礼拝説教「悔い改めの祈り」サムエル記上 第7章2〜17節 ルカによる福音書 第15章1〜7節 毎月の第四の主の日に、旧約聖書サムエル記上よりみ言葉に聞いています。サムエル記は、サムエルという人の生涯、その活動を語ることを通して、イスラエルが一人の王をいただく王国になっていった時代のことを描いています。王国になる前、イスラエルはゆるやかな部族連合体でした。そして外敵に攻められたりという危機になると、神様がその都度指導者を遣わして下さり、敵から救って下さったのです。そのような指導者のことを、士師と呼んでいます。「士師記」にその人たちの活躍が記されています。有名なのはギデオンとかエフタとかサムソンといった人々です。サムエルは、その士師たちの一番最後に位置する人であると言うことができます。最後の士師であるサムエルが、この後の8章以下で王を任命したことによって、士師の時代は終わり、王国時代が始まるのです。 本日ご一緒に読みます第7章は、サムエルの、最後の士師としての働きを描いている所です。士師の働きにも二種類あって、敵と戦う軍司令官のような、あるいはサムソンのように一人で多くの敵を打ち破ったような人もいますが、そういう軍事的な英雄としての働きをする人、それを大士師と呼びます。それとは別に、イスラエルの人々の間で、いろいろな問題を、神様のみ心に従って解決し、もめごとの調停をしたりする、そういうことをまとめて「裁きを行う」と言いますが、つまり司法的な働きをした士師たちもいました。そういうのを小士師と呼んでいます。この第7章に描かれているサムエルはその両方の働きをしています。小士師としての働きは最後の15節以下に語られています。毎年、イスラエルの町を巡り歩いて、民のために裁きを行うサムエル、これが小士師としての姿です。しかしこの第7章で主に語られているのは、ペリシテ人との戦いを導くサムエル、つまり大士師としてのサムエルです。13節に、「ペリシテ人は鎮められ、二度とイスラエルの国境を侵すことはなかった。サムエルの時代を通して、主の手はペリシテ人を抑えていた」とありますが、これがまさに大士師としての彼の姿を描いているのです。このように、サムエルは、大小合わせた、士師としての全てを兼ね備えた、代表的な士師であったということが、この第7章に語られているのです。 さてそれではサムエルは、どのようにしてイスラエルをペリシテ人から守ったのでしょうか。彼はギデオンのようにイスラエルの軍勢を率いて天才的な戦略によって敵の大軍を打ち破ったのでしょうか。あるいはサムソンのように一人で怪力をふるって敵をなぎ倒していったのでしょうか。そうではないということがこの第7章に語られています。サムエルは軍勢を率いてはいません。武器をとってすらいません。ペリシテと戦う彼の武器は、剣や槍ではなく、祈りです。5節にこうあります。「サムエルは命じた。『イスラエルを全員、ミツパに集めなさい。あなたたちのために主に祈ろう。』」。主なる神様に祈ること、それだけがサムエルの戦いの武器だったのです。しかしここで私たちは誤解をしないようにしなければなりません。祈りを武器に敵と戦うと言うと、神様に、敵を滅ぼして下さいと祈り求める、神様の力を祈りによって動かして敵をやっつけてもらう、つまり敵に対する呪いの祈りをすることと考えてしまいがちです。しかしサムエルの祈りはそういうものでは全くありませんでした。6節にこうあります。「人々はミツパに集まると、水をくみ上げて主の御前に注ぎ、その日は断食し、その所で『わたしたちは主に罪を犯しました』と言った」。サムエルに導かれてイスラエルの人々が共に祈った、その祈りは、敵に対する呪いではなくて、「わたしたちは主に罪を犯しました」ということでした。罪の告白と、悔い改めの祈りです。そこに、「水をくみ上げて主の御前に注ぎ」とあります。これは祈りに伴う象徴的な行為ですが、その意味するところは、心の中の罪を全て神様のみ前に注ぎ出す、ということでしょう。器の水を全て残りなく注ぎ出すように、自らの罪を隠すことなく、全て、神様に告白し、悔い改めて赦しを乞い願うのです。