礼拝説教「キリストの復活」 (要旨)詩編 第49編1〜21節 コリントの信徒への手紙一第15章12〜19節 「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」。 「死者の復活などない」とは、「死んだ者が復活することなどあり得ないから、キリストの復活は事実ではない」ということではない。一三節にあるようにパウロは「死者の復活」と「キリストの復活」とを区別している。コリント教会に起こってきた主張は、キリストの復活の否定ではなく、死者の復活の否定なのである。 死者の復活とは、私たちの復活のことである。そこで問題となっているのは、私たちの復活が可能かどうかではなく、神がキリストのみを復活させるのか、それとも私たちをも復活させようとしておられるのか、という神の意志である。私たちの復活がないという主張が生まれる第一の背景は、キリストの再臨による世の終わりが、自分たちが生きている間に来る、と思われていたので、死んで復活することなど考えなかったということである。しかしこの時代、信仰者の中にも次第に死ぬ者が出てきたために、その人たちはどうなるのか、ということが大きな問題になってきた。パウロはそのことについて、その人たちは世の終わりに復活して、生き残っている者たちと共に永遠の命にあずかるのだと言っているのである。 第二の背景は、「私たちの復活はもう起ってしまった」という考え方である。洗礼を受けたことによって、キリストの十字架の死にあずかって古い自分が死に、キリストの復活にあずかって新しく生まれたのだから、信仰者においては復活は既に起こっている、という主張である。これはある意味ではその通りであるが、このことが、世の終わりにおける死者の復活を否定する根拠とされてしまうのは問題である。そこにおいては、復活が内面化され、内面の問題で完結してしまっている。「死者の復活などない」という主張の最大の問題点は、この、復活の内面化である。復活を内面的な事柄として抽象化してしまうことによって、それを将来の具体的な希望として待ち望むことをやめてしまうのである。 パウロは「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」と語る。私たちの復活とキリストの復活は分ち難く結びついているのである。その結びつきは神のご意志におけることである。神は私たちを復活させるというご意志を表わすためにキリストを復活させられたのである。そしてこの神のご意志のゆえに、一四節と一七節には、キリストの復活なしには、私たちの宣教も、信仰も、全ては無駄なことになると言われている。私たちはともすれば、たとえ復活は否定しても、キリストの教えに従い、その愛の姿に倣って生きていくことは無駄ではなく意味のあることだ、と思う。しかしパウロは、私たちがどんな意味のある生き方をするかよりも、神のご意志が行われるかどうかが問題だと言うのである。神は私たちに復活による永遠の命の恵みを与えようとしておられる。そのために独り子イエス・キリストを一人の人間として遣わし、復活させられたのである。その神のご意志が否定されてしまうならば、神が私たちの救いのためにして下さったことは全て無駄になるのである。 このことは言い変えれば、復活は内面化されてはならないということである。主イエスは肉体をもってこの世に来られ、肉体をもって十字架につけられ、肉体をもって復活された。それは神がそれと同じ恵みを私たちにも与えようとしておられるからである。復活は、私たちのこの肉体において具体的に起こらなければならないのである。「罪の赦し」も同じである。一七節には、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたは今もなお罪の中にあることになる、とある。私たちはともすると、キリストの十字架の死だけで、復活はなくても、罪の赦しがあるように思ってしまう。けれどもそうではない。私たちの罪を背負って肉体をもって死んで下さった主イエスが、父なる神によって肉体をもって復活させられ、新しい命に生きておられる、その復活の主イエスの新しい命にあずかって、私たちもこの肉体をもって、神とのよい交わりの中で生きていくことこそが罪の赦しの恵みなのである。 神が与えようとしておられる救いは、単なる内面的な事柄ではない。私たちの救いは、肉体をもって復活された主イエス・キリストと一体とされ、私たちも、肉体の復活を通して永遠の命にあずかっていくことである。そうであるなら、この救いは、将来、キリストの再臨によるこの世の終わりの時に与えられるものである。その救いを、私たちは待ち望んでいるのである。「復活はもう起ってしまった」と言う人々は、復活の恵みは既に与えられているから、これ以上将来を待ち望む必要はないと思っている。彼らは、罪の赦しにしても復活にしても、その恵みを内面化してしまうことによって、もうそれを持っていると思っているのである。パウロはそれに対して、今我々に与えられているのは、神の恵みのほんの一部、言ってみれば味見のようなものに過ぎないと言う。パウロにおいては、最終的な恵みはなお将来のことである。しかしそれを希望をもって待ち望むことができるのは、それが現在既に与えられているものでもあるからである。私たちは主イエス・キリストを信じ、洗礼を受けて、その十字架の死と復活にあずかり、古い自分に死んで、新しく生かされる。ある意味では確かに、復活の恵みに今この地上の人生においてあずかるのである。けれどもその恵みは、この地上を歩む私たちにおいて完成してしまうものではない。既にそれにあずかっているという面と、未だ完成していないという面と、両方がある。この「既に」と「未だ」との間で、既に与えられている恵みによって生かされつつ、未だ完成していない恵みを待ち望む希望に生きていくのである。「死者の復活などない」と言っている人々は、神の恵みの「既に」の面だけを見て、「未だ」の面を見失っている。それは神の恵みの矮小化である。神の恵みを自分たちの器によって受けとめようとするとそうなる。主イエスが肉体をもってこの世に来られ、肉体をもって十字架の上で死なれ、肉体をもって復活されたという恵みは、私たちの器や量りで計ってしまうことのできるものではない。自分の器や量りを棄てて、この恵みに身を委ねることによってこそ、この恵みの本当の大きさを感じ取ることができるのである。 死者の復活を否定することは、世の終わりに与えられる救いの完成を否定し、それを待ち望むことをしないことである。ということは、現在のこの人生、生きている間だけが問題だ、ということである。この人生を、キリストに支えられて有意義に送ればそれでよいではないか、死後の、復活とか永遠の命とかは考えなくてもよいではないか、ということである。そのような生き方のことをパウロは一九節で、「全ての人の中で最も惨めな者」と言っている。それは、この世の人生を充実させ、有意義に、楽しく生きることを得させるのはキリストだけではないからである。信仰がなければ有意義なよい人生が送れないということはない。もしも私たちがそういうことにおいて世間の人々と張り合おうとするならば、惨めなことになるだろう。信仰は、そういうことのためにあるのではない。信仰において肝心なことは、私たちがどんな有意義なよい生活を送れるかではなくて、神が主イエス・キリストを、肉体をもってこの世に遣わし、主イエスが私たちの罪のために十字架にかかって死んで下さり、そして肉体をもって復活された、その事実である。神が私たちにそういう救いを与えようとしておられるということである。この神の救いの中に身を置くことが私たちの信仰である。そのことによって、どんな弱さや欠けを持っていても、失敗や挫折に苦しむことが多くても、志半ばにして世を去らなければならないことになるとしても、神が与えて下さる、この世を越えた希望に生き続けることができるのである。
牧師 藤 掛 順 一 |