礼拝説教「体を与えてくださる神」詩編 第139編13〜18節 コリントの信徒への手紙一 第15章35〜41節 礼拝において、コリントの信徒への手紙一の15章を読み進めています。この15章の主題は、死者の復活です。主イエス・キリストを信じ、その十字架の死と復活にあずかる洗礼を受けた信仰者は、肉体において死んで葬られても、この世の終わり、主イエス・キリストがもう一度来られる再臨の時に、復活させられ、新しい体、永遠の命を生きる体を与えられるのだ、ということが語られているのです。 このようなことは、例えば今日初めて教会の礼拝に出席してキリスト教の話を初めて聞く、という方には、全く荒唐無稽な世迷言のように思われるでしょう。そんなことをまともに信じることなどどうしてできるのか、と思うことでしょう。私もそう思います。ある一つのことを抜きにしたら、これはまさにこっけいな狂信でしかありません。その一つのこととは、主イエス・キリストの復活です。キリストが十字架にかけられて殺され、そして三日目に復活した、このことがなければ、私たちの復活など、世迷言なのです。 キリストの復活、それ自体も、疑いの余地のない仕方で証明してみせることのできるような事柄ではありません。そういう意味ではこれも信仰によって受けとめるしかないことです。しかしそれが真実であったと思わせる状況証拠はいくつかあります。そもそも、キリスト教会の誕生と発展は、キリストの復活なしに説明できないものです。また、反対者たちが、キリストの復活を否定するために最も有効な手段は、キリストの墓から遺体を出してきてそれを示すことですが、それをすることは誰も出来ませんでした。そして、弟子たちが遺体を墓から盗み出したのだ、というような話のみが伝えられていったのです。ということは、主イエスの遺体はなかったということです。そして、十字架の時にみんな逃げ去ってしまったあの弟子たちの姿からは、そんな陰謀をめぐらしてイエスは復活したと主張するなどということはちょっと考えられないのです。 イエス・キリストの復活、それが私たちの復活の信仰の根拠、土台です。しかしキリストの復活が事実だったとしても、それだけで私たちの復活の根拠になるわけではありません。これは先週の礼拝において申したことの繰り返しになりますが、キリストの復活と私たちの復活が結びつくのは、キリストの十字架の死が私たちのためであったという信仰においてなのです。主イエス・キリストは、私たちのために、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さった、その死によって私たちの罪が赦された、そのことを信じるならば、キリストの復活は、父なる神様がこのキリストの死による私たちの罪のあがない、贖罪を受け入れて下さり、そして死の力を打ち破ってそこからキリストを解放し、新しい命を与えて下さったという出来事になるのです。それは私たちのための恵みのみ業です。神様は、私たちに、罪の赦しを与え、私たちを、主イエスと共に、死に勝利する新しい命に生かすために、その初穂、先駆けとして、キリストを復活させられたのです。私たちが、終わりの日の復活を信じ、そこに希望を置くのは、この、イエス・キリストの十字架と復活において示された神様の恵みによることなのです。 キリストの復活こそ、私たちの復活の根拠です。そのキリストの復活は、決して、魂のみの出来事ではありませんでした。それは目に見える肉体における復活です。したがって私たちの復活もまた、決して、魂のみの話ではないのです。復活は、霊魂不滅の教えとは違います。死んでも魂だけは救いにあずかるというのではなくて、目に見えるこの体、肉体が救いにあずかり、新しい復活の体を与えられるのです。私たちは、この人生の終わり、肉体の死において、魂が神様のみもとに抱き止められ、主イエス・キリストと共にいることになると信じています。パウロもそういうことを言っています。しかしそれが救いの完成ではないのです。復活において、新しい体が与えられ、魂と体を持つ存在として永遠の命を生きる者とされる、それが私たちの救いの到達点なのです。 さてこのように、復活の信仰とは、私たちの、目に見えるこの体の復活を信じることなのだ、ということになると、誰でもそこで疑問に思うことが出てきます。それが本日の35節の「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」ということです。