「断食する」というのも悔い改めの行為です。サムエルは、このような悔い改めの祈りを、民と共に、民の先頭に立って祈ったのです。 イスラエルが犯した罪とは何でしょうか。またそこから悔い改めるとはどういうことでしょうか。3、4節を読むことによってそれがわかります。「サムエルはイスラエルの家の全体に対して言った。『あなたたちが心を尽くして主に立ち帰るというなら、あなたたちの中から異教の神々やアシュタロトを取り除き、心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたたちをペリシテ人の手から救い出してくださる。』イスラエルの人々はバアルとアシュタロトを取り除き、ただ主にのみ仕えた」。異教の神々、特にバアルとアシュタロトに心引かれ、それらの偶像を自分たちの中に置いて拝んでいた、それがイスラエルの罪です。バアルとアシュタロトは五穀豊穣の神です。バアルが男の神、アシュタロトが女神で、両者の結婚によって地の実りという子供が生まれる、というふうに考えられていました。男と女、雄と雌をつがいにすることによって子供が生まれる、そのことが農耕の世界にあてはめられて、男の神と女神が、豊かな実りをもたらす一対の神々として崇められていったのです。つまりこの神々は、人間に、その望む豊かさをもたらす神々です。人間の願望、欲望に応え、それをかなえる神々です。イスラエルは、彼らをエジプトの奴隷状態から解放し、このカナンの地に導き、そこに住まわせて下さった主なる神様を忘れて、このような自分たちの欲望をかなえる神々に心引かれていったのです。その罪を告白し、悔い改める、それは、自分たちの間からバアルとアシュタロトを取り除き、心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕える者となることです。「心を尽くして主に立ち帰る」とも言われています。主なる神様から心が遠く離れ、別の神々、自分たちの願いや欲望を満足させる、つまり自分たちに仕える神々の方に心を向けてしまっているところから、もう一度、主なる神様のところに帰ってきて、主に仕える者となる。神様を自分に仕えさせるのではなく、自分が神様に仕える者となる、それが悔い改めるということなのです。サムエルはイスラエルの人々に対して、この悔い改めを呼びかけ、その祈りを先頭にたってささげたのです。それが、サムエルの大士師としての働きの中心でした。この悔い改めの祈りによって、サムエルは戦ったのです。それは、敵、この場合には具体的にはペリシテ人との戦いというよりも、むしろ自分たちの中にある罪との戦い、信仰の戦いだったのです。 この信仰の戦いは、私たちにも求められているものです。私たちもまた、様々な形で、自分の願いや欲望を満足させる偶像に心を引かれ、主なる神様に仕えることをやめてしまいます。それは主なる神様に仕えることをやめて別の神々に仕える者になる、というよりも、自分の思いや願い、欲望を神とし、それを満足させることを第一にしてしまうということです。ですからそれは必ずしもある目に見える像を拝んだりすることとは限りません。自分の思いや願いを、神様に仕えることよりも大切にしているならば、その思いや願いが私たちの偶像となっているのです。そういう偶像を取り除き、心を主に向け、主にのみ仕える者となる、それが私たちにも求められている悔い改めです。私たちそれぞれが、それぞれなりに、取り除くべき様々な偶像を持っているのではないでしょうか。信仰は、そして祈りは、私たちの外の何かとの戦いではなくて、自分の中にある、自分が作り出していく偶像との戦いなのです。 イスラエルの人々は、サムエルの呼び掛けに応えて悔い改めました。自分たちの中からバアルとアシュタロトを取り除き、ただ主にのみ仕えたのです。このこと自体、大いなる信仰の奇跡と言うべきでしょう。神様の導きなしには起こり得ないことです。