富山鹿島町教会

礼拝説教

「油を注がれた者」
サムエル記上 第10章1〜27節
マタイによる福音書 第28章16〜20節

先週私たちはクリスマスの記念礼拝を守りました。クリスマスの日は12月25日です。そういう意味では、本日の方がクリスマスに近いわけで、本日クリスマスの礼拝を守る教会もあります。いずれにせよ、教会の暦においては、1月6日までがクリスマスシーズンです。どうも日本では、25日を過ぎるとクリスマスの飾りはさっさと片付けて、今度は正月の松飾り、というふうになっていますが、そういう意味では1月6日まではクリスマスの飾りつけを残しておいてよいのです。教会の前のイルミネーションもいつも1月6日までつけています。

そのように私たちはなおクリスマスの祝いの中にあるわけですが、主イエスがお生まれになった日に、ベツレヘムの近くの野原で羊の群れの番をしていた羊飼いたちに、天使が現れ、救い主の誕生を告げたことは、クリスマスの出来事の一つの中心をなしています。その天使のお告げを語るルカによる福音書2章11節にこうあります。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。以前の口語訳聖書でここを覚えておられる方は、「この方こそ主なるキリストである」となっていたのをご存じでしょう。口語訳で「キリスト」となっていたのを、新共同訳では「メシア」と訳したのです。ここの原文のギリシァ語の言葉は、クリストスです。クリスマスというのはこのクリストスの誕生を祝う祭という意味ですし、このクリストスがドイツ語ではクリストゥス、英語ではクライストとなり、日本語ではキリストとなったのです。ですから口語訳の「キリスト」の方が、原文の言葉をそのまま伝えていると言うことができます。それでは新共同訳は何故これを「メシア」と訳したのかというと、クリストスという言葉が、もともとヘブライ語のメシアという言葉をギリシァ語に訳したものだからです。キリストというのは主イエスの名字ではありません。それは称号です。「この方こそキリストである」というのは、主イエスがどのような立場にあり、どのような働きをなさる方であるかを示しているのです。その称号としてのキリストはもともとはメシアという言葉でした。それは「油を注がれた者」という意味の言葉です。イスラエルの民において、頭に油を注がれることによって、神様がその人を特別な任務、務めへと立てられることが表わされたのです。「油を注がれた者」とはそのように、神様によって特別な務めを与えられた者を意味します。もともとは、祭司の任職の時に油が注がれました。そして後にイスラエルが王国になるに際して、王に油が注がれるようになりました。そしてそこからさらに、神様が遣わして下さる救い主は「油を注がれた者」、メシアであるという信仰が生まれ、メシアを待ち望む希望が生まれていったのです。ですからあの天使は羊飼いたちに、お生まれになった主イエスこそ、みんなが待ち望んでいるメシアである、と告げたのです。そういう意味では、新共同訳の「この方こそ主メシアである」は内容的に正しいわけです。

さて本日は、月の第四の主の日ですから、旧約聖書サムエル記上からみ言葉に聞きます。その第10章が先程朗読されましたが、ここには、イスラエルの歴史において最初に、王として油を注がれた人のことが語られています。その人の名前はサウルです。1節に、彼が油を注がれたことが語られています。「サムエルは油の壺を取り、サウルの頭に油を注ぎ、彼に口づけして、言った。『主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされたのです』」。こうしてサウルは、油を注がれた者、メシアとなったのです。勿論この場合のメシアは、世の救い主という意味ではありません。しかし、イスラエルの民の指導者として、民を敵から救う者ではあります。口語訳聖書ではこの1節の後半に、新共同訳にはない次の言葉がつけ加えられています。「あなたは主の民を治め、周囲の敵の手から彼らを救わなければならない」。これは、七十人訳という、旧約聖書のギリシァ語訳に出てくる言葉で、ヘブライ語で伝えられている原文にはないので、新共同訳ではカットされているのですが、内容的には、サウルが油を注がれて立てられた、民の指導者の務めをよく表している言葉です。イスラエルの民を治め、周囲の敵から救う、その働きは、これまでは、その都度神様が選び、遣わされた士師と呼ばれる人々によって担われてきました。それと同じ働きを、今度はサウルが、しかも士師としてではなく、王として担っていくために立てられたのです。

