富山鹿島町教会

礼拝説教

「霊の体」
創世記 第2章7節
コリントの信徒への手紙一 第15章42〜49節

本日ご一緒に読みます聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙一の15章42節以下ですが、ここはその前の所から続いている所です。先々週の礼拝において読みました35節以下のところで、パウロは、「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」という疑問に答えているのです。この世の終わり、主イエス・キリストがもう一度来られる再臨の時に、キリストを信じて死んだ信仰者たちは復活して新しい体を与えられる、その死者の復活について、この15章は語っています。そこには当然いろいろな疑問も起ってきます。一番大きな、あるいは現実的な疑問は、復活したときの体はどんな体なのか、今この地上を生きているこの体と、どこが同じでどこが違うのか、ということです。パウロはその疑問に対して、種とそれが育っていって生じる実り、というたとえをもって答えています。種と実とでは形も大きさも全く違う。だから知らなければ、この種からあの実が実るなどということは想像もできない。私たちの現在の体と、復活において与えられる体もそれと同じで、今のこの体から、復活の体のことを類推したり想像することはできないのだ、神様が種からそれぞれの実を実らせて下さるように、私たちも、今のこの体が死んで葬られた後、世の終わりに、神様によって全く新しい、今よりもはるかに素晴らしい体を与えられるのだ、ということです。

本日の42節以下は、そのことをさらに深めて語っている所です。ここには、種である私たちの現在の体と、実である復活において与えられる体との違いが語られています。42、43節にこうあります。「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです」。私たちの今のこの体は、朽ちるもの、卑しいもの、弱いものです。しかし復活において与えられる体は、朽ちないもの、輝かしいもの、力強いものなのです。そしてこれらをまとめて44節では「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです」と言われています。私たちの今の体は「自然の命の体」、復活の体は「霊の体」なのです。私たちは、世の終わり、キリストの再臨の時に、霊の体へと復活するのです。

ここで「霊の体」ってどんな体か、とたずね出したら、35節の「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」という問いに逆戻りすることになります。パウロがここで復活の体を「霊の体」と言っているのは、復活において与えられる体がどんな体であるかを説明して納得させるためではありません。先程申しましたように、私たちは、今のこの体、自然の命の体から、復活における体、霊の体のことを類推したり想像することはできないのです。復活の体のことを「ああこういう体が与えられるのか」と理解し、納得することは私たちには不可能です。「霊の体」というのも、そういう説明のための言葉ではないのです。ですから、「霊の体」というのだから、霊魂のような形のないふわふわしたものからできている体のことか、とか、あるいはそれこそ幽霊のようなものではないか、などと考えることは間違いなのです。パウロがここで語っているのは、復活の体についての説明ではなくて、私たちの現在の体と、復活の体との関係、対比なのです。あるいはもっと正確に言えば、私たちの現在の体を生かしているものと、復活の体を生かすものとの対比なのです。そのことを見つめることによって、復活の体についての、基本的なイメージを持つことができる、そしてそれを待ち望むことができるようになるのです。 さてここに語られている対比を知るためには、私たちの現在の体とは何か、それを生かしているものとは何かをわきまえなければなりません。今のこの体のことならもうわかっている、わからないのは復活の体のことだ、というわけにはいかないのです。パウロは私たちの現在の体のことをどのように語っているのでしょうか。それが先程の「自然の命の体」という言葉に凝縮されているのです。「自然の命の体」とはどういうことでしょうか。この日本語の言葉のイメージに捕らわれてしまうことは危険です。ここは非常に翻訳のしにくい箇所で、前の口語訳では、同じ言葉が「肉の体」と訳されていました。つまり「自然の」という言葉は原文にはないのです。この「自然の命の」とか「肉の」と訳される言葉は、原語では「プシュキコス」といいます。それは「プシュケー」という名詞が形容詞化した言葉で、「プシュケーの、プシュケーに属する」というような意味です。その「プシュケー」という言葉は、普通には「魂、あるいは息」と訳されます。そうするとこの私たちの現在の体を表す言葉は「魂の体」あるいは「息の体」という意味になるわけですが、それが私たちの現在の体を表す言葉として用いられるのは、次の45節の旧約聖書の引用との関係によることです。そこに「最初の人アダムは命のある生き物となった」とあります。これは本日共に読まれた旧約聖書、創世記第2章7節の引用です。そこには、主なる神様が土の塵で人間アダムをお造りになり、その鼻に命の息を吹き入れることによって、人間は生きた者となったということが語られています。この創世記2章7節がギリシャ語に訳された時に、「すると人は生きたプシュケーとなった」という表現が用いられたのです。神様が吹き入れられた命の息によって、人間は息のある、命のある者となった、そのことが「プシュケーになった」と言い表されたのです。そこから、「プシュケーの、プシュケーに属する」体という言葉が、神によって命の息を吹き込まれて生きたものとなった人間の体のことを意味するようになったのです。翻訳ではそのことが全く表れておらず、44節と45節は関係がないかのように思えてしまいますが、実は44節の「自然の命の体」という言葉と、45節の創世記の引用とはこのように密接に結びついているのです。つまり、パウロが、私たちの今のこの体を「自然の命の体」と呼ぶことによって見つめているのは、ただ自然に与えられている体とか、肉体における体ということではなくて、神様によって造られ、神様によって命の息を吹き入れられて生かされている体ということなのです。パウロは私たちの現在の体のことをそのように見つめています。つまり、今のこの体は神様によって造られたものであり、それを生かしているのは神様からの命の息なのです。