サムエルが悔い改めを求める説教を語ったとき、そこに神様の助けと力が働いて下さって、人々の心を動かし、罪を悟らせ、主に立ち帰る思いを与えて下さったのです。 しかし、事はそれでメデタシメデタシとはなりませんでした。イスラエルの人々は、サムエルの呼び掛けに応えてミツパに集まり、そこで心を合わせて悔い改めの祈りを捧げたのですが、そのことを聞き及んだペリシテの領主たちがイスラエルに攻め上ってきたのです。彼らは、イスラエルがミツパに集まっているのを、ペリシテに背く軍事行動の準備と見なしたのでしょう。イスラエルが組織立って行動を始める前に、たたきつぶしてしまおうとしたのです。反乱の芽は小さいうちに摘んでしまおうというわけです。しかしイスラエルの人々は、軍事行動のために武器を持って集まったわけではありません。彼らは悔い改めの祈りのために、主なる神様を礼拝するために集まったのです。そこに、突然敵の大軍が押し寄せてきたのです。彼らには戦うべき武器もありません。当然ながら彼らは大きな恐れに陥ったのです。 このことは彼らにとって、何よりも信仰における大きな試練であると言えるでしょう。彼らは、悔い改めたのです。偶像を取り除き、主なる神様に立ち帰ったのです。そのためにミツパに集まり、主なる神様を礼拝したのです。そうしたらそれが、ペリシテ人たちを刺激することになり、攻められてしまった。信仰に目覚め、悔い改めて神様を信じたとたんにそういう苦しみが襲いかかってきたのです。何たることか、と彼らは思ったのではないでしょうか。悔い改めて主に立ち帰れば、主から恵みと救いが与えられると思っていたら、むしろ全く逆のことが起こってきたのです。こんなはずではない、あの悔い改めは何だったのか、偶像を捨てて主なる神様に立ち帰ったことは何にもならない、無駄なことだったのか。信仰の歩みの中で、私たちもそのような思いに捕われることがあります。神様を信じて、神様に依り頼む者となった、ところがそれで人生がうまくいくようになるどころか、かえってますます苦しいこと、つらいこと、困難なことが起こってくる。こんなことなら、神様を信じても何にもならないではないか、信仰など無駄なことではないか、そう思うことが誰にでもあるのです。信仰というのは、そういう試練との戦いの連続であると言ってもよいでしょう。その試練の中でイスラエルの人々は、サムエルに願い求めました。8節です。「どうか黙っていないでください。主が我々をペリシテ人の手から救ってくださるように、我々の神、主に助けを求めて叫んでください」。これは、イスラエルの人々が信心深かったということではなくて、この時の彼らにはもう、神様の救いを求めてサムエルに祈ってもらうことしか、できることはなかったのです。万策尽き果てて、もはや祈ることしかできない。サムエルはその人々を代表して主に祈りました。9節です。「サムエルはまだ乳離れしない小羊一匹を取り、焼き尽くす献げ物として主にささげ、イスラエルのために主に助けを求めて叫んだ。主は彼に答えられた」。まだ乳離れしていない小羊を焼き尽くす献げ物としてささげる、それはイスラエルの民の罪の贖いのためです。つまりサムエルの祈りはここでも、敵に対する呪いではなく、ひたすら、イスラエルの民の罪を悔い改め、神様の赦しを願う祈りです。その祈りを主は聞いて下さり、それに答えて下さいました。10節「サムエルが焼き尽くす献げ物をささげている間に、ペリシテ軍はイスラエルに戦いを挑んで来たが、主がこの日、ペリシテ軍の上に激しい雷鳴をとどろかせ、彼らを混乱に陥れられたので、彼らはイスラエルに打ち負かされた」。武器を持たず、ただ悔い改めの祈りと、罪の贖いのための犠牲を献げているイスラエルの民のために、主ご自身が雷鳴をもってペリシテ人と戦い、これを敗走させて下さったのです。これは、人間の業や力が全く加えられていない、ただ神様の力のみによる救いの奇跡です。その意味でこれは、あの葦の海の水が左右に分かれてその間に道が与えられた奇跡や、エリコの城壁がくずれ落ちた奇跡などと並ぶものであると言うことができます。イスラエルは、戦わずして、武器を取ることすらなくして、主なる神様のみ力によって、ペリシテ人を打ち破ることができたのです。 