礼拝説教「天の住み家」詩編 第71編1〜24節 コリントの信徒への手紙二 第5章1〜10節 私たちは本日のこの礼拝を、この教会の教会員として、あるいはこの教会で礼拝を守りつつ神様のみもとに召された方々を覚える召天者記念礼拝として守っています。つい先だっても、一人の兄弟を神様のみもとに送りました。昨年のこの礼拝以後、私たちの教会の二人の信仰の先輩方が、天に召されたのです。近くにはそれらの方々のことを覚え、またさらにもっと以前に召された方々、そして記録が失われてしまっているため、お配りした名簿には載せることができない、戦前の教会員の方々、あるいは他の教会に移ってそこで召されていった方々のことにまで思いを致しながらこの礼拝を守りたいと思います。 仏教的に考えるならば、このように生きている者が死んだ者のことを覚えて集うのは、死んだ方々の供養のため、ということになるでしょう。私たちがここで、亡くなった方々のことを覚えて礼拝をすることによって、その方々の魂が慰められる、あるいは平安を与えられる、ということになるのです。けれども、聖書の教える信仰に生きる私たちはそのようには考えません。私たちが行う礼拝が、死んだ方々の魂に影響を及ぼすようなことはないのです。それは、私たちが地上で何をしても、死んでしまった方々には届かない、ということではありません。そうではなくて、私たちはそのようなことをする必要がないのです。何故ならば、キリストを信じて天に召された方々は、神様によって、この地上を生きる私たちとは比べものにならないような確固とした恵み、平安の内に既に置かれているからです。そのことが、本日ご一緒に読みますコリントの信徒への手紙二の第5章1節以下に語られているのです。 最初の1節にこうあります。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」。ここに、「私たちの地上の住みかである幕屋」とあります。これが、今地上を生きている私たちのこの体です。その体は「幕屋」であると言われています。幕屋とはテントです。そこには二つの意味があります。テントは、たたんで持ち運ぶことのできるものです。テントに住むということは、一つの所にずっといるのではなく、あちこち移動していくことを前提としています。私たちの地上の人生はそのように、様々に変化していくものです。たとえ一生の間一度も引っ越しをせず、ずっと一つの所に住み続けるとしても、その人生には様々な出会いがあり、別れがあり、喜びがあり悲しみがあり、また社会の変化、時代の荒波に翻弄されるのです。そういう意味で、私たちのこの世の人生は誰にとっても旅のようなものです。私たちは基本的に旅人なのです。この体をテントに喩えることは、私たちの人生のそのような面を表しています。私たちは、自分の体という幕屋を、ある時はここに、ある時はあそこに建てながら、この人生を送っていくのです。そしてもう一つの意味は、テントは恒久的な家ではないということです。テントは弱い、壊れやすいものです。大風が吹けば飛ばされてしまいます。そういう事故はなくても、何十年、何百年ともつものではありません。じきにボロボロになってしまうのです。私たちの体もそうです。何十年という人生の中で、何の故障もなく元気に活動できる時期はそんなに長くはないのではないでしょうか。人それぞれにいろいろな故障や病気をかかえて歩み、次第に老いて弱っていくのです。あるいは若くても病気や事故で亡くなってしまう人もいます。私たちの体は、まさにテントのように、弱い、壊れやすいものなのです。その地上の住みかである幕屋が滅びること、それが死です。その死の彼方に、「神によって建物が備えられていることを、私たちは知っています」と言われています。この「建物」という言葉は、先ほどの「幕屋」と意識的に使い分けられているものです。「建物」は、1か所にデンと構えて動くことのない、また簡単に壊れてしまったりしない、しっかりとした家です。地上に建つ家、人間が造る家は、どんなに立派なものであっても、何十年、何百年の間にはやはり滅びていきますが、この建物は、「人の手で造られたものではない天にある永遠の住みか」です。地上を生きる私たちの体がテントであるのに対して、その体の死の後に、そういう永遠の住みかが備えられていることを私たちは知っている、それがキリストを信じる私たちの信仰なのだと語られているのです。 2節には、「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」とあります。「私たち」とは、今この地上を生きている私たちです。その私たちは、「苦しみもだえて」います。4節にも、「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが」とあります。2節の「苦しみもだえる」と4節の「うめく」は原文においては同じ言葉です。