富山鹿島町教会

礼拝説教

「イエス・キリストの系図」
創世記 第38章1〜30節
マタイによる福音書 第1章1〜17節

コリントの信徒への手紙一の連続講解説教を先週をもって終りまして、本日から、マタイによる福音書の講解に入ります。マタイによる福音書は新約聖書のいちばん最初に置かれている書です。新約聖書を開くと、まずこのマタイ福音書が始まるのです。ですから本日も新約聖書の1ページが読まれたわけですが、この新約聖書全体の冒頭第一ページに何が書かれているかというと、それはイエス・キリストの系図です。誰々は誰々をもうけ…という、しかも私たちに馴染みのない、カタカナの名前が羅列されているのです。新約聖書を開いて読み始めると、まずこの名前の羅列に出くわします。せっかく一大決心をして聖書を読み始めても、これでうんざりして読み続ける気を失ってしまう、挫折してしまう、そういう声をよく耳にします。せっかくの聖書なのだから、もう少し気のきいた始め方はできなかったものか、と私たちは思ったりするのです。

けれども、そういう感想というのは、教会に行ったこともなく、聖書を手にとったこともない人が、世界的古典である聖書にはどんなすばらしいことが書いてあるのだろうか、一つ読んでみようと思って聖書の第一ページを開く、そういう時には成り立つものでしょうが、私たち教会に連なる信仰者は、あるいは聖書の教える信仰を真剣に求めていこうとしている者は、そんなことを言っていてはならないと思います。そもそも、名前の羅列が長々と続くと言っても、それは17節までのことです。1ページにも満たない。ここまで読むのに1分とかからないでしょう。そして18節からはイエス・キリスト誕生の、クリスマスの物語に入るのです。名前の羅列が5ページ10ページと続いていくならばともかく、これぐらいのことで「いやになった」などと言うのは情けない話です。どうも私たちは、信仰者ですら、聖書に対して、「難しい」とか「とっつきにくい」と文句を言いたがる傾向があるようです。しかし信仰とは、神様のみ言葉を聞く、という姿勢を持つことです。そのみ言葉は何よりも聖書に語られているのです。だから、聖書に文句をつけるのではなくて、まずは聖書の語ることをしっかりと聞くということが必要でしょう。この系図も、こんなのはうんざりする、ではなくて、どうしてマタイ福音書はこの系図を冒頭に置いたのか、聖書はこれによって何を語りかけているのか、ということを聞きとっていこうとすることが大切だと思います。

さて、新約聖書の冒頭にこの系図があるわけですが、新約聖書は、第一ページから順に書かれていったのではありません。27の、別々に書かれた書物が集められて、新約聖書が生まれたのです。その並べられている順序は、書かれた順序ではありません。四つの福音書が最初に来ていますが、その後に置かれている手紙のいくつかの方が、福音書よりも先に成立していただろうと思われます。また、四つの福音書の順番も、古い順ではありません。このように並べられた最初の時には、これが書かれた順番だと思われていたらしいのですが、今日では、最初に成立したのはマルコによる福音書で、マタイもルカも、マルコを下敷きにして書かれている、ということが常識になっています。そうしてみると、マタイによる福音書が新約聖書の冒頭にあるというのは、昔の人が、この福音書がいちばん最初のもの、最初に位置づけられるべきものだ、と判断したからです。何故そう判断したのか、その要素の一つが、冒頭の系図の存在だろうと思います。この系図が冒頭にあるから、この福音書は四つの福音書の最初に置かれ、従って新約聖書の最初に置かれることになったのだと思うのです。そうであるならば、この系図が新約聖書の冒頭にあることには、むしろ積極的な意味があります。その意味とは、旧約聖書と新約聖書を結びつける、ということでしょう。この系図は、1節にあるように、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」です。新約聖書の主人公と言うか、その方のことが語られている主イエス・キリストが、「アブラハムの子ダビデの子」であることをこの系図は明らかにしています。アブラハムとダビデは旧約聖書の最重要登場人物です。この二人からの流れの中にイエス・キリストはある、つまり旧約聖書の歴史を引き継ぐ者としてイエス・キリストは生まれたのだ、ということが、この系図によって示されているのです。この系図が冒頭に置かれることによって、新約聖書と旧約聖書の継続性が明らかにされています。旧約聖書に語られている、主なる神様のイスラエルの民に対する恵みと導きの歴史、それは契約という形で与えられてきたものですが、その歴史が、新約聖書の語る主イエス・キリストへと引き継がれていく、新約聖書とはそういう書物なのだ、ということを、この冒頭の系図が明らかにしているのです。