イスラエルに王が立てられることになった経緯は、第8章に語られており、それについては先月の終わりの、アドベント第一主日の礼拝においてお話ししました。イスラエルの人々が、周囲の国々と同じように自分たちにも王が欲しいと言い出したのです。国が危うくなるとその都度士師が遣わされてくる、というのでは、どうも心もとない、もっと常に国の体制を整え、敵に対する防衛力を整備しておく必要がある、そのためには一人の王の下に国がまとまる中央集権的体制の方がよい、というわけです。しかしこのことは、主なる神様に対する重大な反逆を意味しました。イスラエルに王がいないのは、実は、主なる神様こそが王であられたからなのです。主なる神様が王としてこの民を治め、敵から守っておられたのです。士師たちというのは、その王である神様が必要な時に派遣された将軍たちでした。そのように、イスラエルの民は神様というまことの王によってしっかりと守られていたのです。そこに人間の王を求めるということは、このまことの王であられる神様を信頼できないということです。神様の守りと導きが信じられないから、目に見える人間の王を求めるのです。つまりこれはイスラエルの民の神様に対する不信仰の表れなのです。最後の士師であったサムエルは、8章において、そのことを民に語り、人間の王に支配されることから生じる様々な苦しみを指摘し、結局あなたがたは王の奴隷のようになってしまうのだぞと警告しました。しかし民はどうしても王が欲しいと言って聞かないのです。主なる神様は民のこの様子を見て、彼らの求めを聞き、イスラエルに王を立てることを決意されたのです。

イスラエルに王が立てられることのこのような意味は、本日の10章17節以下においても、サムエルによって語られています。サムエルは、王を選び出すに先立ってこのように言っているのです。「サムエルはミツパで主のもとに民を呼び集めた。彼はイスラエルの人々に告げた。「イスラエルの神、主は仰せになる。『イスラエルをエジプトから導き上ったのはわたしだ。わたしがあなたたちをエジプトの手から救い出し、あなたたちを圧迫するすべての王国からも救い出した』と。しかし、あなたたちは今日、あらゆる災難や苦難からあなたたちを救われたあなたたちの神を退け、『我らの上に王を立ててください』と主に願っている。よろしい、部族ごと、氏族ごとに主の御前に出なさい。」」。王を求めることは、まことの王であられる主なる神を退けることだ。そのことをはっきりと指摘した上で、サムエルは、民の中から誰が王として立てられるべきか、くじを引かせるのです。そのくじによって、まずベニヤミン族が選び出されました。次いでそのベニヤミン族の中からマトリの氏族が選ばれ、その中でサウルがくじに当たったのです。サウルは、先程読んだ1節において、既にサムエルによって油を注がれていました。サウルがサムエルと出会った経緯は9章に語られていますから、後で読んでいただきたいのですが、彼はいなくなった父のろばを捜しに出て、サムエルと出会ったのです。サムエルはサウルに出会う前日に神様からこういうお告げを受けていました。9章16節です。「『明日の今ごろ、わたしは一人の男をベニヤミンの地からあなたのもとに遣わす。あなたは彼に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの指導者とせよ。この男がわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫び声はわたしに届いたので、わたしは民を顧みる。』」。そして17節「サムエルがサウルに会うと、主は彼に告げられた。『わたしがあなたに言ったのはこの男のことだ。この男がわたしの民を支配する。』」。このようにしてサムエルは、サウルこそ、神様がイスラエルの王として立てようとしておられる者だということを知り、サウルに油を注いだのです。しかしそれはサムエルとサウルの二人だけの間でなされたことでした。このサウルこそイスラエルの王となるべき者だということを、民全体がはっきりと知る必要があったのです。そのためにサムエルは10章17節で民全体を集め、先程のくじを引かせたのです。くじというのは、聖書において、神様のみ心を知るための一つの大事な手段です。それにサウルが当ったことによって、神様がサウルを王として選び出されたことが民全体にはっきりと示されたのです。

この、サウルが油を注がれたことと、くじ引きとの順序が大切です。くじに当った人に油が注がれたのではないのです。既に油を注がれていたサウルにくじが当ったのです。それによって、サウルを王として立てたのはイスラエルの人々ではなく、神様ご自身であることがはっきりと示されています。ここには、人間の王を求めることは神様への反逆であり、不信仰であることがはっきりと語られると同時に、その王を神様ご自身が選び立てて下さるということが語られているのです。