体の復活というならば、その体はどんな体なのか、何を食べるのか、呼吸はするのか、どんな服を着ているのか、それとも裸なのか、そういった疑問です。さらには、何歳ぐらいの姿で復活するのか、ということも問題になります。死んだ時のそのままの姿で復活するのか、だとしたら、よぼよぼの老人の姿で復活するのか、どうせなら、もっと若い、元気な時の姿で復活させてもらいたいものだ、ということにもなります。逆に、赤ん坊の時に死んだ人は赤ん坊のままで復活するのか、もっと成長した姿でというわけにはいかないのか、ということにもなります。あるいはさらに、体に障害のある人はどうなのか、この世を生きている時に持っていたのと同じ障害を持った体で復活するのか…、体の復活ということを考えていくと、このような様々な疑問にぶつかるのです。そして、このようなことを考えていくと、だんだん、体の復活というのは馬鹿げた、ありそうもないことのように思えてきます。私たち現代の人間だけがそう思うのではないのです。聖書の時代から、そういう思いを持ち、だから復活などはないと言っていた人々がいました。福音書を読んでいますと、そういう者としてサドカイ派の人々が登場します。彼らが、復活ということがいかに馬鹿げた教えであるかを示そうとして、主イエスに質問をしてくるところがあります。彼らはこの世の生活において起り得る一つの事例をあげるのです。旧約聖書の律法には、長男が子どもを残さずに死んだ場合、その妻は次男と結婚してその家の子孫を残すべきであるという掟がありました。彼らはこれを用いて、七人の兄弟が上から順番に一人の女性と結婚して、ついに誰も子を残さずに死んだとしたら、復活した時その女性は誰の妻になるのか、と問うたのです。彼らはこのことによって、復活などということを信じているとこういう馬鹿げたことになってしまう、だから、復活などないのだ、と主張しているのです。このことは私たちにとっても問題です。夫あるいは妻と死に別れて再婚するということは多々あります。復活したらその人たちの関係はどうなるのか、彼あるいは彼女は妻あるいは夫を二人持つことになるのか、体の復活の教えはそういう矛盾あるいは困った事態を引き起こすことになるとも思えるのです。あるいは逆に、復活してまであの人と夫婦でいなければならないなんてまっぴらご免だ、と思う人もいるでしょう。夫婦、結婚ということを離れても、この世の人生、体をもって生きている現在の歩みにおいて、苦しみや絶望を抱いている人は、復活などかえって迷惑だ、そんなことは勘弁してもらいたい、と思うかもしれません。そこでは、復活の教えは苦痛をすらもたらすものとも思えるのです。 主イエスはそのサドカイ派の問いに対して、「そんなことを言うあなたがたは神の力を知らない」とお答えになりました。そして、「復活においては、めとったり嫁いだりはしないのだ」とおっしゃいました。主イエスが言っておられることは、復活において、私たちは、神の力によって、今地上を生きているのとは違う新しい者とされるのだということです。先程からの、体の復活についての疑問や、それによって起って来るおかしなこと、困ること、矛盾は全て、この世の体や生活がそのまま復活において再開される、という前提に立ってのことです。だから、何歳ぐらいの体でとか、夫婦の関係はどうなるかとか、復活など迷惑だというようなことになるのです。しかし、神様が私たちに与えようとしておられる復活は、そのような、この世の生活の再開ではありません。そうではなくて、私たちはそこで、神様の力によって、全く新しい者とされるのです。新しい体を与えられるのです。体の復活の信仰において私たちは、この、神様が与えて下さる新しさをしっかりと受けとめなければなりません。今のこの人生、この体、この生活の延長上に復活を考えてしまってはならないのです。復活において、私たちは、神様によって新しく創造されるのです。復活は神様による第二の創造であると言ってもよいのです。天地の全てと私たちをお造りになった神様の創造主としての力が、復活において再び発揮されて、私たちは新しい者とされるのです。 パウロはこのことを36節以下で、種とそれによって実る実というたとえを用いて語っています。「愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります」。種が蒔かれて、それが育って実が実る。その種と実は形も大きさも全く違うものです。種は地面の中でその形を全く失い、そしてやがて全く違う実ができる、そのことをパウロは、種が死んで、神様によって実という新しい体が与えられることとして語っているのです。