富山鹿島町教会

礼拝説教

1999年 クリスマス記念礼拝
「クリスマスの喜びと悲しみ」
エレミヤ書 第31章15〜17節
マタイによる福音書 第2章13〜23節

クリスマスを共に祝うこの礼拝の説教の題を、「クリスマスの喜びと悲しみ」としました。クリスマスは私たちにとって、大いなる喜び、祝いの時です。私たちの救い主、イエス・キリストが、この世にお生まれになった、私たちのところに来て下さった、そのことを神様に感謝し、共に喜び合うのです。教会から始まったこの祝いは、今では、信仰を持たない、イエス・キリストを知らない人々によっても祝われています。この国においても、クリスマスは年中行事の一つとして定着しています。イエス・キリストを信じる信仰とは関係なく、多くの人々がクリスマスを喜び祝っているのです。それはそれでよいことだと思います。知っていようといまいと、クリスマスは主イエス・キリストの誕生を祝う祭なのであって、それを多くの人々が共に喜び祝うことは意味のある、すばらしいことです。

このようにクリスマスは喜び祝いの時です。しかしそれでは「クリスマスの悲しみ」とはどういうことでしょうか。喜び祝いの時であるクリスマスに、何故「悲しみ」が見つめられなければならないのでしょうか。そんなことは、せっかくのクリスマスの祝いに水を差す、ふさわしくないことだ、と思う方もおられるかもしれません。けれどもそれは、聖書が語っていることなのです。私たちは今、マタイによる福音書の語るクリスマスの出来事を読み進めています。本日はその第2章13節以下を読んだわけですが、ここに語られていることは、悲しみ苦しみ以外の何物でもありません。生まれたばかりの主イエスが、ヘロデ王によって殺されそうになってしまう。それで、父ヨセフは、妻マリアと幼子イエスを連れて遠くエジプトにまで逃げていかなければならなかった。つまり彼らは故郷を追われて難民となったのです。そして彼らが逃げた後、ヘロデの命令によって、ベツレヘムとその周辺の二歳以下の男の子が皆殺しにされてしまうのです。ある日突然、兵士たちがやってきて、何の罪もない幼い子どもたちを次から次へと殺してまわる。親や家族たちは、何が起こったのか、何故こんなことをされなければならないのか、全く分からないままに、突然、苦しみ、絶望のどん底に突き落とされてしまったのです。イエス・キリストが生まれたということをきっかけにして、このような恐ろしい悲劇が起ったことを聖書は語っているのです。また、19節以下には、ヘロデが死んだ後、ヨセフとその家族が帰ってきたことが語られていますが、しかし彼らは、ヘロデの子が支配しているユダヤに住むことができず、ユダヤからは田舎と見られていたガリラヤ地方のナザレという町に住むことになったのです。主イエスはこのナザレで育ち、そこから出て神の国を宣べ伝えられたので、23節にあるように「ナザレの人イエス」と呼ばれました。ルカによる福音書では、イエスの両親が最初からナザレに住んでいたという話になっているのに対して、マタイは、彼らがヘロデの魔の手に追われていって、ついにナザレに住むことになったと語っているのです。つまりこれもまた、苦しみの出来事として語られているわけです。このように、本日の所に語られているのはどれも、悲しみと苦しみの話です。むしろ「喜び」などどこにも見当らない、どちらを見ても悲しみと苦しみばかりなのです。マタイによる福音書はこのように、クリスマスの出来事にまつわる悲しみ、苦しみを強調して描いています。ルカによる福音書が、あのベツレヘムの郊外の野原で羊の群れの番をしていた羊飼たちに、天使が現れ、「全ての民に与えられる大きな喜びを伝える」と語り、また天の大軍が讃美の歌を歌ったという、喜びを中心としているのに対して、マタイは、クリスマスの悲しみを語っているのです。