この系図の意味をそのようにわきまえるならば、これが私たちの感覚における普通の系図とは違うことがわかってきます。皆さんはご自分の家の系図というものをお持ちでしょうか。私たちが自分の家の系図と言う時には、それは自分や親あたりから始まって、先祖へと遡っていく系図です。私たちは、自分の先祖の名前を何代前まで知っているでしょうか。おそらく、五、六代前まで知っているという人は少ないのではないでしょうか。それ以前のことになればもう闇の中です。そういうことに特別に興味を持つ人は、お寺の過去帳などを調べて自分のルーツを探っていったりするわけですが、普通は、そんなことには無頓着に生きている人が多いでしょう。しかし一方では、名字ごとに、それぞれの家の系図を書いた本などが売られています。そういうものによって、自分の家の系図を確認したいと思う人々もいるのです。そして、そのような系図というのは、大体の場合、結局は源氏が平氏につながっていき、そして何々天皇に至る、というふうになっています。そのことが表わしているのは、そのように系図にこだわる人というのは、結局、自分の家が、もともとは由緒正しい立派な家系なのだ、天皇の子孫なのだ、ということを確認したいのだということです。どこの馬の骨かわからない名前が延々と続いているような系図ではいやなのです。そのように、私たちにおける系図は、自分から遡っていって、先祖の家柄を確認していくような働きをするものです。しかしこの主イエス・キリストの系図はそういうものではありません。実は主イエスの系図は聖書の中にもう一つあって、それはルカによる福音書の3章23節以下ですが、そちらの系図の方は、主イエスから遡っていくという形になっています。マタイとルカのこの二つの系図は、その内容も大分違いますが、何よりも記述の方向が違うのです。マタイは、アブラハムから始まって主イエスに至る系図を示している、そこに特徴があります。マタイは、主イエスのルーツや家柄を語ろうとしているのではなくて、旧約聖書以来の、神様の救いの歴史を見つめており、その先端に主イエス・キリストがおられることを語っているのです。

マタイの系図が、アブラハムから始まっていることもそのことの表れです。アブラハムは、神の民イスラエルの最初の先祖です。創世記の12章で、主なる神様が彼に語りかけ、彼が神様の導きに従って父の家、故郷を離れ、行く先を知らずに、つまり神様の導きのままに旅立ったところから、イスラエルの民の歴史が始まります。イスラエルの民は、もともと神様の民として存在していたのではなくて、神様の選びと召しを受け、信仰によってそれに応えて旅立つことによって生まれた民なのです。この系図がアブラハムから始まるのは、主なる神様とその民イスラエルの関わりの歴史、神様の恵みと民のそれに対する応答の歴史を受け継ぎ、完成させる方として主イエス・キリストがお生まれになったことを語るためなのです。

またこの系図において主イエス・キリストは、アブラハムの子であると同時にダビデの子と呼ばれています。ダビデが、この系図における大事な区切りをなす人物なのです。ダビデとは、勿論イスラエルの最も偉大な王です。その業績が偉大であったというだけではなくて、彼は主なる神様によって見いだされ、神様によって立てられた王だったのです。そして神様は、彼ダビデの子孫に、イスラエルの救い主であるまことの王を遣わすと約束をなさいました。「ダビデの子」とは即ち救い主であるまことの王を意味する言葉になったのです。この系図は、主イエス・キリストがこのダビデの子であることを示しています。神様が約束して下さった救い主、ダビデの子であるまことの王として主イエスはこの世に来られたのです。

