富山鹿島町教会

礼拝説教

「初穂キリスト」
詩編 第8編1〜10節
コリントの信徒への手紙一 第15章20〜28節

コリントの信徒への手紙一の15章でパウロが語っているのは、死者の復活についての教えです。死者の復活などない、と言っている人々が、コリント教会の中に起こってきていました。それは、前にも申しましたように、イエス・キリストの復活などなかった、ということではありません。キリストの復活は誰もが疑いなく信じていたことでした。その点は、今日の私たちの置かれている状況とはだいぶ違います。問題となったのは、キリストの復活ではなくて、キリストを信じて、その再臨、つまりキリストがもう一度この世に来られ、それによってこの世が終わる、そのことを待ち望みつつ、死んでいった人々の、世の終わりにおける復活です。それがあるかないか、ということが大きな問題となったのです。それは最初の内は、あまり問題にならない、他人事でした。ほとんどの人が、もうすぐ、自分が生きている間にキリストの再臨が起こり、この世は終わる、そしてその時にはキリストの永遠の命にあずかる者とされる、と思っていたのです。つまり、自分たちは死を経ないで、従って復活も経ないで永遠の命にあずかると思っていたのです。ところが、次第に時が経ち、多くの信仰者が死んでいく、それでも主の再臨は起こらない、つまり、主の再臨とこの世の終わりは、思っていたよりも遅いのだ、ということが明らかになってくると、このことはがぜん切実な、自分たちの問題になってきました。自分たちも、主イエスの再臨の前に死んでしまうようだ、するとどうなるのか、主イエスによる永遠の命にどのようにしてあずかっていくことになるのか…、そこにおいて、死者の復活ということがクローズアップされてきたのです。そして同時に、死者の復活などない、という考え方もそこに起こってきました。それは、死んでしまえばそれで全てが終わりという虚無主義的な考え方ではありません。彼らも、主イエスの救いによる永遠の命にあずかることを信じているのです。ただそこにおいて、死んだ者が再びよみがえって、その復活の体において永遠の命にあずかる、ということを否定しているのです。それでは彼らはどのようにして永遠の命にあずかると考えているのでしょうか。それは、肉体の死によって、魂が永遠の命にあずかる、ということです。キリストを信じて死んだ者は、そのことにおいて既に永遠の命にあずかっている、だからこの上復活などする必要はないのです。この考え方は、当時起こってきていたグノーシス主義と呼ばれる宗教思想の影響を受けています。その思想においては、魂こそがよいもの、救われるべきものであり、肉体は悪いもの、魂を捕えている牢獄だ、と考えられていました。だから、肉体の牢獄から魂が解放されることが救いだ、ということになるのです。だから、死において、肉体から解放された魂が永遠の命にあずかる、というのはこの思想とつながるわけです。そして、この、魂のみが永遠の命にあずかる、ということをもっとつきつめていけば、魂は、肉体の牢獄に閉じ込められている今でも既に、キリストの永遠の命にあずかっている、ということになります。肉体をもって生きているこの世の生活の中で、主イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、洗礼を受けて、キリストの十字架の死と、よみがえりの恵みにあずかる、そのことによって、魂においては既に古い自分が死に、新しい者へと復活している、だから、信仰者においては、復活はもうその魂において起こっているのだ、信仰者の魂は既に復活し、永遠の命にあずかっている、だからもうこれ以上、肉体の復活などということを考えなくていい、私たちはもう復活した者なのだ…。これが、「死者の復活などない」と言っている人たちの考えだったのです。これと同じようなことは、私たちも案外考えているのではないでしょうか。「死んだら魂が天国、神様のところへ行ってそこで永遠の命にあずかる」というのはこれと同じ考えです。そこにおいても、私たちの復活、体のよみがえりということはあまり問題になりません。復活して永遠の命にあずかるのではなくて、もう既に魂において永遠の命をいただいている、死んだらそれが完全なものになる、という感覚は案外私たちの中にもしみ込んでいるように思うのです。

