富山鹿島町教会

礼拝説教

「王を求める民」
サムエル記上 第8章1〜22節
マタイによる福音書 第21章1〜11節

毎月の第四の主の日に、旧約聖書サムエル記上よりみ言葉に聞いています。その都度お話ししていることですが、サムエル記は、イスラエルの歴史における一つの大きな転換期を描いています。それは、イスラエルがゆるやかな部族連合体から、一人の王をいただく中央集権的な王国になっていったという転換期です。その大きな転換が、サムエルという人の下で起ったのです。サムエルは、それ以前の、士師と呼ばれるイスラエルの指導者の最後に位置する人、最後の士師です。サムエル以後に士師は立てられませんでした。それは、イスラエルが王国になったからです。士師たちが担っていた役割は、王が代わって担うことになったのです。本日ご一緒に読む第8章は、その士師の時代から王国への転換がどのようにして起ったのか、そしてそのことの持つ意味は何なのか、ということが語られている、そういう意味ではサムエル記全体の中で最も大事な箇所なのです。 さて、イスラエルはどのようにして王国となったのでしょうか。普通は、王様の誕生というのは、ある人がその国の中で次第に力を伸ばし、勢力を広めていって、やがてその国全体の人々を従えるようになる、そのようにしてその人が王として君臨するようになるというのが一般的なパターンであると言えるでしょう。戦国時代の群雄割拠の中から、最終的に徳川家康が勝利して江戸幕府を開いたというのも、もっと古くは大和朝廷の成立も、そのように説明されるのです。しかしイスラエルが王国になった事情は、それとは全く違うことでした。誰かが力を伸ばしていって王になったのではなくて、イスラエルの人々が、サムエルに、王を立ててくれるように求めたのです。自分たちを治めてくれる王様が欲しいという民の求めによって王が立てられた、それが、イスラエルが王国になったいきさつでした。

何故人々は王を求めたのでしょうか。それは何よりも、国の安定を求めたからです。これまでイスラエルは、各部族のゆるやかな連合体で、国が他民族に脅かされたり、支配されたりという危機になると、その都度士師と呼ばれる英雄たちが起され、彼らが単独で、あるいは軍勢を率いて敵と戦い、イスラエルの独立を守り、また民を治めてきたのです。しかし士師たちはいつでも存在しているわけではありません。ある士師が死ねば、神様が次の士師をいつ立てて下さるか、それは誰にもわからないのです。しかし特にこの時代、ペリシテ人による脅威は常に存在していました。いつ敵に攻め込まれるかわからない、という不安な思いが民の中にあったのです。そういう中で、国全体を一つに束ね、強力な軍隊を手元に備えていて、敵が攻めてきたときにすぐにそれを率いて国を守ってくれる王様がいてくれたら、という思いが次第に大きくなってきたのです。それでも、サムエルが元気なうちはそういうことを言い出す者はいませんでした。しかし1節にあるように、サムエルが次第に年老いて弱っていく中で、そういう声が表面化してきたのです。そのことには、サムエルの息子たちの問題もからんでいます。サムエルは自分が弱ってきたので、二人の息子たちを、自分の後を継いでイスラエルを裁く者として任命しました。しかしこの息子たちは、「不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げた」と3節にあります。サムエルは、信仰においても力量においても卓越した士師でしたが、息子たちはそれを受け継がなかったのです。こんなことではこの国はこれからどうなってしまうのか、と人々が不安に思ったのも当然と言わなければならないでしょう。

