富山鹿島町教会

礼拝説教

「復活の希望によって」
イザヤ書 第22章12〜14節
コリントの信徒への手紙一 第15章29〜34節

本日の聖書の箇所、コリントの信徒への手紙一の15章29節以下は、「そうでなければ」という言葉で始まります。そうでなければ、とは、どうでなければなのでしょうか。それは、20節に語られていたように、主イエス・キリストが、死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられた、ということです。主イエス・キリストは、十字架につけられて殺され、三日目に復活されました。弟子たちが宣べ伝えていったのは、この復活されたキリストだったのです。キリスト教というのは、イエス・キリストの語られた教えをその後継者である弟子たちが宣べ伝えていって生まれた宗教ではありません。死んで、復活された主イエスと出会った弟子たちが、そのキリストのことを宣べ伝えていったのです。主イエスの教えが勿論語られ、伝えられていきましたが、それはあくまでも、復活された主イエスが語っておられた教えとしてです。主イエスの復活なしには、その教えが語り伝えられることもなかったでしょう。復活こそ、キリスト教信仰の土台なのです。そしてそのキリストの復活は、ただそういう驚くべき奇跡が起った、というだけのことではありません。キリストは、眠りについた人たちの初穂として復活されたのです。初穂というのは、最初の実りです。その後に続々と同じ実りが続いていくのです。つまり、キリストの復活は、キリストを信じる信仰者たちの復活の先駆けだった。キリストの復活によって、私たちの復活の道が開かれ、私たちにも復活の命にあずかる希望が与えられたのです。

キリストの復活と私たちの復活がこのように結びついている、という信仰はどこから生まれたのでしょうか。それは、キリストの十字架の死が何だったのか、という信仰と分ち難く結びついています。もしもキリストの十字架の死が、彼は立派な教えを宣べ伝え、愛の業を行っていったけれども、結局人々の無理解や嫉妬によって殺されてしまった、という出来事であったなら、つまり主イエス個人の失敗、挫折としての死であったならば、その主イエスが復活したとしても、それが私たちの復活の初穂となり、私たちの復活の希望となることはないでしょう。しかし主イエスの十字架の死が、私たちのための死、私たちの罪を全て背負って、何の罪もない神の独り子が身代わりになって死んで下さったというあがないの死であったならば、その死は単に主イエス個人の事柄ではなく、私たちと密接につながりを持つものとなります。そしてその主イエスの復活は、父なる神様が、主イエスによるこの罪のあがないを受け入れて、私たちの罪を赦して下さり、そして死の力を打ち破って新しい命を与えて下さったことの現れとなります。そこに、神様が与えて下さる復活の命の初穂を見出すことができるのです。つまり、主イエスの十字架が私たちのためであり、私たちの救いであることがわかると、主イエスの復活も私たちのためであり、私たちの希望であることがわかるのです。15章においてこれまで語られてきたのはこのことでした。主イエスの復活は私たちの復活の初穂であり、私たちにも復活の希望を与えているのです。