パウロはこのような、死者の復活、肉体の復活などない、あるいはそれはもういらないという考え方に対して、先週読んだ13節で「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずだ」と語っています。キリストが復活した、それは誰もが信じ受け入れていることですが、それは、私たちが死んで、そして復活するということがなければ起こらなかったはずのことだ、というのです。キリストの復活と、私たちの復活は密接に結び付いている。それは神のみ心において結び付いているのであって、キリストの復活は、神が、私たちにも体のよみがえりを与えるためになされたことだ。私たちの復活を否定するなら、キリストのよみがえりはその目的を失って、必要のないものになる、とパウロは言っているのです。

この、キリストの復活と私たちの復活の関係を印象深く語っているのが、本日の20節の「初穂」という言葉です。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」。初穂というのは、その年の収穫の最初の実りです。その意味で、これから与えられる豊かな収穫を約束し、予告しているものです。キリストの復活が眠りについた人たちの初穂である、ということによって、この後、眠りについた人たち、即ち死んだ者たちに、豊かな復活の恵みが与えられていく、その約束、保証が与えられているのです。またこの初穂はただ最初にとれた物というだけではなくて、その最初の収穫が神様に捧げられる、その捧げ物のことを意味しています。最初のものが捧げられることによって、その後の収穫の全体が、神様のものとされ、祝福されるのです。キリストの復活が初穂であるということにはそういう意味もあります。キリストが死んだ者たちの初穂として復活されたことによって、その後復活の恵みにあずかる私たちが、神様のものとしての祝福を受けるのです。そのように、キリストが私たちの先頭に立って復活して下さったことをこの初穂という言葉は語ります。「眠りについた人たちの初穂」という言い方もそれを示しています。キリストが、眠りについた人々、死んだ人々の先頭に立って、死から復活なさった、そのキリストの復活によって、死んだ者たちにも復活の道が開かれたのです。キリストの復活と私たちの復活との間には、このように、初穂とそれに続く実りという関係があるのです。

キリストの復活によって私たちの復活の道が開かれた、そのことを、次の21節以下は、アダムとキリストの対比によって語っていきます。「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」。「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来る」。ここに語られているのは、人間の死というのは単なる自然現象ではない、という聖書の基本的な信仰です。死は一人の人によって来た。その人とは最初の人間アダムです。そのアダムの罪によって、人間は死の支配の下に置かれるようになった、つまり死は罪の結果なのです。それは、生物学上の死が罪の結果である、ということではありません。生まれたものがいつか死ぬことは、神様が造られたこの世界の、そしてそこに住む生き物の、それこそ自然の営みです。しかし問題は、人間にとって、死というものがそのような自然の営みとして何の問題もなく受け止められるものではなくて、大きな恐れ、不安、苦しみを伴うものとなっているという事実です。死がそのような苦しみになっているのは、人間の罪のゆえなのです。罪によって、神様との関係が破れている、神様とのよい交わりが損なわれているのです。それゆえに、神様が私たちの人生に決定的に介入なさり、それを終わらせられる死を、私たちは恐れ、苦しみを覚えるのです。自分を主人として、自分の思いによって生きている私たちは、死に直面する時、自分の人生は、命は、実は自分のものではなかったということを思い知らされます。アダムの罪とは、まさに、神様に従うことをやめて自分が主人になろうとすることでした。その罪によって、死は恐れと苦しみを伴うものとして私たちを支配するようになったのです。その死の支配から私たちを解放して下さるのが主イエス・キリストです。その解放は、アダムが自分を主人とする罪によって神様とのよい関係を失ったのと反対に、キリストがご自分の命を罪人のために犠牲にして、私たちのための罪の赦しを確立し、神様と私たちとの関係を修復して下さったことによって、そしてキリストが死の支配の下にある者の初穂として復活して下さったことによって与えられるのです。キリストの復活は、神様が、キリストの十字架の死による私たちの罪の赦しを受け入れて下さり、私たちとのよい関係を回復して下さったことの表れです。そしてそれと同時に、私たちにも、キリストと同じ復活の体と永遠の命を与えて下さるという約束でもあるのです。