これが私たちが今生きている「自然の命の体」です。その「自然の命の体」が、朽ちるものであり、卑しいものであり、弱いものであるとパウロは語っているのです。このことはとても大事なことです。私たちは、現在のこの私たちの体が、朽ちるものであり、卑しいものであり、弱いものであることを知っています。その卑しさ、弱さを様々なことによって思い知らされています。そしてそれが年とともに次第に弱り、やがて死んで朽ちていく、そのことをどうすることもできないことを感じています。体だけではありません。そこに宿っている私たちの命、魂や心そのものが、朽ちるもの、卑しいもの、弱いものなのです。体は弱く卑しいけれども心だけは清く尊いなどということはありません。私たちが弱く卑しいものであるのは、むしろ心においてです。心の弱さ、卑しさが、体にも表れ、生活の全てに表れてくるのです。そういう弱さ卑しさからなんとかして抜け出したいと私たちは思います。そしてそのために、いろいろと努力をします。少しでも強い者に、清く正しい者になりたいと願ってがんばります。そしてその一環として神様にも救いを求めます。神様の助けと力とをいただいて、この弱さ卑しさから抜け出し、もっと強い、清い者になりたいと願うのです。私たちの信仰というのはしばしばそういうものなのではないでしょうか。しかしここでパウロが言っているのは、私たちは朽ちるもの、卑しいもの、弱いものとして神様によって造られている、それが私たちの、神様から与えられた「自然の命の体」なのだということです。自然の命の体がもともと、朽ちるものであり、卑しいものであり、弱いものなのです。ですから私たちが、朽ちるもの、卑しいもの、弱いものとして生きている、そのことは、ある意味では自然なことなのです。神様によって造られたままの姿を生きているということなのです。勿論そこには人間の罪の問題があります。罪というのは人間が神様に背いて、神様のみ心ではない生き方をしていくことです。そのことを、これも自然なこと、神様によって造られたまま生きているのだと責任逃れをして、神様のせいにしてしまうことはできません。私たちの罪はやはり私たちから出ていることであって、それは私たちが負わなければならないものです。けれども言えることは、そのような罪に陥っていく可能性をもった弱く卑しい者として私たちは造られているということです。自分の罪を神様のせいにしてしまうことはできませんけれども、どうしようもなく罪に落ちていってしまうその自分が、神様によって造られている、つまり神様のみ手の中に置かれている、ということはここに語られている事実なのです。

