富山鹿島町教会

礼拝説教

「インマヌエル」
イザヤ書 第7章1〜17節
マタイによる福音書 第1章18〜25節

本日は、アドベント、待降節の第二の主の日です。教会の玄関を入った正面のアドベントクランツの四本のろうそくの内の二本に火が灯されています。来週は三本に火を灯し、四本全部に火を灯すさ来週の主の日に、私たちはクリスマスの記念礼拝を守ろうとしているのです。そのようにして、クリスマスが来るのを、指折り数えて待っている、そういう日々を今私たちは過ごしています。

アドベントとは、「到来」という意味です。ラテン語から来た言葉ですが、「アド」とは「どこそこへ」という意味、「ベント」は「ヴェニーレ」(来る)という言葉の変化したものです。ですからアドベントとは、「どこそこへ来ること」という意味になります。これと同じ語源から生まれた言葉に、「アドベンチャー」(冒険)という言葉があります。このごろはそれが縮められて「ベンチャー企業」などという言葉としてよく耳にしますが、これは、アドベントと同じ言葉を、未来に向けて意識した言葉です。つまり、「これから来ること」、未知のこと、それに向けて勇気を出して進んでいくこと、それが「冒険」であるわけです。アドベントとアドベンチャーは同じ言葉から来ている、このことは覚えておいたらよいと思います。

私たちのアドベントは、何よりもまずクリスマスを待ち、それに備える時です。主イエス・キリストが二千年前にこの世に来られ、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになった、そのことを覚え、祝い、記念するクリスマスを迎えるための準備を、私たちは今、心においても、また様々な具体的な活動においてもしているのです。しかしアドベントは、主イエスが二千年前にこの世に来られた、その過去の到来を覚えるだけの時ではありません。私たちが覚え、待ちつつ備えていくのは、主イエスの第二の到来、復活して天に昇られた主イエスが、もう一度来られる、それによってこの世が終わり、神の国、神様のご支配が完成する、そのいわゆる再臨における到来でもあるのです。その意味でアドベントは、二千年前の過去に思いを馳せる時であると同時に、未来へと心を向ける時でもあります。キリストの第二の到来という約束された未来に向けて、勇気と希望をもって歩み出していく、そういうアドベンチャー(冒険)へと促されていく時でもあるのです。

この来たるべき第二の到来、再臨をも覚えつつ、しかしまずは第一の到来、主イエス・キリストの誕生の物語を、マタイ福音書によって味わっていきたいと思います。本日の箇所の最初の所、18節に「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった」とあります。しかし本日の箇所に語られているのは、主イエスがいつ、どこで誕生したというような話ではありません。そういうことは第2章に入らないと語られないのです。マタイがこの第1章で語っているのはもっぱら、母マリアがどのようにしてイエスをみごもったか、そしてそれを知った父ヨセフがどうしたか、ということです。特にここでは、父ヨセフに焦点が当てられています。この点はルカによる福音書のクリスマスの記事とは対照的です。ルカはマリアを中心とした記述になっているのに対して、マタイはヨセフを中心に描いているのです。

さて18節後半に「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とあります。この、たった三行ほどの間に、事もなげに書かれていることは、しかしとてつもなく重大なことです。ヨセフは、婚約者が、自分以外の何者かによって妊娠したという事実をつきつけられたのです。世間の人々は、婚約者ヨセフが結婚までがまんできなかったのだろう、ぐらいにしか思わないかもしれません。しかしそうではないことはヨセフ自身が一番よく知っているのです。これは、一つの家庭の崩壊の危機です。正確に言えば、これから形成されようとしていた一つの家庭が、もろくも崩れ去っていく、そういう危機です。その家庭を成り立たせる根本的な信頼関係が失われてしまおうとしているのです。マリアは、私はヨセフを裏切ってはいない、決して他の男と関係を持ったわけではないと叫びたかったでしょう。しかし、彼女が妊娠し、次第におなかが大きくなっていくという現実の前では、そのようなことは何の言い逃れにもなりません。そのようなことは言えば言う程、ヨセフや人々から、何とずうずうしい女だとあきれられてしまうだけなのです。ヨセフの方としても、マリアを失いたくはない、築こうとしていた家庭をぶち壊したくはない、しかしマリアの妊娠の事実はその彼の思いの前にどうしようもなく立ちはだかっています。マリアが自分を裏切ったとしか考えられない現実が目の前にあるのです。おそらくヨセフは、マリアが、「私は過ちを犯ししました、どうぞ赦して下さい」とあやまったなら、全てを赦して彼女を迎え入れる気持ちがあったのだろうと思います。しかしマリアとしては、そんなふうに自分を偽ることはできない。していないことはしていないのです。ですからヨセフとしても、裏切られたという思いをぬぐい去ることができないし、マリアとしても、自分のことをどうしても理解してもらえない、そのようにして、二人の関係は崩壊していかざるを得ない、そういう事態なのです。

