富山鹿島町教会

礼拝説教

「マラナ・タ」
詩編 第98編1〜9節
コリントの信徒への手紙一 第16章5〜24節

本日の礼拝において、聖餐にあずかりますが、その時に、讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」という讃美歌を歌います。もう何度か私たちの礼拝において歌いましたし、先日の地区信徒修養会においても紹介されましたから、だんだん皆さんの耳に慣れてきたのではないかと思います。この讃美歌のくりかえしの部分に、「マラナ・タ」という言葉が二度出てきます。各節で二度ずつ歌うわけですから、3節まで歌ううちに六度、この言葉を歌うことになるのです。この讃美歌は、「主の食卓を囲み」という題になっていますが、この上に掲げられているのは歌詞の最初の言葉であって、曲の題名ではありません。この曲は本来は「マラナ・タ」という曲なのです。「マラナ・タ」という言葉がこの曲の中心であって、この言葉を歌うために作られたと言ってもよいのです。その「マラナ・タ」という言葉が、本日読みますコリントの信徒への手紙一の最後のところ、16章22節に出てきます。「マラナ・タ」という言葉が出てくるのは聖書の中でここだけです。あの讃美歌はこの箇所から作られたのです。本日はこの「マラナ・タ」という言葉を中心に据えて、み言葉に聞きたいと思います。

マラナ・タというのは、アラム語の言葉です。アラム語はヘブライ語にごく近い親戚のような言葉で、主イエスの当時のユダヤの人々はこのアラム語を使っていたと言われます。そのアラム語での祈りの言葉がその発音のまま、ギリシャ語で書かれた新約聖書の中に残ったのです。それは、この言葉がそれだけよく使われて皆の耳になじんでいたということでしょう。そのようにして新約聖書の言葉になり、私たちにまで伝えられた言葉は他にもあります。「アーメン」「ハレルヤ」「インマヌエル」などがそうです。しかしこれらの言葉は旧約聖書に出てくるものですが、「マラナ・タ」はそうではありません。これは、初代の教会において生まれた祈りの言葉なのです。その意味でこの言葉は、キリスト教会の信仰と祈りの特徴をよく表わしたものであると言うことができるでしょう。 マラナ・タの意味は、その後の括弧にあるように「主よ、来てください」ということです。もっと正確に言うと「わたしたちの主よ、来てください」となります。ちなみにこの括弧は、翻訳の時に説明のためにつけられたので、聖書の原文にはありません。口語訳聖書ではただ「マラナ・タ」とあるだけでした。聖書が書かれた当時の人々はそれで十分意味が通じたのです。しかし今日の日本の私たちには、説明がなければ何のことかわかりません。括弧がついている方が親切だと言えるでしょう。

さて、「主よ、来てください」という意味であるマラナ・タが初代の教会における大切な祈りだったということは何を意味するのでしょうか。この「主」というのは、主イエス・キリストのことです。主イエス・キリストに「来てください」と祈ることが、教会の信仰の中心に位置づけられていたのです。それは、主イエスご自身の約束に基づくことでした。マルコによる福音書第13章24節以下に、主イエスがこの世の終わりについて語られたこのような言葉があります。「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」。「人の子」とは主イエスがご自分のことを言われた言葉です。世の終わりに、主イエスが大いなる力と栄光を帯びてもう一度来られる。そして選ばれた人たち、救いにあずかる者たちを呼び集め、神の国を完成して下さるという約束が語られているのです。また、使徒言行録の第1章11節には、復活された主イエスが天に昇られた時、それを見ていた弟子たちに、天使が「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」と告げたことが語られています。主イエスがまたおいでになるという約束を、父なる神様が与えて下さっているのです。これらの約束の言葉に支えられて、主イエス・キリストを信じる教会は、主がもう一度来て下さること、即ち主の再臨を待ち望む信仰を培っていきました。聖書に収められている手紙の内の多くを書いたパウロも、最も早くに書かれたとされるテサロニケの信徒への手紙一の1章10節でその信仰をこのように語っています。9節の途中から読みます。「すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。」。「御子が天から来られるのを待ち望む」、それが教会の信仰なのです。その信仰から生まれた祈りが、「マラナ・タ(主よ、来てください)」という祈りなのです。