今日私たちは、植物の発生のしくみを知っています。種の中には、後に実を実らせていくための全ての遺伝子情報が入っているわけです。しかしそのようなことを知らない昔の人々にとっては、種が発芽して育ち、種とは形も大きさも全く違う実が実っていく過程というのは、まことに不思議な神秘的なことだったでしょう。そこには、神様の大きな力が働いていると感じられたのです。パウロはそれを、「神は、御心のままに、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになる」と言い表しています。実りは、種が地面の中で死んだ後に、神様によって新しく造られ、与えられた体である、その意味でこれが、私たちの復活の体のたとえとなるのです。私たちも、この肉体が死んで葬られた後に、神様によって、今のこの体とは全く違う新しい体を与えられるのです。その意味では、私たちが体の復活について抱く様々な疑問や感想というのは、喩えて言えば、種が自分の将来の実りの姿を、種の姿からあれこれ類推し、想像して、疑問に思ったり文句を言ったりしているようなものです。それは愚かなことなのです。神様が復活において私たちに与えようとしておられる体は、今のこの体からは種と実りほどに違いのある、この体からは予想も想像もできないような素晴らしいものなのです。 このようにパウロは、今のこの体と復活の体との非連続性を強調しています。私たちは今のこの体から、この世の生活から、復活の体のことを、永遠の命を生きる生活のことを類推してしまってはならないのです。私たちのこの世の生活には、また今のこの体には、様々な問題があり、欠けがあり、障害があったりします。人間関係においても、問題に満ちた、幸福でない関係に陥ってしまうことがあります。生きていることに意味が見出せなくなるような苦しみを負うこともあります。しかし復活において与えられる新しい体、新しい命は、そのようなものではないのです。この世の苦しみや障害、不幸な関係がそのまま再開されるのが復活ではありません。神様の新しい創造の力によって、それらのことから解放された、新しい命と体が与えられるのです。それゆえに復活は、私たちの希望であり、喜びをもって待ち望むべきことなのです。 私たちの今の体と復活の体とは非連続です。しかし私たちは復活において、別の人になってしまうわけではありません。私は私であり続けるのです。難しい言葉では、アイデンティティ、自己同一性などと言いますが、それは残るのです。その点では、今の私たちと、復活する私たちとは連続しています。パウロはこの種と実のたとえでそのことも意識しています。神は御心のままに、自由に種に体をお与えになるわけですが、「一つ一つの種にそれぞれ」体をお与えになる。それは、ある種にはある体を、という対応があるということです。つまり、ダイコンの種を蒔けばダイコンができる、ニンジンができることはない、ということです。種はそのように、全く別のものになってしまうのではない。ダイコンの種はダイコンになるのです。復活においても、私たちは全く新しい命と体を与えられる、しかし私は私であり続けるのです。 神様が私たちに、御心のままに、体を与えて下さる。体の復活の信仰はこのことを土台にしています。つまり、天地創造に匹敵する神様の力が、私たちの復活において働くのです。39節以下でパウロは、神様がそれぞれに、様々な違った体を与えられるということを語っています。人間と、獣と、鳥と、魚とでは体が違う、天上の体と地上の体という違いもある。「天上の体」というのは、その後に出て来る太陽や月や星といった天体のことでしょう。それもまた、神様が御心のままに造られたものなのです。そのように神様は、それぞれに、様々な違った体をお与えになることができる。そこに、今のこの体とは違う、復活の体を与えられる希望の根拠があります。そしてそれと同時にここには、神様がお与えになる体が、それぞれに異なった輝きを持っているということも見つめられています。天上の体と地上の体ではその輝きが違っているし、天上の体の間でも、太陽と月と星とでは、また星と星の間にも輝きに違いがあるのです。神様はそのように、それぞれに、様々に違った輝きを持った体をお与えになっているのです。 このことは私たちに何を教えているのでしょうか。今私たちが生きているこの体も、神様が与えて下さったものです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編139編13節以下はそのことを語っています。