しかしパウロは、我々が弱く卑しい者であり、朽ちていく存在であるのは、神がそのように我々を造られたからなのだから仕方がないのだ、ということを言おうとしているのではありません。そのような自然の命の体を生きている私たちが、霊の体を与えられる時が来ると語っているのです。「霊の」体、それは先程の「自然の命の」の「プシュキコス」に対して「プニューマティコス」という言葉です。それは「プニューマの、プニューマに属する」という意味になります。そのプニューマとは、「霊」ですが、それは人間の霊、霊魂というような意味ではなく、神様の霊、聖霊のことです。神様は、父なる神、その独り子なるイエス・キリスト、そして聖霊という三つの仕方で私たちにご自身を現し、救いのみ業をして下さるというのが聖書におけるいわゆる三位一体の神の教えですが、その三つの内の一つである聖霊、まことの神であられる聖霊によって生かされる体、その聖霊に属する体が、復活において与えられるのです。その体は、自然の命の体とは違って、朽ちないもの、輝かしいもの、力強いものです。自然の命の体が朽ちるもの、卑しいもの、弱いものであったのは、それが神様が人間の中に吹き入れた命、人間の命によって生きるものだったからです。しかし霊の体は、聖霊によって生きるものです。自然の命の体と霊の体との違いは、もともと神様が吹き入れて下さったものではあるにせよ、人間の命によって生きる体と、神様ご自身であられる聖霊によって生きる体との違いなのです。この地上を生きる私たちは、人間の命によって生きています。それが取り去られれば死ぬわけですが、復活において、そういう人間の命によるのではない、聖霊によって生きる新しい命と体とを与えられるのです。それが、私たちの復活において起ることの本質なのです。

しかしこのことはそれだけではまことに抽象的な、雲をつかむような話です。聖霊によって生きる新しい命と体と言われても、私たちにはそのイメージが全くわきません。「霊の体」は言葉だけではやはり幽霊のようなわけのわからないものでしかないのです。その「霊の体」を、私たちにはっきりと示して下さっている方がおられます。それが45節後半の「最後のアダム」です。それは言うまでもなく、主イエス・キリストのことです。しかも、十字架にかけられて死に、そして復活された主イエスのことです。主イエスの復活において、聖霊によって生きる新しい命と体、霊の体が、具体的な現実として示されたのです。復活された主イエスの体こそ、聖霊によって生きる霊の体です。それは幽霊のような単なる霊体ではありません。ちゃんと姿形を持ち、ものを食べたりもする、ふつうの体です。しかしそれは同時に、閉ざされた部屋の中にも入ってくることができるような、肉体としての制約を超えたものでもあるのです。この復活された主イエスおいて、私たちは霊の体のイメージを持つことができるのです。

この主イエスが、「最後のアダム」と言われていることに注目しなければなりません。最初のアダムは、神様によって命の息を吹き入れられ、「自然の命の体」を生きる者の初穂となりました。その後の全ての人間たちがこのアダムと同じ体をもって生きているのです。アダムとはそのように、人類の始めに位置している名前なのです。それに対して復活された主イエスは「最後のアダム」です。この最後のアダムは、復活において、聖霊によって生きる「霊の体」を生きる者となられました。それはこの主イエスを信じ、主イエスにつながっていく者たちが、同じ霊の体を与えられていく、その初穂としてです。最後のアダム、主イエス・キリストから、霊の体を与えられる新しい人間、朽ちる、卑しい、弱いものから、朽ちない、輝かしい、力強いものへと変えられる者たちの群れが始まっているのです。47節以下はそのことを語っています。「最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです」。ここに語られていることを誤解してはなりません。これは、人間の中に、地に属する者と天に属する者という二種類がある、ということではありません。生まれつきの、自然の命の体を生きている私たちは皆、地に属する者であり、土からできた人アダムの似姿となっているのです。その私たちが、天に属する人、第二の人、最後のアダムである主イエス・キリストの似姿へと変えられていく、新しくされていく、生まれつき、朽ちる、卑しい、弱い者である私たちが、朽ちない、輝かしい、力強い霊の体へと変えられていく、そういう恵みが今や始まっているのです。