「そうでなければ」というのが本日の箇所です。つまりこの主イエスによって与えられている復活への希望がなければどうなるか、それなしには、私たちの生活は、信仰はどうなってしまうのか、ということをパウロはここで語っていくのです。パウロはここで、三つのことを語ります。一つめは29節の、「そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか」ということです。ここに、「死者のために洗礼を受ける」とあります。これはいったいどういうことなのでしょうか。これについては、古来様々な解釈がなされてきました。一つの定まった説というのはありません。はっきり言ってよくわからないというのが実情です。最も古くから言われている説は、既に信仰者である人が、信仰を持たずに死んだ自分の親戚や友人のために、代理として洗礼を受けるということが行われていたのではないか、ということです。それによって、その人が復活と永遠の命にあずかれるように、という希望、願いをもってそういうことはなされるわけです。しかしもしもそもそも私たちの復活の希望などというものがないならば、そのようなことは無意味になるではないか、とパウロは言っているというわけです。しかしこの説にはかなりの問題があります。果たして当時の教会に、死者のための代理の洗礼ということがあったのか、そういう証拠はありません。また、これはかなり問題を含んだ仮説です。このようなことが行われていたとすると、生きている者が死んだ者の代理として洗礼を受けることができる、ということになります。しかし洗礼は基本的に、本人の信仰、告白によるものであるはずです。それを本人が死んでしまった後誰かが代理として受けるというのでは、洗礼の根本的な意味が失われてしまいます。また同時にこれは、洗礼を受けるということが、復活と永遠の命を保証する魔術的なまじないのように扱われていることになります。洗礼さえ受けていれば、復活と永遠の命への切符を手に入れたようなものだ、という感じになってしまいます。しかし洗礼は本来そのようなものではありません。私たちを救うのは、神様の恵みと、それを受けとめる人間の信仰です。洗礼はその神の恵みと人間の信仰の印なのです。印だけが一人歩きして、本来の神の恵みと信仰とが忘れ去られるようなことは正しくありません。死者のための代理の洗礼というのは受け入れ難いのです。そこで、別の解釈が生まれました。たとえば、洗礼を受け、信仰者だった人が死んだ後、その人の親族なり友人が、その人と共に復活し、永遠の命にあずかることを願って洗礼を受ける、つまり、「死者のために」の「ために」を、その人と再会するために、ととるという解釈もあります。あるいは、信仰は得ており、教会の交わりに加わっていたが、まだ洗礼を受けてはいなかった人が死んだ時に、その遺体に洗礼を授けるということがあったのではないか、という解釈もあります。他にも様々な解釈があって結論は出ないのですが、しかしここでパウロが基本的に言おうとしていることは明らかです。つまりいずれの解釈においても、洗礼を受けるということは、死者が復活と永遠の命にあずかることへの希望によることなのです。だからその希望がそもそもないならば、洗礼を受けることは無意味になる。それは「死者のため」でなくても、そもそも洗礼を受けるということに共通して言えることです。洗礼を受けるとは、主イエス・キリストの十字架の死にあずかって古い自分が死に、そして主イエスの復活にあずかって新しく生まれ変わることです。それは単なる内面的な事柄ではなくて、主イエスの復活の命に私たちもあずかり、世の終わりに私たちも復活の命と体を与えられる、その希望にあずかる者となることなのです。ですから、復活の希望がないならば、洗礼を受けることなど無意味です。あるいはそれは単なる人間の信仰的決意表明でしかないことになるでしょう。決意表明なら、何度してもいいわけで、一生の間に何度も洗礼を受け直したらいい、ということになるのです。しかし洗礼は生涯に一度限りのものです。それは、それが人間の決意表明ではなくて、神様がそこで決定的に働きかけて下さり、主イエス・キリストの十字架と復活による救いにあずからせて下さり、復活の希望を与えて下さる、そういう神様の決定的な恵みのみ業にあずかることだからです。復活の希望にあずかることなしには、この一回限りの洗礼の意味が失われるのです。

復活の希望がなければ、ということでパウロが語っている第二のことは、30節から32節の前半にかけてのことです。「また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう」。パウロら伝道者たちは、常に危険を冒しつつ福音を宣べ伝えています。パウロは、「わたしは日々死んでいる」と言っています。それは決して誇張ではなかったでしょう。使徒言行録に記されている彼の伝道の歩みはまさに死と隣あわせの日々です。また彼は「エフェソで野獣と戦った」と言っています。実際に野獣と格闘をしたということではないでしょうが、彼がエフェソで伝道していた時に起ってきた大騒動はこのように表現することができるものです。パウロを始めとする伝道者たちが負っているこのような労苦、苦しみ、危険、それらは全て、復活の希望を見つめているからこそ負うことのできるものです。復活の希望を見つめるということはつまり、死を越えた先になお神様の恵みと新しい命とを見つめるということです。そのことによって、肉体の死、この世の人生の終わりを冷静に見つめ、その危険の中で、なすべきことをしていくことができるのです。もしも復活の希望がないならば、どうなのでしょうか。その場合には、この世の人生が全てとなります。死んでしまったらおしまい、全てが失われる、命あっての物種、死んで花実が咲くものか、ということになります。それが、復活の希望を知らない人間の普通の思いです。そこには、死への恐れが支配しているのです。32節に、「単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら」とありますが、この「人間的な動機から」というところは、「人間の考え、思いで」と訳した方がよいでしょう。つまり、この世の人生が全て、死んでしまったらおしまい、という考えであったなら、野獣と闘うような危険を冒すことはできないのです。死への恐れに支配される時、私たちは、危険を冒すことはできなくなります。安全な方へ、安全な方へと逃げていくことになるのです。そしてその結果、命を守るために、本当は命よりも大切であるはずのものを手放してしまうのです。しかしそのように命を守ろうと必死になっていても、死はどこまでも追いかけてきて、最後には必ず私たちを捕えるのです。私たちの人生は基本的に、死から与えられている執行猶予期間のようなものです。その中で、死から逃げ回って生きていくのは結局は虚しいことだと言わなければならないでしょう。そのことに気づいた人は、死を恐れることをやめ、命よりも大切なことのために、危険を冒しても生きようとします。そういう人は、信仰者に限らず、世の中には沢山います。信仰がなければ死の恐れに打ち勝てない、というものではありません。しかし私たち信仰者はそこで、復活の希望を与えられています。すなわち、死の彼方にある神の恵みを示されているのです。私たちはその喜びと平安と希望によって、本当に大切なことを大切にして生きることができるのです。何も自分からわざわざ危険を冒す必要はありません。しかし、人生の危機的な状況の中で、自分の身を守ることをとるか、それとも神様のみ心に従う正しいことをとるか、という選択を迫られる時、復活の希望を与えられている者は、その選択を間違わずにすむでしょう。また、死が一歩一歩近づいてくる、ということを感じる時にも、復活の希望を与えられている者は、いたずらに恐れ動揺するのではなく、あのハイデルベルク信仰問答の問一にあるような、「生きている時も死ぬ時も」、私たちを慰める「ただ一つの慰め」を得ることができるでしょう。