この救いのみ業は私たちに大事なことを教えていると思います。私たちは、信仰とは、悔い改めることだということを教えられています。自分の思いから偶像を取り除き、主なる神様のもとに立ち帰り、主に仕える者となることが信仰だということを知っているのです。しかしそのことが本当にわかっているだろうか。ともすれば私たちは、悔い改めたんだから、神様に立ち帰ったのだから、恵みを求める権利があるかのように考えてしまいます。だから、信仰の歩みの中で起こってくる苦しみ、困難を、こんなはずではない、これでは信じたことが何もならない、無駄ではないか、と思ってしまうのです。しかし、悔い改めるというのは本来そういうことではないはずです。悔い改めるという良いことをして、その見返りに恵みや救いをいただく、というものではないのです。それは本当の悔い改めとは言えないでしょう。悔い改めというのは、「わたしたちは主に罪を犯しました」と、神様のみ前に心を注ぎ出すことです。その罪の赦しをひたすら神様に乞い願うことです。私たちは、その赦しと救いを、祈り求めることができるだけなのであって、それを当然の権利として要求したり、それが与えられないことを「こんなはずではない」と拗ねたりするべきものではないのです。主に立ち帰り、主にのみ仕える者となるというのは、この主のみもとにしか、私たちが生きることのできる場はない、ということです。たとえどのようにつらい苦しいことがあっても、主のみもとにしか、自分の居場所、生きることのできる場所はない、そこで、主なる神様に救いを願い求めていくしかない、ということです。悔い改めるというのは、そのようにして主なる神様のもとに立ち帰ることなのです。神様の救いのみ業はそこにこそ与えられる、ということを、この物語は教えているのです。 サムエルは、悔い改めて神様の赦しと救いを求める祈りのために、小羊を犠牲として献げました。私たちはそれをする必要がありません。何故ならば私たちのためには、神様の独り子イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったからです。私たちのための贖いの業は、この主イエス・キリストの十字架の死において既になされているのです。私たちの罪の赦しのための犠牲は、既に捧げられているのです。それゆえに私たちは悔い改めることができるのです。私たちが自分で自分の罪をなんとかしなければならないのだったら、悔い改めることなどいつまでもできないでしょう。しかし神様は、主イエス・キリストによって、私たちの罪の赦しを既に与えていて下さるのです。それによって、私たちが悔い改めて神様のみもとに立ち帰るための道が、既に大きく開かれているのです。主イエス・キリストが私たちをその道へと導いて、悔い改めを与えて下さいます。そのことが、本日共に読まれた新約聖書の箇所、ルカによる福音書第15章1〜7節に語られています。百匹の羊の内の一匹が見失われてしまった。それは、その一匹の羊にとって、そのままでは死を意味します。羊は一匹では生きていけないのです。羊が生きることのできる場は、羊飼に守られた群れの中だけです。そこに立ち帰ることができなければ、羊は死ぬ他ないのです。しかし羊は自分で立ち帰ることができません。帰る道がわからないのです。あるいは、身動きができない状態になってしまっているのです。その失われた一匹の羊を、羊飼が捜しに来てくれる、しかもちょっと捜してあきらめてしまうのではなくて、見つけ出すまで捜し回ってくれる、その羊飼の恵みによって、羊は群れに立ち戻ることができる、いや、羊飼の肩に背負われて連れて帰ってもらうことができる、それが、私たちの悔い改めだとこのたとえ話は語っています。この羊飼は言うまでもなく主イエス・キリストです。主イエスが、神様のもとから離れ去り、迷子になり、帰る道もわからず、自分ではどうすることもできずに行き詰まってしまっている私たちを、どこまでも捜し回り、見つけ出して、私たちが生きることができるただ一つの場である神様のみもとに連れ帰って下さるのです。