イスラエルの人々が、まことの王であられる神様を退け、人間の王を求めたことを、ある人は「イスラエルは間違った列車に乗り込んでしまった」と表現しています。金沢へ行こうとして、高山線の列車に乗ってしまったようなものです。神通川の鉄橋を渡ったあたりから、列車はどんどん南へ曲がっていってしまうのです。単なる列車の乗り間違いならば、途中で降りて戻ってくればよいのですが、イスラエルの民の間違いはもっと深刻です。彼らは自分で、人間の王を求めるという列車を選んだのです。それは結局、自分たちが思うような国を作りたいということです。神様に守っていただくのではなくて、自分たちの力でやっていこうということです。つまり神様に従うのではなくて自分たちが主人になる、そのために人間の王を求めているのです。イスラエルの民はそのように、意識的に間違った目的地に向かって列車を走らせようとしているのです。その民に、神様は王をお与えになりました。それは、言わばその間違った目的地に向かって走っていく列車に、神様が運転士を送り込まれたようなものです。車のドライバーとは違って、列車の運転士はどんなにがんばっても列車の向きを変えることはできません。高山線を走っている列車は運転士がどうがんばっても北陸線に戻ることはできないのです。そのことを承知の上で、神様はこの間違った列車に運転士を送り込まれたのです。それは、神様が、イスラエルの民のこの間違った方向への歩みに、どこまでも付き合われる、共に行かれる、というご決意の表れです。神様を退け、人間の王を求め、自分たちが主人になって、人間の思いによってやっていこうとする、そのような人間の歩みは、どこかで必ず破綻します。この暴走列車は、脱線転覆せずにはおれないのです。しかしその列車の運転席に座っているのは、神様が選び立てられた王、油を注がれた者なのです。神様は、自らの罪、不信仰によって破滅へと突っ走る暴走列車イスラエルに、油を注がれた者を送り込んで、この暴走に付き合って下さるのです。共にいて下さるのです。そしていよいよこの列車が本当に脱線転覆してしまう、その時そこには、神様の独り子イエス・キリストが、油を注がれた者、メシアとして来て下さったのです。この列車が罪の暴走の果てに脱線転覆する、そこにおいて死んだのは、メシア、油を注がれた者である主イエス・キリストでした。主イエス・キリストが、この列車に乗り込んでいる全ての者たちの身代わりとなって、罪の暴走の果ての死を引き受けて下さったのです。それによって、本来死ぬべき罪人である私たちは赦され、新しく生きることができるようになったのです。主イエスの十字架の死はそのような意味を持っています。主イエスはこのことによって、私たちのメシア、油を注がれた者、救い主であって下さるのです。

神様がサウルをイスラエルの王として立て、彼に油を注ぎ、即位させて下さった、それは、先程も申しましたように、神様が、間違った方向へ突っ走っていくイスラエルの民と、どこまでも共に歩んで下さるということです。そしてその神様の歩みは、主イエス・キリストの十字架の死へと至るのです。この主イエス・キリストの十字架の死によって、私たちは、神様によって罪を赦され、間違った道を正されて新しく生き始めることができます。まことの王である神様のもとに立ち帰り、神様が王であられるまことの神の民として生きることができるのです。イスラエルの最初の王として油を注がれたサウルは、油を注がれた者、メシアとして私たちのために十字架にかかって下さった主イエス・キリストへと至る神様の救いの歩みの先頭に位置しているのです。

