富山鹿島町教会

礼拝説教

1999年 キャンドル・サービス
「飼い葉桶の救い主」
ルカによる福音書 第2章1〜21節

皆さん、教会のクリスマス、キャンドル・サービスにようこそおいで下さいました。今年は、1900年代最後のクリスマスです。あと1週間で1999年が終り、いよいよ2000年を迎えようとしています。1千年紀、1千年祭を意味するミレニアムという言葉が、盛んに語られています。ミレニアムを記念するイベント、コンサートなどが企画されています。先日ラジオを聞いていましたら、ミレニアム・グッズをプレゼントしますと言っていました。ミレニアム・グッズっていったいどんなものだろう、2000という数字さえ入っていればを何でもミレニアム・グッズになってしまうのだろうかと思います。

2000年を迎えるそのようなお祭り騒ぎがある一方、そこには一つの大きな問題があることが指摘されています。いわゆるコンピューターの2000年問題です。2000年になることによって、コンピューターが誤作動を起こすのではないか、それによって何が起こるかわからない、という心配があるようです。これに対する対応はずいぶん進んでいるようで、少なくとも国内では大きなトラブルが起こることはないだろう、と言われています。でも、安心はできない。何かが起こった場合に備えて、出勤して待機していなければならない職場も沢山あるようです。また、電車もしばらく止めて様子を見ると言われていますし、海外旅行は控えた方がいいとも言われています。報道機関も、大丈夫だ、そんなに騒ぎたてることはないと言いながら、でも念のために生活必需品をある程度備えておいた方がいい、とも言っています。このコンピューター2000年問題は、1900年になる時には全くなかった、そして2100年になる時にはもう起こらない、つまり人類の歴史においてたった一度限り起こる問題です。そういう意味で私たちは今、人類の歴史におけるものすごく貴重な時にさしかかっているのだと言うことができるでしょう。

2000年問題というのは何故起こるのか。私はコンピューターのことは詳しくありませんから正確に説明することはできませんが、素人向けに説明されているところによるならば、要するにコンピューターが、現在時刻をどう認識しているかという問題のようです。西暦の下二桁、つまり98年、99年というふうに年を認識するようになっている機械は、2000年になるとそのカウントが00になってしまい、現在時刻が正しく認識できなくなってしまう、というらしいです。00になったとたんに、コンピューターにとっては時間が100年戻ってしまって、例えば2000年1月1日に予約しておいたはずのものが、1900年1月1日の予約として処理されてしまう、ということでしょうか。私などはこういうのを聞くと、要するにコンピューターが、時の流れの中で自分の今いる所がわからなくなり、迷子になってしまうということかな、などと思ったりするのですが、要するにこの問題の原因は、コンピュータを動かすソフトを最初に作った時に、年号の認識を二桁でしてしまったことにあるということのようです。

それではどうすればよいのか。理論的には簡単なわけで、年号の認識を4桁に直してやればいい。1999年という認識ができるようにしてやれば、次の年は2000年で何の問題もないわけです。一度そうしてしまえば、2100年になる時も何も問題ではありません。この問題は一度限りだというのはそういうことです。しかし世界中の全てのコンピューターと全てのソフトにおいてその認識方法の変更をすることはほとんど不可能であるために、この複雑にコンピューターネットワーク化された社会では、どんな影響が出て何が起こるかわからない、というわけです。

さて、皆さんが今宵私の素人コンピューター談義を聞きにここに来られたわけではないことはよくわかっていますので、この話はもうおしまいにします。しかしこのことを申しましたのは、この2000年問題というのは、私たちの生き方、ものの見方にとって実に象徴的な意味を持っていると思うからなのです。これは要するに、私たちが自分の今生きているこの時、この年をどのように認識するか、という問題です。年号を、下二桁で認識するか、四桁全体で認識するか、それは、私たちが生きているこの時の流れの起点、始まりをどこに置くか、ということです。二桁の場合、その始まりは00年、つまり1900年が起点になります。そうすると、1900年以降のことは認識できるけれども、それより前のことは認識できないし、99年の次の年を正しく認識できないのです。つまり、時についての認識の範囲が、100年という短い期間に限られてしまっているのです。それに対して、四桁で認識する場合、その始まり、起点となるのは0001年です。0000年ではありません。西暦紀元0年というのはないのです。紀元1年あるいは元年の前の年は、0年ではなくて紀元前1年です。紀元前をマイナス何年と考えるならば、年号においては、プラス1の一つ前は0ではなくてマイナス1なのです。このプラス1年、0001年を起点として、そこを始まりとして時の流れを認識するのが、西暦紀元です。その始まり、起点をはっきりさせるならば、1999年から2000年への移り変わりを何の混乱もなく、迷子になってしまうことなく迎えることができるのです。