この体をもって地上を生きている私たちの人生は、基本的に、「うめき苦しみ」の歩みなのです。今の4節に「重荷を負ってうめいている」とありますが、その重荷とはここでは「この幕屋」すなわちこの体のことです。この体が重荷としてのしかかってくるのです。それは、病気とか老いとかの肉体的な苦しみのみのことではありません。「体」という時にそこには、私たちがこの人生を歩む上での様々な条件が付随しています。男であるか女であるかを始めとして、様々な肉体的条件、頑健な体であるか、病弱であるか、また障害を持っているか、あるいは容姿やスタイルはどうか、というようなこと。また、どのような力、能力、才能を持っているかということも、どんな性格であるかということも、生まれ育った家庭環境がどうであるかということも、どういう家族や友人を持っているかということも、さらには生まれた時代や国、地域からくる環境なども、そういう全ての条件の中に私たちの体は置かれているのです。それらのことは私たちに喜びや支えを与えてくれることもありますが、しかし重荷となって私たちにのしかかってくることもあります。そういうことの方がむしろ多いのではないでしょうか。人と自分とを見比べて、ねたましく思ったり、自分に絶望してしまったりするのも、これらの条件を見つめることによってです。この体をもって地上を生きる私たちは、そこに付随する様々な条件、現実の重荷の下で、うめき苦しみつつ生きていくのです。しかし、地上の住みかである幕屋、この体が滅びる時、つまり肉体の死において、私たちはそれらの一切の条件、重荷から解放されます。そして神様が、幕屋ではなくて今度はしっかりとした建物、永遠の住みかを用意して、私たちを迎えて下さるのです。既に天に召された方々は、この神様の恵みの内に迎え入れられています。そうであるならばそれは、この地上でうめき苦しみつつ生きている私たちよりも、よほどすばらしい恵みの内にあるということです。私たちはその方々のことを地上であれこれと心配したり、供養したりする必要はないのです。生きている私たちが死んだ方々を慰める必要はないのです。その方々は私たちよりもよほど慰めに満ちた状態にあるのですから。むしろ慰められなければならないうめき苦しみの中にあるのは私たちの方なのです。 もっとも、天にある永遠の住みか、すなわち朽ちることのない永遠の命を生きる新しい体は、死ぬことによって直ちに与えられるというものではありません。そのことについては、私たちはつい先だってまで、コリントの信徒への手紙一の15章を礼拝において読んできまして、そこで教えられたことですが、この新しい住みか、朽ちない体は、この世の終わりの主イエス・キリストの再臨の時に与えられるものです。その再臨がいつ起こるかは私たちにはわかりません。私たちが生きている間に起こるかもしれないし、私たちが死んでから1千年経ってもまだ起こらないかもしれない。しかしいつかは必ず起こるその再臨の時に、既に死んで地上の肉体が滅んでいる者には、復活の体が与えられ、その時に生きている者には、その体が朽ちない体へと変えられることによって、いずれにしても永遠の命を生きる新しい体が与えられることが約束されているのです。パウロが2節で言っていることとの意味もこのことを前提とすることによってわかってきます。地上の幕屋であるこの体の上に、天から与えられる新しい住みかを着たいというのです。これは、家のたとえと服のたとえとをごっちゃにしているおかしな言い方ですが、彼が考えていることは、生きている間に再臨を迎え、この体の上に新しい朽ちない体を着せられるということです。それに対して、再臨の前に死ぬことになるかもしれない、それが3節の「それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません」ということです。地上の幕屋を脱ぐ、それは死んで肉体が滅びることです。そうなると、ある意味では着物を脱いで裸になるわけですが、いつまでも裸のままでいるわけではない。世の終わりに天の住みかがちゃんと与えられるのです。だから、上に着るにせよ、一旦脱いで新しく着せられるにせよ、天にある永遠の住みかが与えられることには変わりはないのです。私たちの覚える召天者の方々は、地上の幕屋を脱ぎ捨てて、天にある永遠の住みかを与えられることを待っている状態にあられると言うことができます。着物を脱ぐというのは喩えですから、裸で寒いだろう、などと考える必要はありません。むしろ、体における歩みに伴う一切のうめき苦しみから解放されて、平安の内に新しい、朽ちない体を待っている、と言うべきでしょう。 さてしかしこのことは、体をもって生きるこの地上の人生にはうめき苦しみが多いが、死んだらそれらから解放されて平安になれる、だから生きているより死んだ方が幸せだ、という話ではありません。