さてそれでは、サウルとはどのような人だったのでしょうか。9章2節に彼の様子の紹介があります。「彼には名をサウルという息子があった。美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった。」。サウルはこのように希に見る美しい若者であり、体格にも恵まれていたのです。また彼は、父のろばを捜しに行きますが、あまり長く捜し回っていると、父がろばのことよりも今度は自分たちのことを心配するといけない、という分別や思いやりを持っていることが5節に語られています。またサムエルと出会い、あなたこそイスラエルの王になるべき人だと言われると、21節で「サウルは答えて言った。『わたしはイスラエルで最も小さな部族ベニヤミンの者ですし、そのベニヤミンでも最小の一族の者です。どんな理由でわたしにそのようなことを言われるのですか。』」と答えています。9章を読んでいて感じられることは、サウルはしごく真っ当な青年だということです。後にこのサウルは神様に背いてしまい、見捨てられ、悲劇的な最後を遂げることになるのですが、だからといって最初から彼が何か問題のある、ひねくれた、悪い人間だったと考える必要はありません。彼はむしろ、誰もがこの人こそ王になるのに相応しいと考えるような人だったのです。けれどもそれは、彼がそのような自分に備わっている力、才能によって王としての務めを果たしていくことができる、ということではありません。そのことは誰よりも彼自身がよく知っていました。くじによっていよいよ王として選び出された時、彼は「荷物の間に隠れていた」と22節にあります。恐ろしかったのです。自分がイスラエルの王になるなんてとんでもない、とビビッていたのです。神様はそのようなサウルを選んで油を注がれました。そして、神様が彼を王として立てて下さったことを示すために、サムエルを通して彼にいくつかの印を与えて下さったのです。その内の一つが、5節以下です。サムエルは彼に、ギブア・エロヒムという町へ行けと言います。そこで、預言者の一団に会うというのです。その預言者たちは「預言する状態になっている」と5節の終わりにあります。「預言する状態」というのは、神様の霊、聖霊に満たされて、霊的な興奮状態になり、その中で神様からみ言葉を示されてそれを語る、そういう状態ということです。旧約聖書に出て来る預言者がみんなそういうふうに預言をしたわけではありませんが、このようなタイプの預言者もいたのです。そういう預言者の一団に出会う、すると、6節「主の霊があなたに激しく降り、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになるでしょう」。主なる神様の霊がサウルに降る、そしてサウルも預言をする状態になる、そしてあなたは別人のようになるのだ、とサムエルは言ったのです。神様の霊によって別人のようになる、それが、サウルに与えられた印でした。彼がイスラエルの王となって民を治め、敵から救い出す者となる、それは、この、神の霊によって別人のようになることによって初めてなし得る働きなのです。どんなにすばらしい能力、才能を持っている者でも、神様の霊によって新しくされることなしには、このような務めを果たすことはできないのです。そして7節にはこうあります。「これらのしるしがあなたに降ったら、しようと思うことは何でもしなさい。神があなたと共におられるのです。」。聖霊が降り、新しくされたなら、今度は、「しようと思うことは何でも」したらよいのです。何事にも縛られることなく、自由に、何でもできるようになるのです。それは、「神があなたと共におられる」からです。このことこそが、サウルが王として立てられ、その働きをしていくための決め手となることです。聖霊の働きによって新しくされ、神様が共にいて下さる者となる、そのことによってサウルはイスラエルの最初の王となることができたのです。

それと同じ恵みが、復活された主イエス・キリストによって弟子たちに与えられたことを語っているのが、本日共に読まれた新約聖書の箇所、マタイによる福音書第28章16節以下です。十字架の死から復活された主イエス・キリストは、弟子たちに、「全ての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とお命じになりました。この命令は、彼らに聖霊が降り、教会が生まれ、伝道が開始される、つまりルカによる福音書とその続きである使徒言行録が語っているペンテコステの出来事を含んでいると言ってよいでしょう。弟子たちは、復活された主イエスによって、聖霊に満たされ、新しくされたのです。そして主イエスはさらに、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われました。聖霊によって新しくされ、主イエスがいつも共にいて下さる、その恵みによって、教会は生まれたのです。私たちもまた、その恵みの中にいます。私たちも、聖霊のお働きによって、主イエスを信じ、その十字架の死と復活によって罪の赦しを与えられたことを信じる者へと新しくされ、そして主イエスがいつも共にいて下さるという約束を与えられているのです。この恵みの中で私たちも、「しようと思うことは何でもする」、自由を与えられています。勿論それは自分のためではなく、主なる神様の栄光のため、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えるため、新しい神の民である教会の発展のためです。私たちはそのために何でもすることができる自由を、聖霊によって与えられているのです。私たちのすることは、しばしば間違ってしまいます。間違った方向に走っていってしまうことも起ります。しかし神様は、そのような私たちといつも共にいて下さり、私たちの歩みにどこまでも付き合って下さり、私たちを正しい道に立ち帰らせて下さる、私たちはそう信じることを許されているのです。

牧師 藤 掛 順 一
[1999年12月26日]

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