「もし、死者が復活しないとしたら」という仮定のもとに語られている第三のことは、32節後半です。「もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります」。ここに語られているのは、復活の希望なしには、人間の倫理、道徳ということが崩壊してしまう、ということです。「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」、これは本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書22章13節から来ている言葉ですが、どうせいつか死んでしまうのだから、せいぜい生きているうちに楽しく、やりたいことをしておこう、ということです。こういうのを刹那的な生き方というわけで、そこには倫理や道徳は成り立ちません。倫理、道徳というのは、正しいことのために自分の欲望や願いをがまんする、したいことでも、してはいけないことはしない、したくないことでも、なすべきことはする、ということがあって始めて成り立つものだからです。なすべきことをするのではなく、自分の好き勝手なことをするという生き方においては、人と人との関係を成り立たせることが、つまり社会を形成することができないのです。復活の希望がないならば、つまり、死を越えた彼方にある神の恵みが見失われ、この世の人生だけが全てとなってしまうならば、私たちの生活はこのようになる、とパウロは言っています。実際、当時、復活などはない、と言っていた人々の中には、放縦な生活に陥っている者がいました。33節の「悪いつきあいは、良い習慣を台無しにする」という言葉は、そのような者たちの影響を受けるなということを言っているのです。そして34節には、「正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです」と勧められています。パウロは「正気になれ」と言っています。復活の希望を見つめ、それによって身を正して、罪を避けようとする、そういう者こそ正気なのだと言っているのです。復活の希望を見つめることなく、この世の、目に見える人生だけが全てだとし、そこにおいて好きなことをして死ぬまで生きればそれでよい、と思っている人は、正気を失っている、正しい判断を失っているのです。

さてしかし、いったいどちらが本当に正気であり、事実に即した正しい判断をしているのでしょうか。神がおられ、その独り子イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかって死なれた。そしてキリストの復活により、私たちにも、復活の希望、永遠の命の希望が与えられている。この主イエス・キリストのもとで、その恵みを信じて生きることと、神などいない、キリストによる救いもないし、勿論復活の希望などはない、この世の人生のみが全てであり、死んだらそれでおしまい、というふうに、人間の目に見えることのみを事実として生きることと、いったいどちらが本当に正気な、事実に即した生き方なのでしょうか。その答えはそう簡単ではないでしょう。私たちは、神様の存在や主イエスによる救いを、科学の法則のように証明して見せることはできません。神を信じて生きることこそが正気な、正しい生き方だということを、この世においてはっきりと確認することはおそらくできないでしょう。これは賭けです。信仰というのは、目に見えない神の恵みに自分の人生を賭けることなのです。17世紀のフランスの思想家パスカルは、神がいるかいないかということを、やはり一つの賭けだと言っています。そして神がいる方にかけてたとえその賭けに敗れたとしても、それによって失うものは何もない、それに対してその賭けに勝って得るものは永遠の命だ、だからためらわずに神がいる方に賭けようと言っています。確かに、この世の人生のみが全てであるとしたら、たとえそれをどんなに楽しく有意義に生きたとしても、人生の終わりと共に全ては失われるのです。しかし主イエス・キリストによる復活の希望が真実であるとしたら、それは、この世の人生を豊かな喜びに満たすと共に、人生を終えた後も恵みの内にあり続けることができるのです。