ところでこのサムエルの息子たちの話を読む時、私たちは、あのサムエルでさえ、子供の教育においては失敗したのか、ということを思います。確かにそういうことなのですが、ここで聖書が語ろうとしているのは、そういうことよりも、イスラエルを裁き、治める士師の働きというのは、親から子へと世襲によって受け継がれていくものではない、ということなのではないでしょうか。同じようなことが、士師記に出て来る有名な士師ギデオンの場合にもありました。ギデオンは神様によって立てられた立派な士師でしたが、その息子アビメレクはそういう者ではなく、自らの悪事のゆえに結局悲劇的な最後をとげることになったのです。また、サムエルが幼い時にあずけられ、育てられたシロの聖所の祭司エリの場合もそうでした。エリはサムエルを育て、信仰の指導をしてくれた人でしたが、その息子たちは祭司の地位を利用して私腹をこやしていたのです。そのためにこの家は神様の怒りによって滅びてしまいました。そのように、士師にしても祭司にしても、その働きを次の代にまで継承しようとするとうまくゆかず、堕落、腐敗が起るのです。そのことは、これらの、神様によって立てられ、任命される働きというものが、人間の財産のように世襲によって受け継がれていくことはない、ということを示していると言うことができるでしょう。それは子育ての失敗と言うよりも、その職務そのものの本質によることなのです。神の民イスラエルを指導し治める働きというのは、神様がその人を立てて、遣わして下さらなければ決して果たすことのできないことなのです。そこに、士師の働きの本質があります。そしてそこに同時にイスラエルの民にとっての、不安の源があったのです。立派な、優れた士師が現れ、民を治めてくれている間はいい、しかし、いつかその人が老いていってその働きができなくなった時に、次はどうなるのか、いったい誰がその働きを引き継いで民を治め、守ってくれるのか、皆目見当がつかないのです。そういう不安が民を動揺させています。サムエルは年をとり、その息子たちはあのていたらくだ、今後誰が我々を治め、守ってくれるのか…、その不安の中で、イスラエルの長老たち全員がサムエルのところにやって来て、こう言ったのです。5節「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください」。「ほかのすべての国々のように」と彼らが言っている、その言葉が重要です。そのことは長老たちだけではなく、20節では、イスラエルの民の言葉としてもう一度語られています。「我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです」。「ほかのすべての国々と同じようになりたい」、そういう思いを、長老たちのみならず、全ての民が抱いているのです。イスラエルをとりまく多くの国々に目をやると、それらの国は全て、王様が支配する王国です。王様が民を裁き、また王様が軍勢を率いて戦い、国を守っているのです。そして何よりも大きなことは、その王様という地位は、父から子へと継承されていくのです。次に誰が王になるか全くわからない、などということはないのです。王様の後には王子がおり、さらに、王位の継承順位が決まっていて、ある人に何かがあっても、ちゃんと次の人が王位を受け継ぐことができるようになっているのです。そういう外国のあり方を見た時、イスラエルの人々は「うらやましい」と思ったのです。あれなら国が安定する、先が見える、また、急な事態にもすぐに対応できる、国全体が一丸となって事に当たれる、それに比べて、わが国の、士師による指導体制は何と不安定なことか、この先国がどうなっていくかが全く見えないし、急に事が起った時に、士師が立てられるのを待っていたのでは間に合わない。つまり、危機管理体制がなっていない。我々も、諸外国並みに、王国にならなければ、この国の将来は覚束無い、彼らはそう思って、王を立ててくれるように願ったのです。

長老たちのこの求めは、サムエルの目に悪と映った、と6節にあります。それは、サムエルとしては、自分の息子たちを跡取りとしてイスラエルを治めさせようとしているのに、長老たちがそれを拒否していることに腹を立てた、ということではないでしょう。指導者が不正なことをして私腹をこやすようなことをすれば、神がお怒りになってその者を取り除かれるということは、サムエルはエリとその息子たちのことでよく知っているはずです。彼の目にこれが悪と映ったのは、そういう個人的な感情によることではなく、このことが、士師を立ててイスラエルの民を裁き、治めておられる主なる神様のみ心に逆らうことになるからです。そしてそれはとりもなおさず、士師である自分への拒否でもあるのです。それゆえに彼はこの申し入れに腹を立てつつ神様に祈りました。しかしそこで返ってきた答えは、思いがけないものでした。7〜9節「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。彼らをヱジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい」。神様は、民の言う通りにしてやれ、と言われるのです。しかしそれは、そのことが正しい、よいことだからではありません。この神様のお言葉に、民が王を求めていることが持つ本当の意味は何であるかが語られています。それは「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ」ということです。サムエルは、人々が、神様がお立てになった士師である自分を拒否しようとしている、それはみ心に適わないと思っていました。しかし神様はもっと深くこのことを見ておられるのです。神様が、その都度、士師を立てて遣わし、イスラエルの民を治められる、それは、神様ご自身がイスラエルの王であられるということだったのです。士師たちは、その王である神様が任命する、ある時には将軍であり、ある時には裁判官でした。イスラエルはそのように、主なる神様が王であられる国としてこれまで歩んできたのです。イスラエルの体制が周囲の国々と違っていたのは、周囲の国々が人間の王をいただき、人間の王に支配される国であるのに対して、イスラエルは、神様の民であり、神様を王としていただき、神様に支配される国である、ということだったのです。ですから、そのイスラエルを、諸外国と同じように王国としようとすることは、それまで王であられた神様から王位を奪って、それを人間の王に与えようとすることなのです。