このように、キリストの復活は私たちの復活の初穂であり、それによって私たちの復活の道が開かれたのだ、ということをパウロは教えています。つまりパウロは、キリストの復活が肉体をもっての復活であったように、私たちにも、体のよみがえり、肉体における復活が与えられる、復活は単に魂において、内面的に起こることではない、ということを語っているのです。パウロにとって、復活は、魂において既に起こっていることではなくて、あくまでもこの肉体においてこれから与えられる恵みなのです。それでは、私たちはこれからどのようにこの復活の恵みにあずかっていくのでしょうか。それが23節以下に語られていきます。「ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます」。ここには、世の終わりに至る三つの段階が語られています。「最初にキリスト」「キリストが来られる時に、キリストに属している人たち」そして「世の終わり」という三段階です。こういう段階を経て、私たちは復活の恵みにあずかっていくというのです。この三段階はどういうことを言っているのでしょうか。

まず「最初にキリスト」ですが、これは、キリストが初穂として復活したことです。つまりそれは既に起ったことであり、私たちが復活の恵みにあずかっていくための第一段階は既に終わっているのです。第二の段階が「キリストが来られる時に、キリストに属している人たち」です。これは、キリストがもう一度来られる、再臨の時のことです。その時に、「キリストに属している人たち」が復活の恵みにあずかるのです。この「キリストに属している人たち」とは誰のことであるかについて、いろいろと議論があります。それをいちいちここで紹介することはできませんが、結論から言うと、ここは、テサロニケの信徒への手紙一の4章15節以下と同じことを語っていると考えるのが一番妥当でしょう。そこを読んでみたいと思います。「主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」。ここには、「主が来られる日まで生き残る私たち」と「眠りについた人たち」とがどのように救いにあずかっていくかが語られています。そして16節に、「合図の号令がかかり、…降って来られます」これがキリストの再臨です。その時、「キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活」するのだと言われています。これが本日の所における「キリストに属している人たち」の復活だと言えるでしょう。つまり、「キリストに属している人たち」とは、主イエス・キリストを信じる信仰者として、再臨以前に眠りについた、つまり死んだ人たちのことなのです。その人たちが、キリストの再臨の時に、まず復活する。それから、今読んだところの17節にあるように、「わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられる」のです。それが、「次いで、世の終わりが来る」時のことです。つまりこの三段階は、まずキリスト、それからキリストを信じて死んだ人々が復活し、そして生きて再臨の時を迎えた人々が彼らと共に永遠の命にあずかっていく、という段階を表していると思われるのです。パウロがこのような段階を考えるのは、彼自身、自分が生きている間にキリストの再臨が起こり、この世が終わると思っていたからです。その彼の予想は当らなかったわけですが、大事なことは、主イエス・キリストを信じる信仰者は、キリストの再臨の時に、既に死んでいるなら復活の体を与えられ、なお生きているならその体を変えられて、共に永遠の命にあずかる者とされる、ということです。今は、キリストの復活という第一段階のみを示されている私たちは、この第二第三の段階、キリストの再臨によるこの世の終わりに起こる私たちの復活と永遠の命を待ち望みつつ生きているのです。

私たちは、世の終わりを待ち望みつつ生きています。世の終わりは、「ノストラダムスの大預言」などに言われているようなものではありません。世の終わりに何が起こるか、が24から26節に語られています。「次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます」。世の終わりに起こることは、キリストが「すべての支配、…国を引き渡」すことです。つまりキリストのご支配が全てのものに及ぶのです。今この世界には、また私たちの人生、日々の生活には、様々な力が支配しています。人間の造り出す、国や社会の権力の支配もあります。お金の力の支配もあります。その時代を覆っている空気、風潮の支配ということもあります。また、私たちにはどうすることもできない、自然の力の支配もあります。そして、病いや老いの力が容赦なく私たちを支配してきます。それらの究極にあるのが、死の力の支配です。これを逃れられる者は一人もいません。私たちはこれらの様々な力の支配の下に翻弄されつつ生きています。しかし、世の終わりには、主イエス・キリストが、これらの全ての力を滅ぼされるのです。敵対する力を全てご自分の足の下に置かれるのです。そこにおいて、最後の敵として死が滅ぼされます。死は、私たちを支配している最後究極の敵です。私たちは、どんなにがんばってもこの死の力に打ち勝つことはできません。しかし主イエス・キリストは、この死の力を滅ぼされるのです。主イエスの再臨において死んだ者が復活するというのはそういうことです。復活された方である主イエスのご支配が確立することによって、私たちを支配し虜にしている死が滅ぼされ、私たちはその牢獄から解放されるのです。先程、グノーシス主義についてお話した中で、この思想は肉体という牢獄からの魂の解放を考えると申しました。魂を肉体から解放することで、肉体を支配している死の力からの解放を得ようとしたのです。しかしそれは成功していません。人間は、魂と肉体というふうに簡単に分けられるような存在ではないのです。魂のみにおいて死からの解放を得たと思っても、もう片方の肉体が死の支配下におかれている限り、その解放は幻想に過ぎないのです。私たちが解放されなければならないのは、肉体という牢獄からではなく、死の支配という牢獄からなのです。