私たちはこの主イエス・キリストの肩に背負われて悔い改めるのです。主のみもとに立ち帰るのです。それが私たちの悔い改めです。ですから、悔い改めたから何か恵みがあるはずだとか、人生それまでよりもうまくいくようになるはずだ、というようなものではないのです。悔い改めて主のみもとに立ち帰った、そのこと自体が大きな恵みです。私たちが生きることができるただ一つの場である神様のみもとに帰ることができたのですから。そしてその主のみもとで、ひたすら主の助けと導きとを祈り求めていくところにこそ、人間の力を超えた神様からの守りと助けが与えられていくのです。 12節に、サムエルが一つの石を置き、「今まで、主は我々を助けてくださった」と言って「エベン・エゼル(助けの石)」と名付けたということが語られています。「今まで、主は我々を助けてくださった」。その「今まで」とはどういうことでしょうか。前の口語訳聖書はここを「今に至るまで」と訳していました。そうすると、「今に至るまでずっと、主が我々を助けてきて下さった」ということを感謝しているということになります。そういう意味も勿論ここにはあるでしょう。しかしこの「今まで」は、それだけのことを言っているのではないのです。ある人は、この言葉には警告も含まれていると言っています。主は「今まで」我々を助けて下さった、しかしこれからはどうか、今まで助けて下さったからといって、これからもそうだとは限らない、という意味があるというのです。この物語全体が教えているのもそういうことでしょう。私たちは、神様の助け、救いの恵みを、既定の事実として、当然与えられるべきものとして要求するようなことはできないのです。私たちにに求められているのは、主が助けて下さる、と安心することよりも前に、悔い改めることです。「わたしたちは主に罪を犯しました」と告白し、偶像を取り除いて主に立ち帰ることです。そのことなしに、主が我々を助けて下さることはないのです。「今まで」の「今」とは、イスラエルの民が悔い改めて主に立ち帰った、その「今」です。そこに、神様からの大きな助けのみ手が与えられたのです。その「今」がこれからどうなっていくか、それは彼ら次第です。彼らが常にこの悔い改めの祈りを祈り続け、立ち帰った主のみもとに留まり続けるならば、この「今」がいつまでも続くのです。そして「今まで、主は我々を助けてくださった」といつまでも語り続けることができるのです。しかしもしもこの今が、今だけで終わってしまい、明日からは「昨日」になり、過去のことになってしまうならば、私たちが悔い改めの祈りを祈り続けることなく、私たちの生きることのできるただ一つの場所である主のみもとから再び迷い出てしまうならば、この先はどうなるかわからないのです。私たちは本日のこの箇所から、そういう警告をも聞き取っていかなければなりません。悔い改めの祈りをこそ神様が私たちに求めておられる、というのはそういうことなのです。そしてこの警告と同時に私たちは、先程の迷い出た羊の話をもう一度思い起こしたいのです。迷い出た羊は生きることができません。群れに立ち帰ることなしには、つまり悔い改めて神様のみもとに立ち帰ることなしには、私たちは生きることはできないのです。そして主イエス・キリストは、迷い出た私たちを捜しに来て下さっています。私たちのために十字架にかかって死んで下さるほどの愛をもって、私たちを肩に背負い、連れ帰って下さろうとしておられるのです。この主イエスに背負われて、私たちは日々、悔い改めの祈りを祈り続けることができるのです。そして、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」と言われているように、私たちが主イエス・キリストに背負われて悔い改めの祈りを祈ることを、父なる神様は心から喜んで下さるのです。「今まで、主は我々を助けてくださった」、その「今」を、いつまでも続けたいと願っておられるのは、他ならぬ主なる神様なのです。
牧師 藤 掛 順 一 |