イスラエルの人々が王を求めたのは、先程見たように、国の安定を願ったからでした。王の下に命令系統が整備されることによって国が一丸となり、危機に対して迅速に対処できるようになり、そして世代が代わっても動揺しない体制が整えられる、そういうことによって、安心を得たいと願ったのです。それはある意味で尤もな求めであると私たちは思います。しかしその安定と安心を求める思いの中で、神様を見失っていく、退けていくということが起こるのです。士師の時代、それは神様がイスラエルの王であられるという時代でした。しかしその神様は目に見えません。見えるのは、神様がその都度遣わされる士師たちだけです。そのことを、心もとなく感じ、それでは安心できないと感じ、目に見える指導者、王を求めていく、それは、神様が自分たちの王であられ、必要な時に必要な仕方で民を守り、導いて下さるということに信頼していることができないということです。神様に信頼せず、目に見える人間の王の方が確かだと思ってしまう、王を求めるというのはイスラエルの民においては、そういう不信仰の現れだったのです。そしてそのことは、今に始まったことではない、と神様は言われます。8節の「彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった」とあるのはそのことを言っています。主なる神様を捨てて他の神々に仕える、それは、目に見えない、生けるまことの神様を捨てて、目に見える偶像の神々、人間の願う通りのご利益を与えてくれる神々に心引かれていくということです。それは、王を求める思いと全く同じです。目に見えない神様の下にあることを心もとなく感じ、もっと確かな支え、拠り所を求める思いがそういうことを生んでいるのです。

これらのことから、私たちは、信仰における大事な事柄を教えられます。信仰とは、神様を王としていただき、神様に守り導いていただいて生きることです。しかしその神様は目に見えません。それゆえに、信仰をもって生きることには常にある不確かさ、心もとなさ、不安が伴うのです。その不確かさの中で、私たちも、目に見える確かさ、拠り所を求めたくなります。しかしそれは神様への信頼を失い、神様以外の王を求めることなのです。生けるまことの神への信仰とは、不確かさ、心もとなさ、不安の中に立ち続けることです。不確かさがなくなって、安心してしまうことが信仰ではありません。目に見えない神様の下にある不確かさの中で、先の見えない不安の中で、神様に信頼し続けることこそが本当の信仰なのです。

イスラエルの民は、この本当の信仰に留まることができずに、王を求めました。しかし神様は、その求めを退けるのではなくて、彼らの願い通りにせよ、とサムエルに言われたのです。しかしその前に、人間の王とはどのようなもので、人間の王に治められるとはどういうことなのかをはっきりと言って聞かせよと神様は言われました。それが10節以下です。そこに語られていることをまとめるならば、17節後半の「こうして、あなたたちは王の奴隷となる」という一言に尽きると言えるでしょう。人間の王の下での中央集権的な体制は、確かに、外敵に対して国を守るためには有効でしょう。しかしそのような強力な権力の下で、国民は将棋の駒のように、あるいは家畜のようにこき使われていくのです。軍隊を維持していくためには、徴兵が必要であり、働き盛りの若者たちが兵隊に取られます。軍隊や国の機関のためにかかるお金は国民から税金や年貢として徴収されます。そのようにして国民は王の奴隷となっていくのです。自分たちのために王を立てたはずが、いつしか王のために自分たちがこき使われるということになるのです。人間の王の支配とは常にそういうものです。神様が王として支配なさるその支配と、人間の王の支配とでは、まさに天と地の違いがあるのです。そのことを前もって民にしっかりと言って聞かせるようにと神様はサムエルに言われたのです。しかし民は、それを聞いてもなお、人間の王を求めました。19、20節です。それで神様はこの民の求めを受け入れ、イスラエルに王が立てられることになったのです。それは言ってみれば、「そんなに言うならその通りにしてやるが、そのかわり、それによって起こってくることの全ては自分たちの責任として負うのだぞ」ということです。イスラエルはこのようにして王国となっていったのです。

