、朽ちることのない、死ぬことのない命と体が与えられることを示されるのです。私たちの地上の人生は、この朽ちることのない、死ぬことのない新しい歩みに向けての備えの時となるのです。そしてその時私たちは、この世の人生における喜び、誉れ、豊かさを絶対化してしまうことから救われるのです。この世の人生における喜び、誉れ、豊かさを絶対化し、それに捕えられてしまうと、それを得ることが人生の最大の目的になってしまいます。そのために、もっと大切なことを見失ってしまうことになります。また、喜び、誉れ、豊かさを得た者は、それを失うことをいつも恐れるようになります。しかし必ずやって来る死は、それらのものを全て奪い去ってしまうものですから、死を常に恐れ、そのことは極力考えないで生きることになります。しかし復活の希望に生きる者は、この世における喜びや誉れや豊かさが過ぎゆくもの、朽ちていくものであること、そしてそれらが全て失われても、なお神の恵みが自分を捕えていることを信じて生きることができるのです。同じように、復活の希望に生きる者は、この世の人生における苦しみ、不幸、不遇を絶対化することからも救われます。この世の人生が全てだと考えている者には、苦しみ、不幸、不遇は人生の決定的な敗北、失敗を意味します。それは絶望を生むのです。しかし復活の希望を与えられているなら、この世の人生における苦しみや不幸が、人生の価値を決める最後の事柄ではなくなるのです。地上の人生を、たとえ苦しみと不遇の内に終えることになるとしても、死の彼方に新しい、朽ちることのない、神の国を受け継ぐ歩みが与えられることを信じ、希望を持ち続けることができるのです。

これらのことを一言で言うならば、死に対する勝利を与えられるということです。この世の人生しか見つめることができない者にとっては、死は、その人生をめちゃめちゃに破壊する不気味な力です。そして誰も死から逃れることができないのですから、私たちは皆この不気味な力の支配下にあるということになります。人生は、死から与えられている一時の執行猶予期間になるのです。しかし復活の希望に生きる者は、死が、神様のご支配の下にあることを信じることができます。神は死んだ者を復活させ、新しい命と体をお与えになることができる。つまり神は死の力に既に勝利し、それをご自分の支配下に置いておられるのです。そこでは死はもはや不気味な力ではありません。私たちの人生は死から与えられた執行猶予期間ではなくて、神様が命を与え、生かしてくださっている恵みの時です。そして神様は私たちを死の力から救い出して、新しい、朽ちることのない命と体をも与えて下さるのです。復活の希望に生きる者にとっては、人生はこの神様の、死に対する勝利の下にあるのです。

このことをパウロは、旧約聖書の言葉の実現として語っています。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」。この旧約聖書の言葉が、私たちの復活において現実となるのです。「死は勝利にのみ込まれた」というのは、多少文章は違っていますが、イザヤ書25章8節の言葉です。そして「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」というのが、これも少し違ってはいますが、本日共に読まれたホセア書13章14節の言葉なのです。旧約聖書に既にこのように、死の力に対する勝利が語られている、それが、世の終わりの私たちの復活の時に実現するのです。しかし、先程ホセア書13章9節以下の朗読を聞かれた方は、この引用はおかしい、と思うのではないでしょうか。もう一度そこを読んでみましょう。「イスラエルよ、お前の破滅が来る。わたしに背いたからだ。お前の助けであるわたしに背いたからだ。どこにいあるのか、お前の王は、どこの町でも、お前を救うはずの者、お前を治める者らは。『王や高官をわたしにください』とお前は言ったではないか。怒りをもって、わたしは王を与えた。憤りをもって、これを奪う。エフライムの咎はとどめておかれ、その罪は蓄えておかれる。産みの苦しみが襲う。彼は知恵のない子で、生まれるべき時なのに、胎から出て来ない。陰府の支配からわたしは彼らを贖うだろうか。死から彼らを解き放つだろうか。死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。憐れみはわたしの目から消え去る」。おわかりのように、これはイスラエルに対する裁きの宣言であり、神様の裁きによってイスラエルが滅ぼされるということを語っている言葉です。14節も「陰府の支配からわたしは彼らを贖うだろうか。死から彼らを解き放つだろうか」となっています。「そんなことはしない」という意味がそこには込められています。そして「死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか」と続くのです。これは、「そんなものはどこにもない」ということではなくて、「死よ、陰府よ、早くここに来ておまえたちの呪いと滅びの力を発揮せよ、何をぐずぐずしているのか」という意味なのです。だから14節の最後は「憐れみはわたしの目から消え去る」となっています。つまりこれは、死に対する神様の恵みの勝利を語った言葉などではありません。パウロは、ホセア書における文脈、意味を全く無視して、全然違う意味でこれを引用している、と思われるのです。けれども、このホセア書の言葉をさらに深く読んでみると、ここで死がイスラエルに対して力を発揮しているのは、主なる神様の許しの下でであることがわかります。神様がイスラエルを死に引き渡されるがゆえに、死は力を奮うことができるのです。ですからこのホセア書においても、神様の力は死の力よりも上位にあることが確認されているということはできるのです。その神様が力を奮って、死を打ち滅ぼして下さることが、復活において起こるのです。ですからこの引用は、表面的な意味は反対でも、内容的にはつながっていると言うことができるのです。