このような状況の中で、ヨセフは一つの決心をします。19節です。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。ヨセフは正しい人だった。「正しい」ということにはいろいろな意味があります。正しい人であるがゆえに、間違ったことを受け入れることができない、ということもあるでしょう。正しいことを大切にしようとするヨセフは、マリアの裏切りを不問に付すことはできないのです。しかしここで見つめられている彼の正しさは、もっと広い意味を持っています。間違ったことを赦すことができない、という意味での正しさだけを彼が持っていたならば、彼はマリアを姦通の罪で訴えることができるのです。ヨセフとマリアは婚約していました。当時の婚約は結婚と同じ重さを持った事柄とされていました。まだ一緒に暮らすことはしていない、という点で正式の結婚と区別されるだけで、二人を結びつける法律的な関係は結婚と同じに考えられていたのです。ですから、婚約期間中にもしも他の異性と関係を持ったりしたら、それは立派な姦通の罪になることでした。その罪がはっきりすれば、あのヨハネによる福音書第8章に出て来る女性のように、マリアは石で打ち殺されてしまうかもしれないのです。姦通の罪はそれほどに重いのです。しかしヨセフはそのような道を選びませんでした。彼は「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」のです。それは、自分や自分の家の名誉を守るためということではなくて、マリアが裁かれ、死刑になったりすることを防ぐためです。表ざたにする、とは、マリアの姦通の罪を明らかにすることです。それをせずに、婚約を解消する、婚約関係がなければ、子供を生んでも姦通の罪に問われることはないのです。ですからこれは、ヨセフのマリアに対する精一杯のやさしさの現れであると言えるでしょう。ヨセフが「正しい人であった」というのは、そのことを指して言っているのです。彼はただ「正しいこと」を求めるだけの律法的な冷たい人間ではない、やさしさや思いやりを持った人だったのです。だからこそ、先程申しましたように、もしもマリアが罪を認めてあやまったならば、彼は赦して迎え入れただろうと思うのです。彼はそれだけの心の広さを持った人だと思います。しかしそのヨセフの本当の意味での正しさ、やさしさ、心の広さにおいても、出来ることは、表沙汰にせず、密かに縁を切る、ということまでだったのです。