このように、アブラハムから始まり、ダビデ王を経て主イエス・キリストに至る神様の救いのみ業の継続性がこの系図に示されています。17節はその系図全体の構造を語っています。「こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。」。14代ずつの三区分からこの系図は成っているのです。何故14かということは、ダビデという名前から説明されます。ダビデはヘブライ語の名前ですが、それは英語のアルファベットで言うとDWDという三つの文字からできています。そしてヘブライ語の文字はそれぞれがある数を示すものでもあります。アルファベットの何番目かということがその文字の持つ数になるのです。Dは英語と同じで4番目ですので4です。Wは英語とは違って6番目なので6です。そうすると、DWDは4、6、4となり、それを足すと14になる、つまり14という数はダビデという名前の持つ数なのです。その14代でこの系図は区切られる、アブラハムからダビデまで、つまり神の民の誕生からダビデ王が立てられるまでが14代、ダビデ王からバビロン捕囚までが14代、バビロン捕囚からキリストまでが14代です。ここで、「バビロンへ移住させられた」といういわゆるバビロン捕囚がもう一つの区切りとなっています。それはユダ王国が新バビロニア帝国によって滅ぼされて、国の多くの人々がバビロニアに連れて行かれてしまったという出来事です。そういう国の滅亡と故郷を失うという苦しみが起ってきたのは、イスラエルの民が、主なる神様の民であるのに、自分たちの主を忘れ、他の神々、人間が造り出した偶像の神々、人間の欲望をかなえるご利益の神の方に心を向けてしまった、主なる神様を裏切ってしまったという罪に対する神様の怒りによることでした。ダビデからバビロンへの移住までの14代というのは、イスラエルの民の罪が積み重なり、ついに神の怒りによる滅亡に至った14代だったのです。主なる神様とその民イスラエルの歴史はそのように、民の罪の歴史でもあり、神は恵みをもって民を導くだけでなく、厳しい怒りと裁きをもって民を懲らしめることをもなさったのです。しかしそのバビロン捕囚から14代目に、主イエス・キリストがお生まれになる。そこには、主なる神様が、民の裏切りや罪にもかかわらず、ご自分の民として選び、召した者たちを決して見捨てることなく、その罪を赦して、新たに救いのみ業を与えて下さる、ダビデに与えて下さった約束を果たして下さる、という恵みが示されているのです。主イエス・キリストの誕生は、神様のこの罪の赦しの恵みの実現です。言い替えれば、人間が罪によって神様を裏切り、関係を断ち切ってしまっても、神様の方は、いったん結んだご自分の民との関係を決してあきらめてはしまわない、ご自分の独り子を遣わして、その関係をもう一度回復してくださるのです。その神様の恵みが、既にこの系図において語られているのです。

もう一つ、この系図の特徴を指摘したいと思います。私たちが普通に見る系図というのは、親と子の名前が線で結ばれている、まさに図です。あるいはルカ福音書における系図は、名前がそれこそ並べられているだけです。しかしこのマタイの系図は、文章になっています。「アブラハムはイサクをもうけ」という文章です。この「もうけ」という訳が果たしてよいのかどうか、これではなにかお金でももうけたように聞こえてしまうという感じがします。前の口語訳は、「アブラハムはイサクの父であり」となっていました。しかしこれは原文の忠実な訳とは言えません。原文には「父」などという言葉はないのです。原文を一番忠実に訳しているのは、文語訳です。「アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟らとを生み」。原文はこのように、「生んだ」という言葉が用いられおり、しかもそれぞれの人のところにその言葉があったのです。口語訳は、男性が子供を「生んだ」というのは変だというので、「誰々は誰々の父であり」と全く違う言葉で訳したのでしょう。新共同訳は原文のニュアンスをなるべく生かそうとして「もうけ」という言葉を使い、しかしあまり「もうけ、もうけ」と繰り返すのはどうかというので、それぞれの段落の最初と最後のところにだけ「もうけ」を入れ、後は「誰々は誰々を」というだけにしたのでしょう。しかしいずれにしても姑息な訳し方だと思います。文語訳のように正々堂々と「アブラハムはイサクを生み」とすればよいのです。「生んだ」を「出産した」ととる必要はありません。親が子を生む、そこに人間の人生における最も大きな、そして人間の力だけではできない、神様の導きによらなければ起り得ない神秘的な出来事があるのです。名前を線でつなぐのでもなく、ただ名前を羅列するのでもなく、「生んだ」という文章としてこの系図が語られているところに、ここに出てくる一人一人の人物の命の息吹を感じることができるのではないでしょうか。この系図には、それぞれの人の人生が込められている、と言ってもよいように思うのです。