死んだ人々は生きている私たちよりも慰めに満ちた状態にある、ということは確かですが、それは、死ぬ前と後の状態を比べるとどっちがいいか、ということではないのです。5節にこうあります。「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として、霊を与えてくださったのです」。「このようになる」とは、天にある永遠の住みかを待ち望む者となることです。死後にそういう慰めが与えられている者となること、と言ってもよいでしょう。それは、自然に誰にでも与えられていることではないのです。神様がそのようにして下さらなければ、私たちはこの慰めを得ることはできません。死後に大いなる慰めがあるというのは、神様の恵みのみ業を抜きにして言えることではないのです。そして神様はその恵みのみ業の保証として「霊」を私たちに与えて下さいました。その「霊」とは、私たちの魂や霊魂ではなくて、神の霊、聖霊です。聖霊が私たちの内に働いて下さることによって、私たちは天にある永遠の住みかを待ち望む者となることができるのです。聖霊が私たちの内に働いて下さることによって引き起こされるのは信仰です。聖霊の働きによる信仰なしには、死後の慰めはわからないのです。 その信仰とはしかし、何を信じるのでしょうか。それは、主イエス・キリストのことです。神の独り子、まことの神であられる主イエス・キリストが、私たちと同じ人間になって下さり、そして私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった、その死によって、神様に背き、神様から遠く離れてしまっている私たちの罪が赦され、神様が私たちをもう一度、ご自分の子として、愛の内に迎え入れて下さったのです。この、主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しを信じることが、聖霊の働きによって与えられる信仰です。そしてさらに、父なる神様は、主イエスを死者の中から復活させて下さいました。主イエスは今も生きておられ、私たちと共にいて下さいます。聖霊が私たちの内に働いて下さることによって、私たちは主イエスと共に、主イエスの恵みに支えられ、導かれて歩むのです。聖霊の働きによって、主イエス・キリストと共に生きること、それが私たちの信仰です。そしてさらに、主イエスの復活は、私たちが世の終わりに復活の体、永遠の命を生きる新しい体を与えられるという約束の保証です。復活して今も生きておられる主イエスと共に歩むことによって、私たちは、自らの復活、朽ちない新しい体を与えられることを信じて待ち望むことができるのです。この希望に生きることもまた、聖霊の働きによって与えられる信仰です。つまり、聖霊が私たちの内に働いて与えて下さる信仰は、主イエス・キリストによって与えられた救いを信じ、主イエス・キリストと共に現在を生き、そして主イエス・キリストによって約束されている天の住みか、永遠の命を生きる新しい体を待ち望んでいくという、徹頭徹尾イエス・キリストにかかわる信仰なのです。 この信仰のゆえに、私たちは心強く生きることができます。6節と8節に、「わたしたちは心強い」ということが二度繰り返されています。私たちは、地上の幕屋にあってただうめき苦しんでいるだけではないのです。体をもって生きるこの人生には苦しみが多いから、早く死んで解放されたいと願うことが信仰ではないのです。主イエス・キリストを信じる私たちは、この体に付随する様々な重荷によってうめき苦しみつつ、なおそこで「心強く」あることができるのです。それは、私たちのために十字架の死を引き受け、そして復活の勝利を得て下さった主イエス・キリストが共にいて下さることによる心強さです。主イエスが私たちの重荷を共に担って下さるという心強さです。この心強さのゆえに、私たちはこの人生の重荷にうめき苦しみながら、しかし絶望することなく生きることができるのです。 主イエス・キリストによる心強さの内に生き、その心強さの内に死んでいくのが私たち信仰者の歩みです。しかし6節後半には「体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています」とあります。この体をもって地上を歩む限り、私たちは主から離れているというのです。それではあの心強さはどうなるのか。7節の「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです」ということがそこで大切になります。私たちはこの体をもって地上の生涯を歩んでいる間は、神様を、主イエス・キリストを、その恵みや救いを、この目で見ことはできません。目には見えない方を、その恵みを、信仰によって受けとめるしかないのです。「体を住みかとしているかぎり、主から離れている」というのはそういうことです。