またこの少しちぐはぐな引用は、旧約聖書においては、死は神様の許しの下で人間の上に力を奮っているが、今や神の恵みによってその力は打ち破られ、復活の命の約束が与えられている、ということを示しているとも言えます。その違いは主イエス・キリストによってもたらされたものです。主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たちに対して死が持っている意味が全く違ったものになったのです。パウロはそのことを、56、57節で語っています。「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」。「死のとげは罪であり」という言葉に、生れつきの私たちにとっての死の意味が如実に示されています。死は私たちに痛みを与え、苦しみを与えるとげなのです。そして死がとげであるのは、罪のためなのです。ここに、聖書の基本的な考え方があります。人間にとって死が苦しみであるのは、罪のゆえである、というのがそれです。人間が神様に背き、自分を主人として生きようとすること、それが罪です。その罪によって、私たちと神様との関係が損なわれ、疎遠になってしまっています。その疎遠な神が、私たちの命を、み心によって終わらせるのです。そこに、死が不気味な力として感じられる原因があります。今読んだホセア書が、神の怒りによってもたらされる死を語るのも、人間の罪のゆえに神との関係が損なわれていることに原因があるのです。主イエス・キリストは、その私たちの罪を背負って、十字架にかかって死んで下さいました。神の独り子である方が、私たちと神様との関係を隔てている罪をご自分の身に引き受けて、その関係をよくするために死んで下さったのです。この主イエス・キリストの十字架の死によって、神様は私たちの罪を赦して下さいました。主イエス・キリストによって、神様は私たちとよい関係、近い関係を結び直して下さったのです。主イエス・キリストの十字架による罪の赦しを信じる者にとっては、神様はもはや疎遠な方ではなく、近い、親しい、愛に満ちた方です。それゆえに、主イエスを信じる者には、死のとげは根本的に失われているのです。しかしそれでもなお、私たちが肉と血をもって、朽ちるものとしてのこの人生を歩んでいる限り、その人生の終わりである死は、苦しみと、恐れと、不安をもたらすものです。その死に対する最終的な勝利が、復活において与えられるのです。終わりの日の私たちの復活は、主イエス・キリストによって既に実現している、死のとげの無力化、死に対する神の恵みの勝利の完成なのです。

死は勝利にのみ込まれた、そのことが、復活において実現します。死はなお私たちの上に力を奮っていますが、私たちを最終的に支配するのは、死の力ではなく、イエス・キリストにおける神の恵みなのです。死は、この恵みの力に飲み込まれ、あとかたもなく消え去るのです。私たちはそういう約束を神様からいただいています。主イエス・キリストの復活がその証拠、保証なのです。この復活の希望に生きる時、私たちのこの世の生活が変わるのです。最後の58節はそのことを語っています。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」。これは今のこの人生における生活のことです。この体をもって生きるこの人生において、動かされずにしっかりと主の業に常に励んでいく。それは私たちそれぞれが自分の置かれた場で、神様に仕え、神様が喜びたもう働きを、何によっても動揺させられることなく熱心に行っていくということです。復活の希望に生きる時にそのような人生が与えられる。それは、神様の救いにあずかるためにそれが必要だからではありません。肉と血における歩み、朽ちるものであるこの体における歩みは、どんなにすばらしいものであったとしても、神の国を受け継ぐことはできないのです。この世の生活においてどんなにすばらしい働きをしても、それによって救われるのではありません。私たちの救いは、主イエス・キリストの十字架の死と復活によるのであり、その復活にあずかって私たちも終わりの日に復活する、そこに救いの完成があるのです。それは神様のあの神秘、隠された真理において約束されていることであって、私たちが努力して獲得することではありません。主の業に励むのは、救いにあずかるためではないのです。それでは何故主の業に常に励むのか。それは、「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことをあなたがたは知っている」からだと言われています。無駄にならない、それは、滅んでしまわない、朽ちてしまわないということです。人間の業、この世の働きは、この人生のみにおけることです。死ねばそれで終わりになる。たとえ後継者に引き継がれるとしても、この世の終わりと共にそれは終わるものです。しかし主の業、主に仕える働きは、人間の死とともに朽ちていくものではありません。またこの世の終わりによって滅びてしまうものでもありません。復活において、朽ちない、死なないものへと変えられる、その時にもなお続いていくことなのです。私たちが主の業に励むのは、それによって救いを獲得するためではありません。それこそが、本当に無駄になってしまわないことだからです。人間の世界だけで終わってしまうことではなくて、朽ちることのない、永遠の神の国につながっていくことだからです。肉と血をもって生きる私たちのこの人生は、神の国を受け継ぐことができません。しかしこの人生において私たちがする事の中で、神の国とつながっていることが一つだけあるのです。それが、主の業に励むことです。本日は、世界聖餐日の礼拝を共に守っています。この後聖餐にあずかります。この聖餐にあずかることも、主の業に励むことの一つです。聖餐において私たちは、世の終わりに朽ちない者へと変えられ、復活の体を与えられて、神の国において共にあずかる祝福の宴を、この地上で、パンと杯によって前もってかいま見、味わうのです。聖餐はそのように、神の国の宴とつながっているのです。聖餐にあずかることによって、私たちは復活への希望を新たにし、なお私たちを脅かしている死の力が、主イエス・キリストにおける神様の恵みに既に飲み込まれてしまっていることを確認するのです。

牧師 藤 掛 順 一
[1999年10月3日]

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