神様が、母の胎内でこの私の体を造り与えて下さったのです。私たちは、神様によって与えられた体をもって生きています。しかし、私たちのその人生には、先程申しましたように、様々な問題が起こってきます。いろいろな弱さがあり、欠けがあり、罪があり、障害やその他の苦しみがあります。それがそのまま再開されるなら、復活などご免被りたいと思わずにはおれないような現実があるのです。そのような中で私たちは、今のこの体、この生活とは違う、はるかに輝きに満ちた体と生活をあこがれ、待ち望みます。復活において、その望み、願いが、私たちの思いを越えて実現するのです。しかし忘れてならないのは、今のこの体をもって生きるこの地上の歩み、それもまた、神様が与えて下さったものだ、ということです。そうであるならば、そこには、やはりある輝きが与えられているのです。神様が与えて下さっている体には、必ず、ある輝きがある、私たちはそのことを見つめていかなければなりません。体の復活の信仰は、ただ、世の終わりの復活の時に与えられる新しい、輝きに満ちた体を待ち望んでいくというだけのことであってはならないのです。神様が与えて下さる輝きに満ちた体を待ち望むということは、同時に、その同じ神様が与えて下さった、今私たちが生きているこの体に与えられている輝きを信じ、それを見出し、それを輝かせていくことでもあるのです。神様が今与えて下さっているこの体に、輝きを見出すことなくして、復活の体の輝きを信じ待ち望むことはできないのです。 41節の「星と星との間の輝きにも違いがあります」という文章は、昔の文語訳聖書では、「この星はかの星と光栄を異にす」となっていました。私たちの教会でも講演をしていただいたことがある、浜松の「小羊学園」という精神薄弱児施設の元理事長であられた山浦俊治先生という方がおられます。大変残念なことに、5年ほど前にガンで亡くなられましたが、この先生がお書きになった「この子らは光栄を異にす」という本があります。その最後のところで、先生はこの聖書の言葉を引用してこう言っておられるのです。「『この星は、かの星と光栄を異にす』という聖書のみ言葉があります。この異にするとは、事の大小、優劣、強弱など、人間の勝手な価値観で弁別する、そういう意味ではありません。米と麦が違うように、桜と梅が違うように、眼の働きと耳の働きが違うように、そのものの本性が、神様が与えられた本質が違うという意味です。学園の子どもたちは、あの無限の空に輝く一つの星です。『この星』です。この星は、健常児である『かの星』と、神様から与えられている光栄、本質、使命を異にしているのだと思うのです。この星にはかの星と違った人生の『意味』があるのです。『この星は、かの星と光栄を異にす』。小羊にいる子どもたちは、たえずその『意味』を問いかけています。そして私たちが、実存的に『変えられ』ることを期待して、鋭い光でまたたき、輝き続けているのです。」 いわゆる障害児には、いわゆる健常児とは違う輝き、光栄、生きる意味が与えられている。それを人間が「大小、優劣、強弱」という勝手な価値観を押しつけて、「かわいそうな人たち」というレッテルを貼ってしまってはならない。むしろ、その人たちに与えられている、異なる輝き、光栄を見出していくことをこそ私たちは求められているのだ、ということでしょう。それは単に障害者と健常者の間のみのことではありません。私たちは自分の今のこの体、この人生に、そして他の人の体と人生に、神様が与えておられる輝き、光栄を見出していかなければならないのです。「大小、優劣、強弱」で比較していこうとするこの世の価値感にとらわれている間はそれはできません。そこでは、自分の輝きを誇って人を見下すか、自分の輝きを見出せずに人生に絶望していくか、どちらかになるのです。しかし私たちにこの体を与えて下さった神様は、私たちそれぞれに、輝きを、光栄を、生きる意味を与えて下さっているのです。神様がその独り子イエス・キリストを遣わして下さり、その十字架の死によって私たちの罪を赦し、新しく生かして下さったことが、そのなによりの証拠です。私たちは主イエス・キリストにおける神様の愛の中で、私たちに、また隣人に与えられている輝き、光栄を見出すのです。そしてその時、主イエス・キリストの復活において私たちに約束されている、はるかに素晴らしい、輝きに満ちた復活の体を、希望をもって待ち望んでいくことができるのです。
牧師 藤 掛 順 一 |