私たちは、2000年問題をかかえたコンピューターのように、時の流れ、時代の移り変わりの中で、自分のいる所がわからなくなり、迷子になってしまっているのではないでしょうか。毎日忙しく働いてはいるし、生活してはいる、コンピューターのように、与えられた仕事をどんどんこなしてはいます。最近のコンピューターはメモリも大きくなり、処理速度もものすごく早くなっています。それに対応して、私たちの生活も、とてつもなくめまぐるしくなり、次から次へと大量の新しい情報を処理していく日々を送っています。しかしそのようなめまぐるしさの中で、自分を見失い、自分がどこにいるのかがわからなくなり、どこへ向かっていけばよいのかもわからなくなってしまう、つまり、生活してはいるけれども、本当に生きてはいない、そんなことになっているのではないでしょうか。そしてそれは、私たちが、二桁しか認識できないような余りにも狭い視野でものを見ている、つまり、目の前にある、目に見えるものしか見ることができなくなっているからなのではないでしょうか。目に見えるものしか見つめることなく生きていく時に、私たち人間は、自分の本当の居場所を見失い、迷子になり、誤作動を起こしてしまうのです。コンピューターが誤作動を起こす前に、既に私たち人間が、今、様々な誤作動を起こしてしまっている、それが今日の私たちの社会の様子なのではないでしょうか。

それゆえに、2000年を迎えようとしている今、私たちの視野を、四桁にまで広げる必要があるのです。そうすることによって、私たちが生きているこの時の起点、始まりをはっきりさせる必要があるのです。紀元0001年、それは、主イエス・キリストの誕生の年です。つまり私たちが今ここでお祝いしているクリスマスの出来事、主イエス・キリストが、ベツレヘムの馬小屋で、一人の貧しい赤ん坊としてこの世にお生まれになり、飼い葉桶に寝かされた、そのことにこそ、私たちが生きているこの時の起点があり、始まりがあるのです。イエス・キリストがお生まれになった時、羊飼いたちに天使が現れ、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と告げました。神様が、私たちのために、その独り子を、救い主としてこの世に遣わして下さった、クリスマスとはそういうことが起こった時なのです。そのクリスマスの喜びが、私たちが生きているこの時の始まりにあるのです。クリスマスに、馬小屋の中で、貧しい姿で生まれて下さったこの救い主は、その後、人々の貧しさ、弱さ、苦しみを背負って歩み、その生涯の最後には、十字架にかけられて殺されました。神様の独り子が、私たちの全ての罪を背負って、私たちの代わりに死んで下さったのです。イエス・キリストの誕生は、神様がそれほどまでして、私たちを愛して下さっていることを示しています。クリスマスはそのことを覚え、喜び、感謝する時です。このクリスマスの喜びが、私たちの生活の原点となり、土台となるならば、私たちはもはや自分の居場所を見失うことはありません。めまぐるしい情報の洪水の中で、迷子になってしまうことはないのです。独り子イエス・キリストを遣わして下さった神の愛が常に私たちを支え、守り、導いている、その喜びを土台として生きることができるからです。

西暦2000年を迎えようとしているこのクリスマスに、この世界を、時の流れを見つめる視野を広く、深くされたいと思います。2000年前の、飼い葉桶の救い主を起点として、そこから今日まで脈々と流れている神様の恵みと愛に目を向けたいのです。その恵みと愛は、私たちの前に今ゆらめいているろうそくの炎のように、弱く小さいものにしか見えないかもしれません。百二十年ほど前に人間が作り出した電灯の明るい光の下に置けば、目立たない、またひと息でかき消されてしまうような小さな灯です。しかし、この飼い葉桶の救い主によって灯された光は、人間の世界が混乱し、迷子になり、誤作動を起こし、例えば2000年問題で停電になったりしても、このろうそくの明かりのように私たちを照らし、心の支えを与え、今どこにいるのか、どこへ向かえばよいのかを教えてくれるのです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」。このクリスマスの喜びを生活の原点として、主イエスのご降誕からの1999年、そして2000年を、ここにお集まりの皆さんと共に、迷うことなく歩んでいきたいと心から願うものです。

牧師 藤 掛 順 一
[1999年12月24日]

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