変えられていくと言っても、それは私たちがこの世の生活の中でだんだんに朽ちない、輝かしい、力強い者になっていく、ということではありません。私たちは、この地上を生きる限りは、自然の命の体をもって生きていくのであり、土からできたアダムの似姿であり続ける、つまり、朽ちる、卑しい、弱いものであり続けるのです。私たちが本当に変えられるのは、その自然の命の体が死んで葬られ、そして世の終わりに、聖霊によって生きる霊の体、復活の体を与えられる、その時です。その時までは、私たちは自然の命の体をもって歩むのです。即ち、地上の人生においては、卑しい、弱いものとして歩み、そして死によって朽ちていく、そういう者として歩むのです。しかしその自然の命の体を生きる歩みは、先程申しましたように、神様によって与えられたもの、神様のみ手の中に置かれているものです。私たちの、弱く卑しく朽ちていくこの体における歩みを、神様はお見捨てになることはありません。自然の命の体を生きる私たちの歩みの中に、霊の体を待ち望む希望が与えられているのです。その希望を支えて下さるのが、聖霊なる神です。聖霊によって生かされる霊の体を終わりの時に与えて下さる聖霊が、今既に私たちに働き掛けていて下さるのです。そのことは、本日の箇所のどこに語られているでしょうか。45節後半に、「最後のアダムは命を与える霊となったのです」とあります。最後のアダム、つまり復活した主イエス・キリストが、「命を与える霊」となった。ここに、大変大事なメッセージが込められていると思います。これは、イエス・キリストが聖霊になってしまった、ということではありません。主イエス・キリストは、復活して天に昇り、父なる神の右に座しておられます。それは、主イエスが救いの業を成し遂げて父のみもとに凱旋なさったということです。主イエスにおける神の恵みが、私たちの全ての罪の力と、私たちを脅かす死の力とに勝利したのです。そしてその父なる神のもとから、今、主イエスに替わって聖霊が私たちに遣わされ、働いていて下さるのです。その働きは、主イエスの十字架の死と復活によって成し遂げられた救い、神の恵みの勝利の事実を私たちにわからせ、私たちをその恵みによって新しく生かして下さることです。つまり聖霊の働きは、私たちを新しく生かし、命を与えて下さる働きなのです。「命を与える霊」とはそういう聖霊の働きを語る言葉です。そしてその聖霊によって与えられる命は、そもそも主イエス・キリストが十字架と復活によって打ち立てて下さったものです。「最後のアダムは命を与える霊となった」というのは、そのように、主イエスの復活によって打ち立てられた新しい命の恵みが、聖霊の働きによって私たちに注がれるということを言っていると考えてよいでしょう。この「命を与える聖霊」が、私たちの復活への希望を支えてくれるのです。聖霊なる神は、世の終わりに、私たちに、新しい命と体、聖霊によって生きる霊の体を与えて下さいます。復活された主イエス・キリストと同じ姿に私たちを新しく変えて下さるのです。その聖霊なる神が、今、自然の命の体をもって生きている私たちにも働いていて下さいます。私たちが今のこの弱く卑しく朽ちていく体の歩みの中で、主イエス・キリストを信じる信仰を告白して洗礼を受けるその場に、この「命を与える聖霊」が臨んでおられるのです。また私たちが聖餐のパンと杯にあずかって主イエス・キリストによる救いの恵みを味わっていくその場にも、「命を与える聖霊」が臨んでおられるのです。そして勿論この毎週の礼拝においても、聖霊は私たちに主イエス・キリストによる命を注ぎ、毎週毎週私たちを新しく生かしていて下さるのです。私たちはこの聖霊の働きによって、朽ちていく、卑しい、弱い者である自然の命の体の歩みの中で、復活において与えられる朽ちない、輝かしい、力強い霊の体を待ち望みつつ、希望をもって生きることができるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[1999年9月19日]

メッセージ へもどる。