この結論に達するまで、ヨセフは随分悩み苦しんだでしょう。そしてそれは誰にも相談することのできない、一人でかかえ込み、決断しなければならない悩みです。主イエス・キリストの誕生、クリスマスの出来事は、このヨセフの深い悩み苦しみから始まったのです。20節に「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った」とあります。神様のみ使いが夢に現れる、それは、ヨセフがこのことをそれだけ深く苦しみ悩んでいたということを示すと言ってよいでしょう。「このように考えていると」というのはただ漠然と考えていたのではなくて、夢に見る程に深く悩み苦しんでいたのです。そしてその悩み苦しみの中で、彼は神様の語りかけを聞いたのです。その語りかけは、彼に、マリアを妻として迎え入れることを求め、マリアの妊娠は聖霊によることを告げ、生まれてくる子をイエスと名付けることを命じるものでした。要するに神様は彼に、常識においては自分を裏切ったとしか思えないマリアを妻として迎え入れ、同時に、マリアの生む子供を自分の子として受け入れ、その子の父となることを求めたのです。子供に名前をつけるというのは、それが自分の子であると認める、今の言葉で言えば認知するということです。ですからこれは、単に、妊娠しているマリアを妻として迎え入れる、というだけのことではありません。自分の婚約者が、自分によらずにみごもった子供を、自分の子として受け入れ、その父となることを彼は求められたのです。父となるということは、その子供を守り育てるための責任を負うことです。現にこの後彼は、幼子イエスを守るために、エジプトにまで逃げていかなければなりませんでした。そういう全てのことを引き受けるようにと神様はヨセフに言われたのです。ヨセフにしてみれば、何故自分がそのようなことをしなければならないのか、私にはそんなことをする義務も責任もない、と言って断ることもできることです。しかし彼は、24、5節「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた」、このように、彼は神様のみ言葉の通りにしたのです。そして、彼がこのようにしたことによって、主イエス・キリストは、無事にこの世に生まれてくることができたのです。また、父親のない私生児にならずにすんだのです。

このヨセフの決断と行動は、単に主イエスが無事に生まれてくるとか、父親のない子にならずにすんだ、というよりも、もっとずっと大きな意味を持つことでした。私たちは先々週の礼拝において、マタイ福音書1章の1〜17節を読みました。そこには、主イエス・キリストの系図が記されていました。主イエスが、アブラハムの子ダビデの子としてお生まれになったことを示す系図です。しかし、そのアブラハムから始まり、ダビデを経て続いてきた名前の最後に来ているのは、ヨセフです。16節、「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」。つまりこの系図はヨセフの系図なのです。しかし主イエス・キリストは、ヨセフによらずに、マリアが、いわゆる処女懐胎によって生んだ子です。そうであるならば、この系図は、血のつながりという意味では、ヨセフで途切れているのです。主イエスにつながっていないのです。それにもかかわらずこれがイエス・キリストの系図と呼ばれるのは、ヨセフが、マリアの生んだ子供を自分の子として受け入れたからです。彼が神様のみ言葉に従って、自分はその父となるという決断をしたからです。彼のこの信仰における決断こそが、この系図を主イエス・キリストにつなげているのです。そしてこの系図がつながることによって、主イエス・キリストは、「アブラハムの子ダビデの子」となり、神様の約束して下さった救い主となることができたのです。つまりヨセフのこの決断は、主イエスが私生児になるかどうか、というような、基本的にはどうでもよい、そんなことで人間の価値が左右されるものではないような事柄ではなくて、主イエスがキリスト、即ち私たちの救い主であることができるか否かを決定する、重大な意味を持ったことだったのです。

主イエス・キリストは、神様の独り子であられます。神様がご自分の独り子をこの世に遣わして下さった、神様の独り子が貧しく弱い赤ん坊としてこの世に生まれて下さった、それがクリスマスの出来事の意味であることを私たちは知らされています。しかしここに語られていることをよく読むならば、神様はそれ以上のことをしておられることがわかってくるのです。父なる神様は、ご自分の独り子を、聖霊によってマリアの胎内に宿らせられました。それによって、その独り子の運命を、その子が救い主として生まれ、生きていくことができるか否かを、ヨセフという一人の、まったく無名な、大工であったと言われる男に委ねられたのです。彼が、み使いの言葉を聞いて、そんな義理はどこにもない、ある意味では馬鹿を見るような、何というお人好しかとあざ笑われるようなことを、神様のみ言葉であるがゆえに受け入れ、その通りにする、そういう彼の信仰の決断に、ご自分の独り子の運命を、命さえもお委ねになったのです。クリスマスとは、そういうことが起こった時でした。そしてこのことによって、旧約聖書の預言が実現したのです。その預言とは、23節の、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」という預言です。それは本日共に読まれた、イザヤ書第7章14節にある言葉です。インマヌエル、それは23節に説明されているように、「神は我々と共におられる」という意味です。神様が私たちと共にいて下さる、そのことが、このことによって実現したのです。インマヌエルとは、神様がいつも一緒にいて下さる、という一般論ではありません。「我々と」ということは、「私たちと」です。私と、そしてあなたと、私たち一人一人に対して、神様は共にいて下さるのです。どのようにしてか。それは、ご自分の独り子を、あのヨセフの信仰の決断に委ねられた、そのようにしてです。ヨセフはここで、共におられる神の語りかけを聞いたのです。「私の独り子をあなたに委ねる、あなたがこの子を受け入れてくれなければ、この子は生きていけないし、救い主としての業を行うことはできない、だから、お願いだから、この子をあなたの子として受け入れてくれ、この子の父になってくれ」、そのように神様が自分に語りかけられるみ声を聞いたのです。神様が、ご自分の独り子の運命を、この自分の信仰の決断に委ね、任せておられる、そのように彼と共におられる神を知ったのです。インマヌエルとはそういうことです。「神は我々と共におられる」というのを、「神様がいつも一緒にいて守って下さる、助けて下さる」とだけ思っているうちは、本当のインマヌエルはわからないのだと思います。神様は、この私の信仰の決断を求めておられる、待っておられる、この私がみ言葉を受け入れることに、ご自身を委ねておられる、神様が共におられるとはそういうことなのです。