しかしそれは勿論、マタイにとって、クリスマスは喜び祝うべき時ではなくて悲しむべき時だ、ということではありません。主イエスの誕生をめぐる、様々な悲しい、つらい出来事のその暗闇の中に、マタイもまた、大きな喜びの光を見ているのです。その喜びがはっきりと語られているのは、先週読んだ2章10節です。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」。喜びにあふれた人々のことがここに語られています。「学者たち」というのは、東の国から来た、占星術の学者たちです。彼らは星の観測をしていて、ユダヤ人の王の誕生を告げる星が現れたのを見て、その王を拝むためにはるばる旅をしてきたのです。そして、あの不思議な星の導きによってついに幼子イエスを捜し当てた、そこにこの喜びが語られています。これが、マタイの見つめているクリスマスの喜びなのです。この喜びは、どんな喜びなのでしょうか。彼らは何を喜んでいるのでしょうか。

彼らは、ユダヤ人の王として生まれた幼子を拝むためにはるばるやって来ました。その「拝む」とは、ひれ伏して拝む、礼拝する、という意味です。彼らは、礼拝をするためにやって来たのです。そしてついに、礼拝する対象である幼子を見出したのです。それによって彼らは喜びにあふれた。つまり彼らの喜びは、礼拝する者の喜びです。しかもそれは、単に人間の支配者、ある国の王様を礼拝しているということではありません。生まれた幼な子は「ユダヤ人の王」ですが、しかしそれがただユダヤ民族の王、ユダヤの国を支配する者というだけならば、東の国の彼らには関係のない、外国の支配者に過ぎません。その王を拝みに行ったりするいわれはないのです。彼らは、このユダヤ人の王として生まれた幼な子こそ、自分たちの王でもあり、全世界の救い主として神様から遣わされた者であることを知っていたのです。その自分たちの王、自分たちの救い主を礼拝するために、彼らははるばる旅して来たのです。そしてついにその幼な子を見出した喜びにあふれたのです。そして彼らは自分たちの宝であった黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。一番大切にしていた宝を、この王に、救い主に献げたのです。それは、自分自身を献げることの現れです。この王の下に、この王に従う者として生きるという決意、即ち信仰の表明です。彼らの喜びは、神様を信じ、その救いを信じる者が、神様を礼拝し、自分自身を献げて、神様に従う者として生きていく、そこに与えられる喜びなのです。そしてこれこそがクリスマスの喜びであるとマタイは語っているのです。

しかしこの大きな喜びの周囲には、今見たように深い苦しみと悲しみの闇が広がっています。東の国から来た学者たちの喜びは、その深い闇の中に一点だけ灯る明かりのようです。周囲が闇であるから、この光はいっそう明るく輝いて見えるのです。この苦しみ悲しみの闇をもたらしているものは何なのでしょうか。それはヘロデ王の心の闇です。ヘロデは、ユダヤ人の王の誕生の知らせに不安を覚えました。自分に取って変わって王になろうとする者が生まれた、このままでは、自分の王位が危ういと思ったのです。それで彼は占星術の学者たちをベツレヘムへと遣わし、王として生まれたその子のことを調べて自分に報告するように命じました。それは今のうちにその子を殺してしまうためでした。このヘロデの、新しく生まれた王、救い主への敵意、殺意のゆえに、主イエスの家族は、故郷を追われるようにエジプトへと逃げていかなければならなかったのです。学者たちは主イエスにお目にかかり、礼拝し、贈り物を献げた後、神様のお告げによって、ヘロデに報告することなく自分たちの国に帰ってしまいました。目論見が外れたヘロデはかんかんになって怒り、ベツレヘムとその周辺一帯の、二歳以下の男の子を皆殺しにするのです。何の関係もない、ヘロデに対して何をしたわけでもない幼な子たちが、次々に殺されていきました。想像するだに恐ろしい、神も仏もあるものかという現実が繰り広げられたのです。その全ては、ヘロデの、自分の王位を誰にも渡すものかという思いから生じたことです。私たちの王として、世の救い主としてお生まれになった主イエス・キリストを拒否し、あくまでも自分が王であり続けようとするヘロデの思いが、このような深い闇をもたらしているのです。