従って、「マラナ・タ」とは、キリストの再臨によるこの世の終わりを待ち望む祈りです。「主よ、来てください」と言うと、「イエス様ちょっとここへ来て私を助けて下さい。今困っているこのことを解決して下さい」という意味にもとられてしまうかもしれませんが、そういうことではないのです。勿論私たちは、主イエス・キリストが、聖霊の働きによって今、目には見えなくても、私たちと共にいて下さることを信じることを許されています。様々な問題、悩み苦しみにおいて、私たちは、「主よ、私を助けて下さい、道を示し与えて下さい」と祈ることができるし、主イエスがそこで人間の力を超えた恵みをもって導いて下さるのも事実です。しかし「マラナ・タ」という祈りは、もっと根本的な祈りです。主イエスの再臨は、私たちに、根本的な救いをもたらすのです。そのことを私たちは、この手紙の15章において読んできました。15章22節以下を振り返ってみたいと思います。「つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。」。ここには、キリストの再臨によってこの世が終わり、キリストはすべての支配、権威、勢力を滅ぼして、父なる神様に国を引き渡されるということが語られています。「国」とは「支配」という意味の言葉です。つまり再臨によって、キリストのご支配が確立し、その支配する王国が父なる神様のものとなる、神の国、神のご支配が完成するのです。そのことこそ、私たちの根本的な救いです。私たちが現在味わっているいろいろな苦しみ、困難、問題はすべて、神様のご支配が目に見える仕方で確立しておらず、神様の恵みの力以外の、様々なこの世の力が支配しているように思われる、というところに原因があります。それらの様々な力に私たちの人生は振り回され、翻弄されているのです。その中にあって、信仰を与えられた私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活によって神様の恵みのご支配が既に確立していることを信じて生きています。しかしそのご支配は信仰によってしかわからない、隠されたご支配なのです。そこに、信仰をもってこの世を生きる私たちの苦しみがあり、時として私たちはその苦しみに負けて、神様の恵みのご支配を見失ってしまうのです。しかしキリストの再臨において、今は隠されている神様のご支配が顕わになり、目に見える仕方で確立する、神の国が完成するのです。そうなった時に、私たちの苦しみは終わるのです。その時、最後の敵として死が滅ぼされる、とあります。死は、私たちの人生を脅かす最後最大の敵です。そして肉体をもって生きるこの人生は、最後には必ずこの死の力に屈服せざるを得ないのです。死こそが、私たちを最終的に支配する力だというのが、この世の人生の目に見える姿です。しかしキリストの再臨において、その死の力が滅ぼされる、そして私たちに、復活の命と体が与えられるのです。死んで朽ちていくこの体が、新しい、朽ちない体へと変えられるのです。私たちを最終的に支配するのは、死の力ではなく、主イエス・キリストにおけるこの神の恵みの力であるということが、主イエスの再臨において明らかになるのです。「マラナ・タ(主よ、来てください)」という祈りは、このことを見つめ、待ち望む祈りです。私たちは、この祈りを祈りつつ、この希望をもって生きることを許されているのです。それゆえにこそ、日々の様々な場面においても、聖霊のお働きによって主イエスが共にいて下さり、守り助けて下さることを信じて、それを祈り求めることができるのです。「マラナ・タ」の祈りこそ、私たちの日々の全ての祈りと、信仰による生活とを支えている土台であると言うことができるのです。