さてパウロは、復活の希望なしには、人間の生活は刹那的になり、倫理や道徳が崩壊すると言っています。しかし私たちは今日、必ずしもそうではないことを知っています。パウロの時代には、復活の希望が否定されたら、人生をどう生きるかという規範も失われる、というほどに、この世の人生と死後の世界とが結びついていたのです。人々は常に死後のことを考えながら生きていました。しかし約二千年後の今日、この世の人生と、死後の世界との結びつきは希薄になっています。死後の世界のことが直ちにこの世の人生のあり方に影響を及ぼしにくい時代になっているのです。あるいはこの世を生きることにみんな忙しく、死後のことまで考えることがなくなっているのです。このことは私たち日本人においてさらに顕著です。日本人はもともと、復活の希望などというものを持ってはいません。地獄や極楽はあっても、復活はないのです。また、仏教の根本にある「輪廻転生」の考え方は、生まれ変わりの思想ですが、これは復活とは全く異なるものです。輪廻の場合には、いわゆる前世と後生とでは全く別の者になるのです。復活は同じ者としての復活です。自分という一人の人間が、死んで、そして復活する、そこにおいて自分は自分であり続けるのです。このように、日本人には復活の希望という考え方はありません。しかしだからといって日本人に倫理道徳が成り立たないということはないのです。むしろ日本人にはある面、非常に高い倫理性、道徳性があります。礼儀作法や行儀ということが尊重されます。復活の希望なしの倫理がここにあるのです。欧米の人々にはこれがとても不思議なことに思えるようです。神様を信じていないのにどうして倫理が成り立つのか。あちらでは、「無宗教」というと、何をしでかすかわからない信用できない奴と思われるのです。このことについてよくなされる説明は、欧米の文化が「罪の文化」であるのに対して、日本の文化は「恥の文化」だということです。欧米の倫理は、罪を裁き、赦す神の前での倫理であるのに対して、日本人の倫理は「恥」という感覚に基づく倫理だと言われます。「こんなことをしたら恥かしい」という感覚が日本人の倫理を支えていると言うのです。その恥というのは他の人に対しての感覚です。ですから日本人の倫理は神の前ではなく、人の前での倫理であり、しかも自分が恥かしさを感じる同族、同胞の前でのみ成り立つ倫理です。だから、知らない人の前では、「旅の恥はかき捨て」ということになる。あるいは外国人に対しては、どんなに残酷な非道なことをしても平気ということが起るのです。こういう分析がどこまで当っているかはともかく、私たちは、復活の希望なしに倫理が成り立っている社会の中で生きています。その私たちが、パウロの言葉をそのままに、「復活の希望なしには倫理は崩壊する」と言ってみても空回りするだけでしょう。パウロはここで、復活の希望がなければ私たちの生活はこうなる、という言い方をしています。それは先程も申しましたように、死後の世界とこの世の人生とが密接に結びついていた当時の人々に対しては有効な語り方だったのだと思います。しかし私たちは今日、ものの見方、語り方を少し変える必要があるのではないかと思います。つまり、復活の希望がなければこうなってしまう、というのではなくて、復活の希望が与えられているからこそ、私たちはこのように生きることができる、というふうにです。復活の希望が与えられているからこそ、私たちは、この人生を、刹那的にならず、しっかりと目標を見つめて、身を律して生きることができるのです。がまんすべきことを我慢し、なすべきことをなしていく力がこの希望と、そこに与えられる喜び、平安から与えられるのです。また、復活の希望が与えられているからこそ、私たちは、死を恐れず、本当に大切なことのために危険の中へも飛び込んでいくことができるのです。そして、たとえ志半ばにして倒れるとしても、なお希望を失わず、喜びに生き、感謝することができるのです。そして私たちが、この復活の希望に生きる者とされるのが、洗礼を受けることにおいてです。洗礼を受けることによて私たちは、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、私たちの初穂として復活して下さった主イエス・キリストと結び合わされ、復活の希望に生きる者となるのです。この洗礼において与えられている復活の希望によって生かされ、支えられていくのがキリストを信じる信仰者の生活です。まだ洗礼を受けておられない方にも、神様からこの希望への招きが与えられているのです。

牧師 藤 掛 順 一
[1999年8月29日]

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