このヘロデの思いは、決してヘロデだけの問題ではないだろう、ということを先週も申しました。私たち一人一人が、自分という王国において、常に王であろうとしている、自分が王でなければ、自分の思いを通さなければ気がすまない、という思いで生きている、つまり私たち一人一人が、小さなヘロデになっているのではないか。このクリスマスに、私たちのまことの王、救い主がお生まれになった、その主イエス・キリストを私たちはどんな思いで迎えているのか。クリスマスを華やかな喜びの時として祝うけれども、終わってみれば相変わらず自分が王様であり続ける、自分の王国を主イエスに引き渡し、主イエスの王国の民となるのではなく、自分の王国の王であり続けようとするならば、私たちの心はヘロデの心と変わるところはないのです。神をさしおいて自分が王になろうとすること、それが聖書の言う人間の罪です。そしてその罪から、この世の様々な悲惨、苦しみ、闇が生まれます。国と国、民族と民族の争い、対立から、個人と個人のいさかいに至るまで、その根本はいつもこの、自分が王であろうとするヘロデの思いがあるのです。人間の社会というのは、自分が王であろうとする小さなヘロデたちが、お互いに相手の領分を犯さないように適当に折り合いをつけながら住み分けている、そういう所なのではないでしょうか。そしてその折り合いがなかなかつかずに常に小競り合いが起り、さらには大きな衝突が起る。特に最近は、お互いの、自分が王であろうとする思いがふくれあがっているように思います。そのために衝突が増え、また大きな争い対立が増えている、ヘロデの心から生じる闇がますます深まっているのです。

私たちはそのように闇を生み出し、自分の周囲にそれをまき散らしながら生きている者です。自分の中に闇があり、それが周囲をも暗くしているのです。しかしそれと同時に、私たちの外から、どうしようもない闇の力が私たちを襲い、悲しみ苦しみの中に突き落されてしまうということもあります。ヘロデの、幼な子イエスに対する殺意によって、ヨセフとマリアはイエスを連れての逃亡の生活を強いられたのです。救い主イエス・キリストはこの時、何の変哲もない、一人の弱い小さな赤ん坊でした。よく絵にあるような後光が差していたりはしないのです。神様は彼らに、ご自分の独り子をそのような姿でお委ねになりました。その幼な子を彼らが生み、育て、守っていくことを求められたのです。そのことのために、彼らはこのような苦しみを受けなければなりませんでした。つまりこれは信仰による苦しみです。信仰を持って生きるというのは、神様から、幼な子イエスを委ねられて、その子を大切に守り育てていくようなものです。その歩みにおいて、様々な苦しみが私たちを襲います。周囲の無理解や反対にあったりします。そういう意味で、信仰をもって生きることは決して楽ではありません。信仰のゆえに、闇の中を歩まなければならないこともあるのです。

また私たちを襲う闇は、信仰によるものだけではありません。ベツレヘムの幼な子たちとその家族は、突然、いわれのない虐殺の苦しみにあったのです。彼らは主イエスとは何の関係もなかった。言わば、主イエスが近くに生まれたために、そのとばっちりを受けたのです。これは本人たちにしてみれば、全く理由のわからない、理解しかねる苦しみです。正義の神がおられるなら、どうしてこんなことが起るのか、と天に向かってこぶしをふりあげずにはいられないような苦しみです。そのような苦しみの闇が私たちを襲うこともあるのです。

この幼児虐殺の出来事は私たちにとって本当に不可解です。救い主イエス・キリストの誕生という喜ばしい出来事において、どうしてこのような悲劇が共に起るのか。クリスマスを喜び祝おうとする私たちは、このことによってその喜びをそがれてしまうのです。この幼児虐殺は一つには、主イエスを受け入れず、自分が王であろうとするヘロデの思い、それは私たちの中にもある思いであるわけですが、それがどんなに恐ろしい罪を生むか、ということを示していると言えるでしょう。自分があくまでも王であろうとする時、私たちは、その王位を守るために、何の罪もない幼な子を殺すようなことまでしてしまうのです。最近大きな話題となった幼児殺害の事件が思い起されます。しかし、ああいう事件を思い起して、「恐ろしいことだ」と言ってそれで終わりにしてしまうことは許されません。これは私たち一人一人の問題なのです。実際に殺人を犯すことはないにしても、自分が王であろうとする中で私たちも同じようなことをしていくのです。