そしてそのことは、この、基本的には男性から男性につながっていく系図の中に、例外的に4人の女性が登場する、ということとも関係してきます。3節のタマル、5節のラハブとルツ、6節のウリヤの妻の4人です。どうしてこの4人の女性たちが登場するのでしょうか。この人たちは、特別に優れた、立派な女性たちだったのでしょうか。ルツ記の主人公であるルツについては、そのように言うこともできるかもしれません。しかしこのルツは、イスラエルの出身ではなく、モアブの女です。ルツ記の主題というのは、本来神の民ではないモアブの女であるルツが、いかにしてダビデ王の先祖の一人になったか、ということなのです。ラハブもヨシュアによるエリコ占領の時、エリコの遊女だった人です。イスラエルに協力してエリコ攻略の手引をしたために、彼女も他国人ながらイスラエルの民の仲間に加えられたのです。「ユダはタマルによってペレツとゼラを生んだ」という話は、本日共に読まれた創世記38章にあります。これもなかなかすごい話です。ユダにとってタマルは息子の嫁でした。そのタマルがユダの子を生んだのです。それも、タマル自身の策略によることです。このような誕生の話は、普通ならなるべく隠しておきたいようなことです。家系の汚点になるようなことです。タマル名を上げることによって、この系図はことさらにこのスキャンダルを指摘しているのです。そして最後の、「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」です。ウリヤの妻はバト・シェバという名です。口語訳では「バテシバ」となっていました。ダビデは自分の部下であるウリヤの妻であったこの女性を見そめ、ウリヤをわざと戦死させて彼女を自分の妻にしてしまったのです。ソロモンが生まれたのは、バト・シェバが正式にダビデの妻になってからです。しかしこの系図はことさらに「ウリヤの妻によって」と記すのです。つまりそこに、この女性のと言うよりも、ダビデの罪を見つめているのです。このように見てくると、この4人の女性たちの名が記されているのは、決してこの系図に箔をつけるためではないことがわかります。むしろそこには、親が子を生むということにまつわって起ってくる様々な人間模様が、そして特にそこにおける罪が赤裸々に見つめられ、指摘されているのです。この系図には、一人一人の人物の人生が込められているというのはそういうことです。一人一人の人生にまつわる、様々な人間模様、問題、罪、汚点、そういったものの全てを内に含みつつ、この系図は進んでいくのです。誰々は誰々を生んだ、という短い文章の中に、一人一人のそういう具体的な人生が凝縮されていると言ってよいでしょう。神様の独り子、私たちの救い主イエス・キリストは、そのような人間の人生の連なりの中に、それを引き継ぐ者としてお生まれになったのです。それらの人間の問題や罪を引き受け、それを担って主イエスはこの世を歩まれました。そして十字架の死によって、罪人のための贖いを成し遂げて下さったのです。この系図は、主イエス・キリストが、アブラハムの子、ダビデの子として、旧約聖書以来の神様の救いの恵みの歴史を受け継ぎ、完成させる方であることを示しているだけではなくて、イスラエルの民の歩みにおける様々な罪や問題の全てをご自分の身に負い、そしてそれを十字架の死によって赦し、神様との新しい関係を打ち立てて下さる方であられることを語っているのです。

そしてこのイエス・キリストにおいて、神様の救いの恵みは、イスラエルという枠を越えて、全ての人々に広げられていきます。先程の4人の女性たちはそのことを示しています。ラハブとルツが外国人だったことは既に申しました。タマルもイスラエル以外の出身だった、という言い伝えがあります。また、ダビデの部下だったウリヤはヘト人でした。その妻バト・シェバも同じく外国人だったことは十分考えられます。そうしてみるとあの女性たちは皆、イスラエル以外の異邦人だったのかもしれない。そういう女性たちが、主イエス・キリストの系図の中に位置を与えられている、それは、主イエス・キリストによる罪の赦しの福音が、イスラエルを越えて、広く全ての民に与えられていくということの印であると言えます。そして、実はあのアブラハムに神様が与えて下さった祝福の約束そのものが、「あなたは祝福の源となる。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」というものだったのです。神様がアブラハムを選んで下さり、ご自分の民イスラエルを立てて下さったのは、その歴史を通して、この世の全ての人々が神様の祝福にあずかるためでした。アブラハムに約束されたそのみ心が、主イエス・キリストにおいて実現したのです。私たちは、この神様の恵みによって、主イエス・キリストを信じ、主イエスが十字架の死と復活によって打ち立てて下さった新しい神の民、新しいイスラエルである教会に連なる者とされています。私たちの人生、私たちの様々な問題や罪も、主イエスによって担われ、赦され、祝福に入れられているのです。

牧師 藤 掛 順 一
[1999年11月21日]

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