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「ナルニア国物語」について 第59回7.「さいごの戦い」(12)牧師 藤掛順一
さて、カロールメン兵たちによってうまやに投げ込まれた者たちの中に、小人たちがいました。彼らは、「さいごの戦い」において、チリアンたちの味方にもなりませんでしたが、カロールメン側にもつかず、双方を攻撃していました。彼らの指導者グリフルは「おれたちには、サルもいらう、ライオンも王もいらぬが、それ以上に黒すけどもはいらないぞ。小人たちは、小人たちでやるさ」と言っていました。そういうわけで彼らも戦いの最中、カロールメン兵たちにうまやに投げ込まれたのです。 彼ら小人たちは、燦々と輝く太陽の下、小さな輪になって座り込んでいました。彼らは、自分たちが暗くて狭いうまやの中にいると思っているのです。「ナルニアの友」たちが彼らに語りかけ、ここは明るく広い野原の真中ではないかと言っても、彼らは認めません。野の花を摘んで鼻先に持って行っても、うまやの寝わらの束をつきつけられたとしか感じません。 そこに、アスランが現われました。ルーシィの、この小人たちのために何かしてやって下さいという願いに答えてアスランは「わたしにできることとできないこととを、ふたつながら見せてあげよう」と言って、まず小人たちの側で恐ろしいうなり声をあげます。すると小人たちは互いに「きいたか?うまやのむこうに、やつらがやってきたな。おれたちをおどかそうとしてるぞ。何かの機械をあやつってるんだ。気にするな。どうしたって、おれたちをだますことはできないさ!」と言いました。次にアスランがたてがみを揺すると、すばらしいごちそうが彼らの周りに現われました。彼らはそれをがつがつと食べ始めますが、自分たちが、うまやに落ちていた何かを食べているとしか思おうとしないのです。そしてそのうち、ほかの小人の方がうまいものを見つけたに違いないと疑い、大喧嘩を始めます。そして結局彼らが言うことは、「まあまあ、とにかくここには、さぎ師がいないさ。おれたちは、だれにもだまされないでやってきたぜ。小人たちは、小人たちでやるさ」ということでした。 アスランは言いました。「小人たちは、わたしたちの手助けがほしくないのだよ。かれらは、信ずるかわりに、ずるくやるたてまえだ。小人たちのとじこめられているところは、ただ小人たちの心のなかだけだが、そこにいまだにとじこもっている。また、だまされるのをおそれているから、助けだされることもない。こもっているから、ぬけだせないのだ。」 ここの原文には言葉の遊びがあります。「だまされる」は taken in、「助けだされる」は taken out です。taken in されることを恐れる余り、taken out されることができないのです。「引きずり込まれることを恐れる余り、閉じ込められているところから解放されることができない」というニュアンスです。最後の「こもっているから、ぬけだせないのだ」は原文にはない文章で、このことを説明するために訳者が付け加えたものです。 ここに描かれている小人たちの姿は、信仰に対して懐疑的な現代人の姿です。信仰、神を信じることを「だまされる」ことのように思い、「だまされないぞ」と意固地になっているのです。確かに、世の中には人をだましてとんでもない方向へ誘導するカルト宗教や、擬似宗教団体があります。何でも信じればよいということではありません。しかし、それらを警戒する余り、本当に信じるべきものをも信じることができなくなってしまうことは大きな損失です。せっかく明るい光の中に生きることができるのに、暗く狭い闇の中に自分から閉じこもり、そこから助け出されることができなくなるのです。「こもっているから、ぬげさせない」という訳者の補足はまことに適切です。彼らが閉じこめられているところ(原文では prison 牢獄)は自分自身の心の中にあります。信仰とは、自分自身の心という牢獄から解き放たれて、明るい外の世界に生きることです。神を信じ、神と共に生きる世界は、人間の心の中にある虚構ではありません。それこそが真実な、本当の現実です。神を認めず、目に見えることのみを「現実」として生きることは、実は私たちの心の中の狭い牢獄のみを現実としているのであり、それこそ虚構の中で生きていることなのです。 |
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