しかし聖書は、この恐ろしい出来事にもう一つの意味を見出しています。それは、エレミヤの預言の実現ということです。18節にある引用は、本日共に読まれたエレミヤ書31章の15節です。息子たちを失った母親ラケルの嘆きが語られています。ラケルとその姉レアは、アブラハムの孫ヤコブの妻でした。この二人から、イスラエルの12の部族の先祖たちが生まれたのです。つまりラケルはイスラエルの民の母であると言うことができます。その母が、息子たちを失って悲しみにくれている、それは、イスラエルがバビロニア帝国によって国を滅ぼされ、多くの人々がバビロンに連れていかれてしまった、いわゆるバビロン捕囚の出来事を指していると言われます。その苦しみ、嘆きを語った言葉が、この幼児虐殺の嘆き悲しみと重ね合わせられているのです。このことによって、マタイ福音書の著者は一つのことを示そうとしています。エレミヤ書のこの預言の言葉には、さらに続きがあるのです。先程読まれた16、17節です。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る」。息子たちを失ったイスラエルの母ラケルの嘆きに対して、主なる神様はこのように言われるのです。この苦しみは決して無駄ではない、この苦しみを通して、あなたがたに救いが与えられる。その救いはどのようにして与えられるのでしょうか。このエレミヤ書31章のもう少し後の方、31節以下にこのように語られています。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」。イスラエルの民が、バビロン捕囚の苦しみに陥ったのは、彼らが神様との間の契約を破り、神様との関係を捨てて他の神々、自分の都合のよい、自分の思い通りになる神々に心を向けていったからです。その民の罪を、神様は赦して下さり、もう一度新しい契約を結んで下さる、彼らとの関係を結び直して下さる、この新しい契約によって、イスラエルの民に救いが与えられることがここに約束されているのです。マタイは、幼児虐殺の苦しみ悲しみを、ラケルの嘆きと重ね合わせることによって、そこに、エレミヤ書に約束されている新しい契約による救いの実現を見つめているのです。

神様が私たちの罪を赦し、新しい契約を結んで下さる。そのことが、救い主イエス・キリストによって実現しました。神様の独り子イエス・キリストは、神様と私たちとの間に、新しい契約を打ち立て、神様の赦しの恵みの中で神様との新しい関係に生きる新しい神の民を興こすために、この世に生まれて下さったのです。その新しい契約はどのようにして結ばれたのでしょうか。それは、主イエス・キリストの十字架の死によってです。主イエスは、生まれたばかりの幼な子の時から、ヘロデの殺意によってエジプトに逃げなければならなかったし、ヘロデの死後も、ユダヤに住むことができずに、ガリラヤのナザレに追いやられました。そしてそのご生涯の最後には、結局、人々によってこの世から追いやられ、十字架の死刑に処せられてしまったのです。自分が王であろうとし、主イエスを受け入れようとしない人間の心がもたらす闇がそこに極まりました。しかしそのことにおいて、神の独り子イエス・キリストは、私たちの罪をご自分の身に背負って、私たちのために、本当は死ぬべき私たちの身代わりとして死んで下さったのです。神様はそのことによって、私たちと、新しい契約を結び、私たちを、罪の赦しの恵みに生きる新しい神の民として下さったのです。人間の罪と、それがもたらす悲しみ、悲惨が極まる、そこに、その罪と悲惨をご自分の身に引き受けて、救い主イエス・キリストが立って下さったのです。そのことの最初の一歩が記されたのが、クリスマスの出来事です。主イエス・キリストの誕生は、この世の悲惨、苦しみ悲しみのその闇のただ中に、それを背負う方として神のみ子が来て下さったという恵みの出来事です。私たちの現実は、またこの世の現実は、その闇の中にあります。しかしそこに来て下さった主イエス・キリストを私たちがお迎えし、私たちの罪の闇を背負って下さる主イエスの恵みを求めてそのみ前にひれ伏して礼拝をするなら、そこには、大いなる喜びにあふれる明るい一角があるのです。この礼拝こそ、その明るい一角です。ここに、私たちのクリスマスの喜びがあるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[1999年12月19日]

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