以前に、「足跡」という詩を紹介したことがあります。自分の人生の歩みを、海辺の砂の上の足跡として振り返る、そういう夢をある人が見た、という詩です。最初のうちは、自分の足跡と、主イエスの足跡と、二組の足跡が並んでいる。ところがある所から足跡は一組になっている。しかもそれは彼の人生の危機の時だった。彼が、「主よ、あの危機の時にあなたはどうして共にいて下さらなかったのですか」と言うと、主イエスは、「いや、あそこから先は、私があなたを背負って歩いたのだ」と答える、という詩です。この詩は確かに、「神が我々と共におられる」というインマヌエルの恵みの一面をよく表しています。私たちは、自分の足で歩いているつもりでいても、実は共にいて下さる主イエスに背負われている、神様の力に支えられているということが多々あるのです。しかし、このことだけでは、インマヌエルの恵みの一面のみの理解に留まってしまうことになるでしょう。神様は時として、私たちに、自分を背負ってくれと言われるのです。あなたが背負ってくれなければ、この先一歩も進むことができない、重いだろうけれども、つらいだろうけれども、私を背負って歩いて欲しい、神様は私たちにそう言われるのです。ヨセフはそういう神様の語りかけを聞きました。そしてそれに応えて彼は、幼子イエス・キリストを背負ったのです。そのことによって彼は、共にいて下さる神を知り、インマヌエルの恵みを知ったのです。

主イエス・キリストのご降誕によって、私たち一人一人に、インマヌエルの恵みが与えられています。しかし私たちがその恵みを本当に知ることができるのは、それぞれが負っている様々な悩み苦しみの現実の中で、神様のみ言葉と出会うことにおいてです。しかも神様はそこで、私たちに、私の業の一端を担ってくれとおっしゃるのです。私のために重荷を負ってくれとおっしゃるのです。そのように私たちの信仰の決断と行動にご自身を委ねて下さるのです。そのみ言葉に応えていくことによって、私たちは、インマヌエル、神様が共にいて下さるという恵みを知るのです。

主イエスの到来を覚えるこのアドベント、このように、私たちにご自分の身を委ねて下さったインマヌエルの主イエス・キリストを覚え、その主イエスをお迎えする信仰の決断を新たにしていきたいと思います。そしてその信仰によって私たちは、これから来る未知の世界へと、アドベンチャー、冒険の旅に出るのです。この先どんなことが私たちに到来するのかはわかりません。しかし、私たちを背負って下さり、同時に私たちに、信仰の決断をもってご自分を背負うことを求められるインマヌエルの神が、私たちの冒険の旅路に常に共にいて下さるのです。そしてその旅路の終わりには、主イエスの第二のアドベント、再臨による神の国の完成が約束されているのです。勇気と希望をもって、未来へと歩み出していきたいのです。

牧師 藤 掛 順 一
[1999年12月5日]

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