世の終わりとは、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった主イエス・キリストのご支配が、全てのものの上に確立する時です。そして24節の後半には、そのようにすべてのものへの支配を確立された主イエスが、「父である神に国を引き渡されます」とあります。全ての敵対する力を打ち破り、足の下に置いた主イエスが、そのご自分の支配、国を父なる神様に引き渡すのです。そのことは28節にはこう言い表されています。「すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです」。主イエスがご自分の下に従えたその国、支配を父なる神様に引き渡して、ご自身も父に服従なさる。それによって父なる神様の主権、ご支配が確立するのです。何故こういうことが言われるのでしょうか。勿論、独り子主イエスをこの世に遣わされたのは父なる神ですから、最終的に全てはその父なる神のもとに帰するのが当然であるとも言えます。しかしここにはもっと大切なことが語られているように思います。27節に「『神は、すべてをその足の下に服従させた』からです」とありました。これは、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第8編の7節からの引用です。その6、7節を読んでみます。「神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました」。この詩編第8編は、神様が、人間を、神に僅かに劣る者として造り、全被造物を治めるようにされた、そのみ心を歌っています。「神はすべてをその足の下に服従させた」というのは、もともとは、全被造物が神様によって、人間の足もとに置かれたという、人間の尊厳と栄光を語っている言葉なのです。パウロはその言葉を、主イエス・キリストについて用いています。つまりここでパウロは、主イエス・キリストにおいてこそ、人間の尊厳と栄光が確立している、ということを語っているのです。その尊厳と栄光とは、神に僅かに劣る者として、神の下にあり、それによって全被造物を治める使命を神から与えられているということです。それが、本来私たち人間に与えられていた尊厳と栄光だったのです。ところが人間は、アダムの罪以来、その尊厳と栄光を失ってしまいました。アダムが、そして私たちが常に犯し続けている罪とは、つきつめて言えば、神よりも僅かに劣った者として神の下にあることに飽き足らず、自分が「神のようになろうとする」、自分が主人になろうとすることです。その罪によって人間は、神の下においてこそ与えられている尊厳と栄光を失ったのです。主イエス・キリストは、私たちにその本来の尊厳と栄光を回復するための初穂としてこの世に来られました。そして、人間の本来あるべき姿、父なる神以外のすべてを足の下に服従させ、同時に父なる神に服従する、そういう者になって下さるのです。この主イエスの前では、死も、何の力もなく、その足の下に置かれています。つまり人間が、神様に造られたままの、本来の尊厳を保っていたならば、死も、またその他のいかなるこの世の力も、恐れる必要はなかったのです。しかし私たちは罪によってその本来の尊厳を失い、この世のもろもろの力に支配され、死の虜になっています。主イエス・キリストはそこから私たちを救い出して、本来の尊厳と栄光とを取り戻させるために、人となってこの世に来られ、私たちの罪を全て背負って十字架の死を受けて下さったのです。そのようにして主イエスは、死に支配されている私たちと同じ所にまで降ってきて下さり、そして死の虜となっている私たちの初穂として復活して下さいました。それは私たちにも、死に勝利する復活の命と新しい体を与えて、人間が本来神様の下で与えられていた尊厳と栄光を回復させるためです。そのことは最終的には、世の終わりの、キリストの再臨の時に、私たちが復活させられ、永遠の命を生きる新しい体を与えられる時に完成するものです。しかし、キリストが私たちの初穂として復活して下さったことを信じてこの世を生きることによって、今私たちを支配している様々な力、とりわけ、死の力を前にしても、それが、最後の敵として滅ぼされるものであることを知っている者として、力強く歩むことができるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[1999年8月8日]

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