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「ナルニア国物語」について 第46回6.「魔術師のおい」(11)牧師 藤掛順一
ディゴリーは、病気の母親にそのリンゴを持っていってやれ、という魔女の誘惑に動揺しました。「アスランと約束したのだから。お母さんも僕が約束を破ることは喜ばない」と言うディゴリーに、魔女は、母親にいきさつを話す必要はない、黙っていればわからないことだと言います。しかしそこで魔女は失敗をします。「そちはなにもその女の子(ポリー)をつれもどることはない」と言ったのです。その一言でディゴリーは、それまで魔女が自分や母親のことを思って言っているように感じられたことが、みんなしらじらしい嘘であることに気づいたのです。魔女は徹底的に自分のことしか考えていません。「人のため」などという思いはこれっぽっちもないのです。それらしく見えることを言っていても、そこには魂胆があるのです。この場合には、ディゴリーをアスランに背かせること、そしてナルニアを守るためのリンゴをアスランに届けさせないことです。魔女はそのためにディゴリーの母親のためを思っているようなことを言ったのですが、彼女の失敗は、「自分のことしか考えない」という自分のあり方が、他の人にも当り前なのだと思ったことです。母親に真相を知らせないためにはポリーを置き去りにしてディゴリーだけで自分の世界に帰る、というのが、魔女にとっては当り前なのです。しかし人間は、そのような悪魔の論理によって生きているのではありません。人間には、人のことを思う心、愛する心が与えられているのです。それこそ、人間が神によって創られ、神に似せて創られた(創世記一章二六節)ことによって与えられているものではないでしょうか。自分のことしか考えないのではなく、人のことを思い、人を愛する心を、私たちは神様から与えられているのです。そこが、悪魔と私たちの違いなのです。 悪魔には、愛がわかりません。自分に何の利益もないのに、人を愛するということがどうしても理解できないのです。ヨブ記一章九節でサタンが「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」と言っているのはそれを表しています。人が神を愛し、信じ、敬い、従う、それは何か自分に利益があるからだ、というのが悪魔の論理です。「純粋な愛」を悪魔は知らないし理解できないのです。そしてこのことは、先に紹介した「悪魔の手紙」におけるルイスの中心的主張です。悪魔は、神が人間を愛することが理解できないのです。そこには何か「理由」が、「魂胆」があるはずだと思うのです。ベテランの悪魔がこのように言っています。「愛についての彼(神)のたわごとは全部、何かほかのものの偽装であるに相違ない―彼ら(人間)を創造し、彼らのためにあのように苦労するのには、何か別に〈本当の〉動機があるに相違ない。あたかも彼(神)が本当にこの不可能な愛を抱いているかのような言い方になるのは、われわれ(悪魔)がその本当の動機を発見することが全くできないでいるからである。彼は彼らを何にしようと頑張っているのか。解き得ぬ問題である。」(「悪魔の手紙」、蜂谷、森安訳、新教出版社 C・S・ルイス宗教著作集第一巻、117頁)( )内は筆者。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ福音書三章一六節)。この愛を、悪魔は理解できないのです。しかし私たちは、様々な罪に満ちた者でありながらも、人を愛し、人のためを思う心をも与えられています。それは、神がご自分に似た者として私たちを創って下さったからなのです。 ディゴリーは、魔女のこの本質を感じ取ることによって、誘惑を払いのけることができました。そしてリンゴをアスランのもとに持ち帰ることができたのです。アスランの命令により、彼はリンゴを川岸の泥の中に投げました。それから、あの馬車屋と奥さんが、ナルニアの最初の王、フランク王とヘレン女王となる戴冠式が行われました。それが行われている間に、あのリンゴは瞬く間に大きな木となり、沢山の実を実らせていたのでした。アスランはナルニア人たちに、「この木を大切に守れ、この木が茂っている間、魔女はナルニアに手出しはできない、この木の香りがあなたがたには喜びといのちと力の源になるが、魔女には死と恐れと絶望にあたるからだ」と言いました。 |
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