サムエル記上第8章のこのエピソードは、イスラエルにおいて王というものがどのような意味を持つ存在であるかを語っています。第一に言えることは、王は民の不信仰の産物だということです。イスラエルの本当の王は主なる神様です。しかし民がその目に見えない神様に信頼せず、目に見える王を求めた、その不信仰から、王は生まれたのです。しかしこのエピソードは、隠されたもう一つの意味を持っています。それは、イスラエルの王は民のそのような罪、不信仰から生まれたものだけれども、同時にそれは神様がサムエルに命じて立てさせたものである、ということです。イスラエルの王は、自分で勝手に王を名乗ったのではありません。民が勝手にある人を選んできて王としたのでもありません。民はここで、自分たちを治める王を立ててくれるように、サムエルに、ということは神様に願い求めたのです。その民の願いに答えて、神様が次の第9章以下でサウルをイスラエルの最初の王としてお立てになったのです。つまりイスラエルの王は、神様によって立てられ、与えられたものだ、ということをも、このエピソードは語っているのです。そしてこの後サムエル記は、サウル王の、そしてサウルに代わってこれも神様が選んでお立てになったダビデ王の下で、イスラエルが王国としての体制を整え、発展していき、黄金時代を迎えることを描いていきます。王国となったことで、イスラエルは神様の怒りと呪いの下に置かれたかというと、そうではないのです。そして神様は、この後サムエル記下の第7章で、ダビデ王との間に契約を結ばれます。ダビデの家を堅く立て、その王国を揺るぎないものとする、神様の民イスラエルは、ダビデ王とその子孫によって治められることによって、揺るぎないものとなる、という契約です。つまり、イスラエルが王国となり、ダビデが王として立てられることを通して、神様の救いの歴史は、新しく展開していったのです。その救いの歴史の新しい展開の最初の一歩がこの第8章です。神様が王であられることに満足せず、人間の王を求めていった民の罪、不信仰を、神様はこのように用いて、救いの歴史の新しい局面を開いて下さったのです。

そしてこのことは、新約聖書の語る、イエス・キリストの福音へとつながっていきます。先週から私たちは、マタイによる福音書を礼拝において読み始めました。先週はその冒頭にある、イエス・キリストの系図を読んだのですが、そこには、主イエスが、「アブラハムの子ダビデの子」としてお生まれになったことが語られていました。主イエス・キリストはダビデの子である、それは、主イエスが神様の民のまことの王としてこの世に来られたということです。神様がダビデに与えて下さった、あなたの子孫によって治められることによって神の民イスラエルが揺るぎないものとなる、という約束が、主イエスにおいて実現したのです。

本日共に読まれた新約聖書の箇所、マタイによる福音書第21章1節以下は、主イエスがそのご生涯の最後に、エルサレムの町に入られた時のことです。主イエスはろばの子の背に乗ってエルサレムに来られました。それは、旧約聖書の預言の成就だとマタイは語っています。その預言とは、5節の「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」という預言です。主イエスは、イスラエルの王として、王の都エルサレムに入城されたのです。しかしそのご支配は、人間の王のように、民を自分の奴隷とするような支配ではありません。このまことの王は、柔和な方です。そのご支配は、ご自身が民の罪を背負って十字架にかかって死んで下さるという、恵みによるご支配です。この主イエス・キリストの恵みによるご支配の下に、神の民の揺るぎない王国が築かれていくのです。生けるまことの神への信仰とは、不確かさの中に立ち続けることであると申しました。その不確かさの中で、私たちを支えるただ一つの確かなもの、それは、この主イエス・キリストの十字架の死における、神様の恵みなのです。

本日は、アドベント第一主日、主イエス・キリストがこの世にお生まれになったことをお祝いするクリスマスに備える待降節が本日から始まります。私たちはこの時を、主イエス・キリストが、私たちのまことの王として来られたことを覚え、主イエスを私たちのまことの王としてお迎えする時としていきたいのです。目に見えない神様が王であられるという不確かさに耐えられずに、目に見える人間の王を求めてしまった罪深いイスラエルに、神様は王を与えて下さいました。それは、後に主イエス・キリストを、まことの王として送って下さるための準備でした。今やこの主イエスのもとに私たちは集められ、神様の恵みによって治められ、導かれ、守られる神様の王国の国民として歩んでいるのです。私たちのためにご自分の命を与えて下さったまことの王であられる主イエスを、心の内にしっかりとお迎えするアドベントを過ごしたいのです。

牧師 藤 掛 順 一
[1999年11月28日]

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