離れているというのは、主イエスが共にいて下さらないということではなくて、共にいて下さる主イエスを私たちがはっきりと見ることができないということです。それゆえに、地上を歩む限り、私たちの信仰にはあやふやさ、疑い、迷いが伴います。試練が伴います。本日覚える召天者の方々も、決して、何の疑いも迷いもなく、最初から最後まではっきりとした信仰を守り通した、というわけではないでしょう。それぞれに、様々な迷いや疑い、弱さの中で、時として共におられる主がわからなくなってしまったこともあったでしょう。それが、幕屋であるこの体をもって生きる私たちの弱さであり、限界です。しかし主イエス・キリストは、まさにそのような私たちの弱さを、限界を、ご自分の身に背負って十字架にかかって死んで下さったのです。そのことによって、迷いや疑いに陥る弱い罪深い私たちと、どこまでも共にいて下さるのです。それゆえに、地上の住みかである幕屋が滅びた時、即ち死によって、幕屋であるこの体の弱さ、限界から解放され、神様を、主イエス・キリストをはっきりと見ることができるようになった時、私たちは、自分が常に主イエス・キリストのもとにあったことを見出すのです。いやむしろ、私たちの迷いや疑い、不信仰にもかかわらず、主イエス・キリストが常に共にいて下さったことを知ることになるのです。8節の、「体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」という言葉はそういう確信を語っています。体を離れた者、つまり死んだ者は、主のもとに住む、それは、体をもって歩んでいた時には見えなかった、共にいて下さる主イエスをはっきりと見ることができるようになるということです。召天者の方々はその恵みの内に今置かれています。体を離れて主のもとに住む喜びを与えられているのです。 召天者記念礼拝は、召天者の方々のための礼拝ではありません。今この地上を、この体をもって生きている私たちが、召天者の方々に与えられているこの恵みと喜びを覚えて、うめき苦しみつつ生きているこの人生において、主イエス・キリストによる心強さを与えられていくためにこそこの礼拝はあるのです。その心強さを与えられるために、私たちは何よりもまず、目に見えない主イエス・キリストを信仰によって見つめていかなければなりません。パウロはそのことを9節10節で語っているのです。ここには、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい。私たちが体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、キリストの裁きを受けることになるのだ」ということが語られています。ここだけを取り出して読むと、イエス・キリストは閻魔大王と同じような存在であると感じられてしまうかもしれません。死んだら、イエス・キリストが天国と地獄の分かれ道のところに立っていて、地上で善いことをした者は救われ、天国に入ることができる、しかし悪いことをした者は裁かれ、地獄に落ちる、だから、いつもイエス・キリストに喜ばれる者であるように気をつけていなければならない、というのであればまさにそういうことになるでしょう。しかしそれは、聖書が語っている主イエス・キリストのお姿、また主イエスが私たちの救いのためにして下さったみ業を全く無視した読み方です。主イエス・キリストは、私たちの罪を背負って、私たちに代わって十字架にかかって死んで下さった方です。主イエスは、私たちの行動を逐一それこそ閻魔帳につけておいて、おまえは合格、おまえは不合格と判定を下すような方ではないのです。パウロが、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」と言っているのは、裁きへの恐れのためではありません。主イエス・キリストが、まさに命を投げ出して私たちの救いのために尽くして下さった、そして今も共にいて導いていて下さる、その主イエス・キリストの恵みを常に覚え、目には見えないが主イエスと共に生きようとする姿勢が、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」ということなのです。そして10節に、キリストによる裁きのことが語られているのは、今は目に見えない、信仰によって受けとめるしかない主イエス・キリストこそ、終わりの日にこの世界と私たちを目に見える仕方で支配する方であられることを、しっかりと意識して生きようということです。このように、主イエス・キリストの恵みを覚え、主イエスと共に、そして主イエスのご支配を待ち望んで生きることにおいてこそ、私たちは、様々な重荷にうめき苦しみつつも、主イエス・キリストによる心強さを得ることができるのです。体を離れて、既にその心強さの中に憩っている召天者の方々の幸いと喜びに、私たちもあずかっていきたいのです。
牧師 藤 掛 順 一 |