マラナ・タという言葉は、聖書の中でここにだけ出てくると申しました。しかし同じ意味の祈りは、新約聖書の一番最後のところ、ヨハネの黙示録の22章20節にもあります。「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください。」。この「主イエスよ、来てください」はマラナ・タをギリシャ語に訳した言葉です。ヨハネの黙示録は、この祈りに向けて書かれている、読む者がこの祈りを共に祈るために書かれていると言ってもよいのです。そして新約聖書はこの祈りをもって閉じられています。新約聖書の全体もまた、この祈りに向けて書かれていると言えるでしょう。そしてさらにもう一つ、主イエスが「このように祈りなさい」と教えて下さった、私たちの祈りの根本である「主の祈り」の中に、「み国を来らせたまえ」という祈りがあります。神様のみ国を来らせて下さいという祈り、それはこのマラナ・タと通じるものです。神の国は、主イエスの再臨によってもたらされるのです。み国の到来を待つというのは、主イエスの再臨を待つことなのです。勿論今私たちは既に、主イエスを信じる信仰において、神の国、神様のご支配の下で生き始めています。しかしそれは信仰によることで、目に見えない、隠されたことです。だからこそ「み国を来らせたまえ」という祈りが必要なのです。その神の国が、主イエスの再臨によって顕にわになり、完成する。マラナ・タはそのことを待ち望む祈りなのです。私たちは主の祈りを祈るごとに、「マラナ・タ」の祈りを祈っているのです。それゆえに、あの81番の讃美歌においても、マラナ・タと歌うと同時に「主のみ国がきますように」と歌っているのです。

マラナ・タの祈りを祈りつつ生きる私たちの信仰の生活はどのようなものとなるのでしょうか。主イエスの再臨による神の国の完成、救いの完成を待ち望んで生きることは、現在の私たちの日々の歩みとどのように関わるのでしょうか。そのことが、この16章の13節14節に語られています。「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行いなさい。」。「目を覚ましている」ことが求められています。それは勿論信仰においてです。信仰において、眠り込まずに常に目を覚ましている、それは、信仰において緊張感を保つことと言ってもよいでしょう。しかし信仰的な緊張感といってもいろいろあります。何かまずいことをしたら、神様の罰が当たるかもしれない、とビクビクしていることも一つの緊張感です。あるいはキリストの再臨において、キリストの裁きという試験が行われる。それに合格できるような、信仰的なよい成績をあげなければ、という緊張感をもって努力することも一つでしょう。しかしここで勧められている緊張感、目を覚ましていることは、そういうこととは違うと思います。そのような、いつもビクビクしているような、不合格になったらどうしようというような緊張感ではなくて、主イエスがもう一度来て下さる、それによって、今は隠されている神様のご支配が顕わになり、私たちの救いが完成する、そのことを喜びをもって待ち望んでいる、わくわくしながら待っている、そういう緊張感こそが、この「目を覚ましている」ことだと思うのです。そしてその緊張感によって、私たちは、この世の歩みにおいて、「信仰に基づいてしっかり立ち、雄々しく強く生きる」ことができるのです。私たちが、この世の人生において、しっかりと立つことができるのは、雄々しく強く生きることができるのは、私たちの足の強さ、私たちの勇気や実力によることではありません。それらはまことに覚束無い、少しのことですぐに倒れ、弱ってしまうものです。しかし主イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さった、その神様の恵みを知り、そしてその主イエスがもう一度来て下さって、この世の全ての力を打ち破ってその恵みによるご支配を確立して下さる、死の力すらもそこでは打ち滅ぼされて復活の体が与えられる、という神様の約束を信じて待ち望むときに、私たちは、この世の様々な力の下にありながら、また自分自身はまことに弱い、覚束無い者でありながら、信仰によってしっかりと立ち、雄々しく強く生きることができるのです。その強さは、人を打ち負かして、自分の思いや主張を通していく、という強さではありません。14節にあるように、「何事も愛をもって行う」という強さです。私たちが自分の中にもともと持っている強さ、あるいはいつも求めている強さというのは、人よりも強くなり、人に抜きん出ようとする強さ、自分の思いをかなえていくことのできる強さです。しかし、マラナ・タ(主よ、来てください)と祈りつつ歩むところに、主イエスから与えられる強さは、主イエスの示して下さった強さです。それは、私たち罪人のために命を捨てて下さった愛の強さ、その愛をもって全ての人に対していく強さです。本当に強い人というのは、この主イエスの愛に生きる人、何事も愛をもって行うことのできる人であると言えるでしょう。主イエスがもう一度来て下さるという喜びと希望の中で目を覚ましている者は、この本当の強さに目覚めて生きることができるのです。

ところで、マラナ・タの祈りを歌うあの81番の讃美歌は、聖餐において歌われる讃美歌です。「主の食卓を囲み」という最初の言葉がそれを表わしています。本日も、聖餐にあずかり、そこにおいてこの讃美歌を歌うのです。マラナ・タの祈りは、教会の初めから、聖餐と結びついて祈られてきました。この祈りが、アラム語の形のままで教会の中に定着していったのは、聖餐を守るたびにこれが祈られていたからだと思われるのです。この16章の最後のところは、特に聖餐のことを語っているわけではありませんが、パウロはここで、教会がいつも聖餐にあずかる時に祈っている祈りを持ってきて手紙の結びに置いたのです。この祈りと聖餐とはどう結びつくのでしょうか。その結びつきを示している言葉が、この手紙の11章26節にありました。「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」。これは、聖餐においていつも読まれる箇所の一部です。聖餐のパンと杯にあずかることにはどのような意味があるかが語られています。それは、「主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる」ことだと言われているのです。主が来られる、即ち主イエスの再臨が聖餐において意識されています。聖餐というのは、パンとぶどう酒をいただくことによって、主イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって下さったその体と、そこで流された血を覚え、主イエスの十字架の恵みを思い起こしてそれにあずかるためのものです。その意味ではそれは主イエスの十字架の死という過去へと心を向けさせるものです。私たちは聖餐のその意味のみに思いを集中してしまう傾向があるのではないでしょうか。しかしこの26節は、聖餐が同時に、主イエスの再臨を意識させ、私たちの心を将来へと向けさせるものであることを語っています。「主が来られるときまで」という言葉の重点は、「まで」というところにあるのではありません。そもそも聖餐は、私たちがこの地上を生きる歩みにおいて、パンと杯を通して復活して天に昇られた主イエスとの交わりに生きるために定められているものです。主イエスがもう一度来られたなら、私たちと主イエスとの交わりは直接的な、顔と顔を合わせたものになるのですから、そこでは聖餐などは必要なくなるのです。ですから、聖餐が行われるのは主が来られるときまでだというのは、考えてみれば当たり前のことなのです。それが敢えて語られているのは、「聖餐はいつまで行なわれるか」ということを示すためではなくて、聖餐が常に主イエスの再臨を覚えつつなされるべきであることを示すためです。聖餐にあずかる時に私たちは、主イエス・キリストの十字架の死を思い起し、その恵みを確認します。神様の独り子主イエスが、私たちのために十字架にかかって死んで下さったことを、自分自身にも、また世の人々に向かっても、宣言するのです。「主の死を告げ知らせる」とはそういうことです。しかしそれだけではなく、私たちはそこで、その主イエスが、世の終わりにもう一度おいでになり、そのご支配が顕わになり、神の国が完成する、そのことをもまた覚え、その確信と希望を新たにするのです。聖餐は、希望の食事でもあります。今私たちは、パンとぶどう酒という、象徴的なものを通して、主イエス・キリストとの交わりを与えられています。それは主イエスのご支配がそうであるように、隠されたこと、信仰によってしかわからないことです。信仰なしには、私たちがいただくものは小さなパンの一切れと、おちょこ一杯ほどのぶどう酒に過ぎません。そんなものは何の腹の足しにもならないのです。しかし信仰によって私たちはそこに、主イエス・キリストの十字架の恵みを見ます。信仰によってその恵みを味わいます。信仰によってそれを味わいつつ、私たちは、その恵みが、主イエスの再臨において顕わになり、目に見えるものとなり、疑う余地のない現実となることを待ち望むのです。マラナ・タの祈りはそこで聖餐と結びつきます。この祈りを祈りつつあずかることによって、聖餐は希望の食事となるのです。

これから聖餐にあずかります。主イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んで下さった、その過去の恵みを思い、その主イエスが復活して、天に昇り、父なる神の右に座しておられる、つまりこの世に対するご支配を確立しておられる、その現在の、しかし目に見えない、隠された恵みを思い、その主イエスがいつかもう一度来て下さり、そのご支配を顕わにし、完成させて下さる、その将来の恵みを思いつつ、この聖餐にあずかりたいと思います。そして、「マラナ・タ、主のみ国が来ますように」と、声高らかに歌い、祈りましょう。

牧師 藤 